「期待度◎鑑賞後の満足度◎ お見事!『黒いオルフェ』の再来かと思た。同じくフランスの監督というのは偶然?現代社会にギリシャ悲劇を蘇らせてミュージカルにした、様式も内容も重層的な映画。」エミリア・ペレス もーさんさんの映画レビュー(感想・評価)
期待度◎鑑賞後の満足度◎ お見事!『黒いオルフェ』の再来かと思た。同じくフランスの監督というのは偶然?現代社会にギリシャ悲劇を蘇らせてミュージカルにした、様式も内容も重層的な映画。
※2025.03.29. 2回目の鑑賞。【ユナイテッド・シネマ橿原】
①今年前半で最も観たかった映画。期待以下では勿論なかったけれども期待以上でもなかったという微妙な感想だけれども、特筆すべき映画であることは間違いない。
②同じミュージカルと云っても、ヨーロッパのミュージカルはアメリカのミュージカルとは方法論的にも思想論的にも別物だと改めて思わされた(アメリカのミュージカル映画はそれはそれで勿論大好きですよ)。
前半三分の一は映画全体の中でもシリアス度が低いが(枝葉=伏線は色々あるけれども、話はアンテスが女性になるまでをほぼ一直線で叙述)、姓適合手術をミュージカルシーン(このシーンは面白い)にした映画は初めて観たし、アメリカのミュージカルではこの発想は無いだろう。
キリスト教が無かった紀元前のギリシャ・ローマでは性への理解は柔軟で多様性があったから(現代ヨーロッパは世界に先駆けて性の多様性を認めているけれども、根底にはギリシャ・ローマのそういう思想があるからかもしれない。日本の古代は性に対する考え方も非常に寛大で柔軟だったのに何故ヨーロッパみたいにならないんでしょう。“異性婚が日本の伝統です”なんて宣う某政党の議員先生など“日本の歴史(学校で教える程度のものではなく本当の歴史を)”を勉強しているのかい?と言いたい)、そういう点でもギリシャ悲劇みたいという感慨が沸いたのかもしれない。
③第一部では、ほぼ冒頭のリタが繁華街(というより屋台街という方が良いか)で群衆と歌い踊るシーンや上記の姓適合医院でのシーンも印象深いが、最も心を動かされたミュージカルシーンは、リタとワッセルマン医師とが掛け合いで歌い合うシーン(相聞歌みたいな感じ、二人は恋人でも何でもないけれども)、この映画のテーマの一つを代弁しているような歌詞の内容“Lady”。
④元メキシコの麻薬王だったトランスジェンダーの女性が主人公のミュージカルということが最も観たかった要因の一つだけれども、一方、過去麻薬に関わっていた人(しかも麻薬王)の話をミュージカル(ここでは未だ、明るく楽しいアメリカ型のミュージカルという概念を引き摺っていた)にして良いものだろうか、麻薬王なら取引の中で非道なことをしただろうし、売りさばいた麻薬で人生を破滅されられた人達は沢山いるだろうに、それをお気楽なミュージカルの題材にして良いのだろうか、という一抹の反発心もあった。
しかし、第二部に当たる部分ではその反発心を緩和する展開となる。
本人は後悔し続けていると言っているが、勿論、エミリアが“男”の時に犯していた罪は許しがたいし償いようがない。
しかし、“女”となったエミリアは過去の罪の償いという動機は勿論あっただろうけれども、“女”になって真に女性たちの哀しみや苦しさに思い至り見過ごせなくなったのではないだろうか。
“男”の時は「悪」、“女”のときは「善」とはやや安易な対比とは思うが、エミリア(マニタス)が“男”としてしか生きられない世界・社会でサヴァイブするためには「悪」の道を上り詰めねばならなかった、とは逆に其のような世界・社会での“男”として生まれたことの生きづらさ/不自由さを語っているかも知れない。
と共に、“男”(悪人だったけれども)であったときであれ、“女”になってからであれ、其なりの存在になる・地位につく、には相当の勇気と意志、行動力が必要だから、人間としてなにかを成し遂げるのは性別ではなく、その人の意志・行動なのだということを改めてエミリアの姿を通して再確認した思い。
とはいえ、本当になりたかった自分、“女”に成れたとは云え、人間としての本性はなかなか変えられないもので(これも性差に関係なく、また性を変えたことで変わるわけでもない)、チャリティーコンサートで資金を集めるためには麻薬密売人や悪徳政治家、悪徳実業家を平気で招待してしまうエミリア。
其に対する不満と汚れた金を生み出す輩への怒りを爆発させるリタの圧巻のダンスシーンは本作のテーマの一つでもありクライマックスでもある。
⑤そしていよいよ(ある意味予想されたものではあるが)悲劇が訪れる…
「全てを捨てても女になりたい」と言ったマニタス/エミリアではあったけれども、子供を手元に置いておきたいという欲望には勝てなかった。
無事(ではないか…)“女”になれた、という安堵感や達成感からの驕りか、私は親になったことがないので分からないが、親となった人間が持つ根元的な欲望なのか、「何かを得るためには何かを犠牲にしなければならない」という人生のルールを自分から破ってしまったエミリアに災いがやがて降りかかる不穏さは初めから付きまとってはいた。
愚かと捉えるか、人間らしさと捉えるかは人それぞれだが、これが人間の業だとしたらやはりギリシャ悲劇を想起させる。
ジェシーに打ち明ける、という選択肢は有ったようには思うが、ジェシーには理解できず子供と共に逃げてしまう、というリスクをおかしたくなかったのか…
エミリアが誘拐された時、暴力を嫌っていた筈のリタが、身代金と共に武装した一団を躊躇いもなく準備したのには少々驚いたが、メキシコでは「誘拐=殺される」というのが常態化している為だろう。
リタガ目撃したディスコでのジェシーとグスタフとのデュエットシーン、特にジェシーと女性ダンサーたちとのダンスシーン(“Mi Camino”)は、妖しく眩しく、ある意味悲劇の幕開けには相応しい。
⑥忘れ難いシーンやショットが幾つかある。
エミリアとリタとが残された家族の為に行方不明者捜索のNGOを立ち上げた後、ボランティアや家族達が「ここに来た」と歌い出すミュージカルシーン(“Para”)の最後の、黒い背景に歌う子供達の顔顔が星のように浮かび上がるシーン。
エピファニアの家で初めて外泊した朝、キッチンに徐々に日が差してきて明るくなっていくシーンの柔らかな美しさ。
その後、エミリアとエピファニアが相聞歌(こちらは意味通りに)のように掛け合いで歌い交わす“El Amour”のシーン。本作で最も心優しく美しいシーンだ。
トランクにエミリアを入れたまま、ジェシーとグスタフを乗せた車が崖から転落し、暗闇の中で光る赤いヘッドライトにカメラが近づいた一呼吸後で爆発してスクリーンいっぱいに紅蓮の火が燃え上がるシーンの美しさ。
⑦本作でアカデミー助演女優賞に輝いたゾーイ・サルダナ扮するリタ役はは本来主役だと思うが(正確にはカンヌで獲得したアンサンブル演技賞が最も妥当だろう)、エミリアの誕生から死までを見届けた傍観者という立ち位置から助演扱いにされたのだろうか。
ゾーイ・サルダナとしては『アバター』『ガーディアン・オブ・ギャラクシー』に続く代表作の誕生である。
リタは知的で理性的で勇敢な女性である一方、俗っぽいところや人間臭いところもある(金銭欲に勝てなかったり贅沢したがったりお尻の弛みを気にしたり)女性として役柄に血をを通わせミュージカルシーンの熱演も合わせて見事な演技である。
カルラ・ソフィア・ガスコンは好演だが名演とまではいかないな、と思いつつ観ていたが、ジェシーと口論した後、“母親でもないくせに”というジェシーの悪態を背にしながら歩いてくる時の表情が凄い(マニタス/エミリアが合体したような、『マジンガーZ』のアシュラ男爵のような、『王女メディア』の逆バージョンのような)、あの表情だけで賞ものである。
そして悲しいかな、性を変えても身に染まったものは洗い落とせないのか本性だったのか、エミリアはマニタスだった時にしていた事を繰り返してしまう(まあ、マニタスだった頃だったら殺していただろうから少しは慈悲も持つようになったのか)。
グスタフを痛みつけたうえ金でカタを付けようとするが、怒ったジェシーは黙って子供達を連れ去ってしまう。
また、その報復且つ帰って来ざるを得ないようにしたのかジェシーに残した財産を凍結するエミリア。
こうなったら最早形を変えた元夫婦の親権争いとしか見えない。間に入るリタは元より弁護士という皮肉。
コメディにもなりそうな展開だが、予想を裏切り此処からクライムサスペンスに一転する。
セレーナ・ゴメス扮するジェシーも最初は犯罪組織のボスの如何にも妻という感じのステレオタイフの“女”として登場する。
しかし、本作はジェシーをそういう“ステレオタイプの女”という型にはめて卑下してはいない。
誰の庇護下にあっても其れは結局籠或いは牢獄の中にいることと同じと感じ、自我に目覚めていくジェシー。
”妻“や“母”である前に“自分”であることに目覚めたジェシー。
そういう意味では“夫”や“父”であることよりも先ず“女”であることを優先したマニタスと似ているとも云える。
又、彼女も或る意味では良くも悪くもマニタス/エミリアのエゴにより人生を変えさせられた被害者とも言える。
「何かを得るためには何かを諦めざるを得ない」「自分(エゴ)を貫き通すことが誰かを傷つけることになる」…
人間が生きていくということは事ほど左様に切なく哀しいものなのか…
♪崖から落ちても良い…自分の崖だから…♪(“Mi Camino ”)と、嘗ての夫と愛人と共に崖から落ちていったジェシー…
⑧こう見てくると、マニタス/エミリアもジェシーも愚かであり哀しい。
“自分”を生きたかっただけなのに身の破滅を招いてしまった…
それでも人間は“自分”であることを求め続けるものであるのかもしれない、良くも悪くも…
そういう意味で、本作は性転換した元麻薬王をめぐる物語をミュージカルという形式を取って描いた映画という枠を突き破って、全ての人間(♪Ladies and gentlemen and everyone in between and everybody no one has ever been♪)の持つ人間根源の業を見つめた一大エンターテイメントだとも言える。
⑨ラスト、エミリアは生前の善行から知己の人々から聖人のように讃えられる(案外聖人というのはこんな風に創られるものなのかも知れない)…
しかし誰も本当のエミリア・ペレスを知らない(恐らくリタ以外は)…
エミリア・ペレスは美しく賢く強く気高く優しく、でも愚かで醜く弱くて冷たくて俗っぽかった(つまり業を背負った普通の一人の人間だった)…そして残ったものは嘆き…
やはりギリシャ悲劇だわ…
⑩本編を挟むブックエンドのような役割を果たしている冒頭とラストに聞こえる廃品収集車のマイクから流される呼び声とそれをそっくりなぞったコーラスは、消費社会である現代に対する鎮魂歌であると共にギリシャ悲劇のコロスのような効果を上げている。
※追記:歌詞の意味・内容を字幕からではなくダイレクトに分かるようにスペイン語を勉強しようとマジで思てますゥ。