「人生という舞台を演じること」国宝 PJLBNさんの映画レビュー(感想・評価)
人生という舞台を演じること
圧巻の3時間の映画だが、国宝となる歌舞伎役者の半世紀にわたる人生を描くとなれば、濃密で短くも感じる。吉田修一のフィクションと言いつつ、まるで本当にあった話のドキュメンタリーにもあるような緊張感が全編にわたり、李相日監督が作り上げた映像と吉沢亮をはじめたとした俳優陣の演技が見るものに強いている。
この映画を言い表すならば、陳腐なクリシェながら、シェイクスピアのマクベスの科白「人生という舞台、人間は哀れな役者」がもっとも的確な気がする。歌舞伎はハイカルチャーの古典芸能というよりは、そこに描かれるのは主に愛憎離苦と情念の入り混じった人情話であり、間接的に人間ののっぴきならない生きざまを見せる芸なのだ。そういう意味では、女形を演じる主人公の喜久雄をはじめ、俊介、はては国宝の万菊でさえ、完璧な人間ではなく、芸そのものに取りつかれて、実人生と芸の舞台の境目がなくなってしまった「哀れな役者」にしか見えない。曽根埼心中という演目を、まんま曾根埼心中のような人生を彼らが生きている。これらの人生は傍から見れば、哀れな人生だが、それは芸としてみれば立派な生きる(死ぬ)姿なのだ。
歌舞伎を映像化するというと、本物の歌舞伎を知る人は、実際の舞台のほうが映画より凄いと感じるかもしれない。だがこの映画はあえて、歌舞伎の舞台を映していないときでも、まるで人生が舞台のように描かれている。冒頭のシーンでも、窓越しに観客のように見つめる彼と父親の壮絶な死は、必要以上に舞台のように見えるし、喜久雄が俊介と争う姿を車のウィンドウ越しに見る彰子のシーンも、同じような効果与える。喜久雄が夜の屋上で酒をあおりながら踊る姿も、舞台のように見える。
万菊は「役者は歌舞伎が嫌いでも役者を演じなければならない」というが、これは言い方を変えれば「人間は人生が嫌でも生きることはやめられない」ということだ。だとしたら芸を極めるために悪魔と取引するとはどういうことなのか。すべてを捨てて芸のために生きるとは、喜久雄が目の前の大切な人々(春江、藤駒、彰子、綾乃)を無視し傷つけてまで「美しい景色」のために生きるということなのだろうか。
彰子と地方でどさ周りしている際に、喜久雄の女形を、本物の女性と勘違いして見とれる観客から、「ニセモノめ!」と罵倒され殴られ蹴とばされる場面があるが、まるで喜久雄の芸だけでなく人生に対して責めているかのようだ。場末の舞台だろうが、劇場であろうが、役者を演じなければならない喜久雄の人生は、国宝となった後でも変わらないのではないか。彼が到達した景色は、芸の極みというよりは、彼の人生の悔恨の塊のようなものかもしれない。
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