「宿命」盤上の向日葵 マルホランドさんの映画レビュー(感想・評価)
宿命
山中で見つかった白骨死体には、この世に7組しか存在しない貴重な将棋駒が残されていた。駒の持ち主は将棋界に突如彗星のごとく現れた天才棋士・上条桂介のものと判明。捜査が進む中で上条の隠された過去が明らかになっていくという物語であり、彼の悲劇的な運命を軸に、人間の業や才能の残酷さを描いた話でもある。
この作品を貫くのは、「お前には将棋しかない」というフレーズだ。それは単なる台詞ではなく、桂介の人生そのものを表す呪いであり、また唯一の光でもあったと感じた。
絶望的な境遇と「将棋」という才能。自身の過去を容易に語れるような人生でないことは、物語を追うことで次第に分かってくる。
桂介の境遇はあまりにも過酷だ。近親相姦という出生の秘密、酒に溺れネグレクトと暴力を繰り返す義父。
さらには彼はその才能ゆえに重慶から利用され、将棋の試合のたびに連れ出され、あげくの果てには大切な将棋の駒を売られてしまうなど、将棋がなければ受けなかったであろう苦難をも引き寄せてしまう。才能を持つ人間ゆえの苦痛を描いていて見応えがある。
桂介の人生を形作った「3人の父親」という視点で見ることによって、桂介の人間像に新しいページを加えて解釈することもできる。
桂介の複雑な人格は、彼が出会った3人の象徴的な「父親」との関係によって形成されている。
1.上条庸一(血の繋がりのない父) 粗暴で虐待を繰り返す「父」だが、パインアメや忘年会の景品の将棋駒といった「ほんの一滴の愛情」も確かに存在した。彼にとってもまた、歪んだ形であれ「桂介しかいなかった」のかもしれない。
2.唐沢光一郎(将棋の師) 桂介を「まるで息子のように」扱い、将棋の技術と楽しさ、そして「道」を教えた、桂介にとっての光とも言える存在。
3.東明重慶(影であり、反面の師) 「鬼殺し」の異名を持つ天才的な技術を持ちながら、正規の道から逸れ、裏社会で生きる男。彼は桂介の才能を利用し、賭け将棋の旅に連れ回す悪魔(メフィストフェレス)的な側面を持つ。しかし、自らの死を悟ると、桂介につきっきりで「鬼殺し」の技を遺そうとする。それは、彼なりの「贖罪」だったのだろう。
本作において、将棋は単なるゲームではない。それは「生ききる術」でもあるし、「命のやりとり」であり「賭博」そのものだ。
康一に自らの出生の過去を明らかにされ、全てに絶望し、彼はマンションから身を投げようとした。その瞬間、彼を引き戻したのもまた「将棋の駒の音」だった。彼の人生は、良くも悪くも将棋から逃れることはできないことを示唆しているように感じる。
そして、将棋の駒に「表と裏」があるように、登場人物たちも強烈な二面性を持っている。
・庸一: 粗暴な「表」と、わずかな愛情の「裏」。
・重慶: 桂介を利用する「表」と、技を遺す「表と裏」の対比が、物語に深い奥行きを与えている。
桂介が自殺しようとするシーンでは、重慶は桂介の後ろ姿を見ても、「死ぬな」と安易に言葉をかけない。彼はただ、黙って「将棋の駒を指す音」を響かせる。
あの音で、桂介は我に返った。将棋はまさに彼の生き様そのものだ。数え切れないほどの人間と勝負してきたと思うし、重慶との賭け将棋の旅の病床から咳き込みながら死に物狂いで勝負に臨む男、命を懸けて一局に臨む「漢たち」の血と汗が、そこには詰まっている。
言葉ではなく、桂介の「生き様」そのものとなった「将棋」によって、重慶は桂介の命をつなぎとめたのだ。
「お前には将棋しかない」——。その言葉通り、桂介は将棋によって絶望の淵に立たされ、同時に将棋によって生かされ続ける。その逃れられない運命の軌跡を描き切った作品だった。
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