「あらゆる差別と密接に関わる性産業における表層のシンデレラ・ストーリー、その見せかけっぷりをブチ壊して告発する」ANORA アノーラ とぽとぽさんの映画レビュー(感想・評価)
あらゆる差別と密接に関わる性産業における表層のシンデレラ・ストーリー、その見せかけっぷりをブチ壊して告発する
夢の続きとその残酷さ。市井の人々というよりもっと底から、性産業に携わり日々生きていくのがやっとな貧しい人々の眼差しを通してアメリカを描きえぐり出すショーン・ベイカーの一貫した作家主義で描かれる、アメリカンドリームならぬロシアンドリーム(?)なプリセンスストーリーのその先…クソ食らえ!笑わせては観客の心を傷つける鬼才、そんな監督らしい現実のアンチシンデレラ・ストーリーだ!! それを象徴するように、ポスタービジュアルに使われているシーンが幸せ絶頂のはずなのに、後ろに見える花火は天井(張りぼて)。つまり、誰も祝福していない移民などへの人種差別に、性差別、職業差別。
彼女は信じたかった(それでも信じようとし続けた)!他人に言われるがままのキャラクターじゃなくて主体性があるのがいい最高にパワフルで魅力的なアノーラを演じるマイキー・マディソンの体当たりな熱演が引っ張り、甘やかされたボンボンクソガキのイヴァンを演じるマーク・エイデルシュテインのノリノリな好演による2人の化学反応を楽しみ、そして目を見張る出来の中盤怒涛のスラップスティックコメディ的ドタバタパート(最高にエネルギッシュだけど編集が上手くて見やすい)から観客に近い視点になっていくイゴールに親しみを覚える。インティマシーコーディネーターを使っていなかったことが発覚して問題になっている本作だけど、自分にとってショーン・ベイカーとは評価されるラリー・クラークみたいな印象だったから、そこはちゃんとしてほしかった思いがある(たとえ役者本人が要らないと言っても)。
金持ちや権力者、一部の特権階級にとって、いかに取るに足らない・替えが利く存在か。なんてことない屁でもない様子で、消費するだけしては、時が来ればあっさり平然と使い捨てる。すべては鶴の一声ならぬ王様の気分次第で決まる怖い社会の縮図。豪邸で働いている掃除婦の人に、"アニー"ことアノーラを重ねられるようだった。きらびやかな"性"か、地味な清掃という違いだけで表裏一体のような。口封じや自分の思い通りに動かすにはとりあえずカネをばら撒いておけばいいと、本人にたとえその気がなくても結局のところ使用人が広義となった駒としか思っていないような。そんな蔑ろにされた扱いなんてガマンならない、リスペクトが肝心だ!彼等は『千と千尋の神隠し』湯婆婆よろしく、名前を剥奪しオマエ(私)は何者でもないのだと、惨めな思いにさせるかもしれない。主人公自らアニー呼びで通しているわけだが。アメリカでは疎かにされがちな名前に込められた意味を理解し、正しい名前で呼ぶこと。それは、光。
彼女がアメリカナイズドされた簡素な呼び方で通して、美しい名前なのにそれを恥じて本名を名乗りたがらないこと、ロシア語を話たがらないこと。監督がロシア人の大富豪を選んだ理由を含めて、そこに込められた意味は何だろうかと考える(作中にヒントが散りばめられているのに見逃している可能性もある)。ロシアに限って言えば、ウクライナ侵攻やプーチンのヤバさからか?…など邪推せずにはいられない。あと、ロシア系アメリカ人だけど名前はロシア語だし歴史の浅い移民なのか、両親不在の意味も…。だけど、如何なる理由があっても、己のバックグラウンドやアイデンティティーを恥じて生きることなんて悲しく辛いことだ。自分を知らないこと、自分を大事にしないこと。利用されないようにするには、先ず自分を知って、大事にする。性を介してしか他者と繋がりを持てないのか?