劇場公開日 2025年2月28日

「祝!アカデミー賞5冠! とびきり魅力的な女優の演じる、最高のタフ・ヒロインに乾杯!」ANORA アノーラ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0祝!アカデミー賞5冠! とびきり魅力的な女優の演じる、最高のタフ・ヒロインに乾杯!

2025年3月4日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

祝! アカデミー作品賞&主演女優賞(他)受賞!!
というわけで、さっそく行ってきました。

いや、マジで普通に面白かったは面白かったけど……
よくコレで獲れたな、アカデミー賞!!!
ファ●クって叫ぶか、
ファ●クしてるかだけで
ほぼ出来てるような映画で(笑)。

でも、まあ一周回って、
これがポリティカリー・コレクトの
最前線なのかもしれないと思ったりもして。
「ど真ん中の女性映画」って意味では、
きちんと近年の流れを汲んでる気もするし。

とにかく、アノーラによる、
アノーラのための映画。
あるいは、
マイキー・マディソンによる、
マイキー・マディソンのための映画。

このとびきり魅力的な女優による、とびきり魅力的なキャラクターを堪能するためだけに供される140分。いろいろ面白いこともあれば、意外なことも起きるけど、一本「アノーラを見せる/アノーラで魅せる」という部分では、しっかり筋が通っている。

生命力にあふれ、逆境に負けない、不屈のヒロイン。
彼女はたしかにストリッパーだし、エスコート・ガールではあるけれど、間違いなく、グロリアや、ウォシャウスキーや、サラ・コナーや、リプリーや、フュリオサにも負けない「タフなヒロイン」だった。

アノーラは、タフだけど、思いっきり女としてふるまう。
(男のように強い一世代前のタフ・ヒロインとは毛色が異なる)
アノーラは、セックスを一切タブー視することなく、
コミュニケーションの手段として用いる。
(男性を寄せ付けないようなタフ・ヒロインとは対極の存在)
アノーラは、刹那を愉しみ、ピンチにひるまず、状況の変化に即応する。
これこそはある意味、「強い女」の「最新形」なのかもしれない。

― ― ― ―

お話としては、『プリティー・ウーマン』かと思って観に行ったら、途中でタランティーノみたいになったでござる、といった感じで、一見かなりの「変化球」にも見える。

だが、考えてみると、
ロシアのバカ息子も、アノーラも、
大富豪の子分たちも、アノーラの同僚たちも、
出てきたときからキャラクターには嘘偽りがない。
ずっと、そのままのキャラクターだ。

お話の都合でキャラ変したり、隠されていた秘密が明かされたりはしない。
契約恋人としてのバカ息子も、
結婚相手としてのバカ息子も、
ビビッて逐電するバカ息子も、
親の前でしおしおのバカ息子も、
ちゃんと一続きのキャラ付けになっている。
どのキャラも、それぞれのシチュエーションで、そのキャラが取るであろう行動を必ず取る。事前にインプットされた性格と個性に反した行動を決してとらない。そのせいで、最初に期待されたラブ・ストーリーは、オフビートな捜索劇へとおのずからツイストしてゆかざるをえない。

要するに、本作のキャラクターは脚本の傀儡ではない。
ドラマツルギーの奴隷ではない。
むしろ、キャラクターに合わせて、
物語が脱線し、妙な方向に地滑りを起こし、
先読みの出来ない方向へと突き進んでゆく。
そんな感じだ。
この映画では、ストーリーがキャラを動かすのではない。
キャラクターがストーリーを動かすのだ。

― ― ― ―

昔から「聖娼婦」「無垢なる娼婦」が出てくる文学や映画は結構あった。
それこそ、大昔の小デュマの『椿姫』やモーパッサンの『脂肪の塊』だってそうだし、僕の大好きな映画でいえば、『カリビアの夜』のジュリエッタ・マシーナとか、『ケーブル・ホーグのバラード』のステラ・スティーブンスとかだってそうだ。
だいたい、レオーネやペキンパーの映画に出てくる女は娼婦で、ただ男を包み込み癒してくれる、都合の良い母性的な存在として描かれる。

本作のアノーラは、さくっと仕事としてセックスするし、追いつめられるとヤマネコのように暴れて抵抗するし、いざ「イヴァンを捜索する」となったら先頭に立って探して回る、痛快でパワフルな女性である。
しかしその一方で、彼女は最後までイヴァンのプロポーズと誓約を信じようと努力するし、結婚という手に入れた紙切れ一枚の幸せを必死で守ろうとする。
彼女は一見すると、世慣れていて、計算高く、打算的な女性に見えるかもしれないが、同時に、純で、夢見がちで、ピュアなところが色濃く存在している。
彼女のまっすぐさと、まつろわない独立心と、恋を信じる乙女のような純情さは、彼女もまた「聖娼婦」の系譜に連なる存在であることを示唆している。

― ― ― ―

この映画の特徴を一言でいうと、
前半はとても70年代的。そして、後半はとても80年代的だ。

とにかく、この作品の登場人物は、のべつタバコを喫う。
浴びるように酒を飲む。罪の意識もなくドラッグをやる。
やって、やって、やりまくる。
刹那主義。快楽主義。反道徳。乱痴気騒ぎ。
思いつきでの行動。その日暮らしの逸楽。

このはちゃめちゃなノリは、僕たちに60~70年代のロックスターや、グルーピーや、ラス・メイヤーに代表される幾多のエクスプロイテーション・ムーヴィーや、ヒッピー・ムーヴメントの時代を容易に想起させる。
アノーラとイヴァンが過ごす蜜月を描く、アッパーで、カラフルで、夢のようなシーケンスは、『ゾンビ』で主人公たちが、無人のスーパーマーケットを満喫するシーンを彷彿させる。
自由と、快楽と、解放の正当性を信じた時代の香りがする。

一見すると、最近の息苦しいポリコレへの痛烈な皮肉を思わせる部分があるが(考えてみると、『ブルータリスト』の主人公も、異常なチェーン・スモーカーで、飲んだくれで、ドラッグ中毒だった)、ああ見えて酒もタバコも一切やらない、ドナルド・トランプへのシニカルな当てつけの部分もあるような気がする。
セックスワーカーを主人公に据える大胆さや、しきりに「避妊」を強調するところ、「結婚」という制度自体を徹底的に軽んじるような作りなども、共和党的な宗教保守の道徳観・結婚観をひたすらおちょくっている気配がある。
ここでショーン・ベイカーがやりたかったことは、きっと70年代的な理想主義の復権と、宗教保守の立場から切り捨てられるような人々の復権なのだ。

ただ、この夢のような時間は前半であえなく終わり、中盤にさしかかると、アノーラとイヴァンのもとに切実な現実がふりかかってくる。
ただし、その現実は必ずしも重々しくはなく、むしろ滑稽で、テンポ感があって、それはそれで賑やかである。
徹底した軽口の応酬。ドタバタのスラップスティック。
コワモテ連中のぶっとんだ、ずっこけ演技。
このノリは、まさにタランティーノやコーエン兄弟、あるいはその先達としてのスコセッシのテイストに近しいものだ。
すなわち、70年代の「子供じみた夢」が醒めて、
80年代の「ひねくれた笑いと暴力」の波が押し寄せてくる(笑)。

― ― ― ―

中盤戦の、三バカコンビとアノーラが繰り広げる渾身のコントは、最高に笑える。
個人的にこういうバカな映画は大好物なので、あのあたりは本当に面白かった。
他のお客さんも、結構楽しんでいた気がする。僕の観た調布の映画館は、ふだんからあまり反応の良い映画館ではないが、それでもそこかしこで、くすくすと笑いが起きていた。

基本は、おバカなスラップスティックなのだが、意外によく考えられているとも思う。
今のアメリカから見た、ロシアの立ち位置とか、オリガルヒの立ち位置とか、ロシアン・マフィアの立ち位置とか、ロシア正教の愚かしさとか、そういったものが結構生々しく反映されているし、そういった有象無象をニューヨークの街がどう受け入れていて、ラスベガスの街がどう受け入れているかという社会批評にもなっている。

女性映画の観点でいえば、ロシアン・チームは3人ともアノーラの反撃に遭ってボコボコにされながらも、専守防衛に徹して、決して怒りに任せて殴ったりはしない。最後のラインで彼らがコミックリリーフとして「観てほしいタイプの観客のヘイトを集めない」よう、ぎりぎりの一線を保っている。
(僕が普段好んで観ているようなクズ映画では、反撃した瞬間に殺されるかレイプされるのが落ちである(笑)。)
かわりに「ヒロインもボコボコにされる」という結果を引き出すために、「男に手を出させるわけにはいかないから」あのストリップ・バーでのダイヤモンドちゃんとのキャットファイトが挿入されるというわけだ。ね、考えられてるでしょう?

トロスのキャラクターも絶妙だ。コミュニティで尊敬される名士でありながら、ボスのロシア人富豪ザハロフには絶対服従。自分の管轄下でイヴァンがバカをしでかしたことに本気でビビりまくっている。ああ、なんかこういうの観たよなあと思ったら、たぶんこれ日本の任侠映画に出てくるNo.2とか意識してるんだろうなあ。
あと、相手につっかかるように同じセリフを何回も繰り返す演技プランは、スコセッシ映画におけるロバート・デ・ニーロや、タランティーノ映画におけるハーヴェイ・カイテルのそれを想起させる。
ちなみに僕はアカデミー賞助演男優賞にノミネートするなら、イヴァン役のマーク・エイデルシュテインやイゴール役のユーリ・ボリソフより、トロス様役のカレン・カラグリアンに一票を投じたいと思う(笑)。

― ― ― ―

後半戦について何が起きるかについては、ここでは敢えて触れない。
なんとなく「浮かれ立った70年代」が、本当は幼稚で子供じみた夢に過ぎなかったという現実が明らかになり、代わりに、暴力を笑いに転化する80年代的なシニズムが台頭する、といったところか。とあるキャラクターの「不在」と、再び現れたときの幻滅するような「オーラの陰り」は、そのまま70年代の栄光と失墜のメタファーのようにも思える。

そのなかで、ヒロインは翻弄され、抗い、叩きのめされる。
現実はシビアで、残酷だ。
だが、救いもないではない。
一生懸命に生きている人間には、
それなりに、見ていてくれる人もいたりするものだ。

あのラストシーンについては、フェミニスト寄りの論客のなかで、意見が分かれるかもしれない。男性性へのすり寄りだとか。最後に男にああされて、ああなっていいわけ? みたいな。
でも、僕は、あれはあれでとても良い終わり方だったと思う。
アノーラは、とにかく頑張った。
頑張って、頑張って、頑張って、最後はああなった。
でも、あれは「負け」ではないし、
「すがった」わけでもない。

彼女は、ああいうコミュニケーションしか取れない。
だから、身体を使う。相手は、それを最初、拒まない。
でも、途中で辞めさせる。
彼は、彼女を「使った」わけでもないし、
「なぐさめた」わけでもない。
だけど、なにかがふっと腑に落ちて、アノーラは●●のだ。

ちゃんと見てくれていた人がいて。
名前の由来まで気にしてくれていて。
なにより、ヤマネコのような彼女が、
相応に傷つき、ボロボロになっていることをわかってくれていて。
そんな彼を、「アノーラのほうが」使った。
そういうシーンだ。

僕は必ずしもあれが、二人に新しい物語が始まるエンディングだとも思っていない。
むしろ、あのあと、車のドアを開けて「じゃあね」――それでいいような。
傷ついた自分を自認して、ひとしきり胸を借りて、すっきりして、またひとりで歩いていく。それでいいのではないか。
そのほうが、アノーラらしい終わり方のような気がする。

ちょっと驚くようなエンドロールの演出も含めて(あと短いのが良い!)、くっだらないおバカな映画のわりに、とてもちゃんとしたものを観たように錯覚させる、ずるがしこいエンディングだったようにも思う(笑)。

― ― ― ―

この映画の本当に良いところは、人を責めないところだ。
セックスワーカーを責めない。
オリガルヒを責めない。
適当な奴、逃げる奴、イエスマン、バカな奴を断罪しない。
自分と違う人間を貶めない。

なんでも断罪する。右にせよ、左にせよ。
これこそが、いまの世の中が息苦しくなっている最大の要因だ。
そんなあり方から逃れているからこそ、『アノーラ』は最終的に賞を獲れたのだと僕は思っている。

じゃい
talismanさんのコメント
2025年3月5日

じゃいさん、映画監督は色んな映画見てること必要じゃないかなあと思います。映画が好きでなきゃ!いろんな映画見てなきゃ!そして、お!と思う俳優見つけるとか!なーんて素人だけど思います

talisman
talismanさんのコメント
2025年3月4日

うぇ~ん、素敵なレビューに心から共感いたしました。

talisman
humさんのコメント
2025年3月4日

可能性大ですね。
心しておきます〜

幸か不幸かそれはさておき…アノーラのサバサバした性格がスポーティー寄り効果を発揮したか😏
なんてね。

hum
humさんのコメント
2025年3月4日

なんとも、納得レビュー!
ラストシーンについては特に大共感です。
その後についても大賛成でした。

hum