「これほど美しい高みを私はまだ知らない。」国宝 ばばちゃんさんの映画レビュー(感想・評価)
これほど美しい高みを私はまだ知らない。
本日観てまいりました。
全てが美しく完成され凄みと気迫に満ちた、映画自体が芸術だと感ずる圧巻の作品でした。
自身としては、この作品の妙は本物の歌舞伎役者が東一郎、半弥を演じなかったことにあると思う。
稽古の厳しさ、人生における理不尽、芸に取りつかれる姿、そういったものは今現役の歌舞伎役者の方が演じられたら、逆に完成され過ぎてしまっており、入れ込めなかったかもしれない。
吉沢亮さんはじめ、歌舞伎役者では無かったからこそ、“歌舞伎役者となり、人間国宝となっていく”過程に対してのある種の気迫があったように思う。
世の中には、完全体ではない者にしか生み出せない美というものは絶対的に存在すると強く感じる。
登場人物に話を移すと
東一郎の人生は幼少の頃目に焼き付いた景色を“美しい”と感じ入ってしまったことから、その人生が決まって行ったように思う。
私には万菊は“悪魔”のように、竹野は映画館にいる我々のごとく映った。
竹野には、芸に身を捧げる東一郎の姿が目に焼き付き、ビジネスという観点から離れ、人間として彼の姿に入れ込むようになっていたのではなかろうか。
この作品では、“血筋”というものが現実の梨園よろしく重要な言葉となっているように思うが、本来正当な筈の後継者であった半弥が、父と同じ病に倒れる部分は、東一郎と半弥の2人の明暗を分けることにも繋がり、とかく人の世はなんと苦しくままならぬものなのだろうと…言葉にならない思いが頭を駆け巡った。
それでも、(父は成し得なかった)“舞台を演じ切る”という命懸けの想いは、その作品と結びいてもおり、震えるほどの感動を呼び起こした。
嗚呼、役者というものは自分の命そのもので役を生きていくことなのかと腑に落ちた。
東一郎については、部屋子という立場であり、血筋というものがなく、後ろ盾もないからこそ、芸に没頭する自由をある種持っているようにも感じたが、
だからこそ自分の見た景色を追い求め、
徐々に修羅となり、芸の悪魔となっていく姿は、この世の人ならざる美しさであった。
元々顔貌の美しさを携えていたとはいえ、外側の部分だけでなく、彼の幼少期からの内側の積み重ねが1つの芸の頂点を極めたのだと感じ入り、様々なしがらみがある中でよくぞ…演じきったという想いでいっぱいになった。
クライマックスで、かつては自身が怪物と恐れた万菊の鷺娘の姿と重なるような東一郎の姿は、これを国宝と言わずしてなんであろうと思うほどの万感の情を引き起こした。
これほどの作品を、俯瞰的かつ機微を仔細に描いた監督にも天晴れである。
こうした骨のある美しい作品がまだまだあったのか…と驚きと感動で満たされた。
3時間ではまだまだ足りぬ、東一郎の生き様を最後まで目に焼き付けたいと思ってしまった。
私の観た邦画史上ナンバーワンの作品です。
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。
