「映画『教皇選挙』に映る信仰の輪郭」教皇選挙 もるとさんの映画レビュー(感想・評価)
映画『教皇選挙』に映る信仰の輪郭
映画『教皇選挙』に映る信仰の輪郭
――確信と疑念、腐敗と名の行方
映画『教皇選挙』は、一見すると静謐な宗教ドラマに見える。だがその奥には、現代の宗教組織にとって避けては通れない、いくつもの問いが伏流している。
物語は、教皇の死去に伴って開かれるコンクラーベ――すなわち教皇選挙の五日間を描いている。枢機卿たちが繰り広げる駆け引きと葛藤、そして最終的に予想外の人物が新教皇に選出されるという展開は、観る者の関心を引く。しかし、この映画の最も核心にあるのは、冒頭に登場する首席枢機卿ローレンスの説教に込められたテーマである。
「確信は信仰の敵である」
「疑念を捨ててはならない。信仰とは疑念と共にあるものだ」
ローレンスのこの言葉は、確かに深遠な意味を含んでいるように聞こえる。だが、観る者にその真意が届いただろうか。問題は、ここで語られる「確信」や「疑念」の定義が曖昧なまま提示されていることにある。
キリスト教神学において、「信仰(fides)」は確信を含む概念である。神の啓示に対する理性的な同意と、神に対する信頼が一体となって信仰は成り立つ。疑念は信仰の深化を促す契機にはなり得るが、それが本質とされることはない。「疑念の肯定」が行き過ぎれば、それはやがて信仰の相対化となり、無化にもつながる。
仏法においても「無疑曰信」と説いている。「疑い無きを信と曰う」と読む。これは「疑い」を否定しているのではなく、疑念を積み重ねた先に、全く「疑い無き信」に到達するという意味であると拝する。
ローレンスの言葉もまた、信仰における内省と謙虚さを説こうとしたのだろう。だが、説明なき断言は、確信そのものを否定し、信仰対象への疑念すら肯定するような誤解を与えかねない。これは、信仰を持つ者にとっては本末転倒であり、カトリックの教義とも乖離している。
一方で、映画はもうひとつの大きなテーマを静かに語る――腐敗の必然である。
教会とはそもそも、神の理想を地上に体現しようとした存在である。しかし、カトリック教会はその誕生とほぼ同時に、国家権力との結びつきによって制度化され、政治的権威としての顔を持つようになった。コンスタンティヌス帝による公認以降、教会は「信仰の共同体」から「地上の制度」へと変貌を遂げる。その中で生まれたものが、十字軍であり、異端審問であり、免罪符の乱用である。
この映画が描くコンクラーベもまた、祈りよりも計算が支配する舞台だ。枢機卿たちの多くは、神の声よりも人の意向に耳を傾ける。そこに見えるのは、理想を失い、形式だけを守る宗教組織の姿である。
だが、すべてが絶望ではない。映画の終盤、誰もが予想しなかった新任枢機卿が教皇に選出される。そして、彼が選んだ教皇名は「インノケンティウス(Innocentius)」。この名は、「潔白」「純粋」を意味するラテン語に由来する。
これは、二重の意味を持つ名前である。
ひとつには、教会がもう一度、純粋な信仰の原点に立ち返るべきだという願い。
もうひとつには、歴代「インノケンティウス」と名乗った教皇たちの中に、専制的で物議を醸した人物もいたことへの皮肉――「潔白」という名の裏に潜む、制度の宿命的な堕落の予兆。
映画は最後までこの名の真意を明かさない。だが、それがむしろよい。
なぜなら、問いを残すことこそが、信仰と組織のこれからに対する沈黙のメッセージになるからだ。
『教皇選挙』は、単なる宗教映画ではない。
それは、信仰と制度、理想と権力のはざまで、私たちが何を守り、何を問うべきかを突きつける鏡である。
もるとさま、初めまして。
>彼が選んだ教皇名は「インノケンティウス(Innocentius)」。この名は、「潔白」「純粋」を意味するラテン語に由来する。
これは、二重の意味を持つ名前である。(中略)
>映画は最後までこの名の真意を明かさない。だが、それがむしろよい。
なぜなら、問いを残すことこそが、信仰と組織のこれからに対する沈黙のメッセージになるからだ。
私の語彙力や表現力では追記しても伝えられなかったことが、このレビューにありました。
感性と知性と品性が溢れる“もると文学”に出会えてうれしいです、ありがとうございました😊
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