「圧倒的なデミ・ムーアの熱演!快作にして怪作!!」サブスタンス 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
圧倒的なデミ・ムーアの熱演!快作にして怪作!!
《前夜祭上映》にて鑑賞。
【イントロダクション】
デミ・ムーア主演。50歳を迎えた元トップ女優が、容姿の衰えによる仕事の減少から再起を図ろうと、ある再生医療に手を出し、やがて予想だにしない事態へと発展していくホラー。
監督・脚本・編集・製作は、フランス人女性監督で『REVENGE リベンジ』(2017)のコラリー・ファルジャ。
第77回カンヌ国際映画祭、脚本賞受賞。第97回アカデミー賞、メイクアップ&ヘアスタイリング賞受賞。
【ストーリー】
50歳の誕生日を迎えたエリザベス・スパークリング(デミ・ムーア)は、かつてはオスカー女優にも輝き、人々の憧れの的として一時代を築いたトップ女優。しかし、加齢により次第に仕事は減少し、自身の名前を刻んだ星形プレートに多くの観光客が訪れていたのも、今は過去の話。容姿の衰えから、唯一の看板番組であるエクササイズ番組のプロデューサー、ハーヴェイ(デニス・クエイド)から直々に番組からの降板を言い渡されてしまう。
失意の中、エリザベスは運転中に自身の広告パネルが剥がされている現場を目撃し、不注意から衝突事故を起こして病院に搬送されてしまう。奇跡的にも軽傷で済んだ彼女は、その日の内に退院を言い渡される。すると、看護師は彼女に「私はこれで人生が変わった」と記したメモ用紙とUSBをコートのポケットに忍ばせて渡す。
帰り道、エリザベスはかつての級友と再会する。彼は「今でも君は世界一キレイなままだね」と賞賛し、連絡先を渡す。
帰宅したエリザベスは、USBを再生する。それは“サブスタンス(物質)”という再生医療についての広告映像だった。それは、「1回の注射で細胞分裂により若く美しい分身を作り出し、母体と分身で1週間ずつ交互に生活する」というものだった。はじめはUSBをゴミ箱に捨てたエリザベスだったが、自身の容姿の衰えに対する心理的不安を払拭出来ず、USBに書かれた番号に電話を掛ける。
後日、エリザベスの元にカードキーが送付される。指定された場所に赴くと、そこは一見廃棄と思しき寂れたビルだった。カードキーで中に入り、廊下の先にある部屋に入ると、そこはロッカーが並ぶ真っ白な部屋だった。カードキーの番号に対応したロッカーを開けると、そこにはサブスタンスの操作キットが段ボールに納められていた。
エリザベスは箱を持ち帰り、説明書通りに注射を打つ。すると、細胞分裂が始まり、まるで脱皮するかのごとくエリザベスの背中を突き破り、若く美しいもう一人の自分、スー(マーガレット・クアリー)が現れる。
スーはエリザベスの経験と若く美しい完璧な肉体を併せ持ち、彼女が降ろされたエクササイズ番組の後任を難なく射止め、瞬く間にスターダムにのし上がっていく。しかし、やがてスーは説明書にあった注意書きを無視して活動を続けようとするようになる…。
【感想】
3章仕立てで展開される本作は、良い意味で「懐かしさ」に溢れ、そして普遍的なテーマを持つ作品だったと思う。
コラリー・ファルジャ監督自身が「あえて繊細に描かなかった」と語るように、本作で女性が晒される男社会からのエイジズムやルッキズムは非常に短絡的で暴力的、また画一的だ。しかし、だからこそ、この問題は女性だけでなく男性にも響く作りだと言える。エリザベスが執着した「若さ」と「美しさ」という女性的苦悩は、男性ならば「収入」や「地位」に置き換えて捉えてみれば理解しやすいかもしれない。また、どちらの場合にも共通するのは「見栄」という点だ。
本作で描かれている破滅は、エリザベスの見栄が招いたものと言えるだろう。周囲からの評価や衰えに対する劣等感も、言ってしまえば周囲に対して見栄を張る姿勢が根底にあるからだ。勿論、その地盤を形勢したものこそが男社会なのだが、少なくともエリザベスは、若い頃はその事で成功を収め、評価される快感を享受していたのは確かである。そして、自分の価値判断を他者に委ね、美しさだけを寄る辺に生きてきた姿勢が破滅へと繋がったのだ。
番組の締めで「自分を大切に」と視聴者に投げかけていた彼女自身が、最も自分を大切に出来ていなかったからこそ招いた破滅なのだ。
「1人の人間が“理想”を手にし、欲を掻いた先で重い“代償”を支払わされる」という展開は、世界中で古くから脈々と受け継がれてきた寓話であり、普遍的な教訓だ。
また、本作と最も類似性のある作品は、ロバート・ゼメキス監督による『永遠に美しく…』(1992)だろう。あちらも人気のピークを過ぎた女性達が若さを求めて暴走していく物語だが、本作よりコメディチックで全体的なトーンは明るい。本作は、言うなればそのダークな強化版と言える。
エリザベスを取り巻く男社会の滑稽さが良い。ハーヴェイは、エイジズムとルッキズムの権化として描かれる。レストランで海老を頬張り、皿周りにソースを飛び散らせながら貪り食う彼の“品のなさ”がまた良い。エリザベスは、そんな彼から降板を言い渡され、グラスに浮かぶ蠅の姿を見つめる。その蝿は直前までハーヴェイの首に止まっていたもので、彼は所詮蠅にたかられるような人間なのだ。だが、エリザベスはそんな彼と、彼のような人間が好奇と性的な目を向けてくる男社会の呪縛から逃れられない。
画作りに関しては、巨匠スタンリー・キューブリック監督の影響も色濃く反映されている。エリザベスの自宅の白いタイル張りのバスルームや、サブスタンスのキットを受け取る真っ白なロッカールーム、何より、分身を誕生させる瞬間のトリップ画面は『2001年宇宙の旅』(1968)のそれと酷似している。また、TVスタジオのオレンジ色の廊下は『シャイニング』(1980)を彷彿とさせる。
左右対称を意識し、カメラを遠くに設置して登場人物を長い廊下の奥から捉えるショットも実にキューブリック的。
脚本の伏線、取捨選択バランスも素晴らしい。特に、サブスタンスの製造元についてや、どういったメカニズムで分身を生み出すかという点については、フィクションとして大胆な嘘をつき、細かいディティールを省いている。また、ホラー映画の1ジャンルながら、ジャンプスケアに頼らない点も評価したい。
音楽のラファティによる『The Substance』が最高。予告編から作中の広告ムービー、作中のあらゆる出来事、エンドロールに至るまで、度々作品を彩るこの不穏さを漂わせる象徴的なテーマソングも評価したい。
【第1章:エリザベスを演じたデミ・ムーアの圧巻の演技!】
何と言っても、デミ・ムーア演じるエリザベスの孤独感と劣等感、焦燥の果てに狂気に呑み込まれていく過程の演技は圧巻。
それは、演じる彼女自身が、エリザベスと同じく若かりし頃に世界中から絶賛され持て囃され、「ハリウッドで最もギャラの高い女優」として一世を風靡したからに他ならないだろう。しかし、その裏では度重なる結婚と離婚、加齢による仕事の減少に至るまで、エリザベスと同じく苦労も重ねてきた。
ともすれば自虐ネタにもなりかねない程、2人の共通点は多い。しかし、シリアスさが時にギャグとして映って思わず笑みが溢れる瞬間こそあれ、全編に渡ってエリザベスを演じるデミ・ムーアの姿は説得力に満ち、圧倒的な没入感を与えてくれる。
【第2章:スーが得る「完璧な美女」という評価に見る、“完璧”という幻想】
本作を製作する上で一番重要だと感じた点は、「誰がスーを演じるか?」という点だ。そして、マーガレット・クアリーのキャスティングは完璧な回答だったのではないかと思う。何故なら、既に若手女優として順調にキャリアを積み上げている彼女だが、その美貌に対する作中の評価に関しても、フィクションならではの盛大な嘘がつかれているからだ。
まず断っておくが、マーガレット・クアリーは間違いなくトップクラスの美女であり、この先の指摘は重箱の隅をつつくようなものである。しかし、それを指摘しなければ、その先の理論に発展していかないので行う。
彼女は、特に口元のアップカットで顕著だが、前歯がすきっ歯である。また、満面の笑みを浮かべる際には歯茎が見えるガミースマイルタイプなのだ。美醜の価値基準は人それぞれだろうが、こうした特徴は少なくとも好ましく思われてきたものではない。
しかし、作中では誰もそれを意に介さず、「完璧だ」と褒め称え、皆が彼女を好きになる。それもまた、フィクションならではの嘘だと言える。
本作は、「あなたはあなた1人しか居ないのだから、自分を大切に」というメッセージを分かりやすく伝えてくれるが、もう一つ、それと同じくらい大切な「完璧とは幻想であり、完璧な人間など居ない」というメッセージが隠されている。人は自分より優れていると感じた人の中に、安易に「完璧さ」という幻想を見出してしまう。
作中で、エリザベスはかつての級友を飲みに誘い、時間ギリギリまでメイクに追われ、遂には約束をすっぽかしてしまう。首の皺、肌のハリ、肌艶、リップの乗り具合に至るまで、どんなに鏡の前で試行錯誤しようとも、エリザベスの脳裏にはスーの姿がチラついて決して満足出来ない。あのシーンでティッシュで口紅を拭い、怒りに満ちた表情を浮かべる姿は、間違いなく本作の白眉だ。
ここで重要なのは、間違いなくエリザベスはファッションからメイクに至るまで、あの時点で彼女の出来るベストは尽くしているという点だ。しかし、エリザベスは若く美しいスーと比較して、劣等感を払拭出来ず、彼に会う事なく終わってしまう。
これは、そもそも比較対象からして間違っている。50歳の女性が、20代女性の若さや美しさと張り合ったところで無理があるはずで、現実ならば滑稽に映るはずだ。だが、スーがエリザベスから生まれた「より優れたもう1人の自分」だからこそ、彼女はそこにライバル意識を燃やし、目を向けずにはいられないのだろう。スーは若かりし頃の自分との比較になるのだ。
【第3章:モンストロ・エリザスーが魅せる地獄絵図】
《かわいいが暴走して、阿鼻叫喚》
日本における本作のキャッチコピーは、まさに本作の本質を端的に、的確に表している。
本作のジャンルは、正しくは「ボディ・ホラー」であり、クライマックスで誕生する“モンストロ・エリザスー”のビジュアルはインパクト抜群。また、エリザベスとスー両者の特徴を併せ持ちつつ、両者の肥大化した内面のエゴにそのまま肉付けして形を与えたかのような膨張・増殖しまくった歪なボディは、ジョン・カーペンター監督の名作『遊星からの物体X』(1982)のクリーチャーを彷彿とさせる抜群のデザイン。
エリザスーの姿を目の当たりにし、彼女を「化け物!」と責め立てる観客や、混乱して立ち尽くすパフォーマーらに容赦なく血を浴びせかける姿は、スティーヴン・キング原作の『キャリー』(1976)のクライマックスと重なる(あちらとは違い、本作はヒロインが浴びせる側だが)。
出来る限り実物に拘った特殊メイクとクリーチャー造形、実に13万リットル超の血糊、それによって描かれるラストの地獄絵図は、まさに阿鼻叫喚。
現代において、これほどまでに手作り感と情熱が迸る悪趣味で痛快なホラー描写が見られるのかと、心底感動した。
このやり過ぎとまで言える過剰なクライマックスが、私の本作に対する評価を更に引き上げた。人によってはこの第3章で賛否が明確に分かれると思うが、私はコラリー・ファルジャ監督の思い切りの良さに盛大な拍手を贈りたい。
【総評】
「ありのままの自分を愛する」事の難しさを描いた本作。「若さ」という身体的な長所は、どうしても時の経過と共に衰えていく。反対に、「知識」や「経験」は年齢を重ねていくほどに蓄積され、その価値は一朝一夕で失われるようなものではない。「若さ」の喪失をどう受け入れ、「知識」や「経験」を重ねて自分を磨けるか。誰もが迎える「老い」という現象を前に、どう折り合いを付けて新しい生き方を構築して自分を愛せるか。
本作は、女性陣の圧巻の演技、グロテスクながら痛快さに満ちたエンターテインメントとして、そんな問いを我々に投げかけているのだろう。
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