「「トラ××」の話ではない。」教皇選挙 Jaxさんの映画レビュー(感想・評価)
「トラ××」の話ではない。
カトリック教会と言えば信者にも構成員にも女性が多いのに組織の上層部に女性をおかない家父長制の権化のような宗教組織である。
枢機卿である男達が次の教皇を醜く争うなか、シスターである女達は食事や寝具の準備に従事させられるだけで投票権も発言権もない。男と同じく目も耳も口もあるのに、だ。
だからこそ、あのラストは爽快である。
~以下ネタバレ。結末に触れているので注意~
ベニテス枢機卿は男性として育ったが、盲腸の手術の時に卵巣と子宮が体内にあることが発覚した。「染色体から自分を女性と定義づける人も居る」と話しているように、見た目は男性に近いが「性染色体や性腺、内性器、外性器などの先天的な発達が非定型的な状態」である性分化疾患(DSD)なのだろう。
*かつては両性具有(半陰陽)やインターセクシャルという呼び方もされていたが現在あまり使われていない。
「修道院の生活は質素で周囲の男性との身体の違いに気がつかなかった」と言っているように身体の発達が男性としては非定型的な部分がある。おそらく産まれたときはペニスがあるので「男性として割り当てられた」が、子宮と卵巣があり、染色体からいっても生物学的には女性に近い存在なのである。
日本人で言うと「性別が、ない!」で有名な漫画家、新井祥がDSDとしては有名である。新井氏は女として育ったが、結婚後に妊娠しないことでDSDであることが発覚した。以後、乳房切除やホルモン治療を受けて見た目は男性化しているが戸籍は女性のままである。
DSDをトランスジェンダーと混同している人、またわざと混同させようとしているトランス活動家もいるが、トランスジェンダー当事者はDSDのような身体的疾患はなく、性自認(いわゆる心の性別)が身体と異なるというケースがほとんどである。
「割りあてられた性別」とは、ペニスがあり出生後に男性と判別されて男性として育ったったが、卵巣と子宮があり染色体がXであるベニテスのように、性分化疾患により出生時に染色体と異なる性別を割り当てられたケースを指すのであって、身体疾患のないトランスジェンダーが使うのは言葉の簒奪である。
トランスと混同しないでくれと言っているDSD当事者が多いようにベニテスをトランスジェンダーと呼ぶべきではないだろう。
この映画をクィア映画と呼ぶ人が居るが、そもそもクィアの定義が人によって大幅に異なるうえに、人によってはペドフィリア(幼児性愛者)やネクロフィリア(屍体愛好家)などの性的嗜好を含むと公言する者もいる(個人的にはそんなものはただの変態であってセクシャリティでもなんでもないと思うが)。
生まれつきの疾患であるDSDをクィアに含むのには問題があるだろう。
ベニテスはDSDであることを知って自分の身体について悩んでいた。ゆえに枢機卿を辞任しようとさえした。しかし前教皇は比較的柔軟だったようで、子宮切除をすれば問題ないと判断していたことが明らかになる。もちろん性器や生殖器を切除したところで染色体が変わるわけではないし筋肉や骨格が完全に異性になるわけではない。しかし現実的に異性として生きるにあたり性器や生殖器の切除が現実的なラインであることは多くの人が納得するところだろう。性同一性障害の人が性別を変更するに当たっても身体的特徴を異性に近づけるよう手術しているなどの条件がある。(一部のトランス活動家が性器や生殖器の切除は人権侵害であり戸籍性別変更の条件を撤廃すべきなどと主張しているが、そもそも男性器があるままで手術を希望せず自分が女性だと主張しているような人は性同一性障害でもなんでもないだろう)
しかしベニテスは「神の御業」に手を加えることをよしとしなかった。
そもそも、もしベニテスがDSDではない普通の女であったら、または幼少期などもっと早い段階でDSDであると診断を受け女として育っていたら、教皇はおろか枢機卿にもなれなかっただろう。聖公会やプロテスタントでは女性の司祭や牧師がいるがカトリックは女性の司祭をいまだに認めてすらいない。ベニテスも女性として育ったなら一介のシスターどまりだったかもしれない。ベニテスがコンクラーベに参加出来たのは「神の御業」ゆえにベニテスが少し変わった身体で生まれたからだ。ベニテスはそこに神の采配を感じたに違いない。
他の候補者がスキャンダルや足の引っ張り合いで自滅したとはいえ、そこにテロが重なってベニテスの演説がその場の者たちを動かした。
選挙を終えて多くの枢機卿たちがそう判断したように、また映画を鑑賞した者たちも思ったように、選びうる選択肢の中でベニテスが教皇として最もふさわしい人間なのである。未成年を妊娠させて捨てたアデイエミ、誹謗中傷大好きトランブレ、イタリアのトランプみたいなテデスコ、気骨に欠けるベリーニ、言ってみれば「生物学的男性」の枢機卿にはろくな選択肢がない。ローレンスが一番マシといえばマシだけど彼は羊飼いより管理者の方がふさわしい。そこで男性として育ったとは言え生物学的には女性に近いベニテスが教皇に選ばれることに意義がある。
ベニテスの身体について知ったローレンスは驚くが、そして事実を明らかにすることなく新教皇を受け入れる。前述の候補者たちの問題に比べたら身体の違いなど些細なことだ…と思ったかどうかはわからないが、彼の尊敬していた前教皇も事実を知っていたことが大きかったのだろう。
そもそも何故女性がトップになったらいけないのだ。性別関係なく最もふさわしい人間を選ぶべきだろう…とまではいかないかもしれないが、制作側のカトリック教会組織に対する大いなる挑戦を感じる。
これはクィア映画ではなく、むしろ旧態依然とした家父長制に対して、「いい加減前進しろ」とケツを叩く映画ではないだろうか。
しかしどこかでベニテスの身体の事実が明らかになったときが本当にカトリック教会が試されるときだろうな…。比較的リベラルなローレンスでさえあの反応だったのだから、ベリーニでさえ動揺しそうだし、テデスコやトランブレなんかはベニテスに教皇を辞めろとか言い出しそう。そこから前進できるかどうか。組織のトップは優れた者でなければいけないが、トップだけが優れていても組織はそれだけじゃダメなのだ。
DSD、トランスジェンダーの理解がゴチャゴチャの現状について、旧態依然のカトリック(のケツをたたく)説得力あるレビューに嬉しくなりました。ありがとうございます。未知のことについてなんでみんな少しでも勉強しようと思わないんだろう、なんで知らないままで誤解だらけの言動をするんだろうと悲しくなり怒りもこみ上げてきます。だからありがとうございます
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