国宝のレビュー・感想・評価
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舞台から発せられて、届くもの
自分はひどく実利に特化した人間で常識の中でしか生き得ないから、演じる、創造するという世界に従事する人に憧れるし、その姿から発せられるものに心動かされる。万菊さんの「ここには奇麗なものが全くないから救われる」には煌びやかな場に立つ人達の極限を示されたようではっとした。そういう人達であるから、綾乃が口にしたように「お正月のような何ともいいことがありそうな幸せな気分になっていつの間にか一生懸命に拍手をしている」と目にする人に感じさせるのだろうなと。
吉沢亮君は「この世ならざる美しい顔」との役どころに相応しい顔面に底知れない「無」な目が配されているのをいつも興味深く思って見ている*。決して努力を表に見せるわけではないのにあの所作を身に着けるのにどれだけの鍛錬があったろう。題材からも内容からも恐らく今年から来年の賞は国内外問わず総ざらいするのだろうな。
そして、想像していたより黒川想矢君が素晴らしかった。
自分は医療従事者なので、最後の「曽根崎心中」の縁側のシーンでお初が徳兵衛に差し出す右足の、母趾の爪が白癬で肥厚し、趾や踵が血行不良で紫変している糖尿病足であることがわかる。だからこその、映像ならではの素足を見せる演目であり(原作未読だけれど、演目が変わったことを書いておられる方がいらした)その時の喜久雄の絶望が窺い知れる。糖尿病の足病変の外見については左下肢切断前の病室のシーンで”予習”(切断に至る足にしては地味目だけれど)してからの流れではあるが、医療は素人の夫には「右足」のくだりがいまひとつわかりにくかったようで、話の流れや演目の意味がわかりづらいという方はその辺りなのだろうか。
*再放送でスイッチインタビュー見ていたら、吉沢亮君ご自身で「虚無の表情」が好き、静寂が気持ち良い、とおっしゃっていて、自分の感じ取ったのも間違ってないのだと思った。李監督も似たようなことおっしゃっているのを読み、吉沢亮君の虚無の目(三白眼も良き)は普遍的に感じ取られるものなのだなと。
壮絶で美しい…
半次郎の代役で震えるキクオの『お前の血が欲しい…守ってくれる血が欲しい…』
『逃げるんちゃうで』キクオの熱演を見ることができなくなるシュン坊
悪魔と取引きしてでもガムシャラに歌舞伎を突き詰めていくキクオ改め3代目花井半次郎
最後の娘の『悪魔に感謝だね…』の皮肉混じりの言葉が沁みてくる。
少年期から壮年期を3時間かけて描いているので、なかなか語り尽くせないけど、とにかく吉沢亮と横浜流星は凄かった。
最後の吉沢亮の舞いは本当に美しかった…。
おとこに賭けるおんなたち
もしかしたら、監督か意図するところではないのかもしれないけれど。
私には、この作品のテーマは、
夢に賭けた男に寄り添う女たちの生き様
に思えてならない。
まず最初に。
私自身は、幼少期から歌舞伎を祖母や叔母に連れられて、長年見続けてきた、ひとりの歌舞伎好きであるため、
正直、大きな期待値を持たず、エンタメとして受け止めるフラットなスタンスで、上映を待ったのだが。
否応なく圧倒された。
どこまでも耽美である。
という表現しか見つからない。
二人の男たちの舞台を陰で支えるのはあくまで己を捨てた女たちであることに打たれる。
物語の軸となるのは、所謂歌舞伎の世界の血筋と
それに抗うかの様な圧倒的な美と才能を併せ持つ
ひとりの男の生き様ではあるのだが。
自分も背中に彫り物を背負いつつ惚れた男を支える覚悟を持つ女、
瞬時に男の才を見抜き、惹かれて、人生を賭すと宣言してみせる女、
何不自由なく生まれ育ち、それ故にか、男の哀愁にどうしようもなく惹かれつつもやりきれない女、
大名跡を持つ男の妻として、我が子可愛さと違い稀な才能との狭間で葛藤しつつ、守るべきものを絶対的に突き通す女、
もし自分なら。
誰の人生を選ぶのだろう。
いや選べるとするなら。
そう漠然と思いながら、
物語に深く没入していった。
わたしなら。
藤駒の生き様を選びたい。
年端もいかない少女の頃に、
出会ってしまった運命の男へ。
うちの人生をあんたに賭ける事にした。
なんて痺れる、男前な台詞ではないか。
そしてその男前な台詞はラストで伏線回収されていく。
惜しむらくは、藤駒の芸事をも飲み込んでいく、そして彼女の芸が結実していく様がほんの少しでも魅せてくれたら。
(それには3時間では足りないのか。)
そして恐らく、殆どの女性が春江のあの場面は納得がいかないのではないか。
それについて、常日頃から歌舞伎贔屓の友人と、
翌日に語り合う事になるのだが。
(あれはあり得ないよねい、
そんなはずないけどねい、と、数々の突っ込みどころはこの際、全て棚に上げた上で。)
春江は、身を挺して男を支える自分を、
愛するタチの女なのではないか。
という見解に落ち着いた。
そしてあの捨て猫の様な哀れな姿の御曹司を
私しか護ってあげられない!
と決めて支える道を選ぶ。
自分の夢というものが、
須く男の隣で支えていく人生とは。
そう言えば。
かなり高名な華道家の方に師事していた頃、
偶然ホテルのサロンで遭遇してご一緒することになり。
(その当時の彼氏の、お坊ちゃま学校として知られた一貫校の先輩にあたる方だった…)
師匠が仰るには。
『あのね、あなたは本当に欲が無いから。
教えてあげるけど、女はね、必死で頑張らなくて良いの。
これは!という男を見つけて育てるの。
そしてその男を王様にすれば良いのよ。
そしたら自分は王妃様なんだから。
あなたの彼、デキる男だから、手放すんじゃ無いわよ!』
と。
当時の彼は既婚者でw
手放すもなにも。
その後、
絵に描いたような御曹司と出会い、
これは!と思ったのだけど…
支える覚悟が足りず、手放す事になった。
(春江はしっかり王妃さまになったが。)
そんな半端な私には、
この物語の数多の女たちの気合いは凄まじくて
眩しい。
木兎は受けた恩を忘れない。
その呪縛を背中に背負いつつ
それでも尚且つどこまでも美しいその姿に。
背筋が凍る様な痺れが走る。
観終わって二日も経つのに
余韻が身体から抜けていかない。
もう一度、
いや、何度か見直したい。
今度は御曹司の所作を、表情を見届けたい。
これは不思議な事だけど。
私が生まれて初めて見たのは、
鴈治郎さんの舞台だった。
幼くて意味もよくわからず、
祖母に訊ねた記憶が残る。
そして、まんまと
歌舞伎に嵌るきっかけとなったのは、
8代目菊五郎を襲名された、菊之助さんの
約20年前の暴力的なまでの美しさだった。
(今も素敵だけど、当時はこの世のものと思えない美しさだった…)
菊五郎さんの父は人間国宝、
そして義父も。
だからこそのキャスティングも
当然あるのだろうけれど。
しのぶさんと鴈治郎さんが
そこに居るだけで、
物語は途端に格調高いものとなった。
間違いなく
日本映画の高みに突出した名作である。
と。断言しておく。
演技力を観る映画
他の方の感想を見たところ、演技力をメインに絶賛されている映画であり私自身もこの映画の凄いところは吉沢亮はじめ歌舞伎役者を演じる俳優陣だと思います。
ですが、私の場合は俳優の演技を見たくて映画やドラマを観ることはほぼありません。ストーリーが面白ければ面白い映画やドラマだった、と思います。出ている方が演技が上手い俳優さんだったり顔がいい俳優さんであれば尚いいなとは思いますが、ストーリーを邪魔するような棒演技でない限り「この俳優さんの演技は云々」など感想を持つことはあまりありません。ケビン吉野くらいです。
その点「国宝」のストーリーはとりわけ没頭出来るものではありませんでした。私は、の話です。血を持たない苦悩は描かれていましたが、血を持つ半弥との関係性はイマイチ掴めず(原作未読です)大喧嘩して丹波屋の血に頼らないかと思えば半々コンビとしてまた舞台に立っていたり…。歌舞伎役者から国宝に登り詰めるまでもアッサリしていました。
疑問に思うところも多く、ストーリーとして傑作であるという感想は持ちませんでした。
吉沢亮の演技を観る映画だとしたら傑作です。
間違いなく今までの俳優活動で1番演技力にスポットライトが当たっていると思います。作中で万菊が喜久雄に「綺麗な顔が邪魔をする」(ニュアンスです)というようなシーンがありますが映画内で喜久雄の評価が演技より顔だったことがありましたでしょうか…?この台詞は喜久雄より吉沢亮自身にピッタリだと思いました。それこそ国宝級のあの顔は、他のドラマでは何を喋っていても顔にしか目が行きません。私が初めて吉沢亮の演技力を凄いと思ったのはヒロアカ映画で声優をされていた時でした。
声優が本職の方と疑わないくらいの演技力で、エンドロールを見て私も周りも驚いていました。
その時に顔が邪魔していると似たようなことを思ったのを覚えています。
つまるところ、吉沢亮の怪演ありきの映画、だと思いました。ストーリーを見るものではないかもしれません。私は誰が出るから見るという感覚がなかったため新鮮であり、映画とは役者の演技力を評価するものなのか?と腑に落ちない部分はありました。
ですが作中で描かれる歌舞伎界こそ、ストーリーではなく役者の持つ演技力や血筋で評価を受ける世界なのでしょう。
その世界を作中だけでなく、吉沢亮という俳優の演技力で客を寄せることで、実際に芸が評価されるというのはこういうことだ、と示す映画であるのならとんでもない映画でした。
これやでって言う映画
ものづくりも、コンプライアンスに左右される時代。それは大事ではあるが、ものづくりと両立しない局面もある。ものづくりは狂気の世界。それがめちゃくちゃよく描かれていて驚いた。李相日ってそんな絵撮ってたっけ。いや、好きでだいたい観るけど、こんな狂気を描いてたかな。フラガールではそんな側面もあったけど、まだ穏当だった。今回は突き抜けてた。吉沢亮がそれに応えて突き抜けていた。それがもう心地良い。うわーっ行ってもうたって感じ。特に、場末のヘルスセンターみたいなところで客とトラブって殴られた後、屋上で踊ってるところ。あれは美しかった。一緒に駆け落ちした女性はもうつきあい切れんって感じでいなくなった。そこで一層輝いた。あのシーン以降、映画は本当に素晴らしくなる。アカデミー賞をとってほしい。創る人、すべてに捧げられている映画だと思った。ただ、一点、は?と思ったのが、吉沢亮の隠し子がカメラマンになって登場するシーン。「あんたのためにどれだけの人が犠牲になってるん??」と問うシーン。お母さんは自ら進んで吉沢亮に賭けたんやで。そのこと、聞いてるやろ? 自分が犠牲になったと思ってるんやったら、そう言えば良い。他の人を巻き込まなくてもいい。自分もわりと同じように、頭のおかしい人を支える立場で創って来たが、犠牲になったとは思っていない。そんな風に思われたくもない。支える立場は立場で創ってるねん。そこは誤解せんといてほしい。李相日はわかってるやろ? 誰がわかってなかったんかな。でも、いい映画。素晴らしい。
役者という職業の大変さ
この映画に当たって、主役の吉沢亮と横浜流星は1年半の稽古を積んだという。その努力は素晴らしいと思う。ただ、本職の歌舞伎役者は、それこそ映画の中で描かれていたように物心つくころから日本舞踊や芝居の稽古を積み重ねてきている。その域に達するには、1年半という期間は短すぎるのだから、本当に基本的なことと、映画で扱う演目に限った稽古だったのだろうし、そのことは吉沢、横浜両氏も十分に認識していたことだと思う。
何が言いたいのかというと、本職の歌舞伎役者のレベルではないことを承知していながら、歌舞伎役者を演じなければならない「役者」という職業は、本当に大変なのだな、ということだ。もちろん、映画の中の吉沢亮と横浜流星の演技は素晴らしかったことに異論を唱えるつもりはない。両氏の努力には、素直に拍手を送りたい。
映画自体の感想だが、事前に歌舞伎役者諸氏が本作を絶賛しているとの報道を見聞きした。もちろん、歌舞伎の振興を考えての発言ということもあるだろうが、それにしても絶賛と言っていい評価が続いている。それに興味を引かれてこの映画を見に行った。今回、ジャンルは違うが舞踊の世界で50年以上キャリアを積んでいる、田中泯が女形の重鎮を演じており、その舞踊の場面の評価も高かったのでそのシーンに興味を持っていた。結論から言うと、自分自身に歌舞伎や舞踊に対する素養がほとんどないので、残念ながら田中泯の舞踊のすごさは分からなかった。だが、舞踊以外の場面での田中泯の演技は凄かった。田中泯が映画等のメジャーな場所に出てきたのは、映画「たそがれ清兵衛」が最初だったと記憶しているが、その後もどちらかというと男臭い役が多かったと思う。しかし、この映画の小野川万菊を観たとき、これは確かに女形の役者だ、本当の女形だと感じた。芸達者な役者さんばかりなので皆上手かったのだが、この映画でまず印象に残ったのは田中泯の小野川万菊だった。
感想が前後するが、自分はこの映画の原作になった小説は、新聞連載時に読んでいる。上下2巻の小説を(映画としては少々長いとは言え)3時間に落とし込むわけだから、色々なエピソードがカットされているし、原作から変更した設定もある。だが、私は上手くまとめたのではないかと思っている。このあたりは同じ横浜流星が出演し、そして同じく役づくりのためにかなりの努力をした作品で有りながら(私からみると)残念な出来だった「春に散る」とは大きく違う。
なぜ違う映画の事を持ち出したかというと、原作をもつ映画の場合、絶対にカットしなければならないエピソードが出てくるし、設定の改変も必要になる。問題は、カットしたエピソードや設定の改変が物語として生きているかどうかだと思う。残念ながら、春に散るはそこが上手くいっていなかった。対して「国宝」は、その点が上手くいっていたと思う。
例えば、小説「国宝」ではかなり重要な役どころである徳次は、前半部分にしか登場しない。しかし、原作通りに彼を登場させるとなると、喜久雄と綾乃の関係も描かなければならず、そうするととても尺が足りない。思い切った改変ではあるが、映画としては正しい判断だったのではないかと思う。この映画の場合、そうした割り切りが絶妙だという気がした。
おそらく、本職の演劇関係や、歌舞伎関係者がみれば、「それはありえない」という描写は少なからずあるのだろう。だが、元々これはお芝居、作り話なのだ。嘘と真が混じっているお話なのだ。偽りのほうが多かったかもしれないが、歌舞伎の世界に触れられただけでも良かったのではないかと思っている
3時間もあるので再見するかは思案中だが。
映画という芸術
3時間という長めの映画だったが、美しい男たちが演じる麗しい歌舞伎で、この作品自体が一つの芸術として完成されていた。
歌舞伎はさっぱり何言っているか分からないので、字幕版で観て大正解だった。作品を100%で楽しめた。
結構アップのシーンが多いので、主演の吉沢亮と横浜流星がいかに整ったお顔立ちかを再確認して、この映画の芸術点を高めていると感じた。
ストーリーとしては、血筋の横浜流星、芸の吉沢亮。相棒からライバル、恋敵、そして盟友、親友、最大の理解者へ。女関係もあるけど、この作品は2人の絆が主軸。
淡々と物語は進んでいくので、人の人生を俯瞰して見ている気持ちになる。映画を観る人それぞれで感じ方は異なる気はする。美術館で、絵画を観るような感覚。
少し残念だと感じた点は2点。
一つ目は、吉沢亮の目が若過ぎて、最後年齢がわからなくなる。娘役と同世代にしか見えない。(役者を変えずに演じているから仕方ないことなんだけど)
二つ目は高畑充希と森七菜が顔の系統似ていて、一瞬どっちがどっちだ!?となるので、もう少し違う系統の方だと良かったような。これが、敢えて高畑充希と似た俳優を使っている(吉沢亮が初恋の人に似た人を選んだ)のであればある意味大正解。
家だとダラダラ観ていろんなところ見逃してしまいそうなので、映画館で真剣に観て良かった。
圧倒的な美を支える女たち。すさまじい映画。
子役の二人も吉沢亮も横浜流星も田中泯もあの「たたずまい」の美しさには息を呑む。
俳優陣の踊りのお稽古はどのくらい厳しかったか。感嘆するしかない。
特筆すべきは俳優陣の化粧の顔が画面いっぱいにアップで映されること。
化粧は剥げ、肌の荒れも、シワもむき出しになり、それは迫力、気力、壮絶であり単に「きれい」なものではない。
美と芸の追求のために綺麗事では済まない凄まじさが、画面いっぱいの顔で迫ってくる。
気になるのは女性の描き方。
二人の役者の、不遇なとき、あるいはプレッシャーを影で支えているのは女性たち。
特に喜久雄をめぐる女たちは不遇だ。
高畑充希演じる春江は喜久雄でなく俊坊を支える側になる。
観客はああそうなるだろうなぁと納得する。
最後のカメラマンは父である喜久雄に恨みをぶつけつつ、父の美に拍手を送るしかないと祝福を捧げる。
都合の良い女たち、悪魔との契約の生贄になる女たちを含めた全ての世界観が美しいと感じてしまう。
この昭和的な感動に身を委ねてしまっていいのだろうか?
このコンプライアンスのうるさい世の中でこれほど振り切った世界観を示すことはとても勇気の必要なことである。
この圧倒的な映画の成功を果たして海外の評論家たちは素直に評価するだろうか?
一抹の不安を感じる。
拍子木の音
血脈の苦しみと天涯孤独の苦しみ。
狭い歌舞伎界の中でふたつの星が才能をぶつけ合って戦い、そして心を寄せ合う。
今をときめく吉沢亮と横浜流星の演技が圧巻。
これだけの女形を演じる為にどれほどの努力を重ねたのだろうか。
これでもかとふたりに苦難が降り注ぎ翻弄される。当方としては横浜流星の宿命がより辛く感じた。
見どころは娘道明寺などの舞台本番シーン。
舞台上で通い合う目線、衣ずれの音、舞台上から見た客席。幕前の表情や本番前の通路を早足で歩くシーンなど舞台裏を覗いている気分も味わえる。
映画としてはやや長尺か。
冒頭の抗争シーンは迫力満点で、古き日本映画を思い起こさせられた。
ふたりが大人になってからは表情のアップのシーンが多く、少し表現の繊細さが欲しいかと思った。
観劇はその場の臨場感や役者の迫力を間近に感じそれは良いものだが、日本の歌舞伎はその中でも独特の光を放つ。見ている間は歌舞伎の格調高い日本文化をとても誇らしく思った。
血と芸、半々を継承し遺す、歌舞伎ブラックスワン兄弟
血か芸か。歌舞伎に必要なのはその両方。
それに加え前提となる、
稽古の鍛錬を積んだ踊りと台詞の実力と、
ご贔屓がつく愛嬌や人柄、精神性、
言うまでもなく立ち振舞いの所作・容姿。
多くを求められる世界で、世襲名門一人息子として産まれた、横浜流星演じる俊坊。
反社組長を父に持ち長崎の大きな家で育ったが、ある日他組襲撃に遭い、父を殺された吉沢亮演じる喜久雄。家族を亡くすが、居合わせた歌舞伎役者、俊坊の父の花井半二郎のはからいで、俊坊の部屋子弟子として同い年の兄弟同然に稽古され育てられる。
2人は比べられる気持ちと同等かそれ以上に仲良く稽古に励み、二人とも女方が似合い、喧嘩でき鼓舞し合える親友。
でありながら、
俊坊は血筋に恥じぬ芸の腕前で喜久雄と遜色つけ難いものの、喜久雄の熱心にどこか及ばず芸も親の視線も喜久雄に持って行かれたような寂しさに傷付いていた。
かたや喜久雄は、身寄りもなく、しかも居候の身で本当の息子でないがため、血筋の世界で血筋に守られる安心感が全くない緊張感に常に怯え、だからこそ芸に打ち込み芸で身を守ろうとしていた。出自に恵まれた若き俊坊にはわからない複雑な心情を先に経験しているから、表現に活かせる。
横浜流星の俊坊と吉沢亮の喜久ちゃん、
それぞれの青年期の感情の揺れとそれでも支え合える兄弟のような関係性がしっかり画面から伝わってくる演技力はそれだけで他の作品ならそこが見せ所なはずだが、この作品ではまさかの基礎的能力。
圧巻の舞い、発声台詞回し、顔立ち、
人気、精神性、容姿。
歌舞伎の血筋以外の全てを兼ね備えた、
日本人俳優が堂々と歌舞伎を魅せてくる。
2人もそんな若い逸材がいる日本、すごすぎる。
世襲の歌舞伎役者に見える歌舞伎を振る舞った上で、
吉沢亮も横浜流星も青年期から老年期まで演じ分け、
喜久雄の吉沢亮は、
居候の身分を弁えた全うに稽古に励む立ち振る舞い、
出自が顔を出すヤクザな一面、
血の強さに悩む中、好意を寄せた女の子に、そうだこの子の家系を狙えと閃くじわりとした目。
俊坊の横浜流星は、
育ちの良さから素直だが、打たれ弱く、兄弟同然な喜久雄を慕う花江の包容力を借り、奪う形で結婚した上に跡取り息子までいることで、血筋を頼り歌舞伎役者に復帰するぼんぼん街道が喜久雄を傷付ける。
父半二郎の代役をし襲名までしたのは、
血の繋がらない喜久雄。
喜久雄は夢にまで見た出自をこれで手に入れたかに思われたが、跡取り息子と花江を携えて、戻った俊坊半弥。
母親は息子が戻れば孫が可愛く、喜久雄こと東一郎は一度は花井の屋根を後にするが、
他の歌舞伎名門の娘、彰子を手玉に取ることで他所の名門の家に転がり込もうと思うが失敗、
踊りの才だけを持って彰子とどさ回り営業活動をしていた。しかし重鎮万菊が死を前に喜久雄を呼び出し、
歌舞伎の表舞台に17年前と同じ、
俊坊と喜久雄、
半弥と半二郎の女方共演として戻る。
これで確執は終わるかに思え、これからと言う時に、
半弥の足は父と同じ糖尿病により壊死が進み、
片脚切断、義足の役者となる。
今や半弥の息子に稽古も行う半二郎だったが、
半弥の最期はすぐそこに見えていた。
半弥と半二郎でもう一度、曽根崎心中でお初と徳兵衛のタッグを組み、足がギリギリ動く最期の公演を行う。
半弥亡き18年後、半二郎は人間国宝に選出されていた。
長崎の産みの両親との別れ、
恩を忘れずお礼に蛇ネズミを取ってくる習性のミミヅクを自身の将来に重ねて彫った背中の大ミミヅク、
親の仇をヤクザの道で取らず、芸で取れと家に入れてくれた半二郎、
その息子俊介との稽古と友情、
長崎から追って来て陰で役者として支えると言いながら、血筋のある俊介を選んだ花江とその息子、
歌舞伎役者人生のために側に置かなかった、
京都から慕う芸妓藤駒とその隠し子となる娘彩乃、
俊坊に遠慮もありながら血筋への安心求めて襲名した半二郎とそれに対する世間の誤解と推測、
出戻った半弥に伴い排他され、
彰子を使おうとし失敗した卑怯にしっぺ返しをくらった惨めなどさ回り、
万菊と半弥に呼ばれ、戻って飾った半二郎の半生。
全てを芸の肥やしにし、
京都の明神様で悪魔と取引した
「誰よりも芸が上手くなる代わりに他に何もいりません」
を貫いて得た人間国宝。
そこに人々は様々な見方をするが、
芸妓の娘、彩乃はカメラマンに成長。
父半二郎の活躍を、舞台でも、ファインダー越しにも、しっかりと見つめていた。
国宝に至るまでの、運命と半生と犠牲と精神の徹底性全てが詰まった半二郎の人生。
反社の組のトップの父の仇を、
果たして芸で獲れたのか?
でも、追い続けた景色、
闇にキラキラとした雪か紙片か輝きか。
その景色に喜久雄は辿り着くことができた。
舞台の幕が降りた後、
何度も何度も感じた、血筋者でない孤独を、
その景色に辿り着いた今は感じず、
孤高の輝きを放つ人間国宝になっていた。
花井家の血を引く息子は花江の血も引く半弥が遺し、
十八番を継ぐ芸は半二郎が遺し跡取りに指導する。
一代かけて、
血と芸半々ずつ遺した2人は結局半々コンビの表裏一体2人で一代を世襲したことになる。
次の代は女方ではない勝負。
果たしてどうなるのか。
この作品を作り上げた、
全てに妥協しない俳優陣に圧倒された。
見事に儚くしなやかな切ない女役を生きる横浜流星。
狂気と熱情を秘めた女役と、そこまで惚れられる男役両方に芸と容姿両方で生きる吉沢亮。
圧巻としか思えない。
横浜流星がよく言う、役を生きる、が歌舞伎を通してまで伝わるほどの、結果の伴う血が滲む徹底的努力を、若い俳優2人ともが同水準に行い、2人から射抜くように放たれる気迫。
画面越しにくらい、何日経っても余韻が残る。
しかも、2人ともが同じ場所で育ちながら異なる人生と人物像を対比させ、演技のみならず頂点の歌舞伎としても仕上げて見せる。
同じ3時間半使うなら愛に生きたタイタニックより、
孤高の喜久雄と花井家に捧げて人生叩き直された気分に浸りたい。
ものすごい邦画なのに、これを撮り残してくれたのはルーツが韓国の監督さんなのか。
日本人が日本文化をここまで撮れなかったもどかしさも感じつつ、本作も出演俳優もそれを指導した歌舞伎文化の継承者達も全て国宝と感じる。
実際より軽いとは思うが、世襲の必然性もしがらみも、わかりやすく映像で見せてくる。
嫁いだ女の歌舞伎理解や稽古の下支えに挨拶参り。鷺娘程に惚れ込んでいなければ、まず無理務まらない。
長崎の頃から喜久雄に寄り添い大阪に追って出てきて、ホステスをしながらも支えてきた筋の通った花江だからこそ務まる役目。半弥と結婚し半二郎を同じ家の者として支え、跡取りまで遺すとことんな女性である。入れ墨入れるだけある。それでも半弥の脚が危ない時に正気を失う花江から、心も半弥にあるとわかり、既に折り合いのついた年齢とはいえ半二郎は寂しかっただろうな。同じ寂しさを京都の藤駒も感じながら彩乃を育てていたわけだが。
彰子もまた、自分は好きだが半二郎からの愛はないと悟りながらも惚れた弱み、半二郎の地方回りを文字通り荷物を抱え行脚してでも支えてくれた。
歌舞伎世襲の、極めないと演目が成り立たず、日本の文化産業としての興行にヒビを入れ後世に借金を残しご贔屓様に顔向できない、正気で生きていられないような重圧を見て育つ女達。男より強いのではないか?
喜久雄のような部屋子達も、出自が異なるという意味では嫁いでくる女達と同じである。
稽古を惜しまない俳優達に務まるのなら、世襲でなくとも芸は務まる気がするが、それを一生の生業とせざるを得ないとなるとまた話は異なる。
大抵の人間は一生はちょっとと思う中で、せざるを得ない世襲の息子、半弥や海老蔵のような存在にはまた、共感や理解が深まるのではないか?反動で激しく飲み遊び女遊びの愚行に走っても、仕方ないとも思える重圧。
珍しく生い立ちに恵まれている側を横浜流星が演じているが、べらぼうとは全く異なるちょっと気弱な女方。
でも、鷺娘の絵を遺した春信先生とべらぼうでは話している。大河でまさかの、お初の徳兵衛なんて台詞も飛び出していた。横浜流星の江戸時代日本への理解は深く厚いものになっていそうだ。
吉沢亮の彰子に目を付けた瞬間の眼差しが忘れられない。こんなすごい作品を見て吉沢亮への印象はすっかり変わりつつあるが、当初吉沢亮に感じていた印象はまさしく闇落ち側面でじわりと彰子を見つめたこの目の印象そのものだった。
横浜流星の方が一見繊細そうで、吉沢亮の方が精神的に追い詰められやすそうな一面を感じる。
残った脚にも壊死が進むが演じ続ける半弥と中の人横浜流星も、
血に勝る芸を求め続ける半次郎の中の人吉沢亮も、
歌舞伎ブラックスワン。
半弥が出て行った8年間と、
半弥が死に国宝選出までの18年間を、
寂しそうだなぁこの間修行に励み続ける孤独はいかばかりかと、国宝選出インタビューの場面を見ながら感じていた。身寄りがない中、同級生で仲良くできる稽古仲間に出会えた奇跡を、血筋のある俊坊を羨ましい時もありつつ、ずっと心強く喜久雄は感じていただろう。半二郎もまた、息子を想う気持ちも勿論あるが、分け隔てなく育ててくれた。
半二郎が遺した功績は、歌舞伎界に2人の継承者を仲良く遺した事に尽きる。
だからこそ半弥も半ニ郎も支え合って、捻じ曲がり切らずに育つことができた。
彰子は気の毒に尽きる。
下手な言葉で語れない作品
うまい言葉が見つからない
下手な言葉を並べられない
それだけ役者たちが全てを注いだ作品だったことはすごく伝わった作品だった
歌舞伎の世界は全く知らない
だけど世襲が継いでいくだろうというなんとなくの知識はある
息子でよかったねと言われる世界であることも
喜久雄が歌舞伎の世界に引き取られた時からずっと心臓が痛かった
代役に選ばれた時もサスペンスでもないのにどこかで崩れる瞬間を想像して苦しくなった
終わるまでずっと
俊介の子どもが息子だったこともまた心が抉られた
立場が逆転するとそう思った
だけど想像と違ったこととしたら俊介は喜久雄の才能を認めていた
悔しいくらいに
喜久雄は努力ももちろんだけれど最期に二人でまた舞台に立てたのは俊介が喜久雄を認めていること、これは大きかったのだろうと思う
結局最後のところは才能で上がれといえど
後ろ盾はなくてはならないものだったのだろう
1人、また1人、
関わってきた人たちの最期を見届ける喜久雄
その姿をみて失礼ながら私の気持ちも1つまた1つ解放させられるかのようだった
それだけ歌舞伎の世界は重い重圧の中守りきらねばならぬ屋号と才能が渦巻いているのだろう
俳優陣1人ひとり光っている人たちばかりだった
今をときめくとかそんなキャスティングじゃない本気のキャスティングをみた
特にこの映画に出演すると決めた吉沢亮さん、横浜流星さんは並々ならぬ覚悟だっただろう
正直なことを言うと彼のストイックさも理解した上で横浜流星さんにこの役は重いのではとも思った
だけどそんなことはなかった、私が彼の限界を見誤っていた
吉沢亮さんは、吉沢亮さんの光で
横浜流星さんは、横浜流星さんの光で
この舞台に立っていた
ご本人のお姿がかっこいいだけではここに立てていない二人の人生をかけた姿だった
カタチ違えど彼らもまた憑依していたように思う
本当に美しかった
そして田中泯さん
彼の何かを見透かすような目に鳥肌がたった
(本当に無知で最初歌舞伎の方だと思っていた)
言葉に凄みがあり説得力があった
どの登場場面も振り返れるほどにあの短時間で記憶に残った人だった
黒川想矢さん
怪物は観ていないけれど前半は確実に彼しか見えなかった
呼吸を忘れるくらい見入ってしまった
幼さと色気が混じる不思議な方だと感じました
(調べたら実写推しの子の少年カミキヒカルも演じていたのですね)
これからの作品も楽しみ
とにかく濃い3時間だった
恐ろしいほどの凄みがあり、奥深く、美しい映画
歌舞伎の世界とは縁遠い生活の私。
子供の時に狂言の教室に参加したり、お正月にNHKの番組で見るくらい。
でも、初めにでてくる舞台が連獅子だったので
これ、見たことある!と物語にスッと入ることができました。
目は口ほどにものを言う。
の言葉、思いだしました。
セリフにのせずに役者の目に語らせる。
父親が殺される瞬間を見つめる喜久雄の眼差し。
喜久雄を迎えた時の俊介の目つき、万菊さんの刺すような視線、神社で悪魔と取り引きして芸以外は全てを捨てると語る父親に幼い娘は何を思ったのか。
寺島しのぶさんは気持ちを表に出す役回りでしたが、昭和のこの時代の日本人、口数が少なめ。
だから、目で語るんですね。
女形演じる喜久雄の目の表情は千変万化。
妖艶、色艶、凄みを感じました。
吉沢亮くん、凄い、凄い!
横浜流星くんと2人、歌舞伎の所作を稽古したんですね。
しゃがみながら滑らかに歩く姿。
見事でした!
歌舞伎では代々受け継がれてきた型があり、それを完璧に表現する為の厳しい稽古。
華やかな歌舞伎の舞台、それを支える人達のなんと多いこと。
大掛かりな舞台装置、衣装、音楽、多くの黒子さん達に支えられて主役が引き立つのですね。
浴びる光が強いほど濃い影ができる。
華やかな表舞台の裏でドロドロの人間模様が繰り広げられる。
喜久雄、なかなかに嫌な奴に仕上がっていた。道を極めるには何かを捨て去らなければならないのか。
人としての矜持さえ。
緩く生きている私にはあちらの世界には入れないな。
しんどそうだな。
最後、映画館の階段を降りながら改めて吉沢亮くん凄いと思いました。
演技が上手いと思っていたが、凄まじい演技力を感じました。
予告で見たバンパイアの映画も見に行きたくなりました。
喜久雄の豊かな人生
小説を読み終えたばかりであの世界観が自分の中に色濃く残るなか鑑賞。開始5分、少年時代の喜久雄と徳次が出てきただけでもう泣いてた。小説では喜久雄をずっと支える徳ちゃんが映画では端折られていて残念だけど、映画は映画ですごい完成度で、3時間があっという間、あちこちのシーンで泣きながら観た。映画はそれだけで素晴らしく完成しているのだけど、私は映画だけではここまで感情移入しなかったかも。例えば喜久雄が大阪に行くことになったいきさつをより詳細に小説で知っていたからこそ、大垣家に着いた時の喜久雄の心情を俳優さんの表情から感じ取り「きくちゃん頑張れ!」と感情移入した。喜久雄が「不束者ですが」と挨拶するシーンも、映画では端折られているが、これは育ての母であるマツが喜久雄を長崎から大阪へと送り出す前に仕込んだ挨拶だと小説で知っていたので、このシーンから、息子を送り出すマツの強く切ない思いを感じとったり。一方、映画じゃなきゃ観られない大好きなシーンもあった。少年時代の喜久雄と俊介が正式な稽古以外の場所でも橋の上で自主的に稽古していて、二人とも本当に踊りが好きなんだなあというのが伝わってきて幸せな気持ちになった。俊介の最後の演目のシーンは小説でも泣いたけど、映画でも同じくらい泣いた。小説の方がリハーサルのところから、描かれているので、よりハラハラしながらそして泣いてしまう。映画の最後の方で「あなたがここに辿り着くためにどれだけの人を犠牲したと…」という台詞があったけれど、犠牲という言葉はちがうんじゃないかなあと思う。喜久雄が芸の道に邁進した孤独な人というふうにとる人もいるかもしれないけれど、小説を読むと、本当はもっと豊かな人間関係があり、彼は決して孤独ではなく、人に恵まれ、本人も人に対して仁義を通したひとだったのだと思う。喜久雄の面倒をずっとみていた徳次の存在(これはほんとに大きい。なんならこの軸でもう一本、映画が撮れるくらい。印象的なシーンがたくさんある)、あと映画には全く出てこないけど、弁天との出会いとその後のつながり、力士との温かな交流、綾乃との葛藤がありながら孫を抱っこする幸せに浴することもできたこと、などなど色濃い人間関係が小説には描かれているので、映画を観て感動した人は、小説を読んだらさらに感動すると思うし、喜久雄への見方がまたちょっと変わるのではないかと思う。オーディブルにもなっていて、歌舞伎役者の尾上菊之助さんが朗読しているので歌舞伎のシーンはホンモノが聴けて贅沢です。(奇しくも尾上菊之助さんのお姉さんが映画では幸子役として重要な役割を演じましたね。)
面白い
歌舞伎は全く無知、なのに予告で惹かれて鑑賞。
公開後すぐに話題になっていた。
主演の2人が素晴らしい。
それだけでも見応えがある。
静かに人間模様が描かれているが退屈はしなかった。
むしろ3時間弱の映画でも描ききれていなかった登場人物達のその後が気になりもう少し長くてもよかったとすら思った。
転落からの復活、2人の再共演もあっさり。
その辺も物足りないがそれでも久々に終わった後の喪失感というか、言葉に出来ない気持ちで映画館を出た。
タイトルなし(ネタバレ)
家族で鑑賞🎥
絶対映画館で見たかったので、
行けて良かったです!
大迫力で、音楽、映像とてもいい。
吉沢亮の演技がとても魅了されました✨
歌舞伎一筋で生涯それしかいらないって
思える喜久雄が、羨ましいなって思いました。
命かけて、努力したことが
人生にあるのは素晴らしい。
歌舞伎って素晴らしい日本舞踊ですね。
楽しみました
踊りの謡のシーンがたくさんあり歌舞伎に疎い身には楽しくみることが出来ました。経験者や目利きにはまた違う感想があるのやもしれません。
物語の筋や展開がどうというより血やしきたりといった世界を垣間見ることが主眼の作品。
説明も最低限でノイズが少ないのも良かった。
寺島しのぶさんや渡辺謙さんらの大阪弁は…調子がズレてたなあ。舞台が上方なのでその言葉を使ったのでしょうが…関東弁でも良かったのかもね。
あと昭和40年代の大阪はあんなに綺麗な街ではありませんでしたよ。リアリティラインとか気にする部分ではないのですが、NHKの朝ドラみたいな画面に感じました。
懐かしい街並みを再現することには力を割かなかったのかも。
残酷なシーンもドサ回りのコミカルなシーンも田中泯も再起もすべては舞台を際立たせるため。
ミュージカル映画のように気軽に楽しめました。
まあまあだった
歌舞伎にそもそも興味がなくて、お高い感じがむしろ嫌いである。その上3時間もあり、見たい要素が一つもないのでスルーのつもりだったがあまりに評判がいいので気になって見る。すると、3時間が気にならないくらい充実していたが、しかしやっぱり興味のない内容であるため特に興奮も感動もしないまま終わる。
歌舞伎に興味が持てるかと期待はしたのだけど、早着替え、決めポーズばかりで迫力はあったけど特に面白くない。
横浜流星は『べらぼう』を毎週見ており、見慣れているはずなのに顔がよく分からない。くすんでいるように感じる。わざとなのか特徴を消すような工夫をしているのだろうか。
吉沢亮は背中に彫り物をしているからさぞ破天荒でめちゃくちゃするのかと思ったら、とてもまじめで、1回男を恫喝して暴行を働いただけだ。海老蔵の方が質が悪い。
二人ともしっかり芸に向き合っていて大したものだ。二人とも特にユーモアがあるわけでもなく暗い。あんまりキャラが立っておらず、好きでも嫌いでもなく、感情移入できないまま終わる。
見て損したとは思わないけど、見ても見なくてもどっちでもよかった。
鳥肌が立った。
やはり脚本有りき。これ以上削れば、ぶつ切り感が顔を出し、これ以上足せば、重く飽きてくる。血と才能、生と死、信頼と裏切り。凄く良かったです。与えられた物は全て受け入れる喜久雄、そしてその代償。現実を突きつけられ、奪おう(壊そう)とした女性に逆に救われ、文字通り足掻き続ける俊介。「順風満帆」な人生など何処にあると言うのだろう。此れではない、此処ではない、と思う事は誰でも一度はあるだろう。心の内は誰にも分からない。一皮剥いたら何が出てくるかは、本人でさえも分からないのでは無いだろうか。(一時脱線)
カメラワーク、カット割りが凄い。一体どれほどの手間と時間を掛けたのだろう。そしてラストシーン。是非、映画館で観てほしい。出来れば前の方の席で、スクリーン一杯に広がる映像の美しさに鳥肌が立ちました。
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