「「パーソナル・イズ・ポリティカル」 個人の課題が社会を変える力になる」ドマーニ! 愛のことづて livest!さんの映画レビュー(感想・評価)
「パーソナル・イズ・ポリティカル」 個人の課題が社会を変える力になる
映画「ドマーニ! 愛のことづて」を観て、すぐに連想したのは「パーソナル・イズ・ポリティカル」(The Personal is Political)というフレーズだ。
このフレーズは、今春放送されたテレビドラマTBS日曜劇場「御上先生」で何度も登場する、個人の問題を単なる私的な事柄として片付けるのではなく、社会全体の仕組みとして捉え直す視点を喚起する言葉だ。
この「パーソナル・イズ・ポリティカル」というフレーズは、1960年代から1970年代にかけてのフェミニズム運動で広まったスローガンで、個人的な経験が社会や政治の構造と深く結びついていることを示すものだ。
この概念は、家事分担の不平等やセクシャル・ハラスメントなど、従来「私的」とされてきた家庭内の役割や個人の選択が、実際には広範な社会的不平等を反映する政治的な問題であるということを主張している。
「パーソナル・イズ・ポリティカル」という言葉が広く知られるようになったきっかけは、1969年にキャロル・ハニッシュが書いたエッセイ「The Personal is Political」から。
ただし、ハニッシュ自身はこの言葉はフェミニストたちの集団的な議論から生まれたものだと述べている。
「パーソナル・イズ・ポリティカル」という考え方は、現代社会における重要な課題ととらえられているジェンダー平等や環境問題、多様性の尊重などを考える上でもとても有益な考え方だと言えるだろう。
そして、「パーソナル・イズ・ポリティカル」というフレーズが一躍脚光を浴びる契機となったテレビドラマ「御上先生」では、教育現場の不条理に立ち向かう官僚教師の戦う姿が描かれている。
主人公の御上孝が、文科省の官僚から派遣された私立高校の教師となり、腐敗した教育制度の改革に挑み、子どもたちの未来を守るために奮闘するという物語だ。
一方の映画「ドマーニ! 愛のことづて」は、戦後ローマを舞台に、家父長制の抑圧に苦しむ主婦デリアが、家族の未来のために小さな勇気を振り絞る姿を描いている。
彼女の行動は、当時、男性が優先される社会の中で、女性の権利を求める社会的なムーブメントの一端を象徴している。
両作品に共通するのは、個人の課題が社会全体の課題とリンクしている点だ。
主人公たちによる身近な問題を解決するための行動がめざす高い次元での課題解決が、社会全体の変革につながる可能性を秘めているというところが共通している。
この考え方は、歴史上の偉人たちの思想にも通じる。
マハトマ・ガンディー
「あなたがこの世界で見たい変化そのものになりなさい」
この言葉は個人の行動が社会を変える力になるという信念を表していると言えるだろう。
ヘレン・ケラー
「一人でできることは少ないが、共に行えば多くのことができる」
この言葉は連帯の重要性を強調していて、私たちが直面する課題を「個人的な問題」として片付けるのではなく、それを社会全体の課題として捉える視点が求められている。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
「どんなに小さな行動でも、それをするべき正しい時に行うことは決して無意味ではない」
この言葉は私たちが日常的に行う小さな行動も、社会全体の変革に繋がる可能性を秘めていることを示唆している。
ジョン・F・ケネディ
「最も強いコミュニティは、一人一人がその一員として力を発揮するときに築かれる」
この言葉は個々の努力と協力が強い社会を作り上げる鍵であることを説いている。
マリー・キュリー
「人生から恐れを取り除いて見れば、理解することしか残らない」
この言葉は課題や問題に直面した際、恐れるのではなく、それを深く理解することで解決の道が開けるという力強いメッセージが備わっている。
「御上先生」の主人公御上孝が生徒たちとともに、教育制度の改革に挑もうとする姿や「ドマーニ! 愛のことづて」の主人公デリアが、強権的な夫の引き留めを掻い潜って選挙の投票をしにいく姿は、世界中の女性のより良い未来のために立ち上がる強いメッセージを私たちに与え、立ち上がる勇気を与えてくれる。
個人の勇気ある行動が社会を変える力に繋がっていくという両作品が発する共通のメッセージは、私たち一人ひとりが小さな一歩を踏み出すことで、より良い社会を築くことができるのだという、重要な示唆を与えてくれていると言える。
テレビドラマや映画という娯楽の枠から飛び出した、社会的メッセージ性を帯びた作品に簡単に出会える環境は、決して当たり前のものではない。
そういった作品に出会い、何らかの刺激を受けた一人ひとりが小さな行動を示すことで、閉塞感漂う現代社会の問題や課題を解決する糸口になるということを、私たちは忘れてはいけないだろう。