サブスタンスのレビュー・感想・評価
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自覚してエンタメ界に身を投じた者がルッキズム、性差別を批判する声に、喝。
オレの娘はダンサーにあこがれ、韓流アイドルを真似てダンスの練習をしている。オレからすると、韓流アイドルなんて、と思うわけだが、本人は(こちらから見る限りは)本気だ。
エンタメ界が存在する(というより、人が「美」に価値を求める、快楽を求める)以上、見た目(舞台や芸能人)の華やかさにあこがれるのは少なくともオレが生きている限りは変わらない。そしてどんなに見た目がよくっても、若いときはもてはやされても、自身で自分の価値を積み上げることが非常に困難な世界であることは、よくわかる。
オレからすると、応援する気持ちはあるものの、やめとけ、の話だが、オレが言う前に彼女の成長過程でエンタメ界の「価値観」が評価を下す。そして評価されたとしても、そこからはまたさらにその価値観の中で生きてくことになる。とオレが言うまでもなく、数えきれないほどの「イケメン男子」「美少女」の無念の上で成り立っている。逆に勝ち取った、とは外野からの勝手な評価でしかない。当たり前だが、勝者なんて、外野が決めることではない。
なんだが、娘語りから入ってしまったが、美しいもの、強いもの、に惹かれ、憧れるという「本能」、人間の「本質」でエンタメ界に限らず、人間社会が成り立っているという、当たり前の根本に対し、「ですよね」と映画オタクがその引き出しを総動員した、
「サブスタンス」
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とてもじゃないが、オレの価値観で「衰えている」とは思えないムーアのエアロからわかるように、プロデューサーのクビ宣言も、理不尽なのは、こちらの意見。力あるものの(理由は末端の人間には分からない」一声で人事は変わる。クエイドの食べ方は、「醜い」とかそういうことではなく、そもそもキレイな食べ方って何?という視点もある。ムーアのフランス料理教本からの料理がぐちゃぐちゃなのも、フランス料理のお上品って何?
ムーアのクローズアップの多投も、皺の醜さの強調ではなく、それすら「美しく」も見える。
クアリーのエアロは圧倒的な鍛錬の上に成り立ってあり、その健康的でもあり、セクシーに感じるのは、当たり前で、監督もそれを「皮肉」を包みつつも、やっぱりすごいよね、ですよね、というほど、エアロシーンがたびたび描かれる。(さすがにお尻から変な映像が出たといってスタッフが巨大な画面でクアリーのお尻に注目するのは笑った)
オレらの生活圏においては、ルッキズムが間違ったとらえ方で、学校や職場ではばかることは断固として忌み嫌う。
しかし、ことエンタメ界ではルッキズム批判はおかしな話。
演じたムーアも言っている。「私は決して被害者ではない」と。
本作は、ただそこに生涯をかけてしまった、自身の価値観をそこのみにしか置けなかった主人公の悲劇と、血しぶきの救済。
なかには、親から連れられてきたのか、自身で臨んで参加したのか、少女も洗礼を受ける。
ましてや、性差別なんかは描かれておらず、「薬」を紹介、利用したあの男も本能に忠実。一方、連絡先を水たまりに落としたメモを渡す、元同級生のあいつが一番ダメな奴。
(そんなメモを取っておいた)そんなダメな奴へのデートへの準備で奮闘する主人公の価値観はすでに狂ってしまっているのだが、笑えない人が多いと思うし、このシーンが「若いころ」のオレに刺さる。
終盤、自身の顔の写真を切り取り、鏡を前にする。ブルース・リーの「死亡遊戯」(’78)を思い出し、笑った。
「死亡遊戯」はリー死去のためで苦肉の策だが、本作においては、CGそして整形を茶化している。同じく、ムーアから見た目が別の、今風にアップデートされたクアリーが誕生するのも整形ブームへの茶化しなんだろうな。
若さと美の追求の行き着く先
若い後輩と一緒に写った写真を見た時
「あー歳をとったな…」と思ったり
20代の頃の自分の写真を見た時
「あの頃は肌艶も良くて、今より痩せてたな…」と思ったり
いつからか歳を重ねるのが嬉しくなくなり、若さと美しさを渇望する時間が長くなる。
きっと誰しも一度は美と若さを手に入れたいと思ったことがあるんじゃないかな。
私も絶賛見た目の老いに日々抗い中だ。
こんな私ですらそうなんだから、それが商品価値にもなってしまうエンタメ界では尚更、美と若さ=自分の価値に感じてしまうのもわからなくはない。
この映画は、そんなルッキズムに囚われる現代人に警告を鳴らすかのような劇薬作品だった。
グロテスクなシーンがとても多く、苦手な人にとっては目を瞑りたくなるシーンも多いけれど、命を弄ぶようなスプラッタホラーではない上に、魅せ方がとても上手なので不思議と見れる。
カメラワーク、音の使い方、色彩、サブスタンスのパッケージから説明書のフォントまで、細部まで監督のセンスが光っていて、世界観の統一が気持ち良い。
後半まではほぼセリフらしいセリフもなく、ひたすら主人公のエリザベスやスーの表情で物語が進むが、セリフがなくても痛いほど感情が伝わってくるのが秀逸。エリザベスの化粧のシーンなんて、気持ちが分かりすぎて後ろから抱きしめたくなった。
最初から最後まで全く飽きさせることなく、次の展開はどうなるんだとノンストップの140分で大満足。始まりのハリウッド ウォーク オブ フェイムからすでに「あ、好き」と思ったけれど、ラストがこれまた最高だった。
私が「サブスタンス」を手に入れたらどうするだろう…。
これからどんどん老いていく自分が、若さと美だけが価値にならないように、自分を愛せる部分をたくさんつくっていきたいなと思った。
お仕着せの価値観と行き過ぎた執着がもたらす地獄
デミ・ムーアのまさに体を張った狂気の演技に圧倒された。
名優はもちろん綺麗に撮られることより表現を優先するものではあるが、顔や背中の瑞々しさを失った肌を強調するカメラワークで撮られつつ若い女優と対比させる演出で演じるのは、女性としてはなかなか勇気のいることだ。
もっとも、そういった勇気を必要とする価値観や社会の風潮こそ本作の批判の対象なのだろう。だから私の「女優なのに体を張っててすごい」という稚拙な感想自体、コラリー・ファルジャ監督から見れば唾棄すべき古臭い価値観に毒されたものなのかもしれない。
とはいえ、マーガレット・クアリーが眩しすぎる。
かりそめの空疎な分身だが、若さを失った故に表舞台から退場させられたエリザベスにとってはあまりに蠱惑的な存在。クアリーが美しいからこそ、エリザベスがサブスタンスのルールを破り狂っていく気持ちもよくわかる。
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」のプッシーキャット、「哀れなるものたち」のフェリシティなど、短い出演時間でも印象深い少女の名残を感じる愛らしい顔立ちと完璧過ぎるスタイルが、あやかしのクスリで生まれたスーにぴったりだ。
デニス・クエイドの演じたハーヴェイ(……ワインスタイン?)とエリザベスの隣人、ハーヴェイが連れてきた白髪頭の株主たちは、若くて美しい女性しか人間扱いしないという有害な男性性の象徴として登場する。
ハーヴェイは吐き気がするほどドアップのカットで登場し、エビ料理を大袈裟なほど汚く食い散らかすなど、生理的嫌悪感を煽るかのようなデフォルメをほどこして描かれる。「女性は若く美しくあってこそ存在意義がある」というくだらない価値観はこういうレベルの奴らが押し付けてくる戯言ですよ、とでも言わんばかりだ。若さ偏重でエリザベスを切るお前自身も脂ぎったおっさんだろと思わず言いたくなるような、クエイドの怪演がいい。
冒頭のウォークオブフェイムを使ったエリザベスの状況説明は、簡潔ながら十分な情報があって上手いなと思わせる。その後も終始テンポがよく、展開から眼が離せない。
彼女の弱さゆえに事態が混沌としてゆく流れは想像通りだが、落とし所が予想出来なかった。まさかあんな状態になってあそこまでブシャーと撒き散らすとは……
ビジュアルのグロさと若さへの執着に負けた代償の恐ろしさに震え上がる一方で、笑える瞬間も結構多かった。
ハーヴェイの誇張された愚かしさもそうだし、騒音のクレームを入れに来た隣人の豹変具合、プロの職人並のDIY能力でバスルームにドアを設置するスー。声をかけてきた昔なじみ(多分本作唯一の善良な人間)に会いにいくのにド派手なおめかしをするエリザベス(この直後のデミの演技がすごい)、完全に老婆形態になったのにスーとやりあう時はめっちゃ素早いエリザベス(笑)。
モンストロと化したエリザベス&スーがショーの舞台に出る場面で「ツァラトゥストラはかく語りき」が流れた時には、2001年宇宙の旅かよ!と笑ってしまった。
この交響詩を作ったシュトラウスがインスピレーションを受けたニーチェの同名の著作に出てくる「超人」の概念は、既存の価値観に囚われず新たな価値を生み出す存在であり、人間が目指すべき姿として定義されている。
女性の体は2000年以上にわたり見る者の目によって形作られ、支配されてきたとファルジャ監督は言う。考えてみれば、そのように女性を縛ってきた古い概念の否定という本作のテーマと、この曲の由来はよく馴染むのではないだろうか。
私は変わっていない私のままだと、「モンストロエリザシュー」は叫ぶ。悲鳴をあげる客席の男女と同じ恐怖に見舞われながら、彼女の叫びに観客の自分までも試されているような気持ちになった。
最後に、崩れたモンストロからこぼれ落ちた異形の姿のエリザベスは、自分が賞賛され愛されていた頃の象徴であるウォークオブフェイムに辿り着き、ほっとした表情で息絶える。融解した彼女の痕跡はあっという間に干からび、翌日には一瞬でバキュームクリーナーに吸い取られ消えてしまう。
最後まで「他人が女性に望む理想の外見」に振り回された彼女の物語を、「こんな生き方はくだらない」と一蹴するような皮肉の効いたラスト。オープニングと同じシンプルな表現で、ピリッとした落とし方が小気味いい。
デミ・ムーアの執念が視覚効果を凌駕している
最先端の再生医療、サブスタンスの力を借りて、若々しく生まれ変わろうとしたベテラン女優のエリザベスが辿る、再生と崩壊のカタストロフ。この映画の肝は、エリザヘスがCGIで若返るのではなく、上位交換によって全く異なる個体であるスーとなって、エリザベスの背中を破って出現するところ。さらに、両者はそれぞれのコンディションを維持するために1週間毎に入れ替わらなければいけない点にある。このアイディアは確かに斬新で、従来の若返りに関する映画とは一味違う。
スーがルールを破ったことで両者の肉体に訪れる衝撃的な出来事は、視覚的には『遊星からの物体X』('82年)だったり、デヴィッド・クローネンバーグだったり、または『キャリー』('76年)だったりする。しかし、エリザベスを演じるデミ・ムーアの肉体が、特殊メイクや人形を用いてほぼ別物に変化した後も、よく見ると、依然としてデミ・ムーアであり続けるところが凄い。そこに、メイク担当の気配りと言うか、エリザベスの苦闘に自身のストーリーを重ねつつ演じたであろうデミの執念を感じるのだ。
個人的には、ハリウッドで整形美容の是非論が取り沙汰された1990年代初頭に製作された『永遠に美しく・・・』('92年)に近いと思うが、映画のテーマをやはり当時としては最先端の特撮技術と笑いによって具現化した『永遠~』とは異なり、女性に向けられる性差別、年齢差別、ルッキズムの問題が過酷な分、本作が発するメッセージはシリアスで強烈だ。さて、『サブスタンス』も『永遠~』と同じくカルトムービーとして生き残り続けるだろうか?
“本質(substance)=内なるモンスター”を解き放ったファルジャ監督
外国映画の原題がシンプルな1ワードのみの場合、往々にしてダブルミーニングとなっている(米元副大統領チェイニーを題材にした「Vice」に「副」と「悪徳」の意味が重ねられていたように)。本作「サブスタンス」(The Substance)において、第一義は新たな自分を生み出す「物質」を指すが、substanceには「本質」の意味もある。フランス人女性監督のコラリー・ファルジャはあるインタビューで、「女性は若く美しくあるべき」という旧来の考え方に基づき隠すよう教え込まれてきた「老いつつある不完全な自分の一部」が自身に内在する“モンスター”であり、解き放たれたモンスターが女性の肉体を破壊し戯れることで、女性たちを抑圧し束縛してきたものを吹き飛ばしたかった、といった趣旨を語っていた。破壊されるべき醜い怪物とは、他者に美しさを求める身勝手な欲望=人間の本質そのものだ、とも読み取れる。
ファルジャ監督は2017年に「REVENGE リベンジ」で長編デビューした後のインタビューで、自作にオマージュや引用が少ないのは観客の没入を妨げるからだ、とも語っていた。だがこの第2作「サブスタンス」では考えを改めたのか、わかりやすい引用や参照に満ちている。特殊な手段で永遠の若さを手に入れようとする筋は、オスカー・ワイルド原作「ドリアン・グレイの肖像」(映画化・ドラマ化ともに複数回)やロバート・ゼメキス監督作「永遠に美しく…」。ボディホラーの要素はジョン・カーペンター監督作「遊星からの物体X」、デヴィッド・クローネンバーグ監督作「ザ・フライ」、ブライアン・ユズナ監督作「ソサエティー」など。スタンリー・キューブリック監督作からは、「2001年宇宙の旅」の光の回廊に似た視覚効果と交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」のBGM、「シャイニング」のシンメトリー構図やインテリアの配色。大量の血しぶきは「シャイニング」に加え、ブライアン・デ・パルマ監督作「キャリー」も想起させる(ちなみにこの2作はスティーヴン・キング原作という共通点も)。
20世紀の巨匠たちが手がけた傑作群への言及を散りばめつつ、表層的なマッシュアップで終わらせず、自身の実体験に根差したオリジナルなストーリーに消化/昇華させた点がファルジャ監督の偉業であり、「サブスタンス」が私たちの心を揺さぶる理由でもある。自身のキャリアに重なるような落ち目の元大スター役を引き受けたデミ・ムーアと、完璧な肉体を表現するため人工の乳房を装着したマーガレット・クアリー、2人の熱演に依る部分ももちろん大きい。過激な表現とブラックユーモアをまといながらも、女性の真の解放とは何かを問いかける力作であり、ルッキズム的傾向を無自覚に持つ多くの観客は冷や水(と血しぶき)を浴びせられたように感じるはずだ。
ある種の中毒性を持った最高の劇薬
これはもう破壊力満点。かなり重いパンチを腹に決められた気分だ。ファルジャ監督の『リベンジ』もぶっ飛んだバイオレンス・アクションだったが、今回はさらに壁をぶち破り未曾有のゾーンに突入した超怪作と言っていい。「substance」は「薬物」や「実体」などの意味を持つが、なるほど、本作は若さを求めて薬品に手を伸ばす欲望の暴走劇でありながら、真っ二つに引き裂かれていく壮絶なアイデンティティのドラマでもあるわけだ。ある意味、悪魔の契約。大人のファンタジー。大量の血糊と特殊メイクを伴う作品ゆえ、この手のジャンルが苦手な人はくれぐれも注意願いたいが、しかしある程度の描写なら許容可能な人ならば、過激さが振り切れ、もはや歓喜にまで昇華する瞬間を何度も感じるはず。特に幾つかの名作映画すら思い起こさせる終盤は「やりやがったな!」と笑いが止まらなかった。全身全霊、体当たりで演じたムーア&クアリーを心から称えたい。
これはひどい
終わった後でいろいろ考えちゃう映画
映画館で見逃したのがAmazonプライムビデオで配信になったので楽しみに見ました。
先に観た知人(50代男性)に感想を聞いたところ
「十分に美しい女性が悩んでいるところとか、まったく共感できなかった」と言っていたので
男性と女性、見た人の年代によっても大きく受け止め方が変わるのかな?と。
あそこまで露骨に言うデリカシーの無い馬鹿男は周りにはいないけど
50代後半の私自身は、主人公の焦りや痛み、鏡を見た時に「こんなじゃなかったはずなのに」とがっかりする気持ちは共感できる。
実際周りにも美容医療に手を出している人もいるし
差異はあっても皆だれしも、こういう気持ちはちょっとわかるのでは。
自分がどうやって、老いや変化と折り合いをつけているか、映画を観た後で自分自身をふりかえってずっと考えてしまいました。
デミムーアの若い頃を知ってると
スーに対して、おまえなんか到底太刀打ちできない純粋な可愛らしさと美しさがあったんだからね!と完全にエリザベスの味方になってしまう自分に笑う。
細胞分裂して作られたのにしては、スーはエリザベスに全く似てないタイプの顔で
記憶の共有も無いわけだから、そりゃあ自分自身と思えって言われても無理でしょー
せめて若い頃の自分にそっくりならなあ~と思ったのだけど。
スーがルールを破って、新たな再生を試みるところから
ラストまでの展開は面白かったんだけど(ちょっと長かったけど)
あそこまで怪物だと逆にリアリティが無くて、もうすこし人間らしく不細工なレイアウトの化身ぐらいでもよかったのかも・・・
とはいえ、最後までドキドキしながら見れました。
デミ・ムーアすごいな
あそこまで自分の裸さらけ出せるとは。しかもスーのパーフェクトボディーとの対比で描かれてるし。「ゴースト ニューヨークの幻」を観た自分としては、う~ん、考え込んでしまった、もし今のデミちゃんだったら暴漢に殺されたパトリック・スウェイジはゴーストで復活したかな?一緒にロクロ回したかな?そのまま成仏してる可能性大。まあそれは置いといて、うん、今の自分に感謝して受け入れるのって大事よね。無いものねだりして、無いものばっかりに焦点あてた人生なんか楽しいわけないもんね。
喪黒福造🇫🇷ver.だが、後半はイマイチに感じた👩✨
伊藤潤二作品や喪黒福造にも通じるストーリーで、日本人にも馴染み易いと感じました。台詞が少なめで、画面作りに拘っていました。特に序盤は、ハイブランドの広告やコミックのコマ割りの様で、構図やコントラストが美しいと感じました。下衆な言葉を浴びせてくる男性達も、ヒロインや映画の美しさを引き立てていると感じました。背中がパックリ割れるシーンは、女性器を表していると思います。ピンクのフィットネス番組も、ドスケベ直球でセンスを感じました。これは凄い映画だと思ったのですが、後半は運用が上手く行かず、只管具合が悪く、メンタルも最悪で目立った動きは無く、単調に感じました。お互いの生存の為に連携を試みるとか、全く別の展開とか、もう少し何とかならなかったのかと思いました。ラストは往年の「ザ・フライ」の様で、喪黒福造ものの結末としてはまあそうなるんだろうけど、容赦無くて悪趣味に感じました。無難な終わり方よりは、インパクトがある方を選んだのかも知れませんが、鑑賞後の気分は悪いです。結論としては、導入部が異次元の完成度で、本当に凄かったです。
パーツが在るべき場所に収まっている
圧巻のデミムーア
俺たちのデミムーア
まだ子どもだった時「ゴースト」を観て
綺麗な人だと思った記憶があります。
デミムーア今でも綺麗ですよ!と言いたい気持ちと
観てはいけない物を観てしまった気持ちでいっぱい。
自分も年を取って、服が似合わなくなって来た、
シワが増えたなと思ってたところで観たので、
なんと切なく悲しい物語なのだろうかと
人事だと思えなかったけど、
この作品のおかげで美に執着せず、老いを受け入れる
覚悟が出来ました。
しかし人生長く生きてると、
若さ、美しさ、地位や名誉と執着する物が多過ぎて困る。
デミムーアの快演は見事だった。
人生今が一番素晴らしいと言うのを
これでもかと見せつけられました。
昔のスプラッター映画味もあって強烈なラストでした。
ギャグ…ですよね、これ
いやいや、デミは美しい!
映画館で観たかったのですが時間がなく、、、アマプラで観られて嬉しかった!いや~いくつになっても美しいデミムーア!でも美しいからこそ、心と身体の老いへのバランスが難しいのでしょうね、一般人でもそう思うことありますから、、、そんな時に、一緒に老いるパートナーや老いる自分を認めざるおえない存在である子供などがいたら、人間も動物であり、子孫を残して消えていくという現実を突きつけられ、そんな風に一生が終わって行くんだなと実感できるものではないでしょうか。美しさと醜さを観ながらいろいろと考えさせられました。と思っていたら思いもよらぬラストに、何だか振り切れた感があり、最終的にサッパリした映画になっていたような気がします。あと2回観ますw
美への依存症映画
デミ・ムーアの鬼気迫る演技がまず素晴らしい一作。
作中にはエリザベス演じるデミ・ムーアの裸が度々登場するのだがおそらく撮影時期的に60歳前後だろう、なのにも関わらずこれが想像以上に美しい。
なんだ本人が言うほど老いてもいないじゃないかと、なんならミスキャストまで一瞬頭をよぎるが、
ここで若い方担当のスーを演じるマーガレット・クアリーの美しいこと!
さっきまで全然気にすることないじゃんと思ったエリザベスの体が途端にたるんでみすぼらしく見えてくる。
主人公の異常な美への固執に、展開の妙により見事に納得させられた。
この美醜の差は、本作で偏執的なまでに取り扱われ、カメラが捉えるポイントである。
それは節くれ立った指先、大胆なドレスにより見せつけられる背中のシミ、首元の些細なたるみ。
エリザベス単体なら言うほどは気にならない、むしろ美しいじゃないかと感じさせるほどなのだが……
ここで対比としてスーを立たせるといかに衰えているかを残酷なまでに暴き立て、映えさせてしまう。
そして、この差がエリザベスの感じている世界だ。
自分一人だけの時は諦めて受け入れざるを得なかった老いが、
スーのせいで際立たせられてしまう。エリザベスでいることに耐えられなくなる。
だからこそもっとスーでいさせてくれと暴走を繰り返してしまうわけである。
美醜のコントラストを偏執的に撮ることでこの点に的確に説得力を持たせているのが、この作品のすごいところだと思う。
いくら化粧をしても納得出来ず、鏡の前で狂ったように顔を塗りたくる場面は、
美にすがり老いに追い詰められる女性の悲哀がこれでもかと詰め込まれた名シーンだ。
終盤の展開のすごさから、そこが取り沙汰されがちだが、
こういうひとつひとつの丁寧な精神的な追い詰め方こそ真骨頂に感じる作品だった。
『賞賛』という名の麻薬の依存症になった女性が、
一時の快楽の為に後先考えず行動し体をボロボロにさせていく、そんな映画。
グロいものを見たくなったときにお勧め。
好みが分かれるけど私はどハマリ
サイコーでした。ビジュアルもノリもグロさ加減もツボりました。口コミは賛否両論あるけど私は嫌いじゃない。デミ・ムーアが「劣化女優」を体当たりで表現。加齢に抗うオバサンが滑稽で痛々しく直視できない場面もあり、後半チープなモンスターになっちゃうけど、全体的にポップでキモさとユーモアのバランスが絶妙でした。エンディングは切なくて良かった。も一回みたいですね。
当然の帰結
全625件中、1~20件目を表示















