メガロポリスのレビュー・感想・評価
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監督の憂いが前面に感じられた。
正直これはコッポラ監督が見てきたアメリカの上流社会を転換してこれからの未来に期待しつつも憂いている作品に感じる。私財を投げ売っているからには、言いたい事を前面に入れすぎたため、どこか説教くさい親父作品になってしまったようにも見えた。
でも、僕は好きですよ。飽きずに最後まで観れましたし、自分も同じような想いを抱いてます。ただ、自分なんかは下層階級の人間だし、見る人もほとんど庶民だから、こう言う世界があるのはわかるが、感情が入り込めるわけはないよね。コッポラ監督もこういう上流階級の人々のいざこざを散々見てきて、しかも大迷惑を掛けられたから、作った作品に見えた。
これは、逆にSFにしないで、ゴッドファーザーのように実録的に作れば評価も高かったんじゃないのかなぁ?そうすると、どっかの組織に殺されちゃうのかなぁ?
なんとなく、黒澤監督の「夢」を観た時の後味にも似ている気がして、そっちの影響も実はあるんじゃないのかぁと邪推している。
ラストの赤ちゃんに全面的に未来を託すのは、正直良くないなと思いました。未来に希望というのはいいけど、こんな世界にしたのは、ここまで生きてきた僕達であって、そこは僕らが責任を取らないと行けない結末にしないとならないのではないでしょうか。
巨匠の夢、メッセージ、気持ちはわかる! が、創りたいビジョンとアイディア、伝えたいメッセージだけ並べられても困る
巨匠の夢、メッセージ、気持ちはわかる!
けれどストーリー展開があまりにも不親切で感情移入できず。
あの流れから、いきなりラストのメッセージはあまりに無理がある。
創りたいビジョンと伝えたいメッセージがあるのはわかるが、あまりに性急ではないでしょうか。
ローマになぞらえた現代のニューヨークの退廃ぶりに我慢ならず、今しかないとばかりに製作したのでは。
その有様は、まさにローマ史劇のようでしたが、今、ローマ史劇?古臭く感じる。
コロシアムや支配階級の人間模様などは「グラディエイター」を観たばかりなので、既視感ばかり感じてしまい、特段印象には残らない。
未来都市の光景も、もはや単なるCGにしか見えず、感動できない。
豪華なはずのキャストも、今一つ心に響かず。
莫大な製作費はちゃんと有効に使われたのだろうか。
繰り返しますが、気持ちはわかります。
嫌いにはなれませんが、いかんせん不親切な脚本、古臭い史劇風の表現、斬新に感じられないCGビジュアルなどに乗れず残念でした。
古代ローマとキリスト教とF.コッポラを知っている人におすすめ
期待度○鑑賞後の満足度◎ 時代遅れ?現代のアメリカを退廃期のローマに見立てたありきたりな発想、メガロポリスの割にはちゃっちいセット、いえいえ、コッポラはやはり永遠の映画青年です。
豪華な豪華な何?
成功者(金持ちでもある)が振り返る人生。寓話に警句を盛り合わせ社会批判も突っ込んどけば格好がつく。
新参のアメリカでは重厚な歴史や文化を語れない。そこで西洋文明とキリスト教の本山 ローマが出てくる。俺たちが作ったんだぜNEW ROMA。アメリカは今や西洋文明の中心だぜ。
その辺が入り込めない理由か。
ギリシャローマ文化の教養があればもっと入り込めたんだろうか。名前の持つ意味の理解を要求してシーザー発音に対してカエサルの字幕みたいな感じか。
戸田奈津子さんの字幕だけのせいではあるまい。
あまりの豪華さにオープニングの”時間よ止まれ”を忘れてたけど、いくら成功しても歳をとれば赤ん坊に託すしかないんだよな。子供はもうどうにもならないので孫に託す。
コッポラの心境か。ちょっと分かる。
お金を掛けた自主製作映画
一言でいうとつまらなかった。もう少しオブラートに包んだ
言い方をするなら「私の感性に合いませんでした」。
途中何度か寝落ちしてしまった。かなり癖のある映画。
大手映画スタジオからの資金が得られず自費を投じたと聞くが
この内容だと興行的に成功する見込みは立たず資金が集まらな
かったというのも合点がいく。
自分のお金で製作して好きなように撮ったのだから本人はきっと
満足していることだろう。観客から支持されようがされまいが
お構いなしといった雰囲気は宮﨑駿監督の「君たちはどう生きるか」
(2023年製作)に通じるものがあった。ちなみにコッポラ監督は
1939年生まれ、宮﨑駿監督は1941年生まれでほぼ同年代。
思い残すことがないように自分の世界観を最大限に投影した作品に
したのだろうか。
「地獄の黙示録 ファイナル・カット」(2025年6月公開)
(オリジナルは1979年製作/原題:Apocalypse Now)を観て
コッポラ監督はやっぱり凄いなと思った直後に今作を観て、
目が点になってしまった。作風が違いすぎる。
一部の映像表現に”いいね!”を付けたくなったものの、全体としては
なんじゃこりゃ?な世界で付いていけなかった。最後まで観ても
自分の気持ちは盛り上がらないままだった。
型破りな寓話
まとまりのない社会、人々、脚本。
鑑賞後の第一声は『これは…ウケないわ』。
いつも通り初めに総括すると、全体的にちぐはぐしていて乱雑。この話は他の監督が撮った方が映画としては面白くなったと思う。が、もはやエンタメとしての映画ではなくコッポラ監督ならではの芸術としての映画とみるならば唯一のもので(当たり前ではあるけど)、ユニークな体験ではあった。
では、以下で少し考察を。
まず映画は、主人公カエサルが時を止めるシーンから始まる。この能力がまず分からない。観ていくとカエサルは一度この能力を失うのだけれど、恋人の支えで立ち直り、再び発現させる。そこで『天才の閃きやクリエイティビティのメタファーなのかな?』と思う。ラストで恋人が時を止めるとカエサルも恋人も止まり、二人の赤ちゃんだけが止まった時の中で動く。今度は『これは未来の可能性(またはそれが実現すること)のメタファーだったのかな?』と考える。
でもそれがどうして『時を止める』必要があるのかがわからない。
作中に登場する新物質『メガロン』も謎。しばしば危険性が指摘されているっぽいのだけれど理由やどういう影響があるのかはっきりしない。途中主人公が銃撃され大怪我を追い、その治療のためにメガロンを体に埋め込むのだけれどそれが何の意味があったのかも謎(医療分野で活かそう、ってなってもよさそうだけど、まるでなかったかのように扱われている)。奥さんの髪を埋め込むことになんの意味が? ロマンチズムだけ?
テーマはおそらく『『理想の社会』という実現される形があるのではなく、すべての市民が『あるべき社会』について考え、話し合い進歩していくことそのものが理想への道』みたいな、至極真っ当なものだと思うのだけれど、主人公と市長の対立、後援者である銀行頭取の跡継ぎ問題、主人公と市長の娘とのロマンス、主人公の元妻の死の秘密などテーマと乖離した多くの要素が挟み込まれ、そのテーマを十分に掘り下げているとは思えない。その上話の軸が動き回るので非常にテンポが悪く、正直長く感じた。
結果として息子が当てにならない頭取は主人公にあっさりと財産を譲り、市長は娘に説得されてこれまたあっさり主人公を認める。移民・貧困といった社会的分断という要素はテーマを忘れないためにセレブ・サスペンスに添えられているだけにすら思える。うまく扱えば普遍的テーマになったのに、これでは現代風刺にも至っていない。
主人公の主張も夢想的で、現実に即しているとは思えない。『大事なのは問題解決ではなく問題提起です』という言葉に表れているように、『時とは? 勇気とは? 宿命とは?』と市民に問うが、それが示されることはない。自分の都市開発のせいで今日寝るところがないという人々を直視しているのかすら怪しい。そんな人に莫大な遺産を与えて大丈夫か? むしろこの自分の理想を最優先する夢想家が民の敵になりうるのでは?
どうも常に観客とは一線を引き、拗らせているような印象が拭えない。アダム・ドライバーの演技が悪いわけではないが、ちょっと体格が立派すぎるのも気になった。ラストの舞台映えはすごくするのだけれど。
画面に関しても、すごくお金をかけて豪華に、かっこよく仕上げたシーンもある一方で、80年代のようなチープ臭い(意図的なものではあるのだろうが、鼻につくレベル)部分もあり面食らった。
一緒に見た友人は『もしかしたら何年かしてカルト映画として人気が出るかも』といったが、そもそも構成が悪すぎて一貫して評価できる部分が無い。40年こねくり回した脚本はとっちらかって一徹した世界観にも乏しく、『2001年宇宙の旅』などのような未来への予見、といった部分もないので厳しいだろう。
絶対に他の監督が撮った方が面白くなったとは思うが、コッポラゆえの独自性は十二分に感じた。観たいのはそれだったので一応満足。ここでこれを観ておけたのは良かった。
士官候補生
メガロポリス
以前動画サイトである評論家が、コッポラの作品はいつも映画的なナニかを宿しているみたいな(原文のままじゃない)ことを言っていたけど、自分もそう思うし本作も正にそんな作品に思いました。
愛する人を失った男(アーティスト=建築家)が枯渇しつつある神通力をある女性との出会いによって再び力を取り戻し…、
ってところまで感覚的に入ってきましたが、中盤以降はなにか国を憂いてるのでしょうか?少し説教臭い気もしましたが、あまり考えずに押し寄せる映像を楽しみました。
特に前半は、今のコッポラ自身の身の内を真正直に明かしているよようで素直で正直な作品に思えました。
なんだか豪華な学生映画みたいで、映像作りを楽しんでいるような感じが伝わって来ました。
刺激的でチャレンジングな作品です。
解らないだけで唾棄できません。
アメリカ共和国にはニューローマ以外の街もあると思うので、さっさと移住したほうが良いよね
2025.6.23 字幕 MOVIX京都
2024年のアメリカ映画(138分、G)
架空の都市を舞台に理想派と現実派の対立を描いた寓話的SF叙事詩
監督&脚本はフランシス・フォード・コッポラ
原題の『Megaloplis』は劇中の翻訳で「新都市」
物語の舞台は、第3000年期の21世紀のアメリカ共和国にあるニューローマ
天才建築家として名を馳せるカエサル・カティリナ(アダム・ドライバー)は、新しい建築素材メガロンを発見したことでノーベル賞を受賞するに至っていた
彼は、かつての遺恨から現市長のキケロ(ジャンカルロ・エスジポート)と犬猿の仲で、都市開発に関する方針でも真逆のスタンスを取っていた
キケロは市民にも恩恵が出るようにとカジノ構想を打ち出す一方、カエサルは新都市を再構築すべきと打ち出していて、今ある体制を1から見直そうと考えていた
既得権に凝り固まった富裕層がそれを支持するはずもなく、キケロのフィクサーでもあるナッシュ(ダスティン・ホフマン)はメガロンは危険物質であるという風潮を流そうと考えていた
キケロには自由奔放な娘ジュリア(ナタリー・エマニュエル)がいて、彼女は父親に反抗的なスタンスだった
彼女はカエサルが持つ時間を止める能力に気づいていて、停止の中でも自由に動けていた
その後、カエサルの新都市計画に心を打たれたジュリアは、彼との交流を深めていくようになった
カエサルには行方不明の妻サニー・ホープ(ハーレイ・シムズ)がいて、彼女の失踪時の検事を務めていたのがキケロだった
キケロは殺人事件としてカエサルを有罪にしようと目論むもののうまくいかず、それが遺恨として残っていて、ジュリアはその真実に気づいてしまう
さらに、カエサルの元愛人のワオ・プラチナ(オーブリー・プラザ)はカエサルに愛想を尽かして、クラッスス銀行の頭取ハミルトン(ジョン・ヴォイド)を拐かして結婚へと漕ぎ着ける
その動きを不穏に思ったカエサルのいとこクローディオ(シャイア・ラブーフ)は富裕層で起きていることを暴露し、市民を扇動する動きを見せていく
そして、カエサルが少年に撃たれるという事件が勃発してしまうのである
映画は、寓話にして叙事詩ということで、ローマ帝国の状況を新しいアメリカに準えているというテイストになっている
人類の敵は文明であるという有名な言葉などを所狭しと濫用し、名言会話遊びなんているものも展開される
ある意味、そのあたりの教養ありきで話が進んでいるのだが、深い会話のようでいて浅い感じがしていた
自分の言葉ではなく、他人の言葉を使って自分を上げようとするのは小物がすることであり、そう言ったことでしか自分を誇れないキャラが多すぎる
なので、全員がモブに見える感じで、誰にでも伝わらない言葉を発する人は支持されないんだろうなあと思っていたら案の定という感じになっていた
ある意味、貧困層を駆逐して富裕層だけの街を作ったのがニューローマだと思うのだが、それの行き着く先というのは限界がある
その中で現市長が掲げるのがカジノ構想というほとんどの市民が楽しめない施設を作るところが頭が沸いている感じに描かれていた
それとは別に、新しいニューローマを作ろうと人々を煽ろうとするのがカエサルなのだが、映画ではカエサル側が支持を受けているように見える
でも、実際には金融を牛耳るクラッススが彼を支持するから実現するわけであり、結局は市民をいくら鼓舞しようが、富裕層の顔色と財布を当てにしないと何もできないと言っているのと同等だったりする
そう言ったところからお金が流れて、職を持たない人たちがありつけるというのなら意味はあるのだろうが、そう言った現実的な話は傍に置いている感が凄い
結局のところ、理想論を綺麗なビジョンで見せて終わり、みたいなところがあったので、現実的には何の変化も促さないだろうし、むしろ「夢を語る奴は全員クズだよ」と言っているようにも思えてしまう
映画として面白いかと言われれば微妙で、未来都市感もあまり感じられず、小学校の時に見た雑誌の方がワクワク感があった
結局映像として出てきたのが「動く歩道」みたいなもので、今日梅田で歩いてきたわと思ってしまって、現実離れができなかった
カジノVS新都市構想というバトルはどこかの都市で見たような気がするが、全てうまく言っていないところも寓話なのだろうか
全力で支持をしている皆様に見えているものは違うと思うので、そういった変化が一般市民にも影響があれば良いのだが、実際には映画のように蚊帳の外になるんだろうなあと思った
いずれにせよ、スクラップ&ビルドができるのはフィクションの世界だけで、現実的には修復と修正を促しつつ、少しずつ理想的な街並みにしていくしかないと思う
そう言ったきっかけとしてソ連の人工衛星の墜落などがあったりするのだが、このような強制的なスクラップが寓話として登場するのは、すでに道はないと言っているようにも思える
カエサルがどんなに素晴らしい夢を語っても、そこに誰もが住めるわけではなく、それを維持していくだけの民度も必要になってくる
それを考えると、富裕層のための楽園を作るためだけに低賃金でおこぼれを与えるだけの世界にしか過ぎないので、冷静な人は関わりを持たないだろう
映画では、フェンスにひしめき合って眺めている子どもたちみたいなショットがあったが、現実だと「猿山の猿を観察している」ようなものなので、360度全方位から一気に放火されたら終わるんじゃないかな、とか余計なことを考えてしまいましたねえ
いただけない
ニューヨークをニューローマと擬えて描いたカラフルでローマ風のコッポラの特大巻きグソ。
MAGAにやられちゃったアメリカを批判してるのかな、というのは理解できるが、そもそもこの長大な作品で伝えるメッセージとしては陳腐だし、キャラクターにも(善悪と関係なく)魅力がない。
ナタリー・エマニュエルだけは素晴らしいが、彼女はゲースロの時から素晴らしいしな。
作品全体を通してのイメージとしても、魅力的なニューヨークの街に負うところが大きく、「メガロポリス」として終盤に打ち出されたものもちょっといただけない。まさに作中でも謳われていた「創造性」が必要だったのではないか。
コッポラですら年齢には勝てないのか、と言ったら言い過ぎだろうか…
ソドムを焼き尽くす業火は、アメリカを再生するか?
…いつか、ヒトは、時間だって支配できるさ。
…アムロ…刻が見える…。
富野由悠季「めぐりあい宇宙(そら)」
大コケしたそうですね。ただ「未来世紀ブラジル」や「時計仕掛けのオレンジ」観た方なら、何となく分かると、思いますけど…。
古代ローマ市民と、今の私達の暮らし、あんまり変わらないらしい。強いて言えば、キリスト教的な戒律が、あるかないか程度の差が、相違点だとか。その戒律も、時代と共に絶対的なものから、多様化しています。そういう意味では、今、アメリカ市民が古代ローマの衣装を身に纏うのは、お似合いですね。
かつて人種のるつぼと言われたアメリカですが、今は格差と分断のるつぼです。これまでディストピア映画は、いくらでも造られました。でも、気づいたら、リアルな世界が、ディストピア。「シビル・ウォー」なんて映画もありましたね。アメリカ合衆国は、パンドラ合衆国に。天より業火が降り注ぎます。コッポラ御大は、パンドラの箱の最後に残るものに、賭けているようです。
そう、この映画はディストピアの先のあるユートピアを描いています。でも、それは、遠く儚い存在。(人の夢と書いて、はかないと読むなんて、皮肉が過ぎますね。)ディストピア映画、あるいはディストピアなアメリカに慣れた私達にとって、御大の描くユートピアは、眩し過ぎたかな。それが、大コケの理由かも。
あ、そうだ「地獄の黙示録」を、御大の描く激烈なる道徳映画と解釈された方がいます。今、世界レベルの興行で成果を残すエンタメ映画に、未来を示さんとする道徳観は通用しないかな。
そこまでして、コッポラ御大が遺したかったもの、何だと思います?。
個人的には、宮崎サンの「君たちはどう生きるか」に通ずるものがあるように思えます。
ひょっとしたら、未来の私達は、時間を止めることも、できるかも知れない。それでも、未来が止まることはない。この映画のラストシーンに、そう思いました。
アメリカだけの話ではありませんが、世界は確実に混沌へ。バンカーバスターが、天と地を回しました。(昔、極東の島に、回天と云う兵器がありました。調べてね。)先は見えません。そんなタイミングで、この映画を観る羽目に…。
色々言われてますけど、まず観てほしい。理解する必要は、ありません。私を含め、他者の判断に従う必要も、ありません。圧巻の映像と、その先にある、流行り廃りを超越した御大の熱意。それだけですが、そこに、何にも替え難い総てがあります。
期待はずれ
ニュース映画
いやあ、めちゃめちゃタイムリーな作品でした。コッポラが一番ビックリしてるんでは。今TVニュースで自分の映像が流れてるんですから。星条旗を持ったアメリカ唯一の「キング」のシーンにはビックリと共に大笑いしました。内容はコッポラらしく揶揄、皮肉のオンパレード。母親のワニのセリフは爆笑でした。歴史に興味が有れば、登場人物の名前から話が分かりやすいんでは。映像が素晴らしかったです。ラストの赤ちゃんシーン、人それぞれのとらえ方が。
「地獄の黙示録」撮影記録のエレノアさん、残念です。
何が言いたいのかわからん。
子ども頃に「地獄の黙示録」を見た時に「かっこいいけど、わけわからん」と思ったのと同じ体験をしました。
自分自身年相応に映画を観てきたつもりですし経験も積んできたつもりですが、さすがはコッポラ監督、はるか上をイッテいる感じです。
長年構想していたモノだけあってか、ローマ帝国をなぞる形も含めて、ちょっと古めかしい感じがしました。冒頭にある退廃的というか享楽的なシーンも時代感を感じてしまい、その後も直接的ではないにしろすべてが猥雑にも見え、そういうモノなのかと感情を伏せてしまいました。
いくつか疑問があります。
カエサルが持つ時間を止める能力も活かしているのかどうか。
カエサル自身に敵対する勢力があるのだから、時間を止める力は有効なはず。それがコントロールできなくなったような描写はありましたが、敵対する市長の娘ジュリアがその能力に目覚めます。それはカエサルがジュリアを愛したから? そういうキレイごとな感じですか。
その能力が覚醒したあとジュリアは、父の執務室に行きます。すると床に沈み込んだ執務机で書類を処理して父・キケロ市長。これはジュリアが見たイメージの描写の様なので、やはりジュリアにカエサルの何かしらの力がうつったことになるのでしょう。ただ、そういう描写も中途半端。
その辺りをカエサルが開発したメガロンという新素材が引き受けるのかなと思います。
ある日、カエサルは子どもに銃で顔面を打たれ瀕死の状態になります。そのカエサルの手術にメガロンが使われて、体の組織とメガロンが融合し摩訶不思議な形で復活します。
ですが、そのメガロンも正体が明かされないままの様でした。
街の建築素材であり、また透けてみえる衣服にもなります。そして、カエサルの手術にも使われたモノ。謎です。
ラストで、カエサルがジュリアに「時を止めて」と言いジュリアが頷くと、カエサルとジュリアの子ども(赤ちゃん)以外が動かなくなります。
これは、ジュリア以上の力を赤ちゃんが持ってしまい、カエサルの言葉に反応して時を止めたいう解釈でいいでしょう。
つまり、体内にメガロンを持つカエサルとジュリアの間に生まれた赤ちゃんは、メガロンを体内に持って生まれたということですよね。
そうするとますますメガロンって何?
時間の止まった世界で唯一動くことのできる赤ちゃんは?
そもそも止まった時間はどのタイミングで動きだすの?
まったく関係ないけれどジブリアニメ「かぐや姫の物語」(高畑勲監督)のラストに出てきた赤ちゃんを思い出し、「2001年 宇宙の旅」(キューブリック監督)のスターチャイルドかとも思いました。
でも、意味もなく コッポラの作品は観たぞ、っていう満足はあります。
コッポラ監督もそうだったってだけのこと
近未来感があって、時を止める能力が出てくる。これってSFだよなと思いながら鑑賞。ローマ帝国に見立てたアメリカという設定だが、ローマ帝国自体にそもそもなじみがないからつらい。序盤から話がわかりづらくて眠気と闘うのに必死だった。両隣の人が序盤から結構寝ていて、俺だけじゃないんだなとものすごく共感した。
ユートピアを作ろうとする物語なのか、ローマ帝国の没落を暗喩した物語なのか、それともSF的な展開が待ち受けているのか戸惑いながら我慢しながら観るが、一向に方向性が理解できない。時を止める能力も本筋にあまり関係していない気がする。結局、富裕層同士で権力争いを繰り広げる中、ジュリアとの愛を育む話だった。若干なんだそりゃって気持ちになる。アートよりの映画は苦手だけど、コッポラの映画でこんな気持ちになるとは思わなかった。あなた、もう少しちゃんとした物語を紡いでいたでしょ!と思ってしまう。
スクリーンに映し出される近未来の都市はたしかに綺麗だった。でも、それだけで映画としての評価を高くすることはできない。ただ、コッポラなりに今のアメリカを憂いていることは伝わってきた。クローディオみたいな奴がトップに立つ今のアメリカは危険ということだ。
巨匠監督が晩年にひどい作品を撮るってのはよくあることと理解している。コッポラもそうだったってだけのこと。Mr.コッポラ、これは観ている人にはわかりづらいのでは?なんて言える人がいなかったんだろうな。
多分タイトルから想像するものと違うせい
古臭い感じが
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