「反映画史的実験映画」クイーン・オブ・ダイヤモンド 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
反映画史的実験映画
『マグダレーナ・ヴィラガ』と続けて鑑賞。『マグダレーナ』は正直言ってシャンタル・アケルマン『ジャンヌ・ディエルマン』の再奏にしか思えず、そこで繰り返される退屈な性行為や不意に瞬く暴力性にも既視感があった。
しかし本作はニナ・メンケス独自の文法が開陳されており非常に鮮烈だった。本作では撮影技法が二極化しており、一方では気の遠くなるようなロングショットの長回しが、他方では法則性を欠いた目まぐるしいカットの連続がみられた。
ロングショット長回しについては、ヒトもモノも等しく無機物としてショットに還元させるような企みを感じた。そこでは特定の何か(ニナ・メンケスであればそれは「女」と答えるだろう)を有機的に顕彰するような作用はことごとく無効化されている。アパートとその階段を登る女性、夕暮れの海岸とそれを眺める半裸の男性、燃えるヤシの木とそれを見上げる女性。
ヒトとモノが等価で結ばれ、ただひたすら画として成立している地平。そこではもちろん女性が過度に艶かしく映し出されるといった事態は起こり得るはずもない。女も、アパートも、男も、ヤシの木も、単なる物体に過ぎないのだ。
カジノのシーンに代表される目まぐるしいカットの連続は、映画史に伝統的な視線の解体を目指していたように思う。カジノと女という組み合わせは、50年代フィルム・ノワールに登場するような危険で謎めいた美女(=運命の女=ファム・ファタール)表象を想起させる。「カジノと女」は画として非常にフェティッシュなわけだ。
しかしニナ・メンケスは敢えてカットを割りまくる。カメラの位置を絶えず右往左往させる。そうやって受け手の視線を絶えず撹乱し続けることで「カジノと女」という表象が映画史的に内包するフェティシズムの拒絶を試みる。やや技法に走りすぎな感は否めないものの、先ほどまでの緩やかなロングショット長回しとの対比上、本シーンは非常に強烈だ。
知人の結婚式を抜け出した主人公がスポーツカーをヒッチハイクして夜闇の中に消えていくラストシーンもよかった。抑圧からの一時的な解放(=結婚式からの脱出)と新たな抑圧への沈降(=おそらく男が運転しているだろうスポーツカーへの乗車)が同時に暗示されていたように思う。
ただ一点、時折明滅する宗教的モチーフに関してはいまいち読み解けなかった。十字架を乗せた滑車で街を練り歩くあの奇才は何だったんだろうか。そういえば『マグダレーナ』にもキリストの肖像画が登場していたな。