メガロポリスのレビュー・感想・評価
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古代と未来の融合に見る堕落と救済の寓話
21世紀、アメリカ共和国。腐敗した支配階級によって荒廃した大都市ニューローマを都市計画局局長で天才建築家のカエサル・カティリナ(アダム・ドライバー)は、自ら発明した新建材メガロンを利用した新都市構想“メガロポリス”を提唱して再建をめざす。一方、新市長フランクリン・キケロ(ジャンカルロ・エスポジート)は、直面するニューローマの財政難という課題を現実的に解決しようと、カジノ建設を計画しカエサルと真正面から対立する。
時代設定と情景描写は
バベルの塔を想起する
本作の時代設定と情景描写の視覚的表現は、過去と未来、古典と革新の緊張関係の中に存在している。現実のニューヨークの象徴的な建物(クライスラービルなど)と古典的なローマ建築の要素を融合させることで、人間の傲慢さと創造性の両面を視覚的に表現しているようだ。主人公カエサルがクライスラービルの最上階に位置するアールデコ様式のスタジオからニューローマを見下ろす描写は、創世記のバベルの塔の物語を想起させられる。
古代と未来の融合という情景描写でけでなく、彼らの対立が単純な善悪の二項対立ではなく、両者とも完全に潔白でも完全に邪悪でもない複雑な描写がなされている。また、その対立の根底にある哲学的対話へと注目を向けさせる。
一例を挙げれば、カエサルがより良い世界を創造する必要性を情熱的に主張するのに対して、キケロ市長が「すべてのユートピアはディストピアの可能性を内包している」と鋭く反論する場面は、この映画の核心に迫る瞬間でもある。また、カエサルの恋人でもあるキケロ市長の娘ジュリア(ナタリー・エマニュエル)が、ストア派哲学者マルクス・アウレリウスの言葉を引用して父親の主張を補強する場面は、神の啓示なき世界での哲学的知恵の限界を示しているようにも見えて印象に残る。
「メガロポリス」のメッセージは
「神なき救済の不可能性」か
コッポラ監督は、共和政ローマの政務官ルキウス・セルギウス・カティリナ(BC.108ごろ~62年)が国家転覆を計画した『カティリナの陰謀』に関する本を読んだのをきっかけに構想40年かけ自らプロデュースして作り上げた一大叙事詩。その壮大なスケールと野心にもかかわらず、人間中心のユートピア構築の限界を示す本作は、意図せずして「神なき救済の不可能性」という重要な神学的真理を例証しているとも言えるだろう。古代ローマ帝国と現代アメリカの重ね合わせは、人間の本質的な罪深さが時代を超えて変わらないことを示しているメッセージのようにも聞き取れる。
イメージの奔流
つまらなすぎ
まさに巨匠の作品
亡きエレノア夫人に寄せる思い
コッポラ監督が、経営していたソノマのワイナリーを整理してまで、製作に漕ぎつけた、近未来のアメリカを舞台にした映画ながら、難しいと思った。3点に要約できる。
まず、我々にはなじみが薄いローマ史の理解が必要、哲学者キケロと彼が執政官の間に起きたカティリナによる政権転覆事件。これが第一層。
第二に、ローマで起きたことが植民地としてのアメリカに持ち込まれる。「地獄の黙示録」の図式。植民地ニュー・ローマ(NYを思わせる)では、ローマの矛盾が拡大する、社会構造の分離・格差。ただし、重要な変更が。キケロは現実重視の市長に。主人公カティリナは、理想派の市・都市計画局長に、カエサル(シーザー)・カティリナとして(ただし、ローマ史では、キケロは、必ずしもカエサルと対立したわけではない)。これが第二層。
さらに、カエサルが新建築素材を見つけてノーベル賞を受けたり、衛星が地球に衝突したり、多くのエピソードが洪水のように出てくる。しかも、彼の叔父の資本家クラックス3世と、その出来の悪い息子をはじめ、さまざまな親族とその関係者も。特に、主人公の前の恋人ワオが、クラックス3世の妻に収まるが、これが、カエサルの新しい妻になるキケロの娘ジュリアと似ているんだな(髪型は違う)。この三層構造を一回で判れと言われても。
混沌としたストーリーの進む中、心に残るのは、主人公カエサルが亡くなった奥さんサニー・ホーム・カティリナに寄せる思い。コッポラ監督のエレノア夫人に対する愛情を反映しているのでは。それから、すべての人々に長い命、正義と教育を、というメッセージ(ただし、いまさら感あり)。
日本に対する好意の表明も。Japan Unitは、おそらくローマ風の競技場で行われた格闘技に関与したのか、グレコ・ローマン・スタイルのレスリングには見えなかったから。カタカナ書きのプラカードや、サヨナラのセリフも。
では、最初から知識を以って観たらよいかと言えば、映画を最後まで観るには、興味を持ち続ける必要があるので、難しいところ。
未来の古典文学
冒頭から荘厳な画面と、ニューローマという設定、
人々の服装や建物などの美術がとても魅力的で引き込まれる。
正直最初の方は自分の良く知るエンタメ作品と違う雰囲気で
どのモードで鑑賞すれば良いのか戸惑ってた。
時間を止める能力も自分も止まるのか?そのあと動けるみたいだけどビルから落ちないのは何で?規則が良く分からん!と
マーベル作品を観るような感覚が抜けていなかった。
しかし市長とカエサルが直接対立する都市の模型のシーンで少し見方が変わった。
何かリアリティが無いな、セリフも演劇調だしと思いつつ
とにかく謎に足場が不安定すぎるのが超気になってた。
お年寄りも多いからムダにハラハラ…
でもここでふと"これはニューローマの現状の不安定さを表現しているのか?"と深読みし始めた。
ならこれは表現主義的な映画という事だから、画面で見せられる事もリアリティというよりキャラの感情や立場を象徴している意図的な絵造りだし
キャラクターも何かを象徴しているから生身の人間ぽさは薄めなのか?
と、勝手にこの映画を観るモードがカチッと固定された感じがした。
(合ってるかは分からない…)
特に印象的だったのは
金持ちたちの豪華絢爛さを表現する結婚式のシーン。
戦車あり音楽ありで本当にすごかった。
あとカエサルと市長の娘がカップルになってから
事務所で都市計画を練る様子が楽しそうな感じ。
スタッフの女性をみんなで持ち上げてるのとか何してんのか全然分からないけど、何か面白い。
ストーリーの展開の意外性で感情を揺さぶるようなタイプの映画では無いけれど、
とにかく各シーンに監督のアイデアが詰め込まれていて
豪華な空間のシーンもあれば、シルエットでグラフィカルに見せるシーンもあれば、光がひたすら美しい情景…と
何千枚も絵画を観ている様な感覚。
それが新鮮で飽きずに終始楽しく観れた。
そして最後は未来を担っていく世代のために、
対話によって良い世界を作ろう!という前向きなメッセージ。
この一見ありきたりなテーマ、でもそれが出来ていない今の世界情勢を考えると、
コッポラが私財を投げ打って送り出したこの映画をしっかりと受け止めたいと思った。
監督は自分のイメージを、
A302 ワオおばさん、ってなんか語感が面白い
2025年公開
欧米人は栄華に憧れる。その最たるものが古代ローマ。
文明が極限まで熟した、しかしこれは最後の輝きを放ち滅亡へと向かう。
サテリコン/フェデリコ・フェリーニ
コッポラってまだご健在でしたんですね。
ローマという言葉を使ったのはおそらく最高の栄華という意味を
なぞらえたものだと思う。
その中で一族をどう未来永劫的なものにするか。
子どもにジェームズカーンみたいな奴や
アルパチーノみたいな奴が出てくるのはお約束か?
にしても最初は入った映画間違えたか?と思うくらい
テイストが古いように映る。
あーアダムドライバー出てきた。よかった間違えてないわ。
しかし彼の出演ですぐ見たい、と思うのはアカンのかな
テーマは重いが少なくとも面白くはない。
ローレンスフィッシュバーンが出ると締まるけど
なんとなくネオと絡んでる感あり。
しかし時を止めるのが武器になったことってあんの?
ワタシが寝てた時に活躍したの?
メガロンもそやね。
雄大な抒情詩的な物語は好きなので退屈はしませんでしたが。
感想もまとまりがないなあ(笑)
音楽は雄大だったですね。
60点
鑑賞 2025年7月2日 アップリンク京都
配給 松竹
おん年86歳にして未だ青春まっ只中にいる稀代の映画バカ フランシス•フォード•コッポラが未来に残す渾身のメッセージ
エンドロールが終わって腰を浮かせかけたとき、近くの席にいた70代半ばぐらいの恐らく夫婦連れの二人組の男性のほうが奥様とおぼしき女性に言った言葉が耳に入ってきました。「コッポラもこんな映画を作ってるようじゃ、もうダメだな」(女性のほうはそれに頷きもせず、聞き流してるだけの感じでしたが)。それを聞いて、まだラストシーンで流した涙が乾ききっていなかった私は心の中で悪態をついたのでした。「こら、爺ィ、わかったような口をきくんじゃねぇ」
人間、年取ってくると、したり顔でわかったような口をききたくなるものです(と、自戒の念を込めて日頃の言動を反省しております)。でも、コッポラはこの物語を語るにあたってわかったような口をきくことなどいっさいありません。老人特有の分別臭さなど微塵も見せずに、未来を、夢を、理想を熱く語ります。このあたりが、比較して申し訳ないのですが、同じくアメリカについて語りながらも、したり顔でわかったような口をきいてる風の『シビル•ウォー アメリカ最後の日』とは大きく異なるところです。この『メガロポリス』のほうに作り手側の志の高さをより強く感じます。
物語はニューヨークをモデルにしたと思われる近未来都市 ニューローマ(英語の発音に近いカタカナ表記はニューロウムなんでしょうけど)を舞台に展開します。主人公はメガロンという新素材を開発したことによりノーベル賞を獲った天才建築家のカエサル•カティリナ(演: アダム•ドライバー)。この名前は古代ローマ史上の人物ふたりの名前の組み合わせですね。他にもキケロやらクラッススやら、古代ローマゆかりの人名が出てきます。私も以前は公共貸本屋(またの名を図書館という)を利用して塩野七生のローマ人の物語なんぞを読んだこともあったのですが、通しで読んだわけでもなし、何よりも忘却の彼方でローマ史なんてあやふやそのものです。この物語のストーリーを理解するのにローマ史の知識はあったほうがいいかと訊かれたら、まああったほうがいいかもしれないけど、どっちでもいいんじゃないという答えになると思います。そもそもこの物語が史実に沿って進むわけではないし、これを観た西洋人のなかでも古代ローマの歴史にとことん詳しい人などほんの一握りでしようから。
でも、やっぱり、前半部分のストーリー展開はわかりにくいです。出来の悪いバットマン映画でゴッサム•シティの偉いさんたちが権力争いをしてるみたいな図なのですが、コッポラ監督がいろいろなシーンを挿入してきてさらにわかりづらくさせています(それでも評価は下げませんが)。まあでもこのあたりの擬古典調の絵作りには妙に心惹かれるものがありました(特に結婚式のアトラクションのあたり)。
次に、ストーリー展開にはあってもなくてもまったく影響のなかったカエサルの特殊能力について。カエサルが気合いを込めて「時よ、止まれ!」っていうと本当にこの世界の時が止まってしまって、ゆびをぱちんと鳴らすと元にもどって世界が動き出すという…… その昔、スーパージェッターという漫画で、30世紀の未来から時の流れをこえてやってきた少年がいて、彼はタイム•ストッパーという道具を使い……長くなるので以下略
このカエサルの特殊能力ですが、よく考えてみるとなかなか奥が深いです。コッポラは映画という形式で表現活動をしているわけですが、この映画や演劇、音楽、文学などの「時間芸術」では時間をコントロールしています。例えば、約2時間の長篇映画で百年にわたる物語を表現することもあれば、一晩の出来事を表現することもあります。これに対して、絵画、彫刻、建築などの「空間芸術」では静的な状態で空間を使って表現します(絵画や写真の場合は二次元ですが)。例えに写真を使うとわかりやすいと思いますが、移ろいゆく時間の一瞬を切り取って表現しています。そう、空間芸術の芸術家は時を止めることができるのです。カエサルは建築家です。物語の中の彼の時を止める能力は芸術活動のメタファーだと思います。ということで、このカエサルの特殊能力はコッポラの芸術家としての矜持と芸術の可能性は無限にあるのだよということを伝えたかったのではないかと思った次第です。
それにしてもコッポラさん、伝えたい思いが溢れてるみたいで交通整理ができてない感じでストーリーが大渋滞しておりました(それでも評価は下げませんが)。
そして、未来に残したいメッセージ。みんな、この宇宙船地球号に乗り合わせた仲間なんだから、分断を乗り越えて対話して手を携えて未来に向かって前進してゆこうよ、みたいな感じで、まるで青春まっ只中の高校生が世界平和デーとか世界環境デーとかに寄せた作文で書くような内容で、コッポラのおっさんよう、お前さん、いったい幾つなんだよ、と涙が止まらなくなりました。やれ、コスパだの、タイパだの、何かと効率やら、要領やらがハバをきかせる このご時世に、悠々自適の生活をしていてもおかしくない、功なり名をとげた感じのある ご老人(失礼!)が自分には伝えたいことがある、表現したいことがあると、私財を投げ打って新たな作品を世に問う…… そこに、永遠の映画少年にして正真正銘の稀代の映画バカの姿を見た思いがしました。
席から立ち上がった私は潤んだ目元をぬぐい、先ほど見知らぬ紳士に心の中とはいえ悪態をついたことを反省し、出口に向かう廊下の途中で振り返ってちらっとスクリーンのほうを見て「今日はどうもありがとうございました」と心の中でつぶやいて家路についたのでした。
やっちまったなーw
どんな物語なのか頭に残ってないんですよねえ、この作品。
なんか、陳腐で拙いレトロフューチャーっぽいんですが、専門学校生の卒業制作ですか?みたいな画像処理だったりと、40年前なら絶賛されたのかもねえ、なんて感じながら鑑賞してました。
物語が頭に残ってないので、印象というか感想を。
・出だしに感じたのは、ブレードランナーっぽくない?ってこと。それもレベルダウンしたヤツ。
・一族の葛藤というか一族間の?でもそうでもなくて、一見、ロミオとジュリエットっぽいけどローマ帝国に仮託したハウスオブグッチっぽいかもなあ。
・年代設定がよくわからない。60年代から70年代の感覚がグダグダと進み、終わりに一気に23世紀くらいに移っちゃうのだけれど、よくわからない。
・グラディエーターもやりたかった?
・一番の見せ場が暗殺シーン。これは着想も何もかも良かった。
・キー設定、見せ方も広げ方も中途半端。きっかけに対する答えがなくて,意味がわからない。
なんか、コッポラのルサンチマンの垂れ流しであって、リドリー・スコットに対する劣等感、しかもオーバーテイク出来ない拙さを観せられたようです。
そりゃ、このレベルの映画ばっかだったらいくら作品作ってもどこも配給してくれないわけですよ。
IMAX での鑑賞
人生の幸せは思考の質にかかっている
インタビューで、宮崎駿監督による「君たちはどう生きるか」と似た、去りゆくものの祈りのような世界観だと感じていたのだけど、実際鑑賞しても同じ印象。醜悪なまでに広がり誰も手のうちようのない格差社会に対して、未来について思考してほしいというメッセージを強く感じる。設定は、古代ローマを色濃く投影し、カエサルにキケロにクラッススにと、わかりやすい構造で近未来のニューローマを描く。ストーリーも至ってシンプルで、奇をてらったところもない王道展開。
ブレイキング・バッドのガスに、GOTのミッサンディがメインキャストというのは海外ドラマファンとしてはちょっとうれしい。
マルクス・アウレリウスの引用で、人生とは思考だ≒「人生の幸せは思考の質にかかっている」と示されるのだけど、確かに、思考の質と感受性によって左右されるように思う。思考の質を豊かなものにするためにも自省録を読まないとな、と思わされる映画。
映画作品と言うよりメガロポリス事件
映画作りに全身全霊と全財産を注ぎこむ、コッポラ監督の幻想的かつ難解なSF作品。都市建設を巡って、天才建築家と対立する市長、銀行家が入り組んだ愛と欲望の渦巻くドラマなんだけど、正直言って何が何やらお話しがよく分からなく面白くなかったです。とは言え、なんか最後まで観てしまうのは、80代の老監督が作ったとは思えないサイケでどこかチープな映像と素晴らしい美術や衣装、テリー・ギリアムのような悪夢とフェリーニのような猥雑さを感じさせる雰囲気、そして役者陣の熱演によるものです。もはや、映画の出来がどうこうでなく(そもそもよく理解できてないけど)、コッポラの映画作りへの妄執と情熱を目の当たりに体験する事件ですね。役者では、アダム・ドライバーがこの異様な役柄を演じ切っているのに感服しました。お久しぶりのシャイア・ラブーフも、二皮くらい剥けた変貌振りでよかったです。
メガロポリスとは、動く歩道である。
動く歩道良いよね、あらゆる場所が動く歩道になって欲しいと思った事がある。
本作は流石に理解不能、ベテラン漫画家の絵がどんどん崩れてゆく事があるが、そんな感じ。
ここまで抽象的な作品を作るなら、もはや男と女とか結婚や子供とか処女と非処女とかどうでも良いのでは?
愛や調和は普遍で素晴らしいものだし、今のアメリカは終わってる、みたいな事が言いたかったのかなと無理やり解釈して、それには大いに同意出来るんだけど、それを伝えたいならやっぱりもう少し分かりやすいストーリーを構築する事も必要なのではないだろうか。
良く監督のオ⚪︎ニーだと批判される作品があり、この映画も究極の自己満足に見える人も多いだろうけど、創作なんて極論すべて作者のオ⚪︎ニーだしそれで良いんだけど、つまらないものはつまらない。
もしかしたら今の自分があまりに未熟すぎてこの映画の良さが理解出来ていない可能性を加味して+0.5点とした。
気持ちは満点をつけたい
心象や概念を映像化したような不思議な作品
天才建築家のカエサルは自身の発明した新型のコンクリートと独創的なアイディアでアメリカの都市「ニューローマ」(ニューヨークを古代ローマに見立てた架空の都市)に人々が未来を語れるメガロポリスの建設の夢をふくらませるが、市長のキケロと意見が対立。
そんな中市長の娘のジュリアはカエサルに興味を持ち、彼の創造を支える建築事務所スタッフに応募する――
巨匠フランシス・フォード・コッポラが40年の歳月と186億円の私財を投げ打って撮影した大作。
自費で完成させただけあってスポンサーの意向など気にせず監督が真に撮りたかった映画となっている。
カエサルの心象やイマジネーションは具現化し映像化される。
また法秩序の乱れは天秤を持つ女神テミス像(西洋の裁判所に司法の象徴として飾られている像)が崩壊する映像として描かれる。
「ニューローマ」もニューヨークという大都市の光と闇を描く架空の都市として登場し、社会問題や権力者への風刺が盛り込まれている。
エンターテインメント映画と言うよりは監督が撮りたかった物を映像化したやや哲学的な作品。
全130件中、21~40件目を表示