サブスタンスのレビュー・感想・評価
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自覚してエンタメ界に身を投じた者がルッキズム、性差別を批判する声に、喝。
オレの娘はダンサーにあこがれ、韓流アイドルを真似てダンスの練習をしている。オレからすると、韓流アイドルなんて、と思うわけだが、本人は(こちらから見る限りは)本気だ。
エンタメ界が存在する(というより、人が「美」に価値を求める、快楽を求める)以上、見た目(舞台や芸能人)の華やかさにあこがれるのは少なくともオレが生きている限りは変わらない。そしてどんなに見た目がよくっても、若いときはもてはやされても、自身で自分の価値を積み上げることが非常に困難な世界であることは、よくわかる。
オレからすると、応援する気持ちはあるものの、やめとけ、の話だが、オレが言う前に彼女の成長過程でエンタメ界の「価値観」が評価を下す。そして評価されたとしても、そこからはまたさらにその価値観の中で生きてくことになる。とオレが言うまでもなく、数えきれないほどの「イケメン男子」「美少女」の無念の上で成り立っている。逆に勝ち取った、とは外野からの勝手な評価でしかない。当たり前だが、勝者なんて、外野が決めることではない。
なんだが、娘語りから入ってしまったが、美しいもの、強いもの、に惹かれ、憧れるという「本能」、人間の「本質」でエンタメ界に限らず、人間社会が成り立っているという、当たり前の根本に対し、「ですよね」と映画オタクがその引き出しを総動員した、
「サブスタンス」
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とてもじゃないが、オレの価値観で「衰えている」とは思えないムーアのエアロからわかるように、プロデューサーのクビ宣言も、理不尽なのは、こちらの意見。力あるものの(理由は末端の人間には分からない」一声で人事は変わる。クエイドの食べ方は、「醜い」とかそういうことではなく、そもそもキレイな食べ方って何?という視点もある。ムーアのフランス料理教本からの料理がぐちゃぐちゃなのも、フランス料理のお上品って何?
ムーアのクローズアップの多投も、皺の醜さの強調ではなく、それすら「美しく」も見える。
クアリーのエアロは圧倒的な鍛錬の上に成り立ってあり、その健康的でもあり、セクシーに感じるのは、当たり前で、監督もそれを「皮肉」を包みつつも、やっぱりすごいよね、ですよね、というほど、エアロシーンがたびたび描かれる。(さすがにお尻から変な映像が出たといってスタッフが巨大な画面でクアリーのお尻に注目するのは笑った)
オレらの生活圏においては、ルッキズムが間違ったとらえ方で、学校や職場ではばかることは断固として忌み嫌う。
しかし、ことエンタメ界ではルッキズム批判はおかしな話。
演じたムーアも言っている。「私は決して被害者ではない」と。
本作は、ただそこに生涯をかけてしまった、自身の価値観をそこのみにしか置けなかった主人公の悲劇と、血しぶきの救済。
なかには、親から連れられてきたのか、自身で臨んで参加したのか、少女も洗礼を受ける。
ましてや、性差別なんかは描かれておらず、「薬」を紹介、利用したあの男も本能に忠実。一方、連絡先を水たまりに落としたメモを渡す、元同級生のあいつが一番ダメな奴。
(そんなメモを取っておいた)そんなダメな奴へのデートへの準備で奮闘する主人公の価値観はすでに狂ってしまっているのだが、笑えない人が多いと思うし、このシーンが「若いころ」のオレに刺さる。
終盤、自身の顔の写真を切り取り、鏡を前にする。ブルース・リーの「死亡遊戯」(’78)を思い出し、笑った。
「死亡遊戯」はリー死去のためで苦肉の策だが、本作においては、CGそして整形を茶化している。同じく、ムーアから見た目が別の、今風にアップデートされたクアリーが誕生するのも整形ブームへの茶化しなんだろうな。
若さと美の追求の行き着く先
若い後輩と一緒に写った写真を見た時
「あー歳をとったな…」と思ったり
20代の頃の自分の写真を見た時
「あの頃は肌艶も良くて、今より痩せてたな…」と思ったり
いつからか歳を重ねるのが嬉しくなくなり、若さと美しさを渇望する時間が長くなる。
きっと誰しも一度は美と若さを手に入れたいと思ったことがあるんじゃないかな。
私も絶賛見た目の老いに日々抗い中だ。
こんな私ですらそうなんだから、それが商品価値にもなってしまうエンタメ界では尚更、美と若さ=自分の価値に感じてしまうのもわからなくはない。
この映画は、そんなルッキズムに囚われる現代人に警告を鳴らすかのような劇薬作品だった。
グロテスクなシーンがとても多く、苦手な人にとっては目を瞑りたくなるシーンも多いけれど、命を弄ぶようなスプラッタホラーではない上に、魅せ方がとても上手なので不思議と見れる。
カメラワーク、音の使い方、色彩、サブスタンスのパッケージから説明書のフォントまで、細部まで監督のセンスが光っていて、世界観の統一が気持ち良い。
後半まではほぼセリフらしいセリフもなく、ひたすら主人公のエリザベスやスーの表情で物語が進むが、セリフがなくても痛いほど感情が伝わってくるのが秀逸。エリザベスの化粧のシーンなんて、気持ちが分かりすぎて後ろから抱きしめたくなった。
最初から最後まで全く飽きさせることなく、次の展開はどうなるんだとノンストップの140分で大満足。始まりのハリウッド ウォーク オブ フェイムからすでに「あ、好き」と思ったけれど、ラストがこれまた最高だった。
私が「サブスタンス」を手に入れたらどうするだろう…。
これからどんどん老いていく自分が、若さと美だけが価値にならないように、自分を愛せる部分をたくさんつくっていきたいなと思った。
お仕着せの価値観と行き過ぎた執着がもたらす地獄
デミ・ムーアのまさに体を張った狂気の演技に圧倒された。
名優はもちろん綺麗に撮られることより表現を優先するものではあるが、顔や背中の瑞々しさを失った肌を強調するカメラワークで撮られつつ若い女優と対比させる演出で演じるのは、女性としてはなかなか勇気のいることだ。
もっとも、そういった勇気を必要とする価値観や社会の風潮こそ本作の批判の対象なのだろう。だから私の「女優なのに体を張っててすごい」という稚拙な感想自体、コラリー・ファルジャ監督から見れば唾棄すべき古臭い価値観に毒されたものなのかもしれない。
とはいえ、マーガレット・クアリーが眩しすぎる。
かりそめの空疎な分身だが、若さを失った故に表舞台から退場させられたエリザベスにとってはあまりに蠱惑的な存在。クアリーが美しいからこそ、エリザベスがサブスタンスのルールを破り狂っていく気持ちもよくわかる。
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」のプッシーキャット、「哀れなるものたち」のフェリシティなど、短い出演時間でも印象深い少女の名残を感じる愛らしい顔立ちと完璧過ぎるスタイルが、あやかしのクスリで生まれたスーにぴったりだ。
デニス・クエイドの演じたハーヴェイ(……ワインスタイン?)とエリザベスの隣人、ハーヴェイが連れてきた白髪頭の株主たちは、若くて美しい女性しか人間扱いしないという有害な男性性の象徴として登場する。
ハーヴェイは吐き気がするほどドアップのカットで登場し、エビ料理を大袈裟なほど汚く食い散らかすなど、生理的嫌悪感を煽るかのようなデフォルメをほどこして描かれる。「女性は若く美しくあってこそ存在意義がある」というくだらない価値観はこういうレベルの奴らが押し付けてくる戯言ですよ、とでも言わんばかりだ。若さ偏重でエリザベスを切るお前自身も脂ぎったおっさんだろと思わず言いたくなるような、クエイドの怪演がいい。
冒頭のウォークオブフェイムを使ったエリザベスの状況説明は、簡潔ながら十分な情報があって上手いなと思わせる。その後も終始テンポがよく、展開から眼が離せない。
彼女の弱さゆえに事態が混沌としてゆく流れは想像通りだが、落とし所が予想出来なかった。まさかあんな状態になってあそこまでブシャーと撒き散らすとは……
ビジュアルのグロさと若さへの執着に負けた代償の恐ろしさに震え上がる一方で、笑える瞬間も結構多かった。
ハーヴェイの誇張された愚かしさもそうだし、騒音のクレームを入れに来た隣人の豹変具合、プロの職人並のDIY能力でバスルームにドアを設置するスー。声をかけてきた昔なじみ(多分本作唯一の善良な人間)に会いにいくのにド派手なおめかしをするエリザベス(この直後のデミの演技がすごい)、完全に老婆形態になったのにスーとやりあう時はめっちゃ素早いエリザベス(笑)。
モンストロと化したエリザベス&スーがショーの舞台に出る場面で「ツァラトゥストラはかく語りき」が流れた時には、2001年宇宙の旅かよ!と笑ってしまった。
この交響詩を作ったシュトラウスがインスピレーションを受けたニーチェの同名の著作に出てくる「超人」の概念は、既存の価値観に囚われず新たな価値を生み出す存在であり、人間が目指すべき姿として定義されている。
女性の体は2000年以上にわたり見る者の目によって形作られ、支配されてきたとファルジャ監督は言う。考えてみれば、そのように女性を縛ってきた古い概念の否定という本作のテーマと、この曲の由来はよく馴染むのではないだろうか。
私は変わっていない私のままだと、「モンストロエリザシュー」は叫ぶ。悲鳴をあげる客席の男女と同じ恐怖に見舞われながら、彼女の叫びに観客の自分までも試されているような気持ちになった。
最後に、崩れたモンストロからこぼれ落ちた異形の姿のエリザベスは、自分が賞賛され愛されていた頃の象徴であるウォークオブフェイムに辿り着き、ほっとした表情で息絶える。融解した彼女の痕跡はあっという間に干からび、翌日には一瞬でバキュームクリーナーに吸い取られ消えてしまう。
最後まで「他人が女性に望む理想の外見」に振り回された彼女の物語を、「こんな生き方はくだらない」と一蹴するような皮肉の効いたラスト。オープニングと同じシンプルな表現で、ピリッとした落とし方が小気味いい。
デミ・ムーアの執念が視覚効果を凌駕している
最先端の再生医療、サブスタンスの力を借りて、若々しく生まれ変わろうとしたベテラン女優のエリザベスが辿る、再生と崩壊のカタストロフ。この映画の肝は、エリザヘスがCGIで若返るのではなく、上位交換によって全く異なる個体であるスーとなって、エリザベスの背中を破って出現するところ。さらに、両者はそれぞれのコンディションを維持するために1週間毎に入れ替わらなければいけない点にある。このアイディアは確かに斬新で、従来の若返りに関する映画とは一味違う。
スーがルールを破ったことで両者の肉体に訪れる衝撃的な出来事は、視覚的には『遊星からの物体X』('82年)だったり、デヴィッド・クローネンバーグだったり、または『キャリー』('76年)だったりする。しかし、エリザベスを演じるデミ・ムーアの肉体が、特殊メイクや人形を用いてほぼ別物に変化した後も、よく見ると、依然としてデミ・ムーアであり続けるところが凄い。そこに、メイク担当の気配りと言うか、エリザベスの苦闘に自身のストーリーを重ねつつ演じたであろうデミの執念を感じるのだ。
個人的には、ハリウッドで整形美容の是非論が取り沙汰された1990年代初頭に製作された『永遠に美しく・・・』('92年)に近いと思うが、映画のテーマをやはり当時としては最先端の特撮技術と笑いによって具現化した『永遠~』とは異なり、女性に向けられる性差別、年齢差別、ルッキズムの問題が過酷な分、本作が発するメッセージはシリアスで強烈だ。さて、『サブスタンス』も『永遠~』と同じくカルトムービーとして生き残り続けるだろうか?
“本質(substance)=内なるモンスター”を解き放ったファルジャ監督
外国映画の原題がシンプルな1ワードのみの場合、往々にしてダブルミーニングとなっている(米元副大統領チェイニーを題材にした「Vice」に「副」と「悪徳」の意味が重ねられていたように)。本作「サブスタンス」(The Substance)において、第一義は新たな自分を生み出す「物質」を指すが、substanceには「本質」の意味もある。フランス人女性監督のコラリー・ファルジャはあるインタビューで、「女性は若く美しくあるべき」という旧来の考え方に基づき隠すよう教え込まれてきた「老いつつある不完全な自分の一部」が自身に内在する“モンスター”であり、解き放たれたモンスターが女性の肉体を破壊し戯れることで、女性たちを抑圧し束縛してきたものを吹き飛ばしたかった、といった趣旨を語っていた。破壊されるべき醜い怪物とは、他者に美しさを求める身勝手な欲望=人間の本質そのものだ、とも読み取れる。
ファルジャ監督は2017年に「REVENGE リベンジ」で長編デビューした後のインタビューで、自作にオマージュや引用が少ないのは観客の没入を妨げるからだ、とも語っていた。だがこの第2作「サブスタンス」では考えを改めたのか、わかりやすい引用や参照に満ちている。特殊な手段で永遠の若さを手に入れようとする筋は、オスカー・ワイルド原作「ドリアン・グレイの肖像」(映画化・ドラマ化ともに複数回)やロバート・ゼメキス監督作「永遠に美しく…」。ボディホラーの要素はジョン・カーペンター監督作「遊星からの物体X」、デヴィッド・クローネンバーグ監督作「ザ・フライ」、ブライアン・ユズナ監督作「ソサエティー」など。スタンリー・キューブリック監督作からは、「2001年宇宙の旅」の光の回廊に似た視覚効果と交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」のBGM、「シャイニング」のシンメトリー構図やインテリアの配色。大量の血しぶきは「シャイニング」に加え、ブライアン・デ・パルマ監督作「キャリー」も想起させる(ちなみにこの2作はスティーヴン・キング原作という共通点も)。
20世紀の巨匠たちが手がけた傑作群への言及を散りばめつつ、表層的なマッシュアップで終わらせず、自身の実体験に根差したオリジナルなストーリーに消化/昇華させた点がファルジャ監督の偉業であり、「サブスタンス」が私たちの心を揺さぶる理由でもある。自身のキャリアに重なるような落ち目の元大スター役を引き受けたデミ・ムーアと、完璧な肉体を表現するため人工の乳房を装着したマーガレット・クアリー、2人の熱演に依る部分ももちろん大きい。過激な表現とブラックユーモアをまといながらも、女性の真の解放とは何かを問いかける力作であり、ルッキズム的傾向を無自覚に持つ多くの観客は冷や水(と血しぶき)を浴びせられたように感じるはずだ。
ある種の中毒性を持った最高の劇薬
これはもう破壊力満点。かなり重いパンチを腹に決められた気分だ。ファルジャ監督の『リベンジ』もぶっ飛んだバイオレンス・アクションだったが、今回はさらに壁をぶち破り未曾有のゾーンに突入した超怪作と言っていい。「substance」は「薬物」や「実体」などの意味を持つが、なるほど、本作は若さを求めて薬品に手を伸ばす欲望の暴走劇でありながら、真っ二つに引き裂かれていく壮絶なアイデンティティのドラマでもあるわけだ。ある意味、悪魔の契約。大人のファンタジー。大量の血糊と特殊メイクを伴う作品ゆえ、この手のジャンルが苦手な人はくれぐれも注意願いたいが、しかしある程度の描写なら許容可能な人ならば、過激さが振り切れ、もはや歓喜にまで昇華する瞬間を何度も感じるはず。特に幾つかの名作映画すら思い起こさせる終盤は「やりやがったな!」と笑いが止まらなかった。全身全霊、体当たりで演じたムーア&クアリーを心から称えたい。
これは面白すぎだろ!
あのデミ・ムーアが見事に演じきった!素晴らしい👏
この映画の中で起こってる事は、昔から当たり前のように行われてきた事だし、今も尚続いている。個人の考えとしては別にそれがいい事とも悪い事とも思ってはいない。エンタメの世界では仕方がないことだと思う。
誰しも美しくありたい。出来ればそうでありたいと思う。ただそれに執着しすぎる事はないと思う。人間なのでいずれ体は衰える。歳もとれば限界もくる。それに抗うのはいい事かもしれないが、適度に上手く付き合う事も必要。
今年最高に恐い…いや、過去をふりかえってもトップクラスの恐さだが、ちゃんとメッセージもあり映画としてもいいし、終わり方まで最高🥺こんな最高な映画なんだから1人でも多くの人に映画館で観て欲しい👀🍿*゜ゴア描写苦手な人は自己責任で(笑)
「化粧や身だしなみの些細な差に執着することの馬鹿々々しさ」を識る視点
昭和演歌を聴くと男性の耳に心地よい女性のつぶやきのオンパレードである。自立した女性からしてみたら噴飯ものかもしれない。しかし、ある時代、一部の女性には真実でもあったろう。
女性は美しくあるもの。そうでないと取るに足らない。的な世界観も男性側の勝手な見方である。そんな評価軸を持っていない女性からしたら、同じく噴飯ものかもしれない。しかし、百貨店一階に陣取る化粧品ゾーンから窺えるように、この世界観はいつの時代も根底に居座っているような気もする。
実際に女性の幸せはその評価軸に則ってもいるようでもある。ゆえに無視はできないが、あまり囚われすぎないようにしたいところだが、その自制は難しい。
その「自制の難しさ」を最大限クローズアップさせてインパクトもマックスで教えてくれるのが本作だと思う。
分身の理屈とその組織のミステリーに深入りしていない点は、テーマを絞っていて好いが、分身と母体に意識の共有がない、というのが設定として腑に落ちない。完璧ボディのスーがまったくの他人なら、母体側になんのメリットがあるのか。
だから分身と母体が大喧嘩を始めたあたりから、なにか違うなと思った。血しぶき撒き散らしに至っては、やりすぎも甚だしい、と思った。ただ、最後に路面に戻ったときはやるなと思った。
個人的にはもう少し哲学的なテーマで締めて欲しかったが、このインパクトあってこその本作なのかもしれない。
クローネンバーグ系の映像は卒業したと自認している私には、映像よりも、製作側の持って行き方に「あっけらかん」であったが。
事の顛末から振り返ってみれば降板されたエリザベスも美人である。総括すると、美醜は4段階がある。完璧なスー・降板されたエリザベス・老女に落ちたエリザベス・化け物になったスー。
これほど差の大きい4段階をみせられると、化粧や身だしなみの些細な差に執着することの馬鹿々々しさがみえてくる。現実、その馬鹿々々しさから逃れられないかも知れないが、そう思える視点もあると知るだけで収穫だと思う。
この監督、好き!!!まさに「メメント・モリ」
C級ホラーとしか思えない。デミ・ムーアの正気を疑うレベル
トラウマ級の不必要なほどのグロテスクさ、それもタランティーノのような一種バカバカしい血糊ではなく、人間の暗黒面をこれでもかとほじくり返すような血飛沫にはほとほと辟易した。
まぁ血糊は良いとして、本当に嫌なものを観た、という印象が長く残る。
「嫌なもの」というのは、老い、特に女性の老いについてほじくり返していることだ。
もちろん人間の暗黒面を描くのも映画の一つの表現。しかしこれを、哀しみのうちに表すのか、あるいは偏執のうちに淫して表すのかで、観る者にとっては大きく印象が異なる。
人間、誰しも老いる。それは自然の摂理である。
老いを美化しようとも思わないが、殊更に老いへの憎しみや恐怖を掘り下げなくても、老いというものを表現できるはずだ。このシナリオにはそんな深みもアイロニーも哀しみもない。ひたすらの偏執である。
そして、デミ・ムーアがなぜこんな三流映画に出演したのか心から理解に苦しむ。いや、もちろん鑑賞する者として『ゴースト/ニューヨークの幻』の美しいイメージを壊されたくないというわけではないけれど、「女優が女優として生き、老いること」の一つの答えとしては、この作品はあまりに無惨でセンスがない。
演技が絶賛されたというが、そのあたりがおよそアングロサクソンと私たちの感性の違いかもしれない。
こんなものでゴールデングローブ賞で最優秀女優賞を獲り、オスカーでも『アノーラ』のマイキー・マディソンと最優秀女優賞を争ったなんて耳を疑う。『アノーラ』のほうが百倍も良い。
この作品の唯一の収穫は、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でマンソン一家のメンバー"プッシーキャット"を演じたマーガレット・クアリーを存分に観れたことくらいだ。
スーと心が入れ替わらないなら、エリザベスにメリットは何も無い。
そう思いましたね。
《凄い化け物》と《最高の美と若さ》を見せて頂きました。
タイトルにも書きましたが、美と若さに喝采を受けるのはスーの人格、
であってエリザベス(デミ・ムーア)は、スー(マーガレット・クアリー)
という最上級の美女の宿主になっただけです。
サブスタンスという名の詐欺にあったのと同じです。
元はと言えば、衰えた容姿(外見の美と若さ)に拘り、
それを手に入れられるという誘惑に乗せられたエリザベスが
愚かだった。
ハリウッドという女性の《若さと美》がなによりも重んじられる
世界に生きるスターの性(さが)なのでしょう。
それにしてもインパクトのある映画でした。
☆☆☆
キャスティングの勝利。
デミ・ムーア。
「素顔のままに」でも若さに執着する役でした。
55歳の今も、若さと美に執着する落ちぶれかけたスターに、ピッタリ。
(実際のデミ・ムーアは62歳、身体もお顔もかなりお綺麗です)
デミ・ムーア自体が、もう既に忘れ去られたスターだから、
この役柄にぴったりでした。
そして、
マーガレット・クアリーの抜擢。
いやぁ参りました。
美しさに両手を上げて喝采するしかありません。
こんな綺麗で魅力的な人がけっこう埋もれていたんですね。
そしてこの程度の美女がゴロゴロしてるのが、ハリウッドなのねー。
マーガレット・クアリーを見てると、
《若さと美貌》って、凄い武器。
みんな、へへーつと平伏すしか無い、と思った。
だから、結局、女の価値は《美と若さ》って思っちゃうから、
女性の価値を考える映画としては、逆効果かも知れない。
特殊メイクと200歳位の皺くちゃで、身体が歪んだ裸体。
200歳位の身体なのに、スーを追いかけて走ったり、
無理すぎる(笑)
「未知との遭遇」の音楽が高らかになったり、
「キャリー」を上回る血飛沫、
「エレファント・マン」そっくりの特殊メイクと、
お腹いっぱいに楽しませて頂きました。
【結論」
美と若さに対抗するものは、人間の内面。
思考する能力や知性。
歳を重ねて滲み出る優しさや慈しみ、思いやり。
(エリザベスには外見の美しか眼中になかったですね)
あっぱれデミ・ムーア
デミムーアとマーガレットクアリーの演技が最高!
痛かったし、怖かったし、疲れました。
絶世の美女デミ・ムーアの裸を堪能したいと思って本作の鑑賞を検討中の貴方、やめときなさい。
美しいヌード、おいしそうなおっぱいも登場しますが、その時間は僅かです。しかも若い時のデミ・ムーアとは違い、60歳を過ぎたおばちゃんのおっぱいです。お金払ってまで見る価値はありません。
ひたすら、痛く、怖く、グロテスクな、B級ホラー映画です。「キャリー」(1976年 米映画)のように、最後は皆が豚の血をたっぷりと浴びて終わります。男の馬鹿さ加減をこれでもかと見せつけられます。
意外だったのは、観客は自分みたいなエロオヤジばかりを予想していましたが、中年以降の女性が半分くらいおられたことです。
エロい、グロい、女性客多い。
スーを演じるマーガレット・クアリーのボディーは完璧。
そんな彼女のレオタード姿を舐めるようなアングルでこれでもかと映し出す。「君たちはこれが観たかったんでしょう」と心の中を見透かされているようで逆に引いてしまった。
(監督は女性)
レオタードだけでなく全裸姿もふんだんにある(何でいちいち脱ぐの、嬉しい)
スーだけでなく主演であるデミ・ムーアの全裸シーンも豊富なのだが、残酷なまでに老若の違いが出ている。
自由奔放で自己中心的なスーを忌み嫌いながらも、その若く美しい肢体を愛おしく想うエリザベス、悲しい(you are one)
映画に登場する男どもは下劣で嫌らしく描かれている。エンタメ業界の男たちと言うより男全般を指しているのだろう。
そしてクライマックス、絶世の美女も一皮むけば・・・
男も女も同じだという事か、
物語はハッピーエンドで終わります。デミ・ムーアの笑顔に癒されます。
めでたし・めでたし (*^_^*)
強烈な映画でした。 上映終了後、出口に向かっていく周りの観客たちの...
強烈な映画でした。
上映終了後、出口に向かっていく周りの観客たちの表情が、
まるでとんでもない体験をしたかのように固まっていたのが印象的だった。
何が強烈って、
まずは視覚的効果。
血やグロテスクな肉がこれでもかと出てくるので、苦手な人は注意。
暴力的なシーンも、怒りの剣幕がものすごく生々しくて、観ている方も戦慄する。
ここまでやる映画は最近はあまり出てないんじゃないでしょうか...?
そして、もう1つ強烈なのが、
スクリーンを通して伝わってくる主人公の嘆きと、破滅していく様子。
自己嫌悪、孤独感、過去への未練、未来への不安、
そういうものに押しつぶされていく主人公が、
見ていて本当に心傷められた...。
ただのグロいヤバい映画ではありません。
他人事ではない感情に、強力に訴えかける力がこの作品にはある。
自分自身にコンプレックスがあり、でも本当は大切にしたい。そんな人に観てほしい。
今年サイコーが出ました
いや度肝抜かれました😱
何となく既視感あります。
「ザ・フライ」「遊星からの物体X」
ラストは「エレファントマン」❓
それでも、
「そう来たか❗️」の連続で、
直近で観た「MIFR」より
手に汗握って笑って観られました。
オレって根性悪いのかな❓🤣
どこで禁忌を犯すのかと思ったら、
早々にやっちゃうのは人間の性。
重ねるタブーにストレスも加わって、
止まらなくなるのは薬物と同じか。
そもそも「老い」へのアンチテーゼがメインだが、
老い行く自分への価値は、
メディアでの露出度でしか測れないエリザベスは、
元々美貌を売りにする仕事だからなのか。
あの医師も、
上位互換で生まれた“自分”の
仲間が欲しかったのだろうか。
長塚京三の「敵」では、
それは具体的には描かれてなかったが、
老いを恐れる人間の愚かさは
誰にも笑えない。
誰でも老いるのだから。
ラスト「エレファントマン」と例えたが、
あそこまではリアルで考えにくいが、
障害と捉えると、
それは誰でも有り得る。
なので笑えない事態ではある。
それを笑って観てられるのは、
映画だからであって、
恐れる事はない。
しかしエリザベスの「第3形態」は
もっとベイビー的なのが出て来るかと思ったが😅
デミムーア、50歳て無理やろ🤣
もう一回しかしだが、
オスカー作品、
何故これじゃなくて「アノーラ」だったのか❓
絶対コッチだって‼️
だから「MIFR」は長過ぎて観れない人も、
こっちは絶対観て❗️
あ、こっちも結構長いわ🤣
あなたはひとり
いやぁ、凄かった。強烈。
これでもかと今のルッキズムを痛烈に皮肉った映画。
何度もカメラに映される「みんなあなたを好きになる」というキャッチコピーは、世界中があなたを好きになってもあなたが自分自身を好きになれなければ何も変わらないよという裏返し。
その言葉通りに、美しいものだけを追い求め醜さを忌避する主人公のふたり(いや、ひとりか)は、絶対的ルールを軽々と破って身を滅ぼしていく。
このあたりのお約束的展開は「笑ゥせぇるすまん」を思い出した。
さらにこの映画で特徴的なのが、本体を殺してしまったあとの悲劇をこれでもかと鮮烈に描いていくところ。
その描写がスプラッターなのはこの監督らしさで、おまえの求める美意識はこれくらい醜いんだよ!と叫んでいるようだった。目を背けてもまだ終わらないからな!殴っても殴ってもまたすぐにおまえの美意識は顔を出してくるだろ!だから徹底的にやって分からせないとな!と言う監督の声が聞こえてくるような終盤のラッシュ。ここまでやってくれると痛快で思わず笑える!
監督のこういうところが好き!スタイリッシュに描いて、「現代のルッキズムをシニカルに描いた〜」みたいな枠から敢えて出ていくような姿勢。もうスプラッターホラーじゃん!と観客をギャフンと言わせたいという意思を感じられて、良い。
SNSに蔓延るすべての美容垢、整形垢の人たちに観てもらいたい傑作。
全428件中、1~20件目を表示
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