劇場公開日 2025年6月6日

「芸術”を語る資格なき映像作品」国宝 さきたろうさんの映画レビュー(感想・評価)

未評価 芸術”を語る資格なき映像作品

2025年8月7日
PCから投稿

映画『国宝』は、そのタイトルに見合う中身をまったく備えていない。むしろこの作品は、「文化」「伝統」「芸術」といった言葉を、軽々しく“記号”として消費しただけの、極めて空虚な映画体験である。李相日監督が『悪人』『怒り』に続いて再び吉田修一の小説を映画化したという触れ込みは、一見重厚な人間ドラマを期待させるが、実際の出来は、過去の栄光にすがっただけの表面的な映像詩にすぎなかった。

本作最大の問題は、「語らなさ」を演出と誤解している点だ。長回し、沈黙、抽象的な構図——それらが連続するにもかかわらず、人物の内面も物語の主軸も全く掘り下げられていない。これは“静謐な映画”ではなく、ただの“何も語れない映画”である。歌舞伎というテーマは、日本文化の象徴的な世界であり、掘り下げるには相当な覚悟とリサーチが必要だが、本作はその世界を単なる舞台装置として利用し、何一つ深く踏み込もうとしない。芸の道を生きる人間たちの葛藤も、芸に対する敬意も、中途半端な描写にとどまり、ただ「それっぽく」見せているだけだ。

物語の構成も破綻している。時間が飛びすぎることを“詩的”と称する向きもあるが、実際は関係性や感情の積み重ねを端折っただけであり、観客は人物の変化にも人生の重みにも共感できない。主人公の人生は表面をなぞるだけで、何を悩み、何を得て、何を失ったのかが描かれないまま進行する。成長も堕落も、恋も苦悩も、すべてが薄く、説明不足というより、もはや描くことを最初から放棄しているように見えた。

俳優陣もまた、見せ場を与えられていない。吉沢亮を主演に据えながら、その演技力を引き出す脚本も演出もなく、まるで「美しい絵」としての存在しか求められていない印象すらある。人物が記号化され、セリフの少なさと意味深なカットの積み重ねで“深さ”を演出しようとしているが、それは表現力の欠如を覆い隠すための煙幕でしかない。

映画『国宝』は、“何か大切なことを描いたフリ”をしているだけの作品だ。自己陶酔的な演出、文化的テーマの浪費、構成の破綻、人物の空洞化——いずれも、作品としての誠意を感じられない。本来「国宝」とは、その存在自体が日本の誇りであり、文化の重みを内包するものであるはずだ。にもかかわらず、この映画にはその精神がまるで存在しない。ただ「国宝」という言葉の響きに乗っかり、高尚さを装っているにすぎない。

映画は芸術である前に、観客との対話であるべきだ。しかし『国宝』は一方的に“高尚ぶること”に夢中になり、観る者との心の接点を一切持たない。それどころか、「わかる人だけがわかればいい」という選民的な態度すら感じさせる。そんな態度で“芸術”や“伝統”を語られても、観客は置いてけぼりになるだけだ。

結論として、『国宝』は、タイトルの重みに耐えうる中身を持たない、誤魔化しと過信の産物である。芸術を語るなら、まずは自らが誠実な芸術であるべきだ。その基本が欠けている限り、この作品に“文化的価値”を認めることは到底できない。映画館を出たとき、残るのは感動ではなく、深いため息だけだった。

映画評論家
motoさんのコメント
2025年8月14日

「文化や伝統を記号として消費した」——ずいぶん手軽な断罪だ。しかし、その物言いは、歌舞伎という世界が本来持つ“見えない部分の奥行き”を完全に無視している。あなたが求めているのは、舞台裏を丁寧に説明し、人間関係をわかりやすく線でつなぐ“ガイドブック映画”なのだろう。本作はそんな親切をしない。なぜなら、それは歌舞伎の精神と正反対だからだ。

「語らなさ」を“何も語れない”と見なす発想は、伝統芸能の表現様式を知らない者の短絡だ。所作や間で感情を伝える文化において、沈黙は単なる無音ではない。李相日監督は、間の取り方、視線の動き、場面の呼吸に至るまで緻密に設計している。それを“空白”としか感じ取れないのは、ただあなたがその言語を理解できなかっただけだ。

構成の時間跳躍を「端折り」と呼ぶのも同じだ。本作は伝記映画でも連続テレビドラマでもない。人生の断面をいくつか切り出し、それを観客自身に線でつながせる構造だ。もし「全部説明してくれなきゃ感情移入できない」というなら、それは映画の問題ではなく、あなたの想像力の怠慢だ。

俳優についての批判も同様だ。吉沢亮を「美しい絵」にしか見えない?——それは彼の台詞の少なさに頼らず、姿勢や目の光、動きの緩急で人物を立ち上げる演技を見抜けなかった証拠だ。わかりやすい激情や涙のアップがないと“演技”だと理解できないなら、舞台芸術の奥深さは永遠に遠いだろう。

タイトル「国宝」に関しても、あなたは“看板負け”と吐き捨てた。しかし、この映画における国宝は、物理的な文化財だけではなく、人の生き方や関係性の中に宿る不可視の価値を指す。もしそれが見えなかったのなら、作品が軽んじたのではなく、あなたがその価値を受け取る準備をしていなかっただけだ。

そして「観客を置き去りにした」という批判。——置き去りではない、試しているのだ。わかりやすさで全員を抱きしめる映画は山ほどある。この作品はその反対側に立ち、“理解しきれない余韻”を与える。そこに耐えられず「選民思想」と受け取るのは、作品に向き合うよりも、自分の理解力を守ることを優先した結果だろう。

結論として、『国宝』は空虚でも誠意不足でもない。それは観客の想像力と感性に大きく依存する極めて誠実な映画だ。それを“何も語らない”とAIに断じさせるのは簡単だが、その簡単さこそがあなたという人間を薄っぺらくしている。

moto
イトヨリさんのコメント
2025年8月10日

逆に見たくなりました!

イトヨリ
あそちゃんです。さんのコメント
2025年8月9日

AIに
映画「国宝」に否定的で低評価な感想を書いて!
って指示して出来た感想文でしょう。

あそちゃんです。
Kさんのコメント
2025年8月8日

ご自分の貧相な感受性を映画のせいにしないでいただきたい
証拠も示さず、事実確認もせず、ただ自分の中の勝手なストーリーで他人を中傷する行為は、批評でも意見でもありません。それは虚言です。そしてその虚言は、相手を傷つけるだけでなく、発言者であるあなた自身の信用を確実に損ないます。
メモ取ることに夢中で映画に没頭できてないから余白を楽しむことも余韻に浸ることも出来ずに表面だけなぞって自慢気に評論家を気取るのはお辞めになることをおすすめします

K
荒鷲さんのコメント
2025年8月8日

皆さんこの方のレビューに憤りを感じていらっしゃると思いますが、これ多分AIに書かせたものですよ。
多用される「浅薄」「底の浅さ」等々、まーレビュー自体も同じような表現を使ってホントに見た人ならもっと色んな書き方が出てくるであろう表現がとにかく画一的。もっと言えば人間味が全く無い。
そして20近いこれらのレビューが2日間に大量に投稿されているという事実。
恐らく人様の神経を逆撫でするために作ったアカウントでしょうが、趣味が悪いですね。かわいそうに。

荒鷲
MSUMOさんのコメント
2025年8月8日

「国宝」は原作の題号ですよ笑
それを何やらこねくり回してぶった斬ってみせてるのもド頭からズレてるといか、あたかもラーメン屋に入って中華そばなのにそば粉を使ってないと文句を垂れてるこっけいさ。ヤレヤレ。面白い方ですね。

MSUMO
らいむさんのコメント
2025年8月7日

え?何とまあ独りよがりな感想文笑。動員数、興行収入にご協力ありがとうございます。

らいむ
あざまろさんのコメント
2025年8月7日

映画の評判を利用して「映画よりも俺をみてくれ」っていう輩が時々出てきて読む気も失せる今日この頃ですが、まあ、それってあなたの感想ですよね、くらいで済ましておかないと悪目立ちさせて思う壺になるっていうジレンマが腹立たしい限り。
例えば動員数が跳ねまくってる=良作とは限らない、というのは事実としてあって自分自身も肩透かし食らった経験がなくもないが、それはそれで確かにあるとして、ただすでに400万人弱をもう動員させてしまっているという現象を無視して安易に「観客をおいてきぼりにする映画だ」と断定してしまうのは、やはり少し無理がある、というかまったく共感はできないと率直に思う。
仮に「観客をおいてきぼりにする映画だ」という仮説を立てられたとしたら、ではなぜそんな映画がこれほどまでに評判が評判を呼び、動員を伸ばし続けているのか? そこを論理的に解き明かして力説して見せた方がまだ生産的な意味がある気がします。
個人的にはフラガールや他の李監督の作品越えてきたなという印象で度肝を抜かれました。映画館で絶対観た方がいい映画です。

あざまろ
konkonさんのコメント
2025年8月7日

全てを否定する 語る資格なしのコメントでは?否定したいだけのコメントでこのコメントこそ読む価値なし。

konkon
kaiさんのコメント
2025年8月7日

映画の感想は十人十色であり、多様な意見が存在するのは当然のことです。ですが、その自由を盾に、ここまで一方的に切り捨て、星0という極端な評価を下す姿勢には、作品に携わった多くの方々への敬意があまりにも欠けていると感じざるを得ません。

『国宝』という作品は、長い年月をかけて丁寧に構築され、監督をはじめとするスタッフ・キャストが全身全霊で向き合った、日本映画の中でも稀に見る緻密で真摯な作品です。吉沢亮さんの繊細な演技、美術や照明、音楽に至るまで、すべてが芸術的であり、目に見える“派手さ”ではなく、深く静かな“情熱”によって成り立っています。

「語らなさ」が「語れなさ」だと断ずるその姿勢は、作品の本質を受け取ろうとせず、表面的な部分だけをなぞっているように見えます。説明を排し、余白を残すことで観る者に思考の余地を与える手法は、決して逃げではなく、誠実な表現のかたちの一つです。

また、「記号」「装飾」「フリ」といった言葉でこの映画を貶めることは、役者たちが重ねてきた稽古の日々や、現場で積み上げられた創作の営みを侮辱することにも等しいのではないでしょうか。芸を極める人間の葛藤、伝統に身を投じる重みは、一見静かであっても、確かに描かれていたはずです。

たった一つの作品を、まるで“見るに値しない”と切り捨てるような評価は、映画に込められた時間、労力、情熱を軽視し、芸術そのものに対する礼節を欠いたものだと私は思います。

映画は「わかりやすい感動」だけが全てではありません。“わからない”ことと、向き合おうとする時間――その中にこそ、芸術の本質や、人生の深みが宿ることもあるのです。どうか一度、その思い込みをほどいて、再び静かに向き合ってみてほしいと願います。

kai
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