「創造主を嫌悪するラスボス」コードギアス 奪還のロゼ 最終幕 映画読みさんの映画レビュー(感想・評価)
創造主を嫌悪するラスボス
見終わりました。
パンフレットとかは買わない、映像体験で感じたことがすべての人間の感想です。
(作中で読み取れない裏設定とかは考慮外とする者の感想、ということです)
1~9話までアゲ続けて来て、最終幕は10~12話。
最終幕も、テーマとしては好きでした。
軸にあるのは、旧シリーズからこちらの現実時間で十数年が経て
「ギアスは必要だったのか?」「もっと巧く使い道があるのではないか?」で、
それに対するアンサーは美しかったと思います。
トラウマの対象であるノーランドを相手に戦意喪失しかけたアッシュ、しかしアッシュはロゼに、ノーランドに立ち向かうためにギアスをかけてくれと願います。
それは心理の埋伏による特攻戦士化ではなく、一人ならできないことでも二人なら頑張れると願いたい応援の形なのだ、俺を応援してくれ、だから俺の覚悟も背負ってくれと説得。
このアッシュの心からの「ただの言葉」はギアスと同様の効果を持つようにサクヤに作用し、サクヤもまた自身が使える能力のひとつとしてアッシュに「騎士にする。共にノーランドに勝つ」とギアスをかけ、応援と覚悟が合わさって最強になって最後の戦いに向かいます。ギアスでなくてもギアスであっても、気持ちの一致こそが無限大パワー。
一方でノーランドは、徹底的に共感できない存在として書かれます。
もう、その遠さが人間ではない。
あくまで「部品」として人間によって作られ、ブルルァ~氏がいつか成り代わる代替ボディとして期限付きの生しか認められていなかったであろう彼は、人間の愛憎次元で生きていません。
「自分と、(それ以外で)世界を分けている」者であり、器として生まれたのだから人ではなく器として完成を目指して何が悪い、器にとって人間は人間でしかないのだから徹底駆除して何が悪い…というかするしかないだろう? という感じ。
完成したファウルバウトと直結する彼ですが、「これぞ自分の本来の姿」と言わんばかりの感じで、そもそも人間ではないのだから以後コックピットを降りるつもりもなかったのでしょう。ある意味、ロボット(ナイトメアフレーム)そのものになり、地表のヒト種という嫌悪感しかない生き物たちを駆除して、地球に唯一住むロボット種になりたかったのかな…という感じでした。
何も擁護できない存在ですが、「こいつは何を考えていたのだろう」については、
・シャルルが若返るためのボディとして誕生
・ということは、弱肉強食のシャルルイズムが存続する世界が前提
→弱かったり無能ならどうせ生きていけない世界なので、処分する(ニコル)
・とはいえ孤児院のふたりやナラを迎えていたり、キャサリンを助けていたり、孤児には甘かった過去がある(器でしかない自分と、孤児を世界との接続が薄い近しい存在と判断して繋げたのかもしれない)
……
・……と器として生きていたら、創造主たるシャルルが勝手に死におった
・なにそれ? 人間って無責任すぎないか? き、気持ちわる…
・器は人間じゃないから器として生きるだけ
・「人類への…生理的嫌悪?」「……」
……という具合、なのかな……と感じます。
その目的をサクヤから問われ、片っ端から「ちがう」と言い続けたものの、最後の「人類の生理的嫌悪?」の問いだけには返事をせずにファウルバウトと一体化しました。そしてマスクを外して「やっと眠れる」から、そういうことなんじゃないのかなと。
彼にとって、ヒトの排除は殺人ではなく駆除という言葉で語られます。排除の方法も、気持ち悪い虫を火ばさみのような先っぽでつまんでポイッ的な演出が多い。めちゃくちゃ触りたくなさそう。シャルルの死後、彼が人類に持った嫌悪感は、私たちが部屋に入ってきた羽虫や蟻やGを相手に思う感情に近いのでしょう。
部屋にいる目障りで気持ち悪い虫たちを綺麗に片付けて、ぐっすり何の気兼ねもなく「眠りたい」は、それだけは正直わかるのでずるい。
彼のマスクは外見や心情を偽るための仮面というよりも、清掃員や害虫の駆除業者がするマスク(虫除けフェイスカバー)が第一義だったというオチです。
「人間が本当に嫌いな、人間に作られた器」というわけで、ここまで本当の本当に人間を嫌っていると、もう何一つわかり合えないのです。
ノーランドはなぜそんなに人間を嫌うのか?
それはノーランドにとって、自己都合を振り回す無責任な人間こそが創造主だからでしょう。一番の嫌悪は作者で、そこから派生して作者→人間というか。
ノーランドはギアスこそ持っていませんが、困ったことにギアスなんか無くても何でもできてしまう、全知全能の神のごとき存在です。人間次元では最強パイロットアインベルクたちの生殺与奪を握り、自分用の最強ロボットを作りあげ、オルテギア以外では誰も近づけないはるか高みから破壊の天使的に地上の浄化を行う。タイマン性能・接近戦もゲロゲロ最強。
少し穿った見方になりますが彼は覚悟を決めて誓いを立てたロゼやアッシュとは対照的に「自分以外誰も必要としていない」、まるでなろう系主人公なのです。「作者」の手により、考え得る限り全方面において最強の能力をひたすら詰め込まれ(なろう系って、なぜか最強武具どころか最強ロボットや最強召喚獣まで自作しますよね)、設定は詰め込まれているものの人としては作り込まれてはおらず、作品の数値が思ったほど取れなかったり話題のピークが過ぎたと判断されたら急に未完のまま放り出される。終わりもしない世界で、虚空を漂う。
打ち切りではなく、休止や中止でもなく、ただただ未完…エタるというのがポイントかなと。
これはなろうに限らず、全○部作と銘打っておいて、1作目公開後なかなか…というか全然…続編が出ない…強IPの主人公たちにも言えます。アニメ映画でもそこそこ思い当たります。
そんな感じで、ノーランドはただただ世界を一人で支配できるだけの設定を与えられ、人間都合で急にハシゴを外されたその最強無敵主人公がその後の世界で「何を考えるか」の戯画だと思うと、なんとなくそんな気がして観ることができました。
彼は自身という作品(器)の作り手(人間)のエゴと無責任さにただただ呆れ、呆れを超えて生理的な嫌悪を覚えてしまったのでしょう。
「もし、未完のなろう系主人公が、未完となったことで作者(≒人間)を気持ち悪いと思うラスボスになったら」って、企画書にそういうこと書いてなかっただろうか。
彼に設定的に与えられた強さは文脈を感じず、だが文脈をぶったぎるほどにヤケクソじみて強大で、無人吸い込み兵器ロキも生理的に気持ち悪い&各ナイトメアのパイロットたちの価値を下げすぎるほどに理不尽なまでに強く、このよかれと思ってのやらかし感こそ、10年代のなろう系で頻繁に目にした光景です。一人で正面から世界を変えられるのは当たり前。他は引き立て役でしかない。
一方で、物語の結末でサクヤの見せた「覚悟」が、実にアンチなろう的です。
特異な能力、広義の意味では神から与えられたユニークスキル=ギアスですが、彼女はその意味も深く考えずに序盤では濫用して、人々の内面を歪めてきました。基地潜入時などでは、明確にギアスの効果で守兵を殺させたりしています。それに「必要なかった」という自覚が及ぶ・否定が入るのは、3幕の感想で書いたとおりです。
いくら意志を完遂するため、復讐のため、(たまたまノーランドが人類の敵であってくれたから)人類を救うためだったとはいえ、彼女はそのユニークスキルを使用できる自分を肯定しません。それが最後の、自らユニークスキル=ギアスを封印し、それだけではない代償を背負うも生き続けて役割を果たすという答えなのでしょう。これは、全能を生の目的や商品性とするなろう系、ややもすればルルーシュが提示したポストギアスのヒーロー像と誤解されるそれでは、絶対に辿り着かない答えです。それらの価値観の明確な否定だと思います。
ものすごく勘違いだらけの感想を言っているかもしれませんが、私はこの奪還のロゼというシリーズを個人的に「2010年代のフィクション性の功罪をモチーフにした、次代を目指す戯画まとめアニメ」というニュアンスで観ることにためらいはありません。それが私の…覚悟だ!
とはいえ、テーマは好きだとしてもエンタメとしてはラスト3話は失速してしまった感、もう少し広げた風呂敷が綺麗にたたまれたらなぁ感があったのも事実。
9話までで方々にいいキャラが立っていたので、ナラ、キャサリン、ハルカ、メイ、ナタリアなどにちゃんとした見せ場があれば…惜しいと思いました。惜しい!もっと明確な活躍シーンが観たい!と思わせるキャラたちでした。対して、ロキの視覚的な気持ち悪い虐殺シーンがちょっと長かった。ノーランドの存在的な気持ち悪さを表現するためとはいえ、もっと観たいシーンがあった。12話では尺が足りないのは絶対にそうなので、ラスト3話作り直しで16話ぐらいで完全版作ってくれたら嬉しいです。
そういう感じでは、あくまで人間次元でギアスの要不要の戦いを見せていたvsクリストフ(8話)がピークだったかなと思いました。
自分的には、本作を象徴するキャラクターはロゼとアッシュ、クリストフ、一段下がって皇重護とキャサリンになると思います。
あのキャサリンが最後、孤児院で働かせてくれないかと自分から願い出るのは、サクラの戦いの結末としてはとても綺麗。人のために働くので。
あと、9話からOPが変わるのもよかったです。
最後の3話はもう少し見たいものが見たかったな、見たくないものを見たくなかったなとは思いつつ、トータルでは傑作的だったことは間違いなく、心に残る作品でした。
配信放送でも二周目を楽しみに観たいと思います。
プラス数話して、完全版とか言って出してくれたら大絶賛します。