「心の中で描く「光」は、いずれ現実を変える火種へと育っていくのだろうか」私たちが光と想うすべて Dr.Hawkさんの映画レビュー(感想・評価)
心の中で描く「光」は、いずれ現実を変える火種へと育っていくのだろうか
2025.8.14 字幕 京都シネマ
2024年のフランス&インド&オランダ&ルクセンブルク合作の映画(118分、PG12)
インドのムンバイで働く女性たちを描いた社会派ヒューマンドラマ
監督&脚本はパヤル・カパーリヤー
原題は『All We Imagine as Light』で「私たちが光として想像することのすべて」という意味
物語の舞台は、インドのムンバイ
看護師として働くマラヤリ族のプラバ(カニ・クルスティ)は、見合い婚をしていたが、夫はドイツに出稼ぎに行ったまま音沙汰がなかった
彼女は後輩看護師のアヌ(ディビヤ・プラバ)とルームシェアをしていたが、彼女には良からぬ噂が立っていた
それは、ムスリムの男性と交際しているというもので、ヒンドゥー教一家のアヌとしてはあるまじき行為だった
ある日のこと、プラバの働いている病院の調理師パルヴァティ(チャヤ・カダム)から相談を受けたプラバは、知り合いの伝手を頼って、弁護士のデサイ(Bipin Nadkarni)に会いにいくことになった
パルヴァティはアパートの建て替えのために立ち退きを要求されていたが、弁護士は今住んでいるアパートの居住照明が必要という
それを知る夫はすでに他界していて、弁護士は「書類がないと居住を証明できないので裁判すらできない」と告げた
そこでパルヴァティは、なす術もなく地元の村に帰ることになった
物語は、パルヴァティの引越の手伝いのためにプラバとアヌがラトナギリの農村を訪れる様子が描かれていく
パルヴァティ同様にプラバもアヌも田舎の出身だったが、アヌは「いまさら村では住めない」と思っていた
プラバは帰らぬ夫を待つ身でありながら、勤務先のマノージ医師(アジーズ・ネドゥマンガード)からアプローチを受けていたが、道を逸れることなど微塵にも思っていない
彼女は生活を大きく変えようとは思っていなかったが、パルヴァティの引越やアヌの恋愛を見ていく中で、ある想いを抱くようになっていた
映画の後半にて、パルヴァティの村にて、ある男(Anand Sami)が海から救出されるのだが、なぜか医師の家にいる老女(Shailaja Shrikant)は2人を夫婦だと思い込んでいた
男は海難事故か何かで難破していて記憶を失っていたが、夫婦で思われていることを知るとプラバにそのことを確認してきた
プラバは即座に「違う」と否定するものの、その後彼女は、男を夫に見立てた妄想をしていく
この一連のシーンが妄想と分かりにくいために「実は夫だったのでは?」と思えてしまうのだが、シーンとしては「プラバが窓際に立って語り、最後のセリフは無人の背景で完結する」という演出になっていた
プラバとしては、妄想の中で現実を壊すことが唯一の光となっていて、それが原題の意味へとつながっている
タイトルには、アヌやプラヴァティも含めた「私たち」という言葉が使われているように、彼女たちの年齢と立場によって、それぞれが「光(希望)」と想像するものが違っているとも言える
アヌは未婚で若く、プラバは既婚で中年層、プラヴァティは死別で壮年となっていて、それぞれが向き合う問題も違っている
そんな中でも、アヌは恋愛や結婚を光だと感じ、それは自由意志が尊重されることだと言えるだろう
そして、プラヴァティにとっては、結婚や子育てはすでに過去のものであり、どのように死んでいくかを考える年頃となっていた
元々は夫と過ごした場所で死ぬことを望んでいたが、それは大いなる意志によって阻まれ、自分が生まれ育った場所へと回帰することになった
彼女にとっての光は、書類で形式的に存在する空間ではなく、命を感じられる場所だったと言えるのかもしれない
そんな2人の行動に揺れるプラバは「現状を変える気はないように見えるものの、2人の変化によって意志が変わろうとしていた」と言えるのではないだろうか
彼女が現実に戻って同じように変化をもたらすのかはわからないが、これまでにしたことのない電話をしたように、少しずつ行動へと結びついていくのではないか、と感じた
いずれにせよ、観念的な作品となっていて、冒頭のモノローグが登場人物とは関係なかったり、劇中で婚活サイトで金持ちの男性の本音がアヌの想像で語られたりしていた
これらはムンバイにおける大衆の総意のように紐づけられていて、その中でも3人の女性を中心に描くことで、結婚におけるインド女性の苦悩というものをクローズアップしているように思えた
「Imagine」という言葉を選んでいるように、現実とは切り離される想像というものが光に直結しているのだが、それが現代のインド女性の抑圧のベースになっているように思えた
そう言った意味において、現実的な解決はしていないけど、心の持ちようによっては心理的な解放を得ることができるとも言えるので、それが救いに繋がっているのかな、と感じた