国宝のレビュー・感想・評価
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青、白、血色
『青 chong』で鮮烈な長編デビューを果たした李相日監督の最新作。吉沢亮や横浜流星などの役者陣の演技は素晴らしく、歌舞伎の世界を舞台にした本作はスペクタクルに富んで素晴らしい。
まさに『さらば、我が愛 覇王別姫』を彷彿とさせる喜久雄と俊介/半弥の波乱万丈な人生。役者とは、栄光と引き換えに色んな代償を背負う「美しい化け物」にならざるを得なく、舞台に人生を差し出すことは自分にはできないと思った。そういった意味でも、役者とは誰もができる職業ではないことを痛感させられる。
以下、ネタバレを含みます。
本作は上方歌舞伎の名門である花井家の「血」が主題であるが、その対抗となるものは「白」である。ファーストカットが、喜久雄の肌に白塗りが施されることであったように、「白」とは芸の表象であり、「血」を隠すことができるものだ。
喜久雄はヤクザの一族という血筋を隠して、芸の道に勤しむことができる。芸で観客を魅了させれば、生まれも何も関係ない。そう信じ、実際に喜久雄は半弥を差し置いて、半二郎の代役を掴み、最後には「花井半二郎」を襲名されるに至る。しかし悲しいかな、喜久雄は半二郎の本当の息子ではないから、舞台にも立てず没落していくのは、不条理でありつつ血縁の重みを強く感じてしまう。
喜久雄と半弥はいつも表舞台で輝き続けたわけではなく、人生において酸いも甘いも嚙み分ける。喜久雄は歌舞伎での成功のために「悪魔と契約し」、幼馴染の春江と別れ、舞妓の藤駒を内縁の妻とし、実の娘を見ないように。かといって、半弥は喜久雄に「半二郎」を取られ、春江を奪い、アンダーグラウンド舞台で生きざるを得ないように。半弥が再び歌舞伎の舞台に返り咲くと同時に、今度は喜久雄が破門にされ、彰子―森七菜と共に地方巡業する様は、底まで落ちたように思えるが、彼らは栄枯盛衰いろいろに人生を歩んでいく。
二人が「半半コンビ」として同じ舞台に立つのは、彼らの辛苦を思えばとても感動だが、それも長くは続かず。半弥は「血」の断絶かのように糖尿病のため左足を切断することになってしまう。
最後に二人が「曾根崎心中」を演じる時、白塗りの顔は涙に濡れて、彼らの〈本当の顔〉が現われている。泣いているのは喜久雄と半弥なのか、徳兵衛とお初なのかは分からない。いや人生の悲喜こもごもを味わった生身の人間の涙が、〈役〉の涙になったということだろう。それは役者が役に飲み込まれたということかもしれない。
でも「きれい」だと思う。
日本だからこそ出来た表現
予告や前評判から興味が沸いたので、7月の3連休に観てきました。
歌舞伎役者を続ける大変さが濃厚に描かれている物語に驚きました。上映時間が3時間近くあるにも関わらず、全く眠くならずに最後まで夢中になれました。
主人公の喜久雄は歌舞伎に人生を捧げますが、厳しい修行が毎日続いて自由が制限されるストレスフルな環境から「やっぱり役者の現実は厳しいな……」と痛感しました。
一緒に行った母の話によると、歌舞伎とご縁のある家系に生まれると、幼少期からずっと稽古を続けなくてはならないとのことで、俊介の描写ではそれが強く表れていました。
舞台のシーンも圧巻の一言で、役者の繊細な演技と古典的な演奏は、歌舞伎の歴史が深い日本だからこそ出来た表現のように感じました。
最近観た邦画では間違いなく上位に入るレベルで素晴らしかったです。大ヒットに納得がいく出来栄えで、映画館で観れて本当によかったです。
それと、いつかは実際の歌舞伎も見に行きたいと思うようになりました。
濁流に飲まれたかのような気持ちで映画館を後にした。
歌舞伎に疎い私でも、別の仕事と並行して、1年半でここまで歌舞伎役者を見事に演じ切った喜久雄演じる吉沢亮と、俊介演じる横浜流星が尋常ではない努力をされたのは誰が見ても感じ取れる。
型は違えど、きっとこの2人も演じることに取り憑かれた人たちなんだろう。彼ら2人がいたから、この作品がここまでの完成度と説得力がある作品になったことは間違いない。
そして彼らの幼少期を演じたのが、新人アカデミー賞を受賞した『怪物』の黒川想也くんと、『ぼくのお日さま』の越山敬達くんという、これまた胸熱な2人なもんだから、誇張無しに喜久雄と俊介の幼少期からずーーーっと隙がなく素晴らしい。
黒川くんの女型なんて、あの歳でなんであの色気を出せるのか、昔話で人間を化かす妖怪ってこんな感じなんだろうなとさえ思えた。
なのに練習シーンで見せた、上半身のあの筋肉質で引き締まった男らしい身体に驚く。彼の日本アカデミー賞でのスピーチでも感動したけど、今後がとても楽しみな役者さんだ。
さらには田中泯さん演じる万菊。滲み出る『人間国宝』の凄みと気品で、田中泯さん自身は歌舞伎役者では無いのに、もう何十年も歌舞伎の世界に身を投じていた人物にしか見えなかった。招く手の所作まで、細部に至る全てが美しかった。
そう、この作品は3時間ずっと美しいのだ。
それは李監督がいつも作品で見せてくれる、人間の美しさなんだろう。もちろん吉沢亮と横浜流星という外見の美しさもあるけれど、単純に外見の美しさというわけではなく、醜く足掻く姿も美しく、汗と涙でぐちゃぐちゃな姿も美しく、そういう壮絶な人生が放つ、常人では放てない美しさが始終作品から放たれていた。
喜久雄の人生を3時間で描くため、若干物足りないところもあったし、あのキャラはその後どうなったの?とか、ここはもう少し丁寧に見せて欲しかったなーという箇所も無かったわけではないけれど、これでもだいぶカットしたんだろうなと思う。
演目で彼らの心情や想いを語らせる、生き方をダブらせるという手法は、歌舞伎の演目を知っていないと少し難しい。
私は『曽根崎心中』しかあらすじがわからなかったので、鑑賞後に他の演目を調べたところ、思わず「そういうことかー」と声が出た。これを知った上でもう一度あの歌舞伎のシーンが見たい。
極道一家の息子に生まれ、歌舞伎の世界に入る喜久雄と、歌舞伎一家のサラブレッドの俊介。
芸をいくら磨いても、血縁という強固な絆とお守りには勝てないと思う喜久雄と、その血によって苦しむ俊介。2人の立場の違う無いものねだりの若者が、芸を極めるために、もがき苦しみ、執着し、追い求める様の熱料は凄まじく、芸を極める以外の全てを捨てた者が辿り着く先が『国宝』なのかと思うと、畏怖感に震えた。
実際歌舞伎の世界で生きている人たちから見たら、この作品はどう映るんだろう。実際の人間国宝の方々からの感想を聞きたくなった。
俳優・吉沢亮の代表作、ここに誕生。魂が震える、芸の一代記!
映画『国宝』を観てきました。
言葉を失うほどの余韻に包まれ、今もまだ心が震えています。
これはもう、今年度のアカデミー賞を総なめにしてもおかしくない、圧巻の一本でした👏
『悪人』『怒り』などで知られる李相日監督が、再び吉田修一の小説を映画化。
任侠の家に生まれながら、歌舞伎役者として芸の道に人生を捧げた男の激動の一代記を描いた人間ドラマです。
まず何より、吉沢亮さんの“女方”役が凄まじい。
演じているというより、「役が宿っている」と表現したほうがしっくりきます。
国宝級イケメンの彼が、顔を白く塗り、己の芸一本で勝負する姿はまさに圧巻。
「歌舞伎」という日本の伝統芸能の世界は、一筋縄ではいかない道のりだったはず。
李監督が、なぜ歌舞伎役者ではなく吉沢亮を主演に選んだのか──
その理由を語るインタビューを読み、「なるほど」と納得しました。
その熱烈なオファーに応えようと、苦しみながらも挑み続けた日々さえも、
“芸の肥やし”となり、この作品を輝かせています。
“国宝”というタイトルにふさわしい生き様と芸が、吉沢さん自身の演技によって命を持ち、
観る者の魂に深く突き刺さる。
まだ上半期ですが、日本アカデミー賞主演男優賞の最有力候補といっても過言ではありません。
そして、昨年『正体』で同賞を受賞した横浜流星さんの存在感も素晴らしかった。
まさに作中のストーリーそのもの──
若手実力派俳優同士の“芸道対決”が、本作の見どころでもあります。
横浜流星から吉沢亮へ──
イケメン俳優から“国宝級”イケメン俳優への夢のバトンタッチは、美しく誠実な“アシスト”。
師匠役の渡辺謙さん、その妻役で歌舞伎をよく知る寺島しのぶさん、重要なヒロインを演じた高畑充希さんなど、脇を固める俳優陣も豪華!
芝居の間合いや声の温度感すべてが、舞台のような緊張感と深みを生み出していました。
さらに、音楽と“無音”の演出がとても効果的。
歌詞のない打楽器の重低音が、歌舞伎という芸に込められた品格と魂を引き立て、
本物の舞台を観ているかのような臨場感を味わえました。
King Gnuの井口理さんによるラストの歌声も、まるで楽器のように物語に溶け込み、
観終わったあとまで美しい余韻を残してくれます。
ふだんなら高額なチケットを払わないと観られないような上質な歌舞伎の演目を、
映画という形で丸ごと堪能させてもらったような贅沢な体験。
じっくりと味わう映画がお好みの方には、特におすすめ🧐“観ておいて損はない”名作です。
映画ファンはもちろん、日本の伝統芸能に関心がある方にもお勧めしたい映画です♪
これほどの作品には滅多に出逢えない
人生は舞台、そんな言葉が脳裏に浮かぶほど、本作はあらゆる場所に舞台的状況を出現させる。観客がひしめく劇場はもちろん、雪景色の中では窓越しに惨劇を見つめ、稽古場のみならず川辺や病室にも舞台は現れ、かと思えば、場末の宴会場、それに誰もいない屋上でただただ自分のためだけに踊る場面もある。かくなる経験を重ねながら、才能に魅入られた青年が、血に見出され、血に呪われ、芸事の道をひたすら歩み続ける。その姿は圧倒的に孤独で壮絶。兄弟同然の二人が互いの存在に身を反らし、しかし鏡のように向き合い、照らし合う様も大きな感動を呼ぶ。何のために踊るのか。本作は3時間かけてその答えを探し求める果てなき旅路だ。圧倒的な存在感で役を生きた二人。その若かりし頃を担った二人。李作品の柱たる渡辺。それに手のひら一つで舞う田中。誰もがあまりに見事。歌舞伎の音階を損なわず、深いところでドラマ性を奏でる劇伴も胸を揺さぶってやまない。
吉沢亮のお初の台詞回しに心震える。伝統に挑むアウトサイダーの物語を李相日が監督した点にも感慨
私は歌舞伎の素人ながら、稽古に1年半かけた吉沢亮(喜久雄役)の演技、とりわけ「曽根崎心中」のお初が声を振り絞る「死ぬる覚悟が聞きたい」に心が震えた。顔のクローズアップと引き気味の画を巧みに配した客席側からの映像も見事だが、原作者・吉田修一が四代目中村鴈治郎に黒衣を作ってもらい3年間舞台裏や楽屋まで取材して書いた役者視点での描写も興味深い(脚本は「八日目の蝉」「軽蔑」「望み」など小説の映画化で実績のある奥寺佐渡子)。横浜流星、渡辺謙らもそれぞれに素晴らしい。とりわけ、舞踊家でもある田中泯の手招きの柔らかな表現や、浮世絵のごとき白塗りで皺深い表情にも引き込まれた。
喜久雄が藤駒(見上愛)との間にもうけた娘・綾乃を演じた瀧内公美もワンシーンながら印象的。綾乃が喜久雄に伝える言葉には、周りの大勢を踏み台にして高みを目指す役者の生き様と、そうしたスターを支えるファンの心情が濃密に詰まっていた。
舞台のシーンでは入魂の演技と美麗な映像に目を奪われっぱなしになりそうだが、BGMの繊細な演出もいい。演目の実際の音楽(囃子)を中心に据えつつ、ストリングスやシンセ系の音を加えて調性やドラマチックさを補強しているのだ。まさに映画らしい歌舞伎の見せ方と言えるだろう。
世襲制が基本の伝統芸能である歌舞伎の世界で頂点を目指すアウトサイダーの物語を、在日朝鮮人三世の李相日監督が映画化した点も感慨深い。李監督が過去に2度、吉田原作の「悪人」「怒り」をいずれも東宝配給で映画化していたことも起用の要因だろう。李監督はまた、チェン・カイコー監督が2人の京劇俳優の波乱の生き様を描きカンヌでパルムドールを獲った「さらば、わが愛 覇王別姫」を観た衝撃が、本作につながったと明かしている。確かに、同作で女性役(姫=虞美人)の京劇俳優を演じたレスリー・チャンと、女形の化粧をした吉沢亮は見た目も雰囲気も近い。厳しい稽古を積みながら兄弟のように育った役者同士の絆や確執といった要素も共通する。「国宝」は今年後半以降、韓国や台湾などアジア、フランスやオランダなど欧州で公開が決まっているようで、日本の伝統芸能を題材にした本作が海外でどのように評価されるかにも大いに興味がある。
画面に凄みがほとばしっている
傑作映画はとにかく理屈じゃなく、画面に凄みがある。そして、この映画にはその凄みがあった。日本映画でこの凄みを感じたのは久しぶりだった。
これは確かにすごい作品だった。3時間途切れることのない集中力ある物語が展開するが、決して疲れることがない。緩急ある構成力が素晴らしい。歌舞伎役者の業を描く作品に役者たちが全力で挑んだ結果、映画の高みへと達している。
喜久雄役の吉沢亮にレスリー・チャンの面影を見た。彼がいなくては絶対に成り立たない作品だったことは間違いない。本物の歌舞伎役者を起用しなかったことがかえって良かったのかもしれない。公式パンフレットのインタビューで吉沢亮は、「どこまでも稽古を積んでも足りないと感じてしまう」と語っていたが、その気持はスクリーンの喜久雄からも感じ取れるのだった。彼には歌舞伎役者の「血」を持たないから。
もちろん、横浜流星もすごいし田中泯は手招きだけで観る者を震わせるし、すごいシーンがいっぱいあった。最後に喜久雄が見た景色がどんなものだったのか、恐ろしくも覗いてみたいという気持ちにさせられてしまった。表現者にしか見えない景色がある。
得体の知れない何かを求める人生の至福と過酷さ
当代の人気役者、吉沢亮と横浜流星が歌舞伎の世界で出会うライバル同士を懸命の演技でなぞっていく。任侠の世界から生来の才能を見込まれて歌舞伎の世界に飛び込んだ喜久雄(吉沢)と、名門の跡取りである俊介(横浜)を通して、才能か?血縁か?という命題に取り組んだ物語は、そんな比較論に収まらず、各々が命懸けで挑む美の探究の果てに、何が見えるかを垣間見せて緞帳を下ろす。出自に関係なく、芸を鍛錬する者だけが目撃する神々しい光の正体は何なのかは、正直よくはわからない。でも、得体の知れない到達点をただただ追い求める人生の至福と過酷さだけは、しっかりと伝わるのだ。
『国宝』は歌舞伎という日本古来のエンタメと、今を生きる若手俳優のトップ2人の献身が結びついて誕生した本当の意味での娯楽映画。読み始めたら止まらない吉田修一の長編小説を3時間弱の映画にまとめ上げた脚本は秀逸で、上映中時計を見ることはない(はずだ)。所作を含めた演技が美しい吉沢と、口跡と見た目で対抗する横浜(白塗りにすると中村七之助そっくり)を囲む脇役の中では、喜久雄の才能を会った瞬間に見抜く伝説の女形、万菊を演じる田中泯の妖艶さに痺れまくった。配役、美術、音楽も含めて、これほど贅沢な時間は年間を通してあまりない気がする。
歌舞伎への深い愛を感じる力作。一方で描くべき内容が多すぎるのか予備知識が少ないと感情移入しにくい面が課題か。
本作は歌舞伎の演技シーンを中心に強いこだわりを持って描かれている力作なのは間違いないでしょう。
役者たちの演技も文句なしに素晴らしく、その熱演は見る者を惹きつけます。
ただ、歌舞伎や原作小説の予備知識があるかないかにより、かなり見え方が変わるでしょう。
歌舞伎の知識が乏しかったり、原作未読の状態で見ると、「時」の経過に伴う場面などが断片的に見えてしまったり、状況をつかみきれず感情移入しにくい面があるのです。
結果的に175分を使いながらも、一見さんかそうでないかによって印象に差が出やすい構造になっていて、前者の視点からは課題を感じる作品でした。
発想が腐女子
李相日×吉田修一が苦手でスルーしていたものの、今回プロ脚本家が参加した意味を信じて劇場へ。
その甲斐はあってか、渇いてユーモアのある関西弁のセリフは良かったと思うけど、肝心な部分が裏になっていたり、ドラマがよくわからない。
直近に観た「アマデウス」(リバイバル)もそれなりに上演パートがあったけど、だからって描写の過不足はなかったけどなー。
3時間あったらジャンル映画が2本観られるだろうし、少なくともその間はハラハラドキドキ、強制的に心を揺さぶってもらえたはず。そう思ってしまうせこい人間は、この映画に向いてないんでしょうねぇ。。
しかし観てる間じゅう登場人物に対してむごい、かわいそう、と思わされる瞬間がほとんどなかった。「覇王別姫」を狙ったんだとすれば、端的に追い込みが足りなくない?
あと主演は吉沢亮だと思うけど、横浜流星の方がおいしい役じゃないかこれ。
吉沢亮がなんやかんやあって久しぶりに舞台に立つところ、明確な契機となる場面はなくふわーと出てくる。それが「粋」だというなら逆に、瀧内公美の最後のセリフは野暮すぎる。こちとら「悪魔」のキーワードが出た時点で察するっつうの。
田中泯の言う「きれいな顔」云々の場面も印象的だが特に回収される気配もなく。血筋と芸っていうテーマにも関係ないし、ぜんぜん女形であることの足を引っ張らない。むしろ舞台でアップばっか映るからきれいでよかったねとしか言いようがない。悪魔に気に入られるわよおめでとうの意味?
「アデル・ブルー」の撮影監督による画面作りは、舞台パートなのに顔のアップが多かったりして、よくわからない。少なくとも役者が登場する場面では舞台中継のように全体を見せてほしかった。
私が日本の伝統芸能に期待する重心移動や身のこなしのキレみたいなものはあまり堪能できなかった。
時折、メインキャストの周辺でちらっと映るおそらく本職だろう人々の立ち姿にはハッとさせられた。
途中でまじで「落語心中」かな…?と感じ始めてからの「曽根崎心中」。あれ、この作者ってもしや腐女子…?となり、終盤になってやっと、この企画の意図を理解した。ははーん、太陽がいっぱいなのね。
「落語心中」と気づいてからは、歳とって円熟期を迎えた彼の去就にがぜん注目していたけど、「落語心中」ほどの境地には至らず拍子抜け。
正直、冒頭の新年会で渡辺謙を観た時からイヤな予感はしてたけど直感は正しかったんだぜ…うれしくないぜ。
なお落語心中は山寺宏一の落語も聴けるTVアニメ版がオススメです。
凄いゾ!でも2時間半ぐらいなら嬉しいかな
◾️TES満点、PCS好みによるって感じ
技術、細かい演出が凄い〜!!ぎょぇ〜!!
見たの7月だから覚えてる範囲を書き出し。
【カチコミ】
結構変わった建物なのに誰が何処にいるかわかるの凄いし、
内側と庭側で空間を行き来したり使い分けるの良すぎ。
庭も良すぎ。樹形良い。
【流星最初の歌舞伎が連獅子】
もうコレだけでストーリーの5割の説明出来てるやん
【橋のロケハンした人にアカデミー賞】
何カットか出てきた赤い橋。
もうすでに擦られまくった話題かもだけれど、
2人が仲良い時は普通の橋なのに、亮が曽根崎心中やるってなったら、
上からのカットで、ウニャウニャキモい橋の影ができている。
え?マジ凄すぎない?
ここの流星の演技が、悔しいけれど仲良くしようぜみたいなノリなのに、絵は明らかに2人の間に言葉通りのカゲを落としていってる。ヤバ。
ロケハンした人は
「ここの橋!この時間になるとキモい影が出るんす!ここで撮影しましょう!!」とか言ったのかな?
たまたまなのかな?ヤベ。
【舞台の緊張感リアルぅ〜】
劇中劇が始まってしばらく、
すっぽん(?)から競り上がって観客の顔がガッツリ見えたり、
衣擦れの音が妙に耳についたり、
聴こえるか怪しい低音がずっと鳴ってたり、
なのに、中盤になってくるとあったまってきてホイホイ進んでいくのとか、
人生で数回しかない、ステージに立った時の記憶をリアルに思い起こした。
【客席エキストラ】
2回目の藤娘。だったかな!??
客席が俯瞰で全体映るカットがあるんだけれど、左下あたりにおそらく、2人の経緯をよく理解した上で観劇にきて、尊さで爆死してる歌舞伎オタクという設定かと思われるエキストラがいる。
両手で顔を覆い。やや上を向いている。
知ってるこの仕草。オタク仕草だ。
あれ。意外と覚えてなかったわ
◾️ちょっと…な。部分。
・演出意図をわかりやすくするためか似たシーン、カット多し。
桜、雪のシーンもここで必要なのわかる!って感じだし、傷んだ足もよく見せたいよな…!って感じなのはよくわかるんだけれど、2回で十分かな…。
そんなのが他にも結構あった気がする(気がするだけかも)
その分ちょっと時間縮めてくれ。
腰イタイ…トイレ行きたい…
・顔のアップ多すぎ。
2人の顔がいいのはわかった。もっとヒキの絵を見せてくれ。
全体的にくど目の印象。
しかし、だからこそ楽しさに気づけたところもある。
とうとう観てしまった
世間では圧倒的な人気で、我が田舎でも上映が終わることなく続いている。
多分自分はハマらないなと思って観るつもりはなかったが、ここまで人気ならばと12月に入ってからとうとう鑑賞してしまった。
やはりハマらなかった。
観終わった後の感じも想像通り。
吉沢亮と横浜流星が頑張ったなと思って終わってしまった。
観る前にネット情報で、
吉沢亮が北島マヤ
横浜流星が姫川亜弓
渡辺謙が月影先生
というのを見たが、うん、その通りであった。
なので、ストーリー的にはよくある話なのだという事。
結構時間が経ったと思って時計を見ると1時間しか経っていなくて、「ここから2時間か。。。」とげんなり。
そしてやっと2時間経ち「まだ1時間もある。。。」、
そしてエンディングで「やっと終わった。。。」と、1時間毎に途方に暮れてしまった。
3時間もあるのに何を1番に描きたかったのか分からず、ストーリーに面白みがない。
主人公2人の頑張りに評価は3にするが、好きな人には申し訳ないが、なぜここまで人気があるのか分からなかった。
ただ純粋に男二人の真摯な芸道を描き、それ以外のことを敢えてしなかった李相日監督の気高さ。
ついに観ましたよ、『国宝』。
今更かよって話ですが(笑)。
どうしても公開が終了する前に『ゾンビランドサガ ゆめぎんがパラダイス』が観たかったのだが、バルト9では終映が24時半で家に帰れない。でタイムスケジュールを見ると、そのあと朝1時から4時まで『国宝』をやっているではないか。
ちょうど翌日、朝から滋賀に仏像の展覧会を日帰りで観に行くつもりだったので、ここはオールナイトとしゃれこもうと決めた次第。
もともとは、吉田修一にも李相日にもまったく関心がなく、ジャンル的にも今更、五社英雄か降旗康男みたいな一代記見せられてもなあ、といった感じがあったし、さらには歌舞伎にもあまり関心がなくて、生まれてこの方まだ観に行ったことが一度もない(文楽もゼロ。能と狂言は大学のゼミで2回ずつ観に行かされたけどそれっきり)。
なので、このまま観ないで終わるのかな、と思っていたが、上記の理由で朝まで徹夜で付き合うことになり、結果ほんとうに観てよかったと思った。
結論からいえば、すごく良い映画だった。
ただここまでヒットしてる理由は
しょうじきよくわからない(笑)。
たぶんね、一番大きいのはやっぱり俳優2人(+2人)の頑張りだと思う。
少年時代と大人になってからの喜久雄と俊介の芸と精進に真実味があったからこそ、客はふたりの人生にのめり込んだし、共感できた。それはたしかだ。
まあ、そこはきっと皆さんに語り尽くされてるだろうから、あまり触れません。
あとは、映画com.のオーサー陣はあまり言及してないけど(一般の方のコメントは多すぎてとても読む気になれずw)、やっぱりこの映画は「撮影監督」がよかったんだと思う。
パンフを買い損ねたので、詳しいことはわからないけど。
ソフィアン・エル・ファニ。チュニジア人。パリを中心に働くカメラマン。
日本の古典芸能を見つめる海外の人の視線は、やはり「何かが」違う。
伝統的なモチーフに対して、外国人であるからこその「気づき」がどこかにあるからだ。
未知なる新奇さに対する好奇心や、日本人には気づけない違和感が、このフィルムの全体には間違いなく刻印されている。
それは『キル・ビル』や『ブラック・レイン』ほどにぶっ飛んではいない「日本人によって矯正」された抑えた視点ではあるが、海外の人間が感じる違和は、いくら矯正されても「どこからともなくにじみ出てくる」ものだ。
逆に海外技術者の起用は、従来の日本的文脈から離れて世界仕様で「普遍化」させる要素もあるかと思う。もしかしたら、歌舞伎の所作や視線の交錯のなかに、ハムレット演劇や欧米のメロドラマの要素(ダグラス・サークとか)を見出し、それを重ねて撮っている可能性だってあるわけで。
そもそも、本作には「異化効果」をもたらす3つの視点がある。
まずは「もとは歌舞伎を知らなかった現代の日本人」としての吉田修一の視点。
それから「内側のエトランゼ」としてずっと生きてきた在日三世・李相日の視点。
彼に雇われ、外様として参加したソフィアン・エル・ファニの「完全な外国人」の視点。
さわる人が変われば、作品の出来上がりは必ず変化する。
三つのフィルターを通して咀嚼された「歌舞伎」もまた、本来の姿からは抗いがたく変容し、ズレてゆく。だが今回の場合、それは「意図された」揺らしだ。
あえて李相日が監督を務め、さらにあえてソフィアンに撮影を任せることで、日本の歌舞伎を解体のうえ再構築する。それこそが本作の目的ではなかったか。
さらに、海外のカメラマンを撮影監督に採用する利点として、撮り方自体の細部に日本の一般的な映画とは違った「ニュアンス」が加えられる効果がある。
たとえば、同じ言語で語るにしても、日本人が日本語を話すのと、チュニジア人が日本語を話すのでは、どんなに流暢でも間違いなくイントネーションに違いが生じてくるのと一緒で、「撮り方」にも微妙なズレが生じてくるからだ。
実際、『国宝』には従来の邦画とは違った「匂い」が漂っている。
日本を舞台に、伝統芸能をモチーフに撮っているのに、どこか「洋画」の匂いがする。
この画格の差異は、間違いなくソフィアン・エル・ファニが持ち込んだ要素だ。
そして、監督&撮影監督の脳内に、本作の祖型としてチェン・カイコーの『さらば、わが愛 覇王別姫』という「中国映画」があったというのも、本作がまとう「邦画らしくない匂い」の淵源に間違いなくなっているはずだ。
本当に、きっちりとどのシーンもアングル決めて撮っていて感心する。
結構ガチャガチャするようなシーンでも、固定カメラでバランスよく撮っているし、演目を撮る際は、引きとアップをうまく交互に取り混ぜて、だんだんと緊張感が増していくようにはかっている。
で、ここぞってところでだけ、回り込んでいくような感じでハンディが導入される。
背後から覗き込みながら、横顔をとらえて、さらには円弧を描きながら目線をとらえる、流麗な手持ちのカメラワーク。
画質は常にしっとりと落ち着いて、肌理が細かい。
どのシーンにも独特の空気感があって、濃密な気配がある。
個人的に監督の「演出」自体には、ときどきちょっとサムいものも感じるんだよね。
たとえば、雪のカチコミシーンとか。
昔の任侠映画以上に派手な外連味があって、マジで『キル・ビル』みたいなキッチュさを感じないでもない。あと少しで「ダサく」なる一歩手前の「観客におもねった演出」だ。
他にも、笑顔で別れてこちらのカメラに向かってきたら真顔とか、早回しにしか見えない歌舞伎小屋での観客の拍手とか、個人的には「陳腐」に思える演出も実はぽろぽろあったりする。
だが、そういった「やりすぎ」ぎりぎりの演出を、「カメラマンの力量」で抑制、もしくは無毒化することに、本作は成功しているように思う。
多少の品のない演出も、リアリティもしくは詩情をたたえて「うまく仕上げる」能力がソフィアン・エル・ファニにはある。こうして、3時間の長丁場にわたって「飽きさせない」密度の高い画面が紡がれることになった。
『国宝』において、歌舞伎を「ずらし」、邦画としての空気を「ずらし」、監督のコンテを「ずらし」て、世界レベルの絵作りに引き上げてくれたソフィアン・エル・ファニの力を、我々は決して過小評価してはならない。
― ― ― ―
本作の語り口(ナラティブ)に関して言えば、とにかく余分な要素を概ね捨象して、「二人の歌舞伎役者の人生」だけにあえてフォーカスして組み立てたのが、最大の勝因だと思う。
骨太っていうのかな。
潔いくらいに、喜久雄と俊介の話しかしていない(笑)。
長い原作を刈り込むときに、どうしても総花的な脚本になってしまうことも多いところを、本作の監督と脚本家は、徹底して二人の友情と衝突、精進と達成、挫折と再起に焦点を絞って、それだけをみっちり語り続ける。
「一代記」を、本筋から目をそらさずに、一定の距離をとりながら見つめ続ける。
なにかに近いなと思ったら、「講談」の語り口に近いんだよね。
多少の情緒をこめながらも、主語をぶれさせないこと、真正面から何が起きたか語ること、状況をわかりやすく整理したうえで、ズバッと本質を語り尽くすこと。演目タイトルが字幕で入るのも含めて、そういう「講談」のようなナラティブを、巧みに映画で取り入れている。定型的な(一定の距離をとった)歴史の叙述になっているけど、ちゃんとシーン毎には個人にズームして感情を載せてくるスタイルというか。
基本的にバディ・ムービーが嫌いな男も女もいない。
男は男同士の友情と闘いの物語が大好きだし、
女性も若干別の角度から同じネタが大好物だ。
本作は、徹頭徹尾、純度100%のバディものとして練り上げられている。
ふたりは友情を感じ、家族の絆を感じ、相手への憧れを感じ、相手への嫉妬を感じる。
だが、自分から相手を陥れたり、裏切ったりすることは、作中では一回もしない。
常に歌舞伎の頭領としての父親の判断や、社会情勢の変化で翻弄されてはいるが、喜久雄と俊介は最後まで、相手のことを想い、相手に一定の敬意をもって接する関係性を辞めない。
それどころか、この映画に出てくる登場人物で「悪意をもってなにかする」(嫉妬にくるって相手を陥れる、自分が勝つために相手を貶めるetc.)人物はひとりもいない。
誰もが一生懸命、目的達成や人間関係の維持のために頑張ってはいるのだが、どうしても如何ともしがたい綻びが生じて、成功と失墜、出逢いと別れを繰り返していく。
この「悪意の不在」が、かつての似たようなフォーマットをとっていた五社英雄や降旗康男のような昭和一代記風作品と「令和的に」一線を画するところではないだろうか。
いまの観客には、悪意をストレスに感じる人が多い気がしている。
主要キャラの変心や奸計は、それがメインテーマになっているイヤミスやドロドロ系の話ならむしろ歓迎されるが、そうでない場合はダウナーな要素として「低評価」につながる場合が多い。
その点、『国宝』は人間のむき出しの悪意を描かない。
たとえば、息子を優先したい奥さんの寺島しのぶは正直にえげつないことを言ってはいるが、ちゃんと部屋子として喜久雄を育て、「跡取り」以外の部分では平等に扱っているし、彼女の主張自体、別段おかしなことは何も言っていない。要するにストレートではあるが、悪気はない。他の登場人物もみなそうだ。
これって、3時間をストレスに感じさせない大きな要因のひとつではないだろうか。
さらにいうと、この映画ってほとんど思想性がないんだよね。
『国宝』ってタイトルで、日本を代表する古典芸能である歌舞伎の世界が題材で、国に選ばれて「人間国宝」としての栄誉を授かるまでを描いた国策映画みたいな内容の映画で、それを「在日韓国人三世」の監督が撮っているのに、なぜか右や左にぶれる様子も、何かに批判的な様子も、殊更に主張したい様子もなく、ただひたすら喜久雄と俊介の話を真摯に、愚直に語り続けている。
この姿勢って、僕はものすごく信用がおけると思うのだ。
極左映画のド本命である若松孝二くらいになると、あれはあれで芸の一環みたいな部分があるが、僕は個人的にあまり監督のメッセージ性の強い映画を好まない。
そんななか、「歌舞伎」を「李相日」が「国宝」のタイトルで扱うって、果たしてどんな内容になるのだろう?というのは、けっこう下世話な関心として思うところがあった。
ところが蓋を開けて見れば、ほんとうにびっくりするくらい、思想の偏りが感じられない、ひたすら「人」に寄り添った没入型の「ただのドラマ」に仕上がっていた。
歌舞伎の(ごくふつうの現代日本人が「え?」と思うような)旧弊なしきたり(殴る蹴るを伴うスパルタ式稽古、お茶屋遊び、妾、血を重んじた家督継承)ですら、とりたてて断罪されることなく、「ごくふつうにあること」として提示される。
李監督は、この映画のなかで誰も裁かない。何も断罪しない。
さらにいうと、われわれが「女形」の世界に対して漠然と持っているジェンダー的な(あるいは性嗜好的な)先入観にすら、『国宝』は与しようとしない。
喜久雄も、俊介も、本当にものすごく普通のヘテロとして描かれ、それ以外の要素はほのめかしすらない。二人の友情は熱く粘っこいものだが、性的な臭気はほぼ皆無だ。万菊さんはたしかに「あのばあさん、いやじいさんか」といわれるくらいのモノホンだが、フルスロットルで振り切れていて、逆に誰もそういう関心は抱きづらい。美輪明宏先生のようなものだ。
『国宝』には、歌舞伎に対する批判がない。
悪弊や陰の部分に対するあてこすりやほのめかしもしない。
僕は、歌舞伎を題材に映画をつくるときに、そういう偏りもなければ冷やかしもない、ただまっすぐにあるものを見つめるだけの映画を撮るのは、実はとても難しいのではないかと思う。
題材の良さと、登場人物の良さと、演者の良さに加えて、それを奇跡的に成し遂げたことで、『国宝』は広範な大衆の支持をとりつける「裾野の広さ」「可能性」を獲得したのではないか。
そう思えてならないのだ。
ディレクションの重要性が分かる勿体ない作品
私は歌舞伎に関して無知だったが、演者の圧倒的なまでの再現度とドラマの演技、上質(であろう)原作と脚本、緻密なVFXが素晴らしかった。
一方アングルや編集、劇伴などディレクションに関わる部分のクオリティが壊滅的。
その他のほぼ全ての素晴らしい部分が打ち消されてしまっている。
せっかくスコープサイズで映される演技の様子、楽器演奏や歌の様子に圧巻され、感動するも、その瞬間にそれに及ばないスタイルのBGMとダイジェスト編集で涙をキャンセルしてくるのは、歌舞伎へのリスペクトまたは憎しみが欠けているか、あまりにも恐れているためなのだろう。
ドラマも含め、題材も役者もスタッフも観客も信頼していない正に”逃げ”の映画だった。
画コンテも甘く、アドリブも制御できず、望遠のアップが演者に追い付かずとさんざん。
同録(っぽい)音声や(歌舞伎の)音楽もクオリティが高かったのに、残念としか言えない。
「アングルと編集がよければ それなりに面白くもなるよ」
と私の好きな監督は言っていたが、今作はその逆で、ただそこだけ、根幹の要素のせいで傑作のポテンシャルが希釈されてしまった。上映枠の問題もあろうが、もう少し長ければよかったのかもしれない。
涙
夫がたまには映画が観たいと言うので、それならこんなに話題になっているのだから観ておこうかと、今頃観に行って来た。
…最初から涙でした。15で目の前で親を殺され、復讐を企てるも成就せず、身寄りも失くし、一度会ったことがあるだけの歌舞伎役者の元に身を寄せる…
自分で選んだ訳じゃない、ヤクザの家に生まれたことも、その抗争に巻き込まれて親を失くしたことも。
「覚悟が違う」
もう帰る家もない、血の繋がりもなく、それ故手を差し伸べてくれる人もない、そこで生きていくしかない。
血筋に胡座をかいてるボンボンとは
「覚悟が違う」
私自身、15で養子に出た。もう生家には帰れない、慣れない場所で、ここで生きるしかないんだと、覚悟ともその時は思わなかったけれど、のほほんと生きている周りの人間とは訳が違った。後に、その時精神的に自立してしまったんだね、と言われたが、なるほど、そう言われればそうだったかと。
そんな風に、たぶん人とは違う観点かもしれないが、最初からあの世界に引き摺り込まれてしまった。
歌舞伎の知識もほとんどないので、良し悪しは分からないが、充分に人の心を掴んで揺さぶるパワーがあったと。原作未読ですが、予備知識はなくとも十二分にあの世界を楽しむことができ、理解できない夫との間に溝が…笑
最初のシーンから覇王別姫のあの二人を思い出したんですが、やはり監督がそれを観た衝撃が本作に繋がったそうで。改めて名作なのだなぁ…と。
細かいこと色々言われてる方もおられますが、梨園の悪い?風習等全て、それ現実なんでしょ?それをそのまま描いていていいんじゃないかと。著者は物凄い取材を重ねて小説書いたそうなので。
どんなことにも光があれば必ず影がある。歌舞伎なんて特殊な世界です。だからこそ残って来た芸能かもしれない。
そして私は、何の才能も持ち合わせていなく、鍛錬も修行もしておりませんが、最後に喜久雄が辿り着いたずっと探していたあの景色、分かるような気がしますよ…
歌舞伎に対する興味のなさと飛躍した内容
世襲
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