聖なるイチジクの種のレビュー・感想・評価
全34件中、21~34件目を表示
壊れ行く家族、壊れ行く国家
79年に起きたイラン革命により西洋文化を排除し厳格なイスラム国家となったイランは国民にイスラムの教えを徹底した。その象徴的なものが女性の髪を覆うヒジャブの着用だ。
すべての女性がヒジャブを着用することでイスラム支配が及んでいることを視覚的にアピールできる、すなわちヒジャブは国民すべてがイスラム支配を受け入れていることを内外にアピールできる便利な代物なのだ。だから政府は道徳警察を動員してまでヒジャブ着用を徹底した。その中で起きた不幸な事件、ヒジャブを正しく着用しなかったとして連行された女性が死亡する事件が起きたのだ。
今までも女性たちによるヒジャブ反対デモは小規模ながら起きてきたが、今回ばかりは国を揺るがすほどの大規模デモにまで発展する、不満を抱いていた女性だけではなく経済制裁で苦しむ国民をも巻き込んで。
79年の革命によって誕生した政権は皮肉にもその革命以来の大規模反政府運動に対して強権的に応じる。多くの拘束した市民をろくな審理もせずに見せしめに処刑した。またデモ制圧のために子供を含む多くの死傷者も出した。
あれから現在に至り革新派の大統領が就任しヒジャブ着用は以前ほど厳しく取り締まれることはなくなったが、いまだイランが政教一致の抑圧的神権政治であることに変わりはない。
もはやイランではZ世代を中心にイスラム教離れが進んでいる。留学に訪れた国々では厳格な宗教の教えなどなくてもその国の国民が幸せに暮らしている姿を目の当たりにしてイスラムへの懐疑心が生まれている。また何よりも若い世代は家父長制やら男尊女卑を内容とするコーランに拒否感を抱く。もはや西洋化は止められない、西洋化は自由平等を意味するからだ。イスラムによる強権的支配は長くは続かないだろう。
政府の公職に就くイマンの家庭は典型的なイランの家父長制の家庭だ。敬虔なムスリムである父親のイマン、夫である彼を支える妻は娘たちに父を敬うよう常に言い聞かせる。かつて日本のどこにでも見られた家庭の姿がそこにはあった。日本も戦前からの家父長制の名残が戦後しばらく続いた。
家長であるイマン自身が家父長制のイスラムの教えに縛られていることを象徴するシーンがある。浴室で妻が彼の整髪を行う、綺麗に整えられる彼の髭はムスリムの証でありイマンがイスラムの戒律に縛られていることを暗示している。そしてそれが彼を破滅へと導いていく。
イマンの昇進を機に家庭にも変化が訪れる。イマンは予審判事に昇格したとたん審理もまともに行われていない死刑執行の書類に署名を命じられる。出世と自分の信念とのはざまで苦悩するが、彼が昇格したのがまさに反政府デモが激化した時期であり政府による見せしめの処刑が次から次へとおこなわれた時期でもあった。彼は悩む暇もなく署名を強いられ罪悪感に苛まれるが次第にその感覚は麻痺して行った。
そんな最中、護身用に支給された拳銃が家から消えてしまう。どこかに置き忘れたのかどんなに探しても見つからない。出世どころではない実刑にあたる致命的ミスである。最初でこそ家族を疑うことを嫌った彼だが次第にその疑いの目を家族に向け始める。
彼には少なくとも二度の選択の機会があった。信念を曲げてでも死刑の署名をするかそれとも出世をあきらめるか、家族を信じて拳銃をなくしたことを報告して出世をあきらめるか。
拳銃が見つからずすべてを失うと恐れた彼に対して妻が言う、私たち家族がいるではないかと。このとき彼は家族を選ぶべきだった。しかし彼は出世を選んだ。出世はすなわち政府への服従を意味した。
拳銃を隠し持っていたのは次女だった。もしイマンが家族を選び家族の声に耳を傾けていたらこのようなことにはならなかっただろう。
護身用に渡された拳銃は力による抑圧、国家権力を象徴するものだ。それをイマンはうかつにも家庭に持ち込んでしまった。家庭に国家を持ち帰ってしまったのだ。
反政府デモに対して国家は言葉ではなく力で押さえ込もうとした、多くの市民を虐殺した。これが独裁国家の姿だ。その象徴である拳銃をイマンは家庭内に持ち込んだのだ。次女の行動は国家に対する抗議行動と同視できる。家庭に拳銃はいらない、私たち家族との会話を大切にしてほしいという彼女のサインだった。イマンが家族を思い何よりも家族を優先していたならその次女のサインに気づけたはずだった。しかし彼は家族よりも出世を選んだ、家族との会話よりも国家に従うことを選んだのだ。本来家族を幸せにするための出世の道、目的と手段が逆転していたのだ。
多くの死刑判決に加担したイマンも国家の犠牲者である。彼の篤い信仰心を利用して従わせようという国家体制の下では彼はがんじがらめにされて機密扱いの自分の仕事について娘たちに話すこともできない。自分のつらい立場を理解してもらうこともできないのだ。国家にどっぷり浸かってしまった彼を娘たちは国家と同じだと感じる。そんな父に昔の彼に戻ってほしいという思いから次女は拳銃を隠したとも考えられる。家族間の対話をも奪い家族を崩壊させた国家体制がなんとも罪深い。
家族を信じられなくなったイマンの暴走はもはや止められない。国家が市民を拷問するように彼は家族を監禁し拳銃の在りかを聞き出そうとする。
逃げ出した次女が姉や母を救出し追ってきた父に銃を向ける。暴発した弾丸が父の足元の床を打ち抜き父は生き埋めとなる。
そこは何千年もの歴史を持つイランの古の遺跡だった。古き戒律に縛られた父親が遺跡に埋もれて死に、未来を担うであろう娘たちと母親が生き残った。まさに古き宗教的戒律、家父長制からの解放を象徴する結末だった。
古き宗教的戒律に縛られた家庭は崩壊し女性たちは自由の身となった。古きイスラムの教えに縛り付けられている国民もいずれは解放される時が来るだろう。
聖なるイチジクの種、それは発芽すると根を他の木の根に絡みつかせて締め上げながら成長するという。国が力により国民を押さえつけるという考えに縛られたらその考えは国を覆いつくすだろう。国は独裁国家となりやがては崩壊する。家長がその権威により家族を縛り付けようという考えにとらわれてしまえばいずれ家庭は崩壊するように。
終盤面白い
序盤から中盤の、お父さんが仕事で悩み、娘は友達がデモ活動して家でかくまい、お母さんが困るなどのドラマがあまり面白くない。拳銃がなくなるのも大変な問題だけど、解けないまま長々と続けられてもきつい。これで3時間近くはきついと思っていたが、テヘランを離れてからが途端に面白くなる。あおり運転とカーチェイスから小屋に行ってからのめちゃくちゃな展開に引き込まれる。
うちも娘がひどいいたずらっ子でスマホやリモコンなど大事なものを隠してこちらが慌てているのを見て大喜びしている。本当にやめて欲しい。
山小屋の周りの洞窟でのサスペンスは田中登監督の『女教師』のクライマックスのようで興奮した。
ただ序盤から中盤は本当にあんまり面白くないので短くしてほしい。
聖戦
期待していた作品だが、ちょっと散らかった印象。
冒頭、ナジメに銃を見せるイマンの指が引鉄にかかっているのが凄く嫌…
序盤は主人公家族に加え、過熱する抗議運動とそれに対する弾圧の様子が、実際の映像を交えて描かれる。
しかしこれが、あくまで背景にしかなっていない。
家族の誰かが関わることもないし、サダフの件も途中から忘れられるのに、力を入れ過ぎでは。
職務に対するイマンの葛藤もあまり伝わってこない。
中盤を過ぎてようやく銃の紛失が起こる。
家族のために出世や保身を望んでいたかに思えたイマンの、ナジメ曰く“本性”がここから顕在化していく。
その目的は銃からウソへ、そして罪へと移り変わり、行動はエスカレート。
家族へのそれもだが、故郷への道程で出くわす夫婦に対する蛮行はイカレてます。
最も印象的だったのは、ナジメの母性。
家族第一主義でありつつサダフを冷酷に扱いきれないのは、“娘の友達”だからではなく“誰かの娘”だからだろう。
夫への「服従と信仰」を捨て、最後まで“母”であった彼女が主人公では。
銃を盗んだ動機はぼんやり想像できなくもないが、いつ存在を知って、どう盗んだかは不明。
(主題でないのは分かるが…)
最後の鬼ごっこや落下はコメディに見えてしまった。
あそこで終わりというのも半端だし、ここまで長尺にする必要があったかも疑問です。
とはいえ動きのない話で緊張感を途切れさせない演出や演技は見事。
もう少し重心を明確に短く纏まってれば秀作だった。
167分は長い
原題のdāne-ye anjīr-e ma'ābedのうち、anjīr-e ma'ābedとはインドボダイジュのことで、学名または英語ではFicus religiosaまたはsacred fig と言うそうですが、これを「印度菩提樹の種」と訳さず、あえて英単語を単語レベルで翻訳するに留めて、「聖なるイチジク」と訳したのは素晴らしいと思います。「印度菩提樹の種」というタイトルだと、どうしても仏陀が悟りを開くイメージを持ってしまい、父親が狂気をおびるようになる、この物語とは真逆のイメージを持ってしまいますから。また、anjīr-e ma'ābedを単語レベルで直訳したところで「寺院のイチジクの種」となり、あまりキャッチーではない気がします。「聖なるイチジク」とのタイトルは神秘的で実に秀逸です。
なんでもこの印度菩提樹は、他のイチジク属と同様に絞殺しの木になることがあるそうで、本物語も冒頭にその旨のメッセージが流れ、物語が始まります。あたかも鳥によって宿主の樹上に落とされた種子が発芽し、根を伸ばし、宿主の表面を覆い、宿主が枯死し、木の中心部に円筒形の空間を残すかのように、父親に支給された拳銃、あるいはその弾丸が彼あるいは彼の家庭に根を伸ばし、彼が理想としていた伝統的な家庭を失わせしめ、最後には……という物語ですが、まさに絞め殺しの木の物語だと思いました。最後にはご丁寧に穴まであきましたし。
物語に登場する人物は、中流以上の家庭に属する、裕福ではあるがごく普通の人たちばかりでした。そのような家庭の父が最後には狂気に走ることになり、ボタンを掛け違えると誰もがそのようなことになることを痛感します。日本でも、テレビのニュースで重大事件を扱った際に、「あんなことをする人には思わなかったんだけどねぇ」などと近所の人たちが話していることが思い起こされます。劇中で彼や彼の奥さんがイスラム的価値観を大切にする様子や、彼がイスラム体制側の人間として描かれていることから、だから宗教は危険なのだとのイメージを持ちがちですが、彼があのような狂気に走ったのは、上司からの無理な指示に従わされることで次第に心がすり減っていき、貸与された銃が盗まれたことから出世の道を断たれ、収監される恐れを感じたという非常に世俗的なことから狂気に走っています。まさに私たち日本人にも同じように起こりうることだと思います。
物語の冒頭で取調官(字幕では調査官となっていますが、bāzporsは検察官の指示のもとに取り調べや証拠の収集に従事し、必要であれば起訴状を書いたりする役職ですので、取調官のほうが適切な気がします。実際、終盤で彼が娘を取り調べる際にはbāzporsから派生したbāzporsīの語が使われているのですが、字幕でも「尋問」となっています。「調査」ではありません。また職場についても全てのセリフが字幕では「裁判所」となっていますが、dādgāh-e enqelābの時は革命裁判所でよいとして、dādsarāと話している時は常識的に考えて検察庁としてほしかったです)に昇進したイーマーンが、検察官が死刑の求刑を求めている案件で、ろくに記録の検討もしないまま起訴状にサインなどできないと言っていたのに、最後は娘たちに対する尋問をするのですから、その変化に恐怖を覚えます。
母親のナジュメについても自分たちの今の生活を守るために精一杯という姿が伝わってきます。夫のキャリアに傷がつきそうなときは、娘たちを叱り、たしなめる一方で、娘の友達が抗議デモに巻き込まれて顔に散弾を浴びた際には、その散弾を取り除いてやるという母性にあふれた行動にでますが、散弾を取り除いた後は、やはり今後の自分たちの暮らしを考え、娘の友達を家から追い出します。その際には散弾を受けた顔が見えないよう、顔にスカーフをかけて隠すようにしますが、それとて彼女をいたわってのことではなく、近所の人たちに見とがめられ、夫のキャリアに傷がつくのを避けるためだったりします。もっとも、自分も同様の立場に立たされた場合に、はたして人道主義的な行動に出られるかと考えると、ナジュメと同じような行動に出る恐れがあるので、彼女を責める気持ちにはなれません。
イーマーンにしろナジュメにしろ宗教的な価値観を大切にし、自分たちの生活を平穏無事に送るために努力するという、本当にごく普通の人たちで、私たちと異なる別世界の人間などではないと思います。
娘たちについても、抗議デモに好意的なごく普通の、ありふれた若い世代の人たちとして描かれています。マハサー・アミーニーさんがお亡くなりになった際にBBC等の番組を見ていた時に、若い世代の女性たちが頭からスカーフを外して町中を練り歩いたり、スカーフやホメイニーさんの写真の印刷された教科書のページを燃やしたりしている姿を目にし、若い世代の人たちはすごいなあと感じたことが思い出されます。
この世代間のギャップといったものも映画では見事に表現されていました。インターネットの発達でより簡単に外国からの情報にアクセスできるようになった世代からの「なぜイスラムでは~」という問いに、論理的な回答をできない親世代。個人的にはヘジャーブについては、守りたい人は守る、守りたくない人はなしでかまわないという制度になるのが一番だと思いますが、イラン政府にとっては難しいことなのでしょう。
全部で3時間足らずある本作の約3分の2が、物語の舞台設定説明、つまり当時のイランの雰囲気の再現に充てられています。消えた拳銃に関する物語は、実質最後の1時間ほどのみです。恐らくこれは、イラン人ではない私たち外国人が当時のイランの状況をより身近に、具体的に理解できるようにとの配慮なのでしょうが、少々冗長に感じました。もっとも、拳銃が盗まれたことをイーマーンが上司に報告した後の帰宅途中、彼の車の隣に信号で停車した車のステレオからシェルヴィーンのbarāyeが聞こえてきた時には、「あの時期流行ったよね」などとニヤリとさせられましたが。
ドキュメンタリーあるいはzan zendegī āzādī運動(字幕や新聞記事等ではzan zendegī āzādīを「女 命 自由」と訳していますが、zendegī を「命」と訳すのは何とかならないものでしょうか。zendegī というのは、これに「~する」という意味の動詞kardanをつけ加えると「生きる」や「住む」、「暮らす」という意味になる通り、「生きること」を指しているはずです。例えば、lifestyleという英単語は、lifeという単語を含んでいますが、命の形という意味ではなくて、「生き方」や「生活スタイル」という意味ですよね。できれば「女 生きる 自由」などとしてほしかったです。この運動は女が女として自由に生きることを求める運動であって、命を大切にしましょうという運動ではないはずです)に関するラスーロフ監督の政治的な声明や表明ということであれば、評価できるのですが、サスペンスの映画としては正直、少々物足りない気がします。
映画をきちんと見ていない、あるいは理解できていないだけなのかもしれませんが、下の娘が銃を盗んだ動機や方法が分からないまま映画が終わってしまいましたし、また、最後に母と娘たちがイーマーンから逃げようとする際にも車を使って逃げなかったことや、廃墟の中のおっかけっこも、少しコミカルな感じに思えたのが残念です。
最後に登場人物の名前等についてですが、引く音や小さな字を徹底的に避けようとする翻訳者の方の態度が少し気になりました。確かに字幕翻訳の世界では、使える文字数に制限があり、可能な限り引く音等を使いたくないというのもわかりますが、イーマーンをイマン、ナジュメをナジメ、ヘジャーブをヒジャブとされると、その表記が気になって物語に集中できなくなってしまいます。確かに英語至上主義の翻訳者の方からすると、たかがペルシア語風情が英語様に逆らうんじゃない、ビシビシ短くすればばいいんだという判断なのでしょうが、できればもう少し元の言語を尊重してほしいものです。また、監督の名前もラスーロフでなくラスロフと引く音を省くのは失礼極まりないことだと思います。例えば、私たちが日本人として、「タロウ」という名前を「タロ」とされると正直あまり気分の良いことではないのと同様に、ちょっとしたことですが、他の国の人たちの名前に関して、最低限の礼儀を払ってほしいものです。
娘よりも母親の姿に抑圧の根深さを感じる
この映画の中で、母ナジメはずっと揺れている。
絶対的な家父長制のシステムの中で夫に服従する妻としての自分、娘の身を案じつつ娘の気持ちに寄り添いたいと思っている母親としての自分。その間でずっと揺れ動いている。
娘が自由を欲しがる気持ちを本当は理解しているが、自由を求める代償がいかに大きいものなのか身を持って知っているためにその気持ちに蓋をして、娘たちに旧来の生き方を勧めている。そしてそれは他ならぬ自分に言い聞かせるためでもある。これはある種の諦めであり、徹底した現実主義でもある。
抑圧下でそのシステムに迎合して生きようとするのは自然な防衛反応であり、決して悪いことではない。しかし、そのような人ばかりではいつまで経ってもそのシステムが変わらないのも事実である。
いつかはイチジクの木のように、古いシステムを絞め殺さなければいけない日がやってくる。しかしその代償はほとんどの場合、市民の血である。
イチジクの種が果実を生み出すための犠牲はあまりにも大きい。
衝撃作
信仰と国家への忠誠を重んじる父、家族の絆を重んじる母、正しさを追い求める姉妹を通して、イランの政治体制に対する批判を克明に描いた良作ではあった。
イラン政府の目に余る政治体制の独裁っぷりには驚嘆と怒りを感じた。あんな暴力がまかり通って良いはずがないし、それに準ずる父の仕事も全くもって褒められたものじゃない。神への信仰から善悪の区別がつかず、次第に過激になっていく父の行動に、政教一致の怖さが表されていて感心させられた。
妹の行動は流石に訳がわからないし、父が憤怒する気持ちも理解できる。本人曰く、母が常に父に従わされているという構図を覆すことが動機だとしていた。これは、父をイラン政府、母を国民に置き換えて、国民を暴力で(父は母に対して暴力を振るっていないが)支配する政府からその手段を取り上げることを比喩として示したかったんだと感じた。それを踏まえて考えると、どうしても個人の間でのやり取りに置き換えてしまっては不自然だと思う。父は銃を、母を従わせるための手段としては使っていないし、銃を隠したところで何の問題も解決しない。それどころか、銃の紛失によって立場が危ぶまれる父が怒るのも無理ない。その後の父の行動はどう考えても擁護できたものじゃないが、自身の行動のせいで母や姉が酷い目にあっていることを妹はもっと自覚したほうがいいと思った。
家族で何しとんの!?
体制側についた家族の苦悩であるなら、サスペンス入れずそれを中心で描けばよかったのに。
●友達じゃなくて、娘がはっきりと反体制側についていた方がわかりやすかったと思う。
家族のためにやっていることが父の苦悩になり、犯罪者となった娘をそれでも守りたい…など?
●銃は雑音でしかない。そもそもなんで銃を盗んだかもいまいちわからない。
そんな親子で銃を突きつけ合うようなことか?変なサスペンスが始まったあたりで
うんざり…。
●実際のスマホ画像を半端に挿入するくらいなら、前編ドキュメンタリーでいい。すごくダサく感じる。
ドラマの方法論を間違ったと思う。
タイトルなし(ネタバレ)
前半の社会派の展開から後半一転してカーチェイスからの『シャイニング』的展開になるのは驚いた。監督はキューブリック好きだとみた。前半パートがちょっと長く感じたが今思うと後半への振りだったんだろうな。
途中出てくる男女2人組が以前あおり運転で話題になった人達みたいで笑いそうになってしまった。
父親
が悪いみたいになってるけど、そうなんでしょうか?確かに子供や母親を監禁したりするのは行き過ぎだけど、判事を目指して邁進して、管理が悪かったとは言え貸与された銃を隠せれて、あれだけ困っているのに出さない娘もどうかと思う。世相や時代もあるでしょうけど、親子でキチンと話せればこんな問題も起こらなかったかも。もちろん死ぬことも。
イランの女性たちの悲痛な叫び
イランの首都テヘランで22歳の女性がヒジャブ(スカーフ)のかぶり方が適切でないとして風紀警察に拘束され、3日後に死亡した事件を導線にイラン(イスラム教を中心とした)社会への女性による抵抗を描いた作品である。
イランでは恐らくエリートの部類に入るであろう予審判事である主人公はイラン男性の象徴として描かれる。国に忠誠を誓い、体制を守るために意に沿わない判決にも同意することで家族を養い、社会的地位を獲得してきた体制側の人間である。
一方で夫を支え、家族の生活を守るために面倒なことには関わりたくないと願う妻はイラン女性の象徴でもある。
そんな家族の生活に、上記事件に対するデモで負傷した娘の友人が転がり込んだことで、家族の間に不穏な空気が流れ込む。
長女の体制批判に対し、主人公は「私たちが国を守っているお陰で、いい家に住めるし、金もある。何が不満なんだ」と自らの正当性を疑わない。
新世代(主に虐げられてきた女性)と旧世代の対立である。
そして起こる「拳銃紛失」事件。
この事件を通して、保身に走る主人公と反発を強める娘たちの対立の構図がより強烈の描かれ、最後まで暴力で問題を解決しようとする男性(主人公)に対して放たれる一発の弾丸は暴力による支配の終焉を願う製作陣及びイランの女性たちの悲痛な叫びなのだ。
タイトルなし
かなり感情移入して腹が立っていた。そもそもこの男は無能だし小市民的だし、その無能さ、臆病さを家族に吐き出して自分を保ってるし、さっさと官舎に行けばいいのに、田舎で自分の存在を守るために家族を閉じ込めるDV気質は最低だ。そして女の子たちは既に強い。スマホが家父長にとってコントロールしきれない存在だと言うことがよくわかるし、だからこそ。ケータイを取り上げ、暗証番号を言わせ、テープを巻き付ける。日頃の鬱憤晴らしである。それでもこのシーンで妻は夫に暗証番号は知ってるはずでしょというのが怖い。これがまだイランの中年主婦の現実か。まだ日本の主婦のほうがまし。
最も気持ち悪いのが、子どもや妻に告白させて撮影することと、銃のありかに行く道もずっとカメラで撮っていること。家族は全く守られていない。ここてはすでに公的な仕事のスタイルが、優位になっている。
この強迫的な妄想病理を引き出すのが神という名へのイラン体制の病理で共産主義と同型。官僚制の最も悪い特性も表れている。
昔ねらこの男が家族をみんな殺すのかと思ったけど、そうでない点は明るい。娘が父の銃を奪ったのはすでに父にうんざりしてたからでもあったことがわかる。イランもすでに末期的なのだ。
私はトルコで見た、有名な洞窟の家をこんなふうに使うのも面白かった。
全34件中、21~34件目を表示





