サブスタンスのレビュー・感想・評価
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自覚してエンタメ界に身を投じた者がルッキズム、性差別を批判する声に、喝。
オレの娘はダンサーにあこがれ、韓流アイドルを真似てダンスの練習をしている。オレからすると、韓流アイドルなんて、と思うわけだが、本人は(こちらから見る限りは)本気だ。
エンタメ界が存在する(というより、人が「美」に価値を求める、快楽を求める)以上、見た目(舞台や芸能人)の華やかさにあこがれるのは少なくともオレが生きている限りは変わらない。そしてどんなに見た目がよくっても、若いときはもてはやされても、自身で自分の価値を積み上げることが非常に困難な世界であることは、よくわかる。
オレからすると、応援する気持ちはあるものの、やめとけ、の話だが、オレが言う前に彼女の成長過程でエンタメ界の「価値観」が評価を下す。そして評価されたとしても、そこからはまたさらにその価値観の中で生きてくことになる。とオレが言うまでもなく、数えきれないほどの「イケメン男子」「美少女」の無念の上で成り立っている。逆に勝ち取った、とは外野からの勝手な評価でしかない。当たり前だが、勝者なんて、外野が決めることではない。
なんだが、娘語りから入ってしまったが、美しいもの、強いもの、に惹かれ、憧れるという「本能」、人間の「本質」でエンタメ界に限らず、人間社会が成り立っているという、当たり前の根本に対し、「ですよね」と映画オタクがその引き出しを総動員した、
「サブスタンス」
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とてもじゃないが、オレの価値観で「衰えている」とは思えないムーアのエアロからわかるように、プロデューサーのクビ宣言も、理不尽なのは、こちらの意見。力あるものの(理由は末端の人間には分からない」一声で人事は変わる。クエイドの食べ方は、「醜い」とかそういうことではなく、そもそもキレイな食べ方って何?という視点もある。ムーアのフランス料理教本からの料理がぐちゃぐちゃなのも、フランス料理のお上品って何?
ムーアのクローズアップの多投も、皺の醜さの強調ではなく、それすら「美しく」も見える。
クアリーのエアロは圧倒的な鍛錬の上に成り立ってあり、その健康的でもあり、セクシーに感じるのは、当たり前で、監督もそれを「皮肉」を包みつつも、やっぱりすごいよね、ですよね、というほど、エアロシーンがたびたび描かれる。(さすがにお尻から変な映像が出たといってスタッフが巨大な画面でクアリーのお尻に注目するのは笑った)
オレらの生活圏においては、ルッキズムが間違ったとらえ方で、学校や職場ではばかることは断固として忌み嫌う。
しかし、ことエンタメ界ではルッキズム批判はおかしな話。
演じたムーアも言っている。「私は決して被害者ではない」と。
本作は、ただそこに生涯をかけてしまった、自身の価値観をそこのみにしか置けなかった主人公の悲劇と、血しぶきの救済。
なかには、親から連れられてきたのか、自身で臨んで参加したのか、少女も洗礼を受ける。
ましてや、性差別なんかは描かれておらず、「薬」を紹介、利用したあの男も本能に忠実。一方、連絡先を水たまりに落としたメモを渡す、元同級生のあいつが一番ダメな奴。
(そんなメモを取っておいた)そんなダメな奴へのデートへの準備で奮闘する主人公の価値観はすでに狂ってしまっているのだが、笑えない人が多いと思うし、このシーンが「若いころ」のオレに刺さる。
終盤、自身の顔の写真を切り取り、鏡を前にする。ブルース・リーの「死亡遊戯」(’78)を思い出し、笑った。
「死亡遊戯」はリー死去のためで苦肉の策だが、本作においては、CGそして整形を茶化している。同じく、ムーアから見た目が別の、今風にアップデートされたクアリーが誕生するのも整形ブームへの茶化しなんだろうな。
若さと美の追求の行き着く先
若い後輩と一緒に写った写真を見た時
「あー歳をとったな…」と思ったり
20代の頃の自分の写真を見た時
「あの頃は肌艶も良くて、今より痩せてたな…」と思ったり
いつからか歳を重ねるのが嬉しくなくなり、若さと美しさを渇望する時間が長くなる。
きっと誰しも一度は美と若さを手に入れたいと思ったことがあるんじゃないかな。
私も絶賛見た目の老いに日々抗い中だ。
こんな私ですらそうなんだから、それが商品価値にもなってしまうエンタメ界では尚更、美と若さ=自分の価値に感じてしまうのもわからなくはない。
この映画は、そんなルッキズムに囚われる現代人に警告を鳴らすかのような劇薬作品だった。
グロテスクなシーンがとても多く、苦手な人にとっては目を瞑りたくなるシーンも多いけれど、命を弄ぶようなスプラッタホラーではない上に、魅せ方がとても上手なので不思議と見れる。
カメラワーク、音の使い方、色彩、サブスタンスのパッケージから説明書のフォントまで、細部まで監督のセンスが光っていて、世界観の統一が気持ち良い。
後半まではほぼセリフらしいセリフもなく、ひたすら主人公のエリザベスやスーの表情で物語が進むが、セリフがなくても痛いほど感情が伝わってくるのが秀逸。エリザベスの化粧のシーンなんて、気持ちが分かりすぎて後ろから抱きしめたくなった。
最初から最後まで全く飽きさせることなく、次の展開はどうなるんだとノンストップの140分で大満足。始まりのハリウッド ウォーク オブ フェイムからすでに「あ、好き」と思ったけれど、ラストがこれまた最高だった。
私が「サブスタンス」を手に入れたらどうするだろう…。
これからどんどん老いていく自分が、若さと美だけが価値にならないように、自分を愛せる部分をたくさんつくっていきたいなと思った。
お仕着せの価値観と行き過ぎた執着がもたらす地獄
デミ・ムーアのまさに体を張った狂気の演技に圧倒された。
名優はもちろん綺麗に撮られることより表現を優先するものではあるが、顔や背中の瑞々しさを失った肌を強調するカメラワークで撮られつつ若い女優と対比させる演出で演じるのは、女性としてはなかなか勇気のいることだ。
もっとも、そういった勇気を必要とする価値観や社会の風潮こそ本作の批判の対象なのだろう。だから私の「女優なのに体を張っててすごい」という稚拙な感想自体、コラリー・ファルジャ監督から見れば唾棄すべき古臭い価値観に毒されたものなのかもしれない。
とはいえ、マーガレット・クアリーが眩しすぎる。
かりそめの空疎な分身だが、若さを失った故に表舞台から退場させられたエリザベスにとってはあまりに蠱惑的な存在。クアリーが美しいからこそ、エリザベスがサブスタンスのルールを破り狂っていく気持ちもよくわかる。
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」のプッシーキャット、「哀れなるものたち」のフェリシティなど、短い出演時間でも印象深い少女の名残を感じる愛らしい顔立ちと完璧過ぎるスタイルが、あやかしのクスリで生まれたスーにぴったりだ。
デニス・クエイドの演じたハーヴェイ(……ワインスタイン?)とエリザベスの隣人、ハーヴェイが連れてきた白髪頭の株主たちは、若くて美しい女性しか人間扱いしないという有害な男性性の象徴として登場する。
ハーヴェイは吐き気がするほどドアップのカットで登場し、エビ料理を大袈裟なほど汚く食い散らかすなど、生理的嫌悪感を煽るかのようなデフォルメをほどこして描かれる。「女性は若く美しくあってこそ存在意義がある」というくだらない価値観はこういうレベルの奴らが押し付けてくる戯言ですよ、とでも言わんばかりだ。若さ偏重でエリザベスを切るお前自身も脂ぎったおっさんだろと思わず言いたくなるような、クエイドの怪演がいい。
冒頭のウォークオブフェイムを使ったエリザベスの状況説明は、簡潔ながら十分な情報があって上手いなと思わせる。その後も終始テンポがよく、展開から眼が離せない。
彼女の弱さゆえに事態が混沌としてゆく流れは想像通りだが、落とし所が予想出来なかった。まさかあんな状態になってあそこまでブシャーと撒き散らすとは……
ビジュアルのグロさと若さへの執着に負けた代償の恐ろしさに震え上がる一方で、笑える瞬間も結構多かった。
ハーヴェイの誇張された愚かしさもそうだし、騒音のクレームを入れに来た隣人の豹変具合、プロの職人並のDIY能力でバスルームにドアを設置するスー。声をかけてきた昔なじみ(多分本作唯一の善良な人間)に会いにいくのにド派手なおめかしをするエリザベス(この直後のデミの演技がすごい)、完全に老婆形態になったのにスーとやりあう時はめっちゃ素早いエリザベス(笑)。
モンストロと化したエリザベス&スーがショーの舞台に出る場面で「ツァラトゥストラはかく語りき」が流れた時には、2001年宇宙の旅かよ!と笑ってしまった。
この交響詩を作ったシュトラウスがインスピレーションを受けたニーチェの同名の著作に出てくる「超人」の概念は、既存の価値観に囚われず新たな価値を生み出す存在であり、人間が目指すべき姿として定義されている。
女性の体は2000年以上にわたり見る者の目によって形作られ、支配されてきたとファルジャ監督は言う。考えてみれば、そのように女性を縛ってきた古い概念の否定という本作のテーマと、この曲の由来はよく馴染むのではないだろうか。
私は変わっていない私のままだと、「モンストロエリザシュー」は叫ぶ。悲鳴をあげる客席の男女と同じ恐怖に見舞われながら、彼女の叫びに観客の自分までも試されているような気持ちになった。
最後に、崩れたモンストロからこぼれ落ちた異形の姿のエリザベスは、自分が賞賛され愛されていた頃の象徴であるウォークオブフェイムに辿り着き、ほっとした表情で息絶える。融解した彼女の痕跡はあっという間に干からび、翌日には一瞬でバキュームクリーナーに吸い取られ消えてしまう。
最後まで「他人が女性に望む理想の外見」に振り回された彼女の物語を、「こんな生き方はくだらない」と一蹴するような皮肉の効いたラスト。オープニングと同じシンプルな表現で、ピリッとした落とし方が小気味いい。
デミ・ムーアの執念が視覚効果を凌駕している
最先端の再生医療、サブスタンスの力を借りて、若々しく生まれ変わろうとしたベテラン女優のエリザベスが辿る、再生と崩壊のカタストロフ。この映画の肝は、エリザヘスがCGIで若返るのではなく、上位交換によって全く異なる個体であるスーとなって、エリザベスの背中を破って出現するところ。さらに、両者はそれぞれのコンディションを維持するために1週間毎に入れ替わらなければいけない点にある。このアイディアは確かに斬新で、従来の若返りに関する映画とは一味違う。
スーがルールを破ったことで両者の肉体に訪れる衝撃的な出来事は、視覚的には『遊星からの物体X』('82年)だったり、デヴィッド・クローネンバーグだったり、または『キャリー』('76年)だったりする。しかし、エリザベスを演じるデミ・ムーアの肉体が、特殊メイクや人形を用いてほぼ別物に変化した後も、よく見ると、依然としてデミ・ムーアであり続けるところが凄い。そこに、メイク担当の気配りと言うか、エリザベスの苦闘に自身のストーリーを重ねつつ演じたであろうデミの執念を感じるのだ。
個人的には、ハリウッドで整形美容の是非論が取り沙汰された1990年代初頭に製作された『永遠に美しく・・・』('92年)に近いと思うが、映画のテーマをやはり当時としては最先端の特撮技術と笑いによって具現化した『永遠~』とは異なり、女性に向けられる性差別、年齢差別、ルッキズムの問題が過酷な分、本作が発するメッセージはシリアスで強烈だ。さて、『サブスタンス』も『永遠~』と同じくカルトムービーとして生き残り続けるだろうか?
“本質(substance)=内なるモンスター”を解き放ったファルジャ監督
外国映画の原題がシンプルな1ワードのみの場合、往々にしてダブルミーニングとなっている(米元副大統領チェイニーを題材にした「Vice」に「副」と「悪徳」の意味が重ねられていたように)。本作「サブスタンス」(The Substance)において、第一義は新たな自分を生み出す「物質」を指すが、substanceには「本質」の意味もある。フランス人女性監督のコラリー・ファルジャはあるインタビューで、「女性は若く美しくあるべき」という旧来の考え方に基づき隠すよう教え込まれてきた「老いつつある不完全な自分の一部」が自身に内在する“モンスター”であり、解き放たれたモンスターが女性の肉体を破壊し戯れることで、女性たちを抑圧し束縛してきたものを吹き飛ばしたかった、といった趣旨を語っていた。破壊されるべき醜い怪物とは、他者に美しさを求める身勝手な欲望=人間の本質そのものだ、とも読み取れる。
ファルジャ監督は2017年に「REVENGE リベンジ」で長編デビューした後のインタビューで、自作にオマージュや引用が少ないのは観客の没入を妨げるからだ、とも語っていた。だがこの第2作「サブスタンス」では考えを改めたのか、わかりやすい引用や参照に満ちている。特殊な手段で永遠の若さを手に入れようとする筋は、オスカー・ワイルド原作「ドリアン・グレイの肖像」(映画化・ドラマ化ともに複数回)やロバート・ゼメキス監督作「永遠に美しく…」。ボディホラーの要素はジョン・カーペンター監督作「遊星からの物体X」、デヴィッド・クローネンバーグ監督作「ザ・フライ」、ブライアン・ユズナ監督作「ソサエティー」など。スタンリー・キューブリック監督作からは、「2001年宇宙の旅」の光の回廊に似た視覚効果と交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」のBGM、「シャイニング」のシンメトリー構図やインテリアの配色。大量の血しぶきは「シャイニング」に加え、ブライアン・デ・パルマ監督作「キャリー」も想起させる(ちなみにこの2作はスティーヴン・キング原作という共通点も)。
20世紀の巨匠たちが手がけた傑作群への言及を散りばめつつ、表層的なマッシュアップで終わらせず、自身の実体験に根差したオリジナルなストーリーに消化/昇華させた点がファルジャ監督の偉業であり、「サブスタンス」が私たちの心を揺さぶる理由でもある。自身のキャリアに重なるような落ち目の元大スター役を引き受けたデミ・ムーアと、完璧な肉体を表現するため人工の乳房を装着したマーガレット・クアリー、2人の熱演に依る部分ももちろん大きい。過激な表現とブラックユーモアをまといながらも、女性の真の解放とは何かを問いかける力作であり、ルッキズム的傾向を無自覚に持つ多くの観客は冷や水(と血しぶき)を浴びせられたように感じるはずだ。
ある種の中毒性を持った最高の劇薬
これはもう破壊力満点。かなり重いパンチを腹に決められた気分だ。ファルジャ監督の『リベンジ』もぶっ飛んだバイオレンス・アクションだったが、今回はさらに壁をぶち破り未曾有のゾーンに突入した超怪作と言っていい。「substance」は「薬物」や「実体」などの意味を持つが、なるほど、本作は若さを求めて薬品に手を伸ばす欲望の暴走劇でありながら、真っ二つに引き裂かれていく壮絶なアイデンティティのドラマでもあるわけだ。ある意味、悪魔の契約。大人のファンタジー。大量の血糊と特殊メイクを伴う作品ゆえ、この手のジャンルが苦手な人はくれぐれも注意願いたいが、しかしある程度の描写なら許容可能な人ならば、過激さが振り切れ、もはや歓喜にまで昇華する瞬間を何度も感じるはず。特に幾つかの名作映画すら思い起こさせる終盤は「やりやがったな!」と笑いが止まらなかった。全身全霊、体当たりで演じたムーア&クアリーを心から称えたい。
美醜の対比にこだわった丁寧かつ大胆な表現が芸術的。
デミ・ムーアは一時期マッチョになってたりしてたのは知っていますが、見るのは随分久しぶりになるかと思います。まずまず、そんな変なことにならずに、年相応を保てている方だと思いました。
お話は、基本的には、老いを感じてきたある女性セレブが、秘密裏に取引されている若返りのための薬・ツールに手を出すという話で、大方、用法が守れなくなり破綻するという展開であることが読め、基本的に、お約束通りにそうなるのですが、若返りのしくみ、そのメンテナンス方法が、これまでにないキラリと光るアイディアだと思いました。
日本でヘアシャンプーLAXのCMをやっていた頃の、かわいいデミ・ムーアになるのかと思いきや、全くの別人が出てきて、びっくりワラタ。
別人としたことで、それに合わせて次第に人格も分裂するところや、2つの人格を行ったり来たりするところなどが、整形で別人に代わるようなこれまでの作品とは差別化が図れていて、良かったと思います。
映像の面では、ビビッドで汚れのない美しさと、脂ぎっていて、生臭くて、ぐちゃぐちゃねちゃねちゃしていて、そこらじゅうに飛び散っては、周囲を汚しまくる醜悪との対比を強調すべく、とても念入りに、細部に至るまで丁寧に創られているのが感じられ、芸術的だと思いました。
終盤は、ホラーから、大きく笑いに振った感じですね。「ザ・フライ(1986年)」のように中身が人間のままで、外観がグロテスクな怪物になると、何とも言えない惨めさと悲しさを感じるものですが、中身までもが外観のクリーチャーレベルになってしまうと、お笑いにしか受け取れないというのは、貴重な発見かも知れません。
後に何か残るような深みのようなものはありませんが、逆に、深く考えさせないように配慮してくれている親切作品かも知れませんね。
凄すぎた
レビュー:『サブスタンス』
2025年の作品。アカデミー賞や脚本賞の受賞は、納得せざるを得ない。この映画は、従来のホラーの域を超えている。
世界観の面白さ
この物語の魅力は、その世界観にある。デフォルメされたようなプロデューサーたちの腹黒い声は、芸能界の現実を鋭く捉えている。
彼が食べていたエビ。その食べかすは、今まで使い捨ててきた女性たちだろう。グラスに浮いたハエは、現在の彼女らとエリザベスの「価値」を象徴している。これらのモチーフの強調は、映画ならではの見せ方だ。あの長い通路もまた、芸能界という場所の毒々しさを象徴している。
老化と欲望
老化現象は、かつて人類が不老不死を追い求めた歴史を思わせる。カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』では、自分のクローンを育て、疾患時の臓器培養装置を描いたが、昨今の医療科学の進歩によって、この物語はよりリアルに感じられる。
型の進化
「犯人を捜していたら、私だった」という型を、この作品は凌駕している。最初から「私」だとわかっていながら始まるのは、自分への不満。この映画は、心を解き明かす手段として申し分ない深層心理を表現している。
若返ってもなお、クソプロデューサーの従える世界に生きようとする考え方は、生まれ変わっても同じことを繰り返す人間心理を的確に捉えている。
サイコロジカルホラーの深化
通常の物語なら、オチは「1回きりしか使えない活性化剤」を2度使って化け物になったところで終わる。しかしこの映画は、その化け物がステージに立ち、スプラッターまで描く。それは、化け物になったエリザベス=スーと、それを見る観客や製作スタッフすべてが「同じ穴のムジナ」だからだ。
「遊星からの物体X」のようになったスーが、最後に自身のハリウッド・ウォーク・オブ・フェームで死に絶える。それさえも何事もなかったかのように、翌朝にはリセットされる。この儚さを、すべての往年のスターたちに捧げている。
深層心理の怖さ
「7日ごとの入れ替え」──ここにある人間の野心、自分を否定すること。2018年の『ジョナサン』にも通じる型だ。
ハリウッドという場所に巣くう闇は、お金や利害関係だけではない。新しい者の登場と引き換えに捨てられる者。その世界こそ「絶対的な価値」があると信じてしまう心境。何をしても抗えない老化、エントロピーの法則。若返りたいという願望に忍び込んだ「サブスタンス」
「私は常に一人」という忠告は、欧米人らしい「自分に勝てない」気質によって破られる。それもまた「私」だとわかっていながら、止められない人間の性。
語られない部分の不気味さ
この物語が語っていないのは、サブスタンスの「対価」いったい誰がどんな目的でこれを始めたのか?この型はまるで映画『ビッグ』のようだ。サブスタンスは医者から情報を得た。その「母体」は、他人がどんな風になるのか知りたかったと言った。もしそうなら、サブスタンスは呪いのようなもの。そしてそれは確かに呪いだった。
1回きりしか使えないのは、「F1種」の種と同じ。この技術が、この作品をより一層リアルにする。同じ自分でも、年老いて成熟した考えになった「私」と、怖いもの知らずで何でもチャレンジしてきた「私」との違い。まるで親子のようであり、別人のようでもある。このひとりの「私」ほど、理解できない存在はないのかもしれない。
この作品、群を抜いて恐ろしい物語だった。
グロ&グロ&グロ&暴力のホラーです
年取った女性の悩みの映画?わかったぞ~整形にはまっちゃう系かな?(サスペンスでしょう)と見始めたものの、う…気持ちわるいな…グロくない?というシーンが徐々に増えていき…おいおいおいおい気持ち悪いぞ。おいおいおいおいおい。(ホラーじゃね?)手術シーンモザイクなしでばっちり見れるよって人は大丈夫だと思う。それ以外の方は気持ち悪いという感情がひたすら込みあがってくる映画だと思う。暴力シーンもすごい。もういいんじゃないかな…からの暴力。終わったかな…からの暴力。想像の5倍くらい暴力がのっかってくる。これを見た後は数日間、食欲どころじゃなくなるのでダイエットにどうぞ。
見終わって思ったのはいくらかの方が言っている「笑うセエルスマンに似てる」ですね。「世にも奇妙」とか「週刊ストーリーランド」とか「銭天堂」みたいなところで似たような話がたくさんありますよね。それです。使い方を守らないと主人公は墜ちますよっていう。よくある話ですが、ハリウッドがやるとガチすぎる。やりすぎやりすぎ。インパクトすごすぎ。度肝抜きすぎ。
最後はコメディかな…張り紙で乗り切ろうとするな。最後赤いやつ噴射するじゃん、そのあと観客役の方々みんなどうするの?シャワー室準備してあってもこの数のシャワーを準備してるわけないじゃん。おそらく口に入ってもいいアメリカンなお菓子によくあるイチゴ系の甘いシャワーなのかなあと思うんだけどベッタベタになるの想像してしまう。子供もいたし…そのあとどうしたんだろ。髪もベッタベタギッシギシにっちゃにちゃになるんじゃないかな…。個人的にそこが一番ホラー。
老いに逆らえない気持ちわかる。自分が思っているよりずっと衰えていく。
世代交代は潔くできたらいいね。過去の自分の道にすがるよりも、
今の自分が輝ける道をまた新しく歩んでほしいと思う。
どうでもいいけどスー役の子可愛すぎる。こんな子が近所に住んでたら特に何をするでもないけど気持ちは舞い上がっちゃうと思う。向かいのおっさんの気持ちはわかる。わかるけど意味なく訪問するな。通報するぞ。気持ちだけにとどめておけ。こういううざいおっさんみたいな役が対となって幅が出てさらにホラーを引き立てているんだろうと思う。
デミー・ムーアに感動
この映画を撮影したとき、デミー・ムーアはもう60代ですよね。まだまだきれいだしエアロビクスもすごく動けてます。
それもすごいですが、この映画に出てあの演技をしたのも更にすごいと感動しました。
女優魂ですね。
最後はまさかのスプラッターで笑えました。
本体も分身もどっちもばかだなぁと思ってみてしまうストーリーなので、ルッキズム批判や女性差別へのメッセージも十分伝わりました。
中盤以降見ていられない(いい意味)
きゃぁぁぁぁあ!!!!!
想像を遥かに超えたファンタジー
もう海老を食べたくも見たくもない
【もう海老を食べたくも見たくもない】
今作は観る年齢によっても印象が変わるが、体の変化や社会の中で自分の年齢とどう向き合っていくかというのは、国を超える人間の普遍的なテーマ。これをハリウッドを舞台に、思いっきりぶつけた今作に賞賛を送りたい。
つい引き込まれずにはいられないストーリー設定以上に観客を楽しませ、驚かせてくる。観終わった後のシンプルな感想は、「自分を大事にして、年齢に振り回されない人生を送りたい…」でも、どうしても見られる立場にいる人達に、その考えを無理やり押し付けることはできない。コラリー・ファルジャ監督のインタビューで印象的だったのは、「自分の体について自由に選択できるようになるべき」というメッセージ。別に整形するのがダメだとか、見た目にこだわることがダメだとか言っているわけではない。最後のハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにあるプレートの象徴的なシーンは、どんなに「血塗られた」名声も、きれいさっぱり忘れ去られ、それでも続いていく…というような強い皮肉も感じる。
今作は、かなり比喩的なサイレントシーンが魅力の一つだが、YouTubeでもプロップを作っている様子や、内臓、食べ物のシーン(トラウマ級)の撮影の様子が観れるので、ぜひこちらも一緒にチェックしてほしい。
終盤、監督替わったんか!
この映画、侮るなかれ。
全663件中、1~20件目を表示












