美しい夏のレビュー・感想・評価
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アメーリアが美しかった
1938年、イタリア・トリノの洋裁店で針子として働く田舎町出身の16歳の少女ジーニアは、たまたま泳ぎに行った湖で3歳上の美しく自由な女性アメーリアと出会った。ジーニアは画家のモデルをしてたアメーリアに誘われて芸術家たちの世界へと飛び込み、大人の実情を知っていった。思春期のジーニアと、すでに自立してたアメーリアは、徐々にひかれ合っていくが・・・さてどうなる、という話。
とにかくアメーリア役でスタイルバツグンで超絶美人のディーバ・カッセルに目が釘付け。
演技という演技はしてた様には無いけど、さすがモデル出身だけあって彼女が出るシーンはワクワクした。
もちろんジーニア役でトップレスまで披露してたイーレ・ビアネッロも頑張ってたが、アメーリアの陰で霞んだかも。
話としては、16歳のジーニアがタバコ、酒、セックスで処女を喪失、と大人の世界を知っていく過程で思うことを描いて居るので、彼女に感情移入して観るのが良いのかもしれないが、それはそれ。
夏から秋、冬、春を越えて、また夏が来るまでの風景美も良かった。
所々寝落ち
ジーニアとアメーリアの美しさに感嘆
戦争が近づいている感があまりなく
この時代である必要があったのか、と思った。
アメーリアの美しさは圧巻であり、
なるほどそりゃジーニアも憧れるだろうし、
男どもも虜になるだろう。
ジーニアはアメーリアに近づきたい、あるいは、
アメーリアを理解したい気持ちからか、
画家の男どもの毒牙に自ら飛び込んでいくが、
実はアメーリアといっしょにいたかったのだな。
それにしても当時の画家のイメージが
とんでもないクソ野郎にしか見えないし、
そういうふうに認識してしまった。カスだと思った。
ただ、実は深くこの映画を語れるほどちゃんとは観れて
いない。なぜなら意識がところどころ飛んだから。
ジーニアとアメーリアの美しさだけが記憶に残った(笑)
スミマセン。
カラリストの存在感
ポスターの美しさと、
絵画モデル・お針子〜アシスタントデザイナーが
出てくる作品ってことで
前情報を入れずに鑑賞
原作は1940年出版。
ジェンダーの視点で
今の感覚と解離しているせいか
イマイチ作品の世界観に浸かれなかった
特に違和感があったのは
当時 アシスタントデザイナーだった
主人公が 納期のある商品を
ないがしろにして 仕事を
投げてしまったこと。
それ以外にも 細かく収集出来ない
部分も有り 共感できなかった
また主役の女優
設定が16歳にはとても見えず、
せっかくの身長差の有る配役なのに
初々しさに欠ける印象。
ただ そんな中で素晴らしかったのは
カラリストの仕事ぶり!!
ポスター画像ももちろんだが
画家のアトリエのシーン
オートクチュールデザイナーのアトリエ、
自然の中の光の調整
衣装の色合いも含めて
とてつもない 映像美だった
70点ぐらい。美しい映画
第二次大戦前のイタリアの二人の若者の女性の出会いがいかに貴重か
予告編を観て急遽この作品を観たが、大正解だった。
よくある設定だが第二次世界大戦前のイタリア・トリノが舞台だからこそジーニアとアメリアの二人の若い女性の出会い、交流、悩み、恋、社会等二人が様々な事を経験し大人の女性になる階段を登っていく。また、第二次大戦前のイタリアだからこそ貴重で美しい経験だった事をこのスクリーンから肌で感じた。予告編のイメージとは違ったが、観て良かった。見事。
主人公の感情の振れが今一つピンと来ず
1930年代後半から物語が始まり、作品中もムッソリーニの演説が窓外のスピーカーから流れてくるのを主人公のジーニヤがピタリ窓を閉じてしまうが、その時代背景や当時の思想が作品に反映されていたのかよく分からなかった。
そして、物語は常にジーニヤ目線で語られるから、もう一人の主人公であるアメーリアが本当はどのように世の中を渡っているのかもよく理解できなくって……
だからなのか、ジーニヤがどうして感情を上げたり下げたりするのかが残念ながら理解できなかった。
そして、作品名にもあるように「夏」が舞台の始まりで、若人たちが水辺で戯れているのだけれど、水辺周りの植物が枯れていたり、ギラギラ照りつける日差しが感じられなかったりで、イタリアの夏ってこんなのかしら?と、ちょっと違和感を覚えたり、最後にまたまたアメーリア?みたいに何となくスッキリしないままエンディングを迎えてしまいました。
でも、当時の路面電車とかファッションとか、目に楽しい映像も味わえて、それは良かったですね。
美しいイタリア‼️❓
美しい夏
ディーバ・カッセルのオーラ
原作と比べ、いろいろ惜しい
チェーザレ・パヴェーゼによる原作小説は、1940年に書かれた。
映画では、1938年という設定。
場所はイタリア北西部、トリノ。イタリア第2の工業都市。
16歳のジーニアと、19歳か20歳のアメーリアの物語
と、原作ではなっているんだけれど、
映画では、
ジーニアがとうてい16歳には見えず、
下手するとアメーリアより物腰(と声)が大人っぽくて、う~む。
――そこ、いちばん肝心なところですから、
もうちょっとキャスティングを何とかしてほしかった。
あと、
いくら「1938年」と画面に表示しても、
観客は21世紀の人なので、
どうしても現代の視点が入り込むのを避けられず(コンプライアンスを含め)、
当時としては一大事だったことが理解しづらく、
制作側もそれを乗り越えたとは言いづらい。
* * *
映画を観てから原作を読んだ。
邦訳は岩波文庫にある。
イタリア語で原文を読むのはワタクシには無理なので検証はできないんだけれど、
不自然な日本語がちょいちょい気になった。が、それはさておき。
映画で違和感を感じるのはたいてい、
脚色であらたなエピソードを加えたところ。
この映画も例外ではない。
たとえばジーニアが洋裁店で才能を認められて大事な仕事を任された、
なんてくだりは原作にはない。
こういうのはだいたい、
展開にメリハリをつけてドラマチックにしようという意図なんだが、
違和感しか感じない。
また、女性の置かれている立場が、この90年近くで
(本質的に変わっていない部分はあれど)
かなり変わったことは言うまでもないだろう。
* * *
それからこの原作は、
ジーニアの視点で見えないことは書かない、ということに徹している。
つまり作者の「神の視点」は排除されている。
だから読者は、否が応でも
ジーニアと同じ立場でリアリティを感じつつ読み進まざるを得ないのだが、
映画ではそういう芸当は無理だから、その辺でのユニークさは表現し得ない。
さらには、
作者はこの小説を書く5年前「反ファシズム」のカドで3年間の流刑に処せられているので、
この作品の執筆も監視にさらされていたのは間違いないだろうから、
ファシズム批判を明確に表現することなど、たとえ思っていたとしても不可能だったはず。
(チラホラと、象徴的、比喩的に読み取れないわけではないが)
映画は、さりげないショットをいくつか入れてた。ファシスト党の黒シャツとか。でもそれ以上のツッコミはなく……
そんなあれこれをいろいろ考えると、
この小説を今、映画化する意味って、何なんだろう……
不治の病
1938年トリノを舞台に、洋裁店で働く16歳の少女の、憧れと恋愛感情をみせる話。
恋愛感情をまだ知らない主人公が、兄やその仲間と遊びに行った湖で、美人でせくしぃなオネイサンに出会いときめいちゃって巻き起こっていくストーリー。
その日はそれで終わったけれど、偶然カフェで再会し、あれ?アメーリアもジーニーが気にかかってる?
そして交流が始まって、アメーリアの住む世界にハマって行く様子とかを遠回りにみせていくけれど…作中で裸を晒すのは主人公の方っていうのはなかなかの妙ですねw
そしてこれはどうオチをつけるのか?と思っていたら、ミエミエのアメーリアよフリがまさかのそんな話し?まあ、時代背景的にはそれも有るのだろうけれどちょっとビックリ。
でも、治るか治らないかみたいなことを言っていたけれど、その時代じゃ…そこはちょっと中途半端でまあやっぱり恋愛映画という枠なんですねという感じ。
ところで、今週公開で緑の妖精ならぬ緑の悪魔の登場が入国審査に続き2作品目…ちょっと飲みたくなったw
25-098
間違ってレビュー消しちゃったのでまた書いてます 前半何書いたか覚え...
間違ってレビュー消しちゃったのでまた書いてます
前半何書いたか覚えてないけど、
後半でアメーリア役の女優さんがとても良かったと書いた気がする
綺麗なだけじゃなくて、いい雰囲気があるというか、
美の影に何かある感じ
他の作品も見てみたい
映画自体のストーリーも好きでした
最近、私的にはイタリア映画がいい感じです
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