「アカデミー作品賞を逃した理由」教皇選挙 蛇足軒妖瀬布さんの映画レビュー(感想・評価)
アカデミー作品賞を逃した理由
【アカデミー賞作品賞を逃し、脚色賞受賞の理由】
端的に言うと、
出世争いと聖なる世界、
両立していたら歴史的名作になっていた。
理解はできる、聖職者も人間、
それが狙い。
でも、もったいない。
以下蛇足。
宗教的テーマを扱いながらも、
そのアプローチが非常にユニークであり、
これまでにない視点で聖職者たちの物語を描いている。
この映画で思い出されるのは、『薔薇の名前』だ。
あちらもまた宗教的な背景を持ち、
聖職者がスクリーンいっぱいに埋め尽くされ、
荘厳な美術と厳粛な雰囲気を活かしてエンターテインメント性を保っていた。
14世紀の宗教的世界観ベースのキリスト教世界と、
21世紀の科学的世界観ベース(現実はテロやメディア、SNS対応)のキリスト教世界の矛盾を作品全体で背負えるのか。
しかし本作はその逆を行っている。
宗教的象徴や儀式を意図的に排除し、
聖職者たちを身近で人間味溢れる存在として描いている。
それが本作の狙いの一つであり、
聖職者という人物たちが聖なる存在である前に一人の人間であることを強調している点が、物語に新たな奥行きを与えている。
物語の舞台がコンクラベ(教皇選挙)の閉ざされた空間であるため、
伝統的な聖なる壮大な建物や荘厳な儀式が描かれることはなく、
代わりに日常的なシーンが強調される。
例えば、
スマホを操作する枢機卿、
没収されるiPad、
さらにはエスプレッソマシンの音までもが重要な要素として強調される。
これらの世俗的な要素が映画にリアルさを与え、
聖職者たちがどれだけ世俗的であるか、
またその生活の中でどれほどの人間的矛盾を抱えているかを浮き彫りにしている。
このように世俗性が強調されることで、
主人公であるレイフ・ファインズ演じる枢機卿の〈祈り〉に対する不信感が一層深まる。
その内面的な葛藤は、彼の精神的迷いをより強く感じさせる。
というような、
この映画が伝えたかったメッセージは理解できるものの、
物語の全体像、
特に「宗教」というテーマをより深く掘り下げるためには、
もう少しロングショットや象徴的な引きの絵が必要だったのではないかとも思える。
聖職者たちの権力闘争や内面の矛盾を描くために、
もっとシンボリックな場面があれば、物語の深みが増し、
視覚的なインパクト、
セカイ系的な示唆も強化されたであろう。
システィーナ礼拝堂に全てを押し込んでいる功罪でもある。
ラストの展開が予測可能であるという点も否めない。
しかし、その予測可能性にも関わらず、
物語の本質はラストの展開だけではなく、
登場人物たちが繰り広げる細かいセリフの積み重ねにある。
この小さなセリフの積み重ねが、
物語の中にある微妙な人間関係や内面的な葛藤を浮き彫りにし、
視覚的な演出よりも、むしろ心に深く残る。
登場人物のセリフが何気ない瞬間に意外な意味を持ち、
観客に感情的なインパクトを与える。
そして、最終的にあの枢機卿が教皇に選ばれる展開には、
物語としてのカタルシスが感じられる。
枢機卿が教皇にふさわしい人物であることを納得させるに足る、
内面の描写もなされており、
ただの消去法的な選択ではなく、
名実ともに教皇にふさわしい人物、
教皇の在り方への問題提起であることが示される。
その過程こそが、この物語の核心であり、
聖職者としての人間らしさを強調することで、
テーマの深さがより際立っている・・・
であれば、という所だ。
本作の狙いとして、
聖職者の人間性を描くことは理解できる。
しかし、その中で教皇選挙という大きなテーマをより象徴的に描く方法、
あるいは映画全体のトーンをもっと引き締めるための視覚的な手法があれば、
物語の深みがさらに増したことは間違いない。
もちろんそれは検討したうえで選択しなかったのだろう、
その辺りが作品賞を逃した理由なのかもしれない、
あるいは、
撮影はしたが編集で落としたのかもしれない、
全方位的に忖度をするとやむを得ない判断かもしれない、
その辺りが作品賞を逃した理由なのかもしれない。
それでも、
小さなセリフの積み重ねやキャラクターの微細な描写が、
最終的にこの映画の力強さを生み出しているのは、
脚色賞受賞の理由のひとつだろう。
イザベラ・ロッセリーニをキャスティングするという事は、
グッジョブをさせるという事・・・は納得。