「ただ純粋に男二人の真摯な芸道を描き、それ以外のことを敢えてしなかった李相日監督の気高さ。」国宝 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ただ純粋に男二人の真摯な芸道を描き、それ以外のことを敢えてしなかった李相日監督の気高さ。
ついに観ましたよ、『国宝』。
今更かよって話ですが(笑)。
どうしても公開が終了する前に『ゾンビランドサガ ゆめぎんがパラダイス』が観たかったのだが、バルト9では終映が24時半で家に帰れない。でタイムスケジュールを見ると、そのあと朝1時から4時まで『国宝』をやっているではないか。
ちょうど翌日、朝から滋賀に仏像の展覧会を日帰りで観に行くつもりだったので、ここはオールナイトとしゃれこもうと決めた次第。
もともとは、吉田修一にも李相日にもまったく関心がなく、ジャンル的にも今更、五社英雄か降旗康男みたいな一代記見せられてもなあ、といった感じがあったし、さらには歌舞伎にもあまり関心がなくて、生まれてこの方まだ観に行ったことが一度もない(文楽もゼロ。能と狂言は大学のゼミで2回ずつ観に行かされたけどそれっきり)。
なので、このまま観ないで終わるのかな、と思っていたが、上記の理由で朝まで徹夜で付き合うことになり、結果ほんとうに観てよかったと思った。
結論からいえば、すごく良い映画だった。
ただここまでヒットしてる理由は
しょうじきよくわからない(笑)。
たぶんね、一番大きいのはやっぱり俳優2人(+2人)の頑張りだと思う。
少年時代と大人になってからの喜久雄と俊介の芸と精進に真実味があったからこそ、客はふたりの人生にのめり込んだし、共感できた。それはたしかだ。
まあ、そこはきっと皆さんに語り尽くされてるだろうから、あまり触れません。
あとは、映画com.のオーサー陣はあまり言及してないけど(一般の方のコメントは多すぎてとても読む気になれずw)、やっぱりこの映画は「撮影監督」がよかったんだと思う。
パンフを買い損ねたので、詳しいことはわからないけど。
ソフィアン・エル・ファニ。チュニジア人。パリを中心に働くカメラマン。
日本の古典芸能を見つめる海外の人の視線は、やはり「何かが」違う。
伝統的なモチーフに対して、外国人であるからこその「気づき」がどこかにあるからだ。
未知なる新奇さに対する好奇心や、日本人には気づけない違和感が、このフィルムの全体には間違いなく刻印されている。
それは『キル・ビル』や『ブラック・レイン』ほどにぶっ飛んではいない「日本人によって矯正」された抑えた視点ではあるが、海外の人間が感じる違和は、いくら矯正されても「どこからともなくにじみ出てくる」ものだ。
逆に海外技術者の起用は、従来の日本的文脈から離れて世界仕様で「普遍化」させる要素もあるかと思う。もしかしたら、歌舞伎の所作や視線の交錯のなかに、ハムレット演劇や欧米のメロドラマの要素(ダグラス・サークとか)を見出し、それを重ねて撮っている可能性だってあるわけで。
そもそも、本作には「異化効果」をもたらす3つの視点がある。
まずは「もとは歌舞伎を知らなかった現代の日本人」としての吉田修一の視点。
それから「内側のエトランゼ」としてずっと生きてきた在日三世・李相日の視点。
彼に雇われ、外様として参加したソフィアン・エル・ファニの「完全な外国人」の視点。
さわる人が変われば、作品の出来上がりは必ず変化する。
三つのフィルターを通して咀嚼された「歌舞伎」もまた、本来の姿からは抗いがたく変容し、ズレてゆく。だが今回の場合、それは「意図された」揺らしだ。
あえて李相日が監督を務め、さらにあえてソフィアンに撮影を任せることで、日本の歌舞伎を解体のうえ再構築する。それこそが本作の目的ではなかったか。
さらに、海外のカメラマンを撮影監督に採用する利点として、撮り方自体の細部に日本の一般的な映画とは違った「ニュアンス」が加えられる効果がある。
たとえば、同じ言語で語るにしても、日本人が日本語を話すのと、チュニジア人が日本語を話すのでは、どんなに流暢でも間違いなくイントネーションに違いが生じてくるのと一緒で、「撮り方」にも微妙なズレが生じてくるからだ。
実際、『国宝』には従来の邦画とは違った「匂い」が漂っている。
日本を舞台に、伝統芸能をモチーフに撮っているのに、どこか「洋画」の匂いがする。
この画格の差異は、間違いなくソフィアン・エル・ファニが持ち込んだ要素だ。
そして、監督&撮影監督の脳内に、本作の祖型としてチェン・カイコーの『さらば、わが愛 覇王別姫』という「中国映画」があったというのも、本作がまとう「邦画らしくない匂い」の淵源に間違いなくなっているはずだ。
本当に、きっちりとどのシーンもアングル決めて撮っていて感心する。
結構ガチャガチャするようなシーンでも、固定カメラでバランスよく撮っているし、演目を撮る際は、引きとアップをうまく交互に取り混ぜて、だんだんと緊張感が増していくようにはかっている。
で、ここぞってところでだけ、回り込んでいくような感じでハンディが導入される。
背後から覗き込みながら、横顔をとらえて、さらには円弧を描きながら目線をとらえる、流麗な手持ちのカメラワーク。
画質は常にしっとりと落ち着いて、肌理が細かい。
どのシーンにも独特の空気感があって、濃密な気配がある。
個人的に監督の「演出」自体には、ときどきちょっとサムいものも感じるんだよね。
たとえば、雪のカチコミシーンとか。
昔の任侠映画以上に派手な外連味があって、マジで『キル・ビル』みたいなキッチュさを感じないでもない。あと少しで「ダサく」なる一歩手前の「観客におもねった演出」だ。
他にも、笑顔で別れてこちらのカメラに向かってきたら真顔とか、早回しにしか見えない歌舞伎小屋での観客の拍手とか、個人的には「陳腐」に思える演出も実はぽろぽろあったりする。
だが、そういった「やりすぎ」ぎりぎりの演出を、「カメラマンの力量」で抑制、もしくは無毒化することに、本作は成功しているように思う。
多少の品のない演出も、リアリティもしくは詩情をたたえて「うまく仕上げる」能力がソフィアン・エル・ファニにはある。こうして、3時間の長丁場にわたって「飽きさせない」密度の高い画面が紡がれることになった。
『国宝』において、歌舞伎を「ずらし」、邦画としての空気を「ずらし」、監督のコンテを「ずらし」て、世界レベルの絵作りに引き上げてくれたソフィアン・エル・ファニの力を、我々は決して過小評価してはならない。
― ― ― ―
本作の語り口(ナラティブ)に関して言えば、とにかく余分な要素を概ね捨象して、「二人の歌舞伎役者の人生」だけにあえてフォーカスして組み立てたのが、最大の勝因だと思う。
骨太っていうのかな。
潔いくらいに、喜久雄と俊介の話しかしていない(笑)。
長い原作を刈り込むときに、どうしても総花的な脚本になってしまうことも多いところを、本作の監督と脚本家は、徹底して二人の友情と衝突、精進と達成、挫折と再起に焦点を絞って、それだけをみっちり語り続ける。
「一代記」を、本筋から目をそらさずに、一定の距離をとりながら見つめ続ける。
なにかに近いなと思ったら、「講談」の語り口に近いんだよね。
多少の情緒をこめながらも、主語をぶれさせないこと、真正面から何が起きたか語ること、状況をわかりやすく整理したうえで、ズバッと本質を語り尽くすこと。演目タイトルが字幕で入るのも含めて、そういう「講談」のようなナラティブを、巧みに映画で取り入れている。定型的な(一定の距離をとった)歴史の叙述になっているけど、ちゃんとシーン毎には個人にズームして感情を載せてくるスタイルというか。
基本的にバディ・ムービーが嫌いな男も女もいない。
男は男同士の友情と闘いの物語が大好きだし、
女性も若干別の角度から同じネタが大好物だ。
本作は、徹頭徹尾、純度100%のバディものとして練り上げられている。
ふたりは友情を感じ、家族の絆を感じ、相手への憧れを感じ、相手への嫉妬を感じる。
だが、自分から相手を陥れたり、裏切ったりすることは、作中では一回もしない。
常に歌舞伎の頭領としての父親の判断や、社会情勢の変化で翻弄されてはいるが、喜久雄と俊介は最後まで、相手のことを想い、相手に一定の敬意をもって接する関係性を辞めない。
それどころか、この映画に出てくる登場人物で「悪意をもってなにかする」(嫉妬にくるって相手を陥れる、自分が勝つために相手を貶めるetc.)人物はひとりもいない。
誰もが一生懸命、目的達成や人間関係の維持のために頑張ってはいるのだが、どうしても如何ともしがたい綻びが生じて、成功と失墜、出逢いと別れを繰り返していく。
この「悪意の不在」が、かつての似たようなフォーマットをとっていた五社英雄や降旗康男のような昭和一代記風作品と「令和的に」一線を画するところではないだろうか。
いまの観客には、悪意をストレスに感じる人が多い気がしている。
主要キャラの変心や奸計は、それがメインテーマになっているイヤミスやドロドロ系の話ならむしろ歓迎されるが、そうでない場合はダウナーな要素として「低評価」につながる場合が多い。
その点、『国宝』は人間のむき出しの悪意を描かない。
たとえば、息子を優先したい奥さんの寺島しのぶは正直にえげつないことを言ってはいるが、ちゃんと部屋子として喜久雄を育て、「跡取り」以外の部分では平等に扱っているし、彼女の主張自体、別段おかしなことは何も言っていない。要するにストレートではあるが、悪気はない。他の登場人物もみなそうだ。
これって、3時間をストレスに感じさせない大きな要因のひとつではないだろうか。
さらにいうと、この映画ってほとんど思想性がないんだよね。
『国宝』ってタイトルで、日本を代表する古典芸能である歌舞伎の世界が題材で、国に選ばれて「人間国宝」としての栄誉を授かるまでを描いた国策映画みたいな内容の映画で、それを「在日韓国人三世」の監督が撮っているのに、なぜか右や左にぶれる様子も、何かに批判的な様子も、殊更に主張したい様子もなく、ただひたすら喜久雄と俊介の話を真摯に、愚直に語り続けている。
この姿勢って、僕はものすごく信用がおけると思うのだ。
極左映画のド本命である若松孝二くらいになると、あれはあれで芸の一環みたいな部分があるが、僕は個人的にあまり監督のメッセージ性の強い映画を好まない。
そんななか、「歌舞伎」を「李相日」が「国宝」のタイトルで扱うって、果たしてどんな内容になるのだろう?というのは、けっこう下世話な関心として思うところがあった。
ところが蓋を開けて見れば、ほんとうにびっくりするくらい、思想の偏りが感じられない、ひたすら「人」に寄り添った没入型の「ただのドラマ」に仕上がっていた。
歌舞伎の(ごくふつうの現代日本人が「え?」と思うような)旧弊なしきたり(殴る蹴るを伴うスパルタ式稽古、お茶屋遊び、妾、血を重んじた家督継承)ですら、とりたてて断罪されることなく、「ごくふつうにあること」として提示される。
李監督は、この映画のなかで誰も裁かない。何も断罪しない。
さらにいうと、われわれが「女形」の世界に対して漠然と持っているジェンダー的な(あるいは性嗜好的な)先入観にすら、『国宝』は与しようとしない。
喜久雄も、俊介も、本当にものすごく普通のヘテロとして描かれ、それ以外の要素はほのめかしすらない。二人の友情は熱く粘っこいものだが、性的な臭気はほぼ皆無だ。万菊さんはたしかに「あのばあさん、いやじいさんか」といわれるくらいのモノホンだが、フルスロットルで振り切れていて、逆に誰もそういう関心は抱きづらい。美輪明宏先生のようなものだ。
『国宝』には、歌舞伎に対する批判がない。
悪弊や陰の部分に対するあてこすりやほのめかしもしない。
僕は、歌舞伎を題材に映画をつくるときに、そういう偏りもなければ冷やかしもない、ただまっすぐにあるものを見つめるだけの映画を撮るのは、実はとても難しいのではないかと思う。
題材の良さと、登場人物の良さと、演者の良さに加えて、それを奇跡的に成し遂げたことで、『国宝』は広範な大衆の支持をとりつける「裾野の広さ」「可能性」を獲得したのではないか。
そう思えてならないのだ。
共感とコメントありがとうございます。
素晴らしいレビューで、何度も読み返してしまいました。
監督・李相日と撮影監督・ソフィアン・エル・ファニの、ふたりの「従来の日本人の視点」とは少しずれた感性が、本作を日本映画でありながらその範疇に収まらないものにした、というのは大変納得がいきました。本来の歌舞伎を再構築した、確かにそうだと思います。
松竹で作ったなら、多分こういう美しいズレは生じなかったでしょう。
ヒットの一番の要因は案外、喜久雄と俊介が親友でありライバル、そして真摯に同じところを目指す同志で、紆余曲折あっても基本的にふたりの関係は最後まで変わらなかったところにあるのでは、と思っています。ザラザラした嫌な味が残らず、余韻に浸れます。
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。

