メガロポリスのレビュー・感想・評価
全159件中、41~60件目を表示
人生の幸せは思考の質にかかっている
インタビューで、宮崎駿監督による「君たちはどう生きるか」と似た、去りゆくものの祈りのような世界観だと感じていたのだけど、実際鑑賞しても同じ印象。醜悪なまでに広がり誰も手のうちようのない格差社会に対して、未来について思考してほしいというメッセージを強く感じる。設定は、古代ローマを色濃く投影し、カエサルにキケロにクラッススにと、わかりやすい構造で近未来のニューローマを描く。ストーリーも至ってシンプルで、奇をてらったところもない王道展開。
ブレイキング・バッドのガスに、GOTのミッサンディがメインキャストというのは海外ドラマファンとしてはちょっとうれしい。
マルクス・アウレリウスの引用で、人生とは思考だ≒「人生の幸せは思考の質にかかっている」と示されるのだけど、確かに、思考の質と感受性によって左右されるように思う。思考の質を豊かなものにするためにも自省録を読まないとな、と思わされる映画。
映画作品と言うよりメガロポリス事件
映画作りに全身全霊と全財産を注ぎこむ、コッポラ監督の幻想的かつ難解なSF作品。都市建設を巡って、天才建築家と対立する市長、銀行家が入り組んだ愛と欲望の渦巻くドラマなんだけど、正直言って何が何やらお話しがよく分からなく面白くなかったです。とは言え、なんか最後まで観てしまうのは、80代の老監督が作ったとは思えないサイケでどこかチープな映像と素晴らしい美術や衣装、テリー・ギリアムのような悪夢とフェリーニのような猥雑さを感じさせる雰囲気、そして役者陣の熱演によるものです。もはや、映画の出来がどうこうでなく(そもそもよく理解できてないけど)、コッポラの映画作りへの妄執と情熱を目の当たりに体験する事件ですね。役者では、アダム・ドライバーがこの異様な役柄を演じ切っているのに感服しました。お久しぶりのシャイア・ラブーフも、二皮くらい剥けた変貌振りでよかったです。
メガロポリスとは、動く歩道である。
動く歩道良いよね、あらゆる場所が動く歩道になって欲しいと思った事がある。
本作は流石に理解不能、ベテラン漫画家の絵がどんどん崩れてゆく事があるが、そんな感じ。
ここまで抽象的な作品を作るなら、もはや男と女とか結婚や子供とか処女と非処女とかどうでも良いのでは?
愛や調和は普遍で素晴らしいものだし、今のアメリカは終わってる、みたいな事が言いたかったのかなと無理やり解釈して、それには大いに同意出来るんだけど、それを伝えたいならやっぱりもう少し分かりやすいストーリーを構築する事も必要なのではないだろうか。
良く監督のオ⚪︎ニーだと批判される作品があり、この映画も究極の自己満足に見える人も多いだろうけど、創作なんて極論すべて作者のオ⚪︎ニーだしそれで良いんだけど、つまらないものはつまらない。
もしかしたら今の自分があまりに未熟すぎてこの映画の良さが理解出来ていない可能性を加味して+0.5点とした。
気持ちは満点をつけたい
心象や概念を映像化したような不思議な作品
天才建築家のカエサルは自身の発明した新型のコンクリートと独創的なアイディアでアメリカの都市「ニューローマ」(ニューヨークを古代ローマに見立てた架空の都市)に人々が未来を語れるメガロポリスの建設の夢をふくらませるが、市長のキケロと意見が対立。
そんな中市長の娘のジュリアはカエサルに興味を持ち、彼の創造を支える建築事務所スタッフに応募する――
巨匠フランシス・フォード・コッポラが40年の歳月と186億円の私財を投げ打って撮影した大作。
自費で完成させただけあってスポンサーの意向など気にせず監督が真に撮りたかった映画となっている。
カエサルの心象やイマジネーションは具現化し映像化される。
また法秩序の乱れは天秤を持つ女神テミス像(西洋の裁判所に司法の象徴として飾られている像)が崩壊する映像として描かれる。
「ニューローマ」もニューヨークという大都市の光と闇を描く架空の都市として登場し、社会問題や権力者への風刺が盛り込まれている。
エンターテインメント映画と言うよりは監督が撮りたかった物を映像化したやや哲学的な作品。
よかったです
『雨の中の女』からずっと注目してきた監督です。『レインメーカー』の後に『胡蝶の夢』『テトロ過去を殺した男』『ヴァージニア』と私にとって分かりにくい作品がありましたが、『メガロポリス』は、ロビンフッドまで出てくるのでローマやシーザーもとりあえずのものとして見ていると、その三作品よりもわかりやすく感動的ですらありました。
時間をコントロールしたいというのは予期せぬまでに不穏になってしまったこの時代を憂う監督自身の願望のように思えます。その願望の象徴が古代のローマやロビンフッドであるように思いました。
監督はきちんとインタビューに答えるなど
まだまだお元気であり、まるで認知症かアルツハイマーにでもなったかのようなレビューは的はずれになるしかないと思います。
『メガロポリス』──時よ止まれ、これは祈りと希望の映画だ
86歳のフランシス・フォード・コッポラが私財1.2億ドルを投じて完成させた “映像詩 × 超娯楽大作”。近未来〈ニュー・ローマ〉を舞台に、才能・政治・資本が利己へ傾いた瞬間に文明が瓦礫へと転落する様を、IMAXスケールのセットと時間停止VFXで暴力的に可視化する。バロック建築のような巨大都市、凍結した瓦礫を見下ろすドローンショット、管弦と電子音がせめぎ合うゴリホフの音楽──眼と鼓膜が歓喜する一方、観客の胸に残るのは**「これから人類はどう生きるのか」**という根源的問いだ。
◾️コッポラが投げかける核心はシンプルで深い
• 文明と利己心は必ず腐敗を招く。
• 対抗策は “愛” と “共有された未来ヴィジョン”。
• 倒れても立ち上がる信念と、夢に賭ける覚悟こそが未来を動かす。
この大命題を観客に届けるため、コッポラは“圧倒的に面白い”を先に用意した。巨大政争、ロマンス、暴動、カタストロフ──怒涛の快楽のあとで、いつのまにか思想の核心に引き込まれている構造が見事だ。
◾️「時よ止まれ」は監督自身の魂の叫び
作中最大のキーワード “Time, STOP!”。都市の時間が本当に静止するあの瞬間は、昨年逝った最愛の妻エレノアと共有してきた理想都市のヴィジョンを「映画という時間停止装置」に封じ込めたいという監督の祈りに重なる。エンドロール冒頭の献辞 “For my beloved wife, Eleanor” が、その証しだ。娯楽と哲学と私的ラブレターが一枚のフィルムに融け合う様に、ただ圧倒される。
◾️アダム・ドライバーという触媒
癖強監督御用達俳優の面目躍如。狂気とカリスマを自在に切り替え、物語のテンションを最後まで張り詰めた。「変態監督コレクター」の称号は伊達ではない。
◾️総括
娯楽であり、哲学であり、愛の告白でもある。それを2025年にこのクオリティで観られる奇跡。未来は想像する者の手にある──その力を信じろ。創り手の背中を全力で押す一本。
「ブレードランナー」が いかに洗練された美しい映像かを 再確認する映画。
以下ネタバレ
フランシス・フォード・コッポラが
40年をかけて構想したSF叙事詩、
ワイン用ブドウ園も売って資金を集めた
渾身作!!・・・だけど、
評判はよくない作品らしいという
インターネットの情報から
あまり期待値あげずに鑑賞しました。
「メガロポリス」というタイトルと
設定がSFとなれば
「メトロポリス」より凄い未来都市が舞台か!!
と思っていましたが
「メガロポリス」
の未来都市は
実際のニューヨークの景色を加工してる時点で
テンション高まらず、
1926年の「メトロポリス」の未来都市の方がときめくし、
2001年の「メトロポリス」の方がスケール感あるし、
コンセプトアートを分割した画面で見せる
曲線の多い未来都市風景は
オイルマネー国の都市計画の宣伝映像みたいだし、
期待値あげずに鑑賞したけれど
あまりにも都市描写が退屈で、
高層建築群の迫力ある映像美が
体験できず残念でした。
「ブレードランナー」のスピナーが飛行している
あのオープニングの「未来」の都市映像が
いかに洗練された美しい映像かを
再確認する映画鑑賞となりました。
高い場所でヒヤヒヤさせられる映像演技の、
カイロ・レン役の主人公が
理屈がよくわからない
まさに「机上の空論」の様子にて
都市を設計しているシーンは
コッポラが心配になる作劇でした。
「動く歩道」をキラキラさせても
「動く歩道」でしかなく、
曲線を多用した、
自然と共存しているような
どこかで見た架空の街を見せられて、
これは・・・
コッポラに意見や注意をする人がいない
イエスマン体制でつくられた映画という
印象でした。
「ベン・ハー」っぽいなんちゃって騎馬戦や
レスリングやサーカスも
何だコレ?感が強く、
白人美人の歩くファッションショーや
ミュージックビデオ的な歌手を見せられ、
「メガロポリス」は
娯楽のバリエーション少ないなと思いました。
ドラマパートも
メガロンというカタカナ4文字の発明品で
「天才」と紹介される
カイロ・レン役の主人公に共感する箇所がなく、
権力者の娘との恋愛も興味が続かず
コッポラに意見や注意をする人がいない
イエスマン体制でつくられた映画だなと再び思いました。
「メガロポリス」というタイトルにするならば
「メガロポリス」の外部の人を主役にして
主役とともに
観客が未来都市に驚く段取りで構成するのが
定石な気もしますが
フランシス・フォード・コッポラは
定番の段取りではない方法で描いた都市は
キラキラ加工した陳腐な実景にしか見えず
別に未来都市を描きたいのではないのならば、
「メトロポリス」の拡大版のような
タイトル詐欺すんなよなと
思ってしまいました。
タイトルなし(ネタバレ)
21世紀、米共和国ニューローマ。
貧富の格差は増大し、上流階級の暮らしは古代ローマのようだった。
有機的で自己再生可能な新素材「メガロン」の発明によりノーベル賞受賞の建築家シーザー・カティリーナ(アダム・ドライヴァー)は、新都市メガロポリス構想で市長フランクリン・シセロ(ジャンカルロ・エスポジート)と対立していた。
そこへ、シーザーの伯父で後ろ盾の銀行家クラッススIII世(ジョン・ヴォイト)や、シセロの娘ジュリア(ナタリー・エマニュエル)、野心的な女性金融ジャーナリストのワオ・プラチナム(オーブリー・プラザ)、シーザーの追い落としとクラッススIII世の後釜を狙う孫のクローディオ(シャイア・ラブーフ)が絡んでくる・・・
といった物語。
先に結論。
意外と面白かった。
古代ローマを模した物語・・・と聞いていたので、「古代ローマものとは相性悪いんだけど」と思っていた。
たしかに、クローディオを中心とした謀略部分は、案の定つまらなく、画面も過剰に派手で卒倒しそうになった。
(古代ローマを模した享楽・退廃ぶりは、フェリーニ映画の模倣か。『ベン・ハー』に似た場面も登場するが)
が、シーザーの、亡き妻への思いが見えて来て、「メガロン」の開発由来がわかる段になるとSFじみて面白くなる。
ただし、コッポラはSF要素の描き方は下手なので、「なんだか、よくわからない」のだけれど。
アベル・ガンス『ナポレオン』ばりに画面分割を多用しているが、縦長画面×3ではスペクタクルに欠ける。
これは残念。
少なくともビスタ×3で、一気に横長に拡張したかっただろうなぁ、と思うことしきり。
これならば「見世物」要素もさらに高まっただろう。
映画最大の弱点は、ニューローマと新都市メガロポリスの差異が、映像として差が少ないこと。
ニューローマのイメージとしては、硬質な石造りに、電飾。
それに摩天楼とスラムの対比。
メガロポリスは、有機的で自己再生可能なヌメリとした感じ。
こういう感じの視覚イメージだとわかりやすかっただろうが、冒頭から未来都市感があるため、新旧都市の対比が感じられなくなっている。
構想しはじめたのは40年前。
つまり、「提供」した『コヤニスカッティ』の都市崩壊のイメージが旧都市のイメージだったのではなかろうか。
予習で『コヤニスカッティ』を観ておけばよかった、と反省し、2日後に鑑賞した。
いくつかのイメージは、同作に通じるものがある。
かつてならば、旧都市はミニチュア、新都市はCGで・・・そんな感じでイメージング出来たかもしれないが、予算の関係もあり、両社ともCGで作れるようになってしまった。
なお、シーザーの「時間を止める」能力は物語にあまり活かされておらず、ストーリーテリングとしてはイマイチ。
と、まぁ、注文イチャモンは数々あれど、貶しきれないわけで。
意外と面白かったし、もう一度観ると、たぶん好きになるかもしれません。
まだコッポラ監督はコチラ側にいます。
「ゴッドファーザー」(72年)「地獄の黙示録」(79年)を監督した映画界の巨匠が40年の構想を経て目ン玉飛び出るような額の自腹を切り作り上げた一大叙事詩―。もうその触れ込みからして既に満貫、役満、三倍満と役が積みあがったようなヤバい臭いしかしないこの映画。
スタンリー・キューブリックも大島渚も黒澤明もみんなみんな巨匠たちはそのキャリアの終盤で「こんなもの見せられて私たちにどうしろと?」と問いたくなるような映画を撮ってよこすものですが、いよいよ今回はフランシス・フォード・コッポラの番か…って感じですよね。
まぁコッポラはこれまでもチョイチョイ「何これ?」というような映画を撮っていたような気もしますが…それはともかく、白い布の一点の染みのごとく、巨匠の輝かしいフィルモグラフィの中に異様な存在感を醸しだす作品が混じる事は、得も言われぬ甘美な背徳感があるものです。
監督の熱心なファンでさえも褒め称えはするものの、その作品の存在には口を濁し積極的には語らない―そんな作品。見て見ぬ振りを決めてみても重い足枷のように頭の隅にまとわりつく―そんな作品。繰り返し観たいか?と問われれば首を横に振りはするものの、どうしようもなく完璧ではいられない人間の不完全さを具現化したようなそんな作品には、その存在自体に奇妙な魅力があるものです。
普段なら初めて観る映画には「面白いといいなぁ…」と不安交じりの期待を抱くところですが、このテの作品 を鑑賞する前にはバチバチに覚悟を決めて「どれだけこの映画についていけるだろうか?」と固唾を呑むのです―。
まるでプロレス技か玩具販促アニメのタイトルのような名前のアダム・ドライバー。彼が演じる主人公が発見?開発?した新建築材の“メガロン”とはどのような物なのか?そのメガロンがあればこそ実現可能だというアダム・ドライバーが目指すユートピアとはどのような物なのか?ここら辺が物語の根幹のようなのですが、その肝心なところが一番よく分かりません。またこの映画で“時を止める”という事がどういう意味を持っているのかもよく分かりません。そのかわりローレンス・フィッシュバーンは30年前から時が止まったように見た目が変わらないという事だけはハッキリ分かります。
映画に限らず創作物を鑑賞する際にはよく「行間を読め」と言われる事がありますが、このテの作品 が大抵そうであるように、本作もその行間が途方もなくスカスカなのです。もう行間の幅が広いどころかページが丸々飛んでいるんじゃぁないか?と思うほど行間を読もうにも、その為に必要な取っ掛かりが無い(または小さい)のです。
物語とそこへ内包させた意図をどのように伝えるかは映画の面白さに直結する重要な部分です。個人的には観たい作品を選んで身支度を整えて上映時間に合わせて劇場へ行くという行為は結構能動的な行為なのですが、映画鑑賞というのうは基本的にはとても受動的な行為です。しかしそんな受動的な行為において物語やそこへ内包された意図を汲み取るというのは観客に与えられた僅かな能動的行為であり、例え間違った解釈をしていたとしても意味を汲み取れたと思った時、観客は快感を得るのです。その結果、共感や好感は抱けませんでした…という感想になる事もありますし、視覚や聴覚に訴える事に特化して物語などおざなりでも面白い映画というのも確かに存在するのですが、ともかく基本的に観客とは映画が何を言わんとしているのか理解しようとするものです。だからといって観客の無理解や誤解を恐れるあまりに一から十まで何もかも言葉で説明するのは不自然だし無粋です。しまいには「ここまで言わないと君ら理解できないもんね!」と作り手側が観る者をバカにしているというふうに受け取られて反感を抱くこともあるでしょう。
きっと巨匠たちだって駆け出しの頃は自身の才能を認めさせるためにも、どうやって物語を観客に伝えるか苦心したはずなのです。出資者やプロデューサーから映画の内容についてとやかく言われながらも、やり過ぎると陳腐化し、やらな過ぎると見向きもされない中、自分のやりたい事や表現したい事をいかに面白く魅力的に観客に受け取ってもらえるかに心血を注いできたはずなのです。しかし成功して揺るぎない地位や名声を手にしてしまうと自身の作品が観客にどう伝わるのか?というところに余り執着しなくなるようなのです。やっぱり観客にどう伝わるのかを気にしながら作品を作るというのはかなりの労力を伴うのでしょうから、きっと面倒くさくなってしまうのでしょうね……。
ところが巨匠が手掛ける、観る者に理解される事を放棄したような このテの作品 としては、本作は割と気軽に鑑賞できる印象を受けます。先ず尺の圧倒的な短さ。このテの作品 で138分というのは短いですよね。いやここはダラダラ180分超えてこいよ!と思うのですが、この程度なら朝飯前です。そして内容についても、物語の基本構造が栄華を誇った帝国の末期、為政者たちは民を見ず、贅の限りを尽くして堕落し、利己の為に醜い権力争いに明け暮れる。そんな今にも崩れ去ろうとしている国の現状を嘆き未来を憂う主人公がやがて救世主となり民草を理想郷へ導く―。という歴史エンターテイメントの鉄板カタルシス展開ですので、割とあぁーこれ系ねって感じでついていけます。そしてアダム・ドライバーが演じる主人公が映画の最後に巨匠のメッセージをたぶんほぼそのまま、声高らかに演説しますので、細かいところはともかく何を言わんとする映画なのかは割と分かってしまう(ような気がする)のです。
貧富も出自も人種も関係ない!俺たちはみんな宇宙船地球号のクルーだろ?家族じゃないか!!共に学び、尊重しあって偉大な奇跡である人類として誇りを持とうよ! Power To The People!! Imagine all the people!!っていうね、全くそのとおりだよね、なメッセージを放っている訳なのです。
なのでコッポラ監督の視点、意識はまだ我々常人と同じ次元に留まって同じ世界を視て、同じように憂いているのだなと、何となく分かるのです。巨匠の このテの作品 にありがちな「コイツは何をどう視て何について語っているんだ?」という魂と意識があらぬ方向の高次元に至ってしまったと感じさせるほどの物は本作にはありません。なので観る者に理解される事を放棄したようなこのテの作品としては少々物足りない出来だと思うのです。そしてなまじっかメッセージが明瞭なために鑑賞直後は「しょーがねーなぁ…」と苦笑いくらいの感覚でいたのですが、時間が経ってくるとなんだか段々腹が立ってくる映画なのです。
人類が互いに尊重しあい未来へ歩むというのは確かに理想です。ですが実際には移民や難民にまつわる事、社会保障制度にまつわる事、LGBTQにまつわる事、性差、歴史、文化、宗教、民族などなど、ありとあらゆる問題について、社会規模で一定の層を尊重・救済しようとすると、その一方で別の一定の層の権利が侵害または制限される(もしくはそう感じさせられる)状態となり、そのために新たな衝突が発生してしまうという事はよくある事ではないですか。人類はもうずっとその問題を解決できずにいるのです。
私は映画で社会問題をテーマにする際は問題提起をするだけで十分で何も答えまで提示しなくてよいと思っているのですが、本作はその“メッセージだけ”がなまじっか明瞭なために、ありとあらゆるところで食い違い、対立する人類の現実を無視して理想的なスローガンだけを掲げて「巨匠が世界に送るメッセージ」とか言って悦に入っているだけなのでは?それも1960年代ならまだいいのでしょうが、それからもう60年も経った今においても尚これでは、監督は本当にこの問題を憂いて我々と共有し、解決する未来を模索しているのだろうか?と、何だか疑問が湧いてきてしまうのです……。
まぁそれはともかく、気づいてみれば このテの作品 を撮るに値する“格”を持った巨匠が映画界にあと何人残っているというのでしょうか?ダニー・ボイル?デビッド・フィンチャー?小さ過ぎる!デビッド・クローネンバーグの様に元々訳の分からないものを撮り続けている人はレギュレーション違反ですので数えられません……。ちゃんと普通に見ても面白い娯楽性と芸術性のバランスの良い作品を残してきた人が対象となると思っているのですが、そしたら(デ・パルマやスコセッシを横目でチラチラけん制しつつも)後はもう スピルバーグくらいしかいないのではないでしょうか?いずれにしても我々映画ファンがこの偉大なる肩透かしを喰らう経験を得る機会はもう指折り数える程しか残っていない気がするのです。
そしてその貴重な機会の一つだと思われた本作ですが、どうやらフランシス・フォード・コッポラ監督はまだコチラ側にいる人なのだという事が確認でき、少し安心しつつも、何だか残念な気持ちになってしまうのです。ですので御年86歳を迎えたコッポラ監督ですが是非これかもっともっと芸術家の魂が浮世を離れ高次元へ至ったことを我々凡人に見せつけるような作品を撮って欲しいと今も切に願っております。どうかこれからもご健在で!!
分裂する評価
いやあ変なものを見た。低評価の所以もよく分かる。「ここ笑ってもいいの??え、ひょっとして真面目なシーン?さーせんさーせん」みたいなことの連続だから。でも、人類史とアメリカ史を重ねて“歴史に学べ”というのは老人としての真っ当な姿勢だと思った(しかし映像がオモロ寄りになってしまっている!あとなんか全体に万博のパビリオンで見せられる映像みたい!)。/コッポラはメガロンという物質そのものになりたいんだよね??メガロンとなって世界に遍在するコッポラ翁。などと想像して、なんか妙に切なくなった。
本作の直前に見た映画とほぼ同じ感想に……
映画としてのルックは素晴らしいし、役者陣もみな好演。描かれているメッセージも濃厚で最後まで退屈することなく、しっかり鑑賞しました。
じゃあ、好きかと聞かれたらNoです。
知り合いに勧めるか?と聞かれてもNo。
すごく面白かったというわけではない。
上映中はそこそこ楽しんだけど、お話そのものには首を傾げるシーンも多く、極端な説明の省略によって、具体的な感想がほとんど出てこない、という稀有な作品です。
文字にしてみると直前に見た「ルノワール」と完全に同じになります。全然違う映画なのに。
これが遺作になるのだろうね
甘いレビューばかりの中ですら、★の数が証明する駄作である。日本で封切りから1週間で公開規模が縮小されるのも当然だ。
巨匠・コッポラの監督作という知識しかないまま劇場へ。どの映画もそうだが、基本的に事前情報は入れないようにして見ている。
どこかの新聞の批評の見出しに「映像詩」というのがあったように記憶するが、そういう言い方で逃げるしかないレベル。
物語自体も浅いし、ずいぶんカネをかけて撮ったんだろうけど、誰が責任とるのか? と他人ごとながら心配になった。日本はもちろん、本国でも惨敗らしい。
ゴッドファーザー、地獄の黙示録で終わっておけばよかった監督ということである。
上映スクリーンが限られているためか、都内のシネコンの客入りはそこそこ多かったが、来週あたりで打ち切りじゃないの。
想像の斜め上をいきます
カルトなのかアングラなのか怪しげな作品な上に、アメリカ社会への批判なのか、内容が高尚すぎてちんぷんかんぷんでした
早く終わらないかなって思う作品は久々でしたね(笑)
理解しようとしてはいけない
しょせん全てを理解するなど不可能なのだから
岡本太郎を全て分かったと言える人などいないように
ここ何十年かのハリウッド映画の主流は続編が多いと思ってはいたのです
ネズミの会社が宇宙のお話を手放さないのが良い例でとにかく金のなる木は飽きられるまでやり尽くすような作品が多いのも確かですが
観る側からしたらそんな事はどうでも良いのです
面白ければ人は集まるから
「映画はこうあるべきだ」とか「そんなの映画じゃ無い!」とか言ったって自由なのが映画で結局なんでもありなのだから
日本のアニメでも何十年経っても白いロボットの戦いは終わりなく続いてるし小ちゃな探偵もずっと人気がある
見たい人が見たいものを見て作る人はもっと作ればみんなハッピー❣️ それでいいじゃないか
この難しい作品もこだわりがある人が自腹で作ってんだから誰にも文句は言わせないし言うべきじゃない
嫌なら見なきゃいいんだから
私なんか寝ちったもん、2回も
『2001年宇宙の旅』もどうしても最後の方で寝ちゃうのね
だけどもまた見たくなるし見て良かったと思ってる
この作品も同じで何度か見てだんだん少しづつ分からなかったことが見えてくる、そんな感覚は嫌いじゃないんです
まず映画館で観ることが出来てよかった
黒澤作品のように何度でも映画館でリバイバルしてほしいものです
そしてきっとまた寝てしまうのだ
全159件中、41~60件目を表示