私たちが光と想うすべてのレビュー・感想・評価
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ムンバイに生きる市井の女性の心模様を繊細に綴る日常系インド映画
オープニングからの数分、湿度を感じる雑踏とそこで生活する人々の数節の言葉で、訪れたことのない街ムンバイのイメージが胸の奥に広がった。
日常系インド映画とでも言おうか。説明的な台詞を極限まで排した脚本とキャストの自然な演技には、パヤル・カパーリヤー監督がこれまで手掛けてきたジャンルであるドキュメンタリー映画に通じる雰囲気が漂う。
現代インドの女性たちの生活文化や恋愛観をほとんど知らなかったので、新鮮に感じる場面が多かった。
考えたら自然なことだが炊飯器を使うんだなあ、とか(ちなみに90年代にインドに炊飯器を普及させたのはパナソニックだそうだ。それまではガスか薪で炊いていた)、好きな相手にお菓子はともかくポエムを贈る男性って、インドの女性にはウケるのかなとか。
彼女たちの置かれている環境も社会的・宗教的背景も私自身とは随分違うのに、彼女たちが抱く感情には不思議なほど垣根を感じなかった。
その理由は、特に主人公のプラバについて顕著だが、彼女の心の揺れについての説明的な描写がほとんどないからだと思う。彼女が働く姿、アヌの態度や炊飯器を抱く姿を見て観客はプラバの心境を想像する。もちろんそういった描写には監督の意図が内在するが、観る側の想像と解釈の余地が大きいということは、そこに観客自身の価値観が映り込みやすくなるということであり、垣根を感じなくなるのは自然なことかもしれない。
一方、奔放なアヌの行動についてはちょっとハラハラさせられた。ヒンドゥー教信者がムスリムと交際することは社会的にNGのようだったが、どれほどのレベルのタブーなのか、アヌの様子だけでは測りかねた。親から交際を反対されており人目を避けてデートしていることはわかったが、割とオープンな場所でキスしたりもしてたし……インドの観客ならこの辺は肌感で理解するところなのだろうか。
タブーレベルに迷いながら観ていたので、終盤ラトナギリの海岸で誰かが救助された場面では、もしかしてアヌとシアーズ(アヌの彼氏)が心中したのだろうか、実は二人ともそこまで思い詰めていたのだろうかと嫌な想像をしてしまった(もっともイスラム教では自殺は禁忌らしいので、これは見当違いの予感だったのだろう)。
この遭難者、当初はプラバと全く面識のない男性なのに周囲が夫と勘違いしている、という様子だったが、いつの間にかプラバは彼と夫婦として対話していた。この辺、観ている間は正直よくわからなかった。あれ? さっき勘違いされてるとか言ってたよね? ドイツから戻ってきてたの?
恥ずかしながら後でパンフレットのコラムを読んで、このシークエンスが「幻想」だったことを確認した次第だ。ここはもうちょっとわかりやすくしてもらってもよかったかなと思う(読解力のない人間の勝手な言い分です)。
とはいえ、それまで社会的な慣習に押し付けられた形だけの結婚に甘んじてきたプラバが、この対話で自らの状況にようやくキッパリNOと言えたことはよかった。
彼女は、職場の医師にフランクに接するアヌを「誘惑している」と非難したこともあったが、後で思えばそれは彼女自身が、自分を抑圧する古い価値観に無抵抗になってしまっていたことの表れだったのではないだろうか。
ラストでプラバはアヌとムスリム彼氏の交際を受け入れ、カラフルなイルミネーションに彩られた海辺の店でスタッフの子が踊る(典型的インド映画とは別系統の作品とわかっていても、インド映画のDNAに触れたような謎の安心感)。自己肯定と受容が重なりほのかにあたたかい気分になるエンディング。
ひとりの女性の小さな心の成長をたどる繊細なドキュメンタリーを見たような気持ちになった。
無数の光によって彩られた街の神話
この映画の虜になるのに5分とかからないだろう。映し出されるのは大都市ムンバイ。繊細な光で照らされた街並みと喧騒、音のコラージュ、人々の言葉が相まって、街の鼓動を親密に響かせていく。とりわけ通勤電車の窓から望むビル群の夜景は無数の星が点々と輝く宇宙のようだ。それらは美しくとも少し孤独で悲しげな生命の集合体に見える。本作は当地で暮らす地方出身者の胸の内を探究しつつ、同じ病院で働くルームメイトの看護師らが心を寄せ合い生きる日々を紡ぐ。片やムスリム青年との恋愛に夢中な年下のアヌ。片やお見合い結婚した夫と長らく連絡を取り合っていないプラバ。真逆の性格の二人が悩みながら自分の幸せを精一杯に模索する姿を、本作は安易な価値判断を下すことなく、ただただ柔らかく見守る。時に本能の赴くまま、時に友情と絆、マジックリアリズムを加味しながら進む歩調が心地よく、全てを暖かく包み込む監督の視座にすっかり陶酔させられた。
「花嫁はどこへ?」と並走する、インド発女性映画のトップランナー
2024年のカンヌ・コンペ部門でグランプリを獲った話題作。念のため、カンヌの最優秀賞はパルムドールであり(昨年の受賞作は「ANORA アノーラ」)、グランプリは準優勝に相当する。この年のコンペ出品作を振り返ると「エミリア・ペレス」「憐れみの3章」「メガロポリス」「アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方」「サブスタンス」など力作がひしめいており、これらをおさえての銀メダルと考えれば「私たちが光と想うすべて」への期待も高まるのではないか。
インド第2の大都市ムンバイの病院で働く3人の女性たち。看護師のプラバは既婚者だが、見合いで結婚した夫がドイツで働いていて疎遠になっており、年下の同僚アヌとアパートに同居している。アヌはイスラム教徒の青年と交際しているが、インドではヒンドゥー教徒が大多数であることから親や周囲から猛反対されるのは明らかなので、恋人のことは隠している。病院の食堂に勤める寡婦のパルヴァディは自宅から立ち退きを迫られているが、プラバが親身になり助けようとする。
「女性たちの友情」と単純に紹介されることもあるが、世代も境遇も違う3人の彼女らの繊細な絆や連帯感、穏当なシスターフッドの物語と評すべきではなかろうか。前半は都会を舞台に、プラバとアヌ、プラバとパルヴァディの関係がそれぞれ描かれるが、後半のパルヴァディが故郷の村へ帰る際にほかの2人が手伝いで同行する展開が、海辺のロケーションも相まって開放的で心地よい。
監督兼脚本のパヤル・カパーリヤーも女性で、本作で長編劇映画デビューを飾ったムンバイ出身。今年5月開催の第97回アカデミー賞のインド代表を「花嫁はどこへ?」(日本では2024年10月公開)と競うも選ばれなかったが、両作ともに女性監督がメガホンをとった女性映画である点も共通する。当サイトで「花嫁はどこへ?」の新作評論を担当し、「インド映画の2大潮流として、複数の娯楽ジャンルを混ぜ合わせた商業的な“マサラ映画”と、マサラ映画の特徴である歌とダンスのシークエンスを排した現実主義的な“パラレル映画”」と紹介したが、こちらの「私たちが光と想うすべて」もパラレル映画の流れ。インド固有の階級制や宗教事情を背景にしつつ、女性の自由や自立という普遍的な題材を繊細な感性で扱っている点において、世界で、そして日本でも評価されてしかるべき好ましい佳作だ。
ムンバイと東京、幻想、光
すごく良い映画だった。
人が多くて仕事がある都会、ムンバイと今わたしが住んでいる東京という街がリンクして、異国の風景を見ながらも自分と重ね合わせて見ることができた。
「『どんなにどん底の生活でも気張ってやっていく』それがムンバイの気概だ」
「幻想をみていなければおかしくなる」
※セリフはニュアンスで正確では無いと思います
私が好きな青森のねぶた祭りと重なって見えたお祭りのシーンも、村の海と似ている東北の海辺の風景も、私にとっての生きていくための幻想。
遠くにいるパートナーを想うことは光だけれど、迎えに来られて「来てくれ」なんて言われたらそれは光ではなくなってしまう。私には私のキャリアと人生があるし、遠く離れているからこそ想えるのであって、近くにいたらそれは現実になって苛立ちや困難に変わってしまうから。
久しぶりに映画館で登場人物の恋愛感情にも共感することができました。
私たちは光を感じ幻想を抱えながら生きている。私にとっての光や幻想ってなんだろう。
そんなことを考えながら帰る素敵な夜をもらいました。ありがとうございました。
作品情報の写真の意味
作品情報の写真は炊飯器を訝し気に見ているシーンだったのかと映画を観始めて分かり、可笑しかった。ヒロインらのやりとり、夜景とBGMが心地よかった。色々辛いことやめんどくさいことあれど、最後の4人でテーブルを囲むシーンで一息という感じで良かった。閉館予告のシネマカリテで観ることできたのも良かった。
しんみりインド
インド映画の新たな息遣い
そう、こんな映画を観たかったんだよな。
少なくとも日本で公開される限りはインド映画と言えば、歌って踊って血まみれで殴り合うという作品が多くを占めます。でも、インドの人達だって日本人と変わらず様々な環境・状況・地方で様々な思いを抱いて生きており、その数だけ物語がある筈だし、社会に向かって訴えたい事だってある筈です。
親が勧めるまま会った事もない男と結婚したものの、夫はドイツに出たっきり音信不通になった妻。イスラムの恋人がいるがヒンドゥーの家族には打ち明けられず親から別の結婚を勧められる若い女性。ムンバイで働く二人の看護師女性が、女性への押し付けがまだ強く残るインドで自分の生き方を見つけようとするお話です。それを、まだ三十代の若い女性監督が撮ったというのも注目点です。
まず、仄かな明かりを模索する様なこのタイトルがいいですよね。原題も同じ、”All We Imagine as Light" です。夜のムンバイ、雨の街、緑豊かな田舎町を映す映像も美しく、物語も決して大声で語られる事はありません。だからこそ、しんみり心に染みて小さな灯りを抱きしめる事ができます。
そして、スケベなオヤジである僕は驚いたのですが、女性の肌をここまで見せるインド映画は初めて観ました。この女優さん、私生活で強いバッシングを受けるんじゃないのかなと要らぬ心配までしてしまいます。これも新しいインド映画の証なのかな。
更に、「こんなしっとりと落ち着いた映画が、インド社会ではどれだけ受け入れられているのだろう」と、気になりました。調べてみるとインドに約1万近くある映画館で本作上映館は僅か27館だったのだそうです。日本国内ですら50館近くで公開ですから、インド国内では興行的には失敗作とされるのでしょうか。でも、そんな映画でも日本に渡って来たのは、先のカンヌ国際映画祭でグランプリに輝いたからという実績があっての事です。そう考えるとカンヌにも感謝です。
伝統的価値観と女性が自由に生きること
インド映画というと「ムトゥ」を思い出します。歌と踊りがお決まりと思ってましたがこの映画は普通でした。かなり昔にインドの恋愛事情、男女の関係を本で読んだことがあってその伝統的価値観がまだ強く残っているんだと思いました。銀座で闊歩する観光客、東西線に乗るビジネスマン、料理店にいるフロアの人などいま日本で会うことのできるインド人からは想像できませんでした。あまり昔と変わっていないのですね。それだけ伝統的価値観、カースト制度、ヒンドゥーの教えが根強いものなのだと思いました。それが一概に悪いとは思いません。それがその国の文化、地域の特色、個性なわけで。インドでは女性の自由がまだまだ市民権を得ておらず、こういう女性視点で描かれる映画が少ないんでしょうね。女性の解放、伝統と若者、田舎と都市の相対がよかったです。昔の日本を思い起こさせます。
インドの日常と恋愛事情
インド・ムンバイの病院で働く看護師プラバと年下の同僚アヌはルームメイトで、プラバは親が決めた相手と結婚したものの、ドイツで仕事を見つけた夫からはずっと連絡がない。一方、アヌにはイスラム教徒の恋人がいるが、親に知られたら大反対されることがわかっていて隠していた。そんな中、病院の食堂に勤めるパルヴァディが高層ビル建築のために自宅から立ち退きを迫られ、故郷であるラトナギリの村へ帰ることになった。彼女を村まで見送る旅に出たプラバとアヌだが、海辺で倒れてた男を助けたプラバはその人を夫と間違われ・・・さてどうなる、という話。
インド映画の特徴的な歌や踊り、アクションの無い作品で、全体的に暗くてちょっと退屈だった。
異宗教での恋愛、ヒンドゥーのカースト、住んでるところの立退問題、都会と田舎の格差、色々含まれてるのはわかるが、プラバとアヌ以外の人たちの顔がわかりにくかったのと、主人公の2人にあまり共感が持てなかったので退屈だった。
こういうインド映画も悪く無いとは思うが、もう少しキャストの選定や演出を工夫してインド以外の外国の人にもわかりやすくしたら良いと思った。
男は顔が黒くて皆髭面じゃあ、ダンスもアクションも無かったら区別が付きにくい。
東京の孤独に通じる
寝不足仕事帰りで観てはいけない、5回くらい寝落ちしかけた…
とはいえ、とても幻想的な画面にうっとりしつつ…
そういえばこれインド映画だったな、あまりこういうインド映画は観てないかもな
人がぎゅうぎゅう、夜景がキラキラな最初のシーンからこの雰囲気、日本に置き換えて日本版作れそうなくらい、東京でもしっくりくるな、
と思ったのは少数派ですかね。
いや、すごく東京の人々でもおかしくないストーリーですよ。
ドイツの配偶者は電話すら出ないのか?どういう経緯で結婚したの?親とか関わってるのかな?とか、
勤務先の病院は忙しいのか暇なのかよくわからないし産婦人科?と思ったら老人も診てる??
二人で休暇取れるということはそこまで多忙ではないのかな?
とか、環境的に謎なところもありましたが
遡って見た英語のレビューで、インドの3種類くらいの言語を話している、そのニュアンスが伝わらないのが残念と書いている方がおりましたが、その言語を使う意味とかまで理解すればより解像度が上がるのかもしれません。
あと音楽が、Y2K時代にシカゴ音響系好きだったのですが、その辺りを彷彿させる音でとても好みでした。
ムンバイで生きる
ムンバイの女性達を描いた作品、に惹かれての鑑賞。( フランス・インド・オランダ・ルクセンブルク合作。 )
女性達の生き辛さを、ムンバイで看護師として働く2人の女性視点から描く。冒頭の混沌としたムンバイの空気感、女性達のやるせない表情が印象に残る。
エンドロールの楽曲が素敵でした。
映画館での鑑賞
うまく言えないけど、とても良かった
静謐さの中に見た微かな光
舞台はインドのムンバイ。
主人公プラバは看護師をしていて仕事の同僚でルームメイトの
アヌのふたりを中心に描いている。
プラバは結婚していて夫はドイツで働いているらしいが、
どうにもその縛られっぷりが見ていて痛々しい。
インドの文化の一端を、あらためて認識することとなった。
アヌは明るい性格で、今どきの女性と言えるだろう。
それゆえ彼女の生きづらさを様々な場面で感じるのだ。
特に男性とのコミュニケーションについては、周囲が閉鎖的な考えをしているため
息苦しさが観客である私にも伝わってきた。
場をラトナギリに移してから、少しばかりの自由さをアヌの行動から感じ取ることができるし、
私の好きなシーンである、おばさんとのアヌとのインドの楽曲にのって踊るシーンにおける
アヌの表情はこちらまで明るくしてくれる。
一方、プラバは海岸に打ち上げられた男性を胸骨圧迫と人工呼吸で蘇生させたことから
その男性を夫と間違えられるわけだが、
夫と見立てての男性との会話は、現実世界における夫に対する気持ちが率直に出たのだろうと思う。
決別したいとの思いが。
プラバはムンバイにいたときには考えられなかったであろう、意識変革が起きる。
アヌと彼氏を祝福するのだ。
そのシーンがカラフルに彩られた電球に照らされ、これがタイトルの“光”とオーバーラップし、
きっと希望の光なのだろうと思った。
じんわり心に沁み入る良作だ。
素顔のインド人‼️❓
堂々たるカンヌグランプリインド映画。
インド映画でこんなのは初めて見ました。
まあ自分が知らないだけで、他にもあるのかも知れないけど。
結局、心の琴線に触れる映画が撮れるかどうかというのは、国籍とか関係ないですね、
当たり前か。
わかりやすく絵になるようなものなど一つもない日常の中に、豊かな詩情にに溢れた場面を切り取ってみせる、感性と、技術と。
なんなんでしょうね、この才能は。
素晴らしすぎてため息が出る。
私たちが光と想うすべて、このタイトルのとおりの何かが、映画の中にそのまま入ってました。
本当にそうなので。
ああ、確かにこういうものを光と想うかも、ていうものがほんとに入ってるんです。
この映画いっぱいに。
言葉で説明しようとしてもどうにも説明できないものを、よくもまあこの登場人物たちが微妙に複雑に絡み合う一つの物語の中で、純度高く描くものだなと。
最後のシーン、もし自分と似たような感想を持つ人がいるならきっとそう思うと思うんだけど、ああ、このタイトル、いいじゃん、その通りじゃんと、しみじみ思いながら見ていました。
映画を見てこんな風に感じることが、自分にとって一番幸せなことの一つであるのは間違いないので。
そういう時間をたくさんくれた新宿のシネマカリテさんが閉館してしまうのはなんとも悲しいですね。。
外国の今の異文化をこういう映画で知れるのもいい
いつもの映画館で夏休みに
チラシと予告編で興味がわいた
カンヌのグランプリ 是枝監督のお墨付きだし
インド映画だけど踊らないというし
で うーん自分が好きな感じとは微妙なズレ
バスで送別を兼ねていきとことかはよかった
酔っぱらって2人が踊るところも
外国の今の異文化をこういう映画で知れるのもいい
ラス前の海岸からのエピソード いまひとつ飲み込めず
ん まぼろしなのか現実なのか
上映終了後 廊下の雑誌記事の切り抜き ふたたび
監督のインタビューを読んで あぁなるほどと
終了後は球場まで1時間歩いてナイター観戦
負けたけどいい試合で満足
静謐な光と影
生活感と俯瞰性の無理のない混ざり具合
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