メガロポリスのレビュー・感想・評価
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何だろうこの違和感
きめ細やかにー恐らく動作一つをとっても台本に書かれているのではないかと思うほど細かい演技をしている。(思わせぶりなだけかもしれないが)そのおかげか情報量多すぎて一回では理解できない。でも非常に疲れるので2回見たいとは思わない。
と、作りこみや映像はすごいのだがストーリーが謎すぎるほどつまらない。
疲れるうえに興奮の全くないプロットと、なかなかにお勧めできない。
55歳以下なら9.5割の人がフェイクだろうと思うような動画に警察までも騙されるとか、よほどリテラシーの低い製作者なのか見る側をアホだと思ってるのか。
さすがに3000年に紙の新聞はそんなにたくさんないよ。
中学生の考えるような世界観はよいのだがディテールがことごとく年寄りくさい。
コッポラ主催の宇宙規模のパーティに今回2度参加しました
世評はすこぶる良くないです。最寄りのロードショー館で、1週間での打ち切りを久々に体験しました。ゴールデンラズベリー監督賞にも選ばれていますし、やっぱりさもありなんなのでしょうか?
79年の「地獄の黙示録」は大傑作ですが、当時は賛否両論あり、「ワン・フロム・ザ・ハート」や「コットン・クラブ」でも巨費と作品の出来について、とやかく言われました。2007年の「胡蝶の夢」あたりから、コッポラはもはや異次元に行ってしまってるので、今更観客に寄り添って映画を作ろうと思ってはいないはずです。
メッセージを読み取るとか、暗喩やオマージュを探るのもありなのですが、巨匠による21世紀最大の私財消費イベントに、映画ファンとして敬意を表して参加するぐらいの感覚でよいのではないでしょうか。
上映時間も138分と苦行レベルの長さではないですし、権力抗争に関わるストーリーの本筋は意外と単純だし。
でもトランプ映画関税の発案者ジョン・ヴォイトが、ロビン・フッド役で分断を阻止するのはとても笑えます。
古代と未来の融合に見る堕落と救済の寓話
21世紀、アメリカ共和国。腐敗した支配階級によって荒廃した大都市ニューローマを都市計画局局長で天才建築家のカエサル・カティリナ(アダム・ドライバー)は、自ら発明した新建材メガロンを利用した新都市構想“メガロポリス”を提唱して再建をめざす。一方、新市長フランクリン・キケロ(ジャンカルロ・エスポジート)は、直面するニューローマの財政難という課題を現実的に解決しようと、カジノ建設を計画しカエサルと真正面から対立する。
時代設定と情景描写は
バベルの塔を想起する
本作の時代設定と情景描写の視覚的表現は、過去と未来、古典と革新の緊張関係の中に存在している。現実のニューヨークの象徴的な建物(クライスラービルなど)と古典的なローマ建築の要素を融合させることで、人間の傲慢さと創造性の両面を視覚的に表現しているようだ。主人公カエサルがクライスラービルの最上階に位置するアールデコ様式のスタジオからニューローマを見下ろす描写は、創世記のバベルの塔の物語を想起させられる。
古代と未来の融合という情景描写でけでなく、彼らの対立が単純な善悪の二項対立ではなく、両者とも完全に潔白でも完全に邪悪でもない複雑な描写がなされている。また、その対立の根底にある哲学的対話へと注目を向けさせる。
一例を挙げれば、カエサルがより良い世界を創造する必要性を情熱的に主張するのに対して、キケロ市長が「すべてのユートピアはディストピアの可能性を内包している」と鋭く反論する場面は、この映画の核心に迫る瞬間でもある。また、カエサルの恋人でもあるキケロ市長の娘ジュリア(ナタリー・エマニュエル)が、ストア派哲学者マルクス・アウレリウスの言葉を引用して父親の主張を補強する場面は、神の啓示なき世界での哲学的知恵の限界を示しているようにも見えて印象に残る。
「メガロポリス」のメッセージは
「神なき救済の不可能性」か
コッポラ監督は、共和政ローマの政務官ルキウス・セルギウス・カティリナ(BC.108ごろ~62年)が国家転覆を計画した『カティリナの陰謀』に関する本を読んだのをきっかけに構想40年かけ自らプロデュースして作り上げた一大叙事詩。その壮大なスケールと野心にもかかわらず、人間中心のユートピア構築の限界を示す本作は、意図せずして「神なき救済の不可能性」という重要な神学的真理を例証しているとも言えるだろう。古代ローマ帝国と現代アメリカの重ね合わせは、人間の本質的な罪深さが時代を超えて変わらないことを示しているメッセージのようにも聞き取れる。
イメージの奔流
つまらなすぎ
君がいないと何も創れない
こないだ鑑賞してきました🎬
アメリカをローマ帝国に見立てた壮大なストーリーですが、後半は微妙に分かりませんでした😅
カエサルが開発を進める
「メガロポリス」
は空想が現実になるほどの機能があるのか❓
カエサルの妻の死の真相は❓
最後まで見てもよくわからず😰
とはいえカエサルを演じるアダム・ドライバーが、眉間にしわを寄せて思い悩む演技は最早鉄板。
素なのではないかとさえ思います🤔
ナタリー・エマニュエル演じるジュリアとの仲の深まり方は、駆け足な印象ですが仕方ないですね。
ジャンカルロ・エスポジートは、カエサルと敵対するキケロ市長を濃い顔で好演🙂
なぜあそこまでジュリアと別れて欲しかったのか、いまいちわかりませんでしたが😅
オーブリー・プラザはカエサルの愛人ワオ🙂
今回は悪女役で、もともと鋭い目をしてるので違和感ない印象。
シャイア・ラブーフは、どうしようもないクローディオを憎たらしく表現してました😀
カエサルの運転手役をローレンス・フィッシュバーンが手堅く演じ、要所要所で光ります👍
この世界ではアーティストは時を止める力を持ってますが、それも肝心な時に使われず、若干消化不良になりました。
しかしコッポラ監督が私財をなげうってまで完成させた本作は、一映画人として見ないわけにはいきません🫡
惜しくもラジー賞を受賞してしまいましたが、それに対する監督のコメントは晴れやかで
「興収は所詮お金の問題に過ぎません」
とはっきり言えることに驚嘆。
映画もビジネスですから、赤字になるのは誰しも避けたいでしょう。
そんな中で、自分が作りたい映画を作ったコッポラ監督には、拍手を送ります🫡
SFが得意な人は、面白さが理解できると思います🙂
まさに巨匠の作品
亡きエレノア夫人に寄せる思い
コッポラ監督が、経営していたソノマのワイナリーを整理してまで、製作に漕ぎつけた、近未来のアメリカを舞台にした映画ながら、難しいと思った。3点に要約できる。
まず、我々にはなじみが薄いローマ史の理解が必要、哲学者キケロと彼が執政官の間に起きたカティリナによる政権転覆事件。これが第一層。
第二に、ローマで起きたことが植民地としてのアメリカに持ち込まれる。「地獄の黙示録」の図式。植民地ニュー・ローマ(NYを思わせる)では、ローマの矛盾が拡大する、社会構造の分離・格差。ただし、重要な変更が。キケロは現実重視の市長に。主人公カティリナは、理想派の市・都市計画局長に、カエサル(シーザー)・カティリナとして(ただし、ローマ史では、キケロは、必ずしもカエサルと対立したわけではない)。これが第二層。
さらに、カエサルが新建築素材を見つけてノーベル賞を受けたり、衛星が地球に衝突したり、多くのエピソードが洪水のように出てくる。しかも、彼の叔父の資本家クラックス3世と、その出来の悪い息子をはじめ、さまざまな親族とその関係者も。特に、主人公の前の恋人ワオが、クラックス3世の妻に収まるが、これが、カエサルの新しい妻になるキケロの娘ジュリアと似ているんだな(髪型は違う)。この三層構造を一回で判れと言われても。
混沌としたストーリーの進む中、心に残るのは、主人公カエサルが亡くなった奥さんサニー・ホーム・カティリナに寄せる思い。コッポラ監督のエレノア夫人に対する愛情を反映しているのでは。それから、すべての人々に長い命、正義と教育を、というメッセージ(ただし、いまさら感あり)。
日本に対する好意の表明も。Japan Unitは、おそらくローマ風の競技場で行われた格闘技に関与したのか、グレコ・ローマン・スタイルのレスリングには見えなかったから。カタカナ書きのプラカードや、サヨナラのセリフも。
では、最初から知識を以って観たらよいかと言えば、映画を最後まで観るには、興味を持ち続ける必要があるので、難しいところ。
未来の古典文学
冒頭から荘厳な画面と、ニューローマという設定、
人々の服装や建物などの美術がとても魅力的で引き込まれる。
正直最初の方は自分の良く知るエンタメ作品と違う雰囲気で
どのモードで鑑賞すれば良いのか戸惑ってた。
時間を止める能力も自分も止まるのか?そのあと動けるみたいだけどビルから落ちないのは何で?規則が良く分からん!と
マーベル作品を観るような感覚が抜けていなかった。
しかし市長とカエサルが直接対立する都市の模型のシーンで少し見方が変わった。
何かリアリティが無いな、セリフも演劇調だしと思いつつ
とにかく謎に足場が不安定すぎるのが超気になってた。
お年寄りも多いからムダにハラハラ…
でもここでふと"これはニューローマの現状の不安定さを表現しているのか?"と深読みし始めた。
ならこれは表現主義的な映画という事だから、画面で見せられる事もリアリティというよりキャラの感情や立場を象徴している意図的な絵造りだし
キャラクターも何かを象徴しているから生身の人間ぽさは薄めなのか?
と、勝手にこの映画を観るモードがカチッと固定された感じがした。
(合ってるかは分からない…)
特に印象的だったのは
金持ちたちの豪華絢爛さを表現する結婚式のシーン。
戦車あり音楽ありで本当にすごかった。
あとカエサルと市長の娘がカップルになってから
事務所で都市計画を練る様子が楽しそうな感じ。
スタッフの女性をみんなで持ち上げてるのとか何してんのか全然分からないけど、何か面白い。
ストーリーの展開の意外性で感情を揺さぶるようなタイプの映画では無いけれど、
とにかく各シーンに監督のアイデアが詰め込まれていて
豪華な空間のシーンもあれば、シルエットでグラフィカルに見せるシーンもあれば、光がひたすら美しい情景…と
何千枚も絵画を観ている様な感覚。
それが新鮮で飽きずに終始楽しく観れた。
そして最後は未来を担っていく世代のために、
対話によって良い世界を作ろう!という前向きなメッセージ。
この一見ありきたりなテーマ、でもそれが出来ていない今の世界情勢を考えると、
コッポラが私財を投げ打って送り出したこの映画をしっかりと受け止めたいと思った。
監督は自分のイメージを、
A302 ワオおばさん、ってなんか語感が面白い
2025年公開
欧米人は栄華に憧れる。その最たるものが古代ローマ。
文明が極限まで熟した、しかしこれは最後の輝きを放ち滅亡へと向かう。
サテリコン/フェデリコ・フェリーニ
コッポラってまだご健在でしたんですね。
ローマという言葉を使ったのはおそらく最高の栄華という意味を
なぞらえたものだと思う。
その中で一族をどう未来永劫的なものにするか。
子どもにジェームズカーンみたいな奴や
アルパチーノみたいな奴が出てくるのはお約束か?
にしても最初は入った映画間違えたか?と思うくらい
テイストが古いように映る。
あーアダムドライバー出てきた。よかった間違えてないわ。
しかし彼の出演ですぐ見たい、と思うのはアカンのかな
テーマは重いが少なくとも面白くはない。
ローレンスフィッシュバーンが出ると締まるけど
なんとなくネオと絡んでる感あり。
しかし時を止めるのが武器になったことってあんの?
ワタシが寝てた時に活躍したの?
メガロンもそやね。
雄大な抒情詩的な物語は好きなので退屈はしませんでしたが。
感想もまとまりがないなあ(笑)
音楽は雄大だったですね。
60点
鑑賞 2025年7月2日 アップリンク京都
配給 松竹
手を挙げずに会話しろ!
説教の様に語りかけるのだが、その方法を教えろっての! 話が通じない奴はどうパージすりゃいいんだ
で、結局文字通り吊し上げられているんだから、所詮暴力じゃん・・・
コッポラ監督最高の「自身」作
本作において前提としてお伝えしたいのは、フランシス・フォード・コッポラ監督が、莫大な私財を投じて創り上げた至極の作品である事が重要であると感じる。
そのため、通り一遍等な評価は正直難しいです。
大いなる実績と、それだけではなく自身の財産だけで創り上げた、まさに「自身の大いなる遺産と表現」を完成させた唯一無二の作品であるから。
同じことを成し遂げた監督は、他に知らないので。
それはまず伝えたいし、監督に敬意を表した上で、個人的な意見を記したい。
まずいきなり批判的な事で申し訳ないのだが、不覚にも物語の序章、開演後若干意識を失ってしまった(ウトウトしてしまった)。
壮大な世界観と、物語の大まかな雰囲気や流れは予測内だったので、主要人物の馴れ初めに少々ダレてしまった。
本作は大叙事詩。
当然、アクション性やエンターテイメント性は強くないので、「ダレて」しまう瞬間は少なくはない。
だが、非常に興味深く様々な考察が出来た作品でした。
個人的な作品に対する率直な思いは、
①戯曲的(シェイクスピア的)
②シャガール的
③社会風刺的
④現アメリカ政府に対する思いの表現
⑤未来に託す希望
……以上を感じた。
勢力争いから始まり、傲慢と欲望、喪失と希望、愛と転落、裏切りと逆転、再生と和解。
それら構図が、私の経験上は、多く朗読させていただいたシェイクスピアの戯曲が頭に思い浮かびました。
また、その中にシャガール的な映像表現なども感じてしまった。
なんと伝えれば良いのか難しいので割愛するが、あくまでも個人的な捉えとして、私の知るシャガールの人生と作風に重なった。
その中で、度々映像内にも載せられていたと思うが、大恐慌やリーマン・ショックなどの歴史的事件を感じさせる建物などが出現し、フィクションであるが現実の出来事を重ねている印象もありました。
また、リベラルな立場のカエサル、強硬姿勢的なフランクリン、虚像の権力に堕ちたハミルトン、ユダ的な立場のクローディオ、すべてを意のままに動かそうと悪女に堕ちたワオ。それらの思惑が複雑に絡み合い、正直、一回は破滅の勝利(カエサルの暗殺)に終わったが、そこから奇跡の復活により第二の物語、不義の失墜と対立権力の和解と未来への希望で終演。
その流れが戯曲的で、そして現アメリカ大統領に対するメッセージ性と、希望の復活の願いも込められているのではと、非常に勝手な妄想を膨らませてもらいました。
途中「クスリ」による幻想と怠惰的な表現は、少々よくある混沌表現なので少々ダレました。
また、結局のところ「メガロン」の存在が建築にはどの様に活かされたかが理解しきれなかった(メガロンの偉大さはカエサルの奇跡の復活に感じ、また、カエサルの描いた未来構図の現実としての稼働は、メガロンが無いとなし得なかったとまでは響かなかった。あのエスカレーターはメガロンの力かなと思いました。)。
ですが、最後は決別や破綻では無く、和解と希望で締めくくっての終演でしたので、最終的には様々な考察と監督の世界観を心地よく体感し、観終われた作品でした。
あと、タリア・シャイアさんが出演していたことが、非常に感慨深かった。
もしかしたら、コッポラ監督は、叶うなら他のキャスティングを思い描いてたのかもしれない……。
本作は、普通の作品とは「土俵」自体が異なると思うため、エンタメ性(万人受けする映画)としては星3.5ですが、フランシス・フォード・コッポラ監督の全てを込めた作品としては、文句無く星5です。
映画館で観れた事は、非常に意味があり良かったと思います。
おん年86歳にして未だ青春まっ只中にいる稀代の映画バカ フランシス•フォード•コッポラが未来に残す渾身のメッセージ
エンドロールが終わって腰を浮かせかけたとき、近くの席にいた70代半ばぐらいの恐らく夫婦連れの二人組の男性のほうが奥様とおぼしき女性に言った言葉が耳に入ってきました。「コッポラもこんな映画を作ってるようじゃ、もうダメだな」(女性のほうはそれに頷きもせず、聞き流してるだけの感じでしたが)。それを聞いて、まだラストシーンで流した涙が乾ききっていなかった私は心の中で悪態をついたのでした。「こら、爺ィ、わかったような口をきくんじゃねぇ」
人間、年取ってくると、したり顔でわかったような口をききたくなるものです(と、自戒の念を込めて日頃の言動を反省しております)。でも、コッポラはこの物語を語るにあたってわかったような口をきくことなどいっさいありません。老人特有の分別臭さなど微塵も見せずに、未来を、夢を、理想を熱く語ります。このあたりが、比較して申し訳ないのですが、同じくアメリカについて語りながらも、したり顔でわかったような口をきいてる風の『シビル•ウォー アメリカ最後の日』とは大きく異なるところです。この『メガロポリス』のほうに作り手側の志の高さをより強く感じます。
物語はニューヨークをモデルにしたと思われる近未来都市 ニューローマ(英語の発音に近いカタカナ表記はニューロウムなんでしょうけど)を舞台に展開します。主人公はメガロンという新素材を開発したことによりノーベル賞を獲った天才建築家のカエサル•カティリナ(演: アダム•ドライバー)。この名前は古代ローマ史上の人物ふたりの名前の組み合わせですね。他にもキケロやらクラッススやら、古代ローマゆかりの人名が出てきます。私も以前は公共貸本屋(またの名を図書館という)を利用して塩野七生のローマ人の物語なんぞを読んだこともあったのですが、通しで読んだわけでもなし、何よりも忘却の彼方でローマ史なんてあやふやそのものです。この物語のストーリーを理解するのにローマ史の知識はあったほうがいいかと訊かれたら、まああったほうがいいかもしれないけど、どっちでもいいんじゃないという答えになると思います。そもそもこの物語が史実に沿って進むわけではないし、これを観た西洋人のなかでも古代ローマの歴史にとことん詳しい人などほんの一握りでしようから。
でも、やっぱり、前半部分のストーリー展開はわかりにくいです。出来の悪いバットマン映画でゴッサム•シティの偉いさんたちが権力争いをしてるみたいな図なのですが、コッポラ監督がいろいろなシーンを挿入してきてさらにわかりづらくさせています(それでも評価は下げませんが)。まあでもこのあたりの擬古典調の絵作りには妙に心惹かれるものがありました(特に結婚式のアトラクションのあたり)。
次に、ストーリー展開にはあってもなくてもまったく影響のなかったカエサルの特殊能力について。カエサルが気合いを込めて「時よ、止まれ!」っていうと本当にこの世界の時が止まってしまって、ゆびをぱちんと鳴らすと元にもどって世界が動き出すという…… その昔、スーパージェッターという漫画で、30世紀の未来から時の流れをこえてやってきた少年がいて、彼はタイム•ストッパーという道具を使い……長くなるので以下略
このカエサルの特殊能力ですが、よく考えてみるとなかなか奥が深いです。コッポラは映画という形式で表現活動をしているわけですが、この映画や演劇、音楽、文学などの「時間芸術」では時間をコントロールしています。例えば、約2時間の長篇映画で百年にわたる物語を表現することもあれば、一晩の出来事を表現することもあります。これに対して、絵画、彫刻、建築などの「空間芸術」では静的な状態で空間を使って表現します(絵画や写真の場合は二次元ですが)。例えに写真を使うとわかりやすいと思いますが、移ろいゆく時間の一瞬を切り取って表現しています。そう、空間芸術の芸術家は時を止めることができるのです。カエサルは建築家です。物語の中の彼の時を止める能力は芸術活動のメタファーだと思います。ということで、このカエサルの特殊能力はコッポラの芸術家としての矜持と芸術の可能性は無限にあるのだよということを伝えたかったのではないかと思った次第です。
それにしてもコッポラさん、伝えたい思いが溢れてるみたいで交通整理ができてない感じでストーリーが大渋滞しておりました(それでも評価は下げませんが)。
そして、未来に残したいメッセージ。みんな、この宇宙船地球号に乗り合わせた仲間なんだから、分断を乗り越えて対話して手を携えて未来に向かって前進してゆこうよ、みたいな感じで、まるで青春まっ只中の高校生が世界平和デーとか世界環境デーとかに寄せた作文で書くような内容で、コッポラのおっさんよう、お前さん、いったい幾つなんだよ、と涙が止まらなくなりました。やれ、コスパだの、タイパだの、何かと効率やら、要領やらがハバをきかせる このご時世に、悠々自適の生活をしていてもおかしくない、功なり名をとげた感じのある ご老人(失礼!)が自分には伝えたいことがある、表現したいことがあると、私財を投げ打って新たな作品を世に問う…… そこに、永遠の映画少年にして正真正銘の稀代の映画バカの姿を見た思いがしました。
席から立ち上がった私は潤んだ目元をぬぐい、先ほど見知らぬ紳士に心の中とはいえ悪態をついたことを反省し、出口に向かう廊下の途中で振り返ってちらっとスクリーンのほうを見て「今日はどうもありがとうございました」と心の中でつぶやいて家路についたのでした。
わからないことだらけ
観終わった後、隣の初老男性が「1,300円損した」と言っていました。すぐにそう言い捨てることには躊躇しますが、とにかく、わからないことだらけの映画でした。
カエサル(シーザー)・カテェリーナやフランクリン・キケロ、ハミルトン・クラッスス3世など、古代ローマの錚々たる人物を彷彿とさせる登場人物の関係や歴史的背景がわかれば、少しは理解できるかと思いましたが、そんなこともなく、第45回ゴールデンラズベリー賞の最低作品賞にノミネートされたのもうなづけます。
いろいろなシーンがつながらないで飛ぶこと、「時」をコントロールすることが、物語のストーリーとどのように関係するのかがわからないこと、など本質的なところで、理解が追い付かないのです。
『キネマ旬報』に載っていた、フランシス・F・コッポラのインタビュー記事を読むと、「現代のアメリカは古代ローマと酷似しており、腐敗した民主主義がファシズムに陥らせないことは、政治家ではなく芸術家の使命であり、芸術家は常に時をコントロールしてきた」とあります。
言いたいことはわかるのですけど、残念ながら、映画を観ただけではそれは伝わってきませんでした。
全160件中、21~40件目を表示