ハロルド・フライのまさかの旅立ちのレビュー・感想・評価
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痛みと優しさが押し寄せるロードムービー
世界的ベストセラーの原作を、作者が自ら脚色した本作。まずもって引き込まれるのは、ジム・ブロードベントが手紙を投函するタイミングを失って、次のポスト、また次のポストと彷徨い歩き、気づくと旅がもう始まっているところだ。最初の前提条件や理由をすっ飛ばし「歩く」という行為へ踏み出させるこのナチュラルさ。歩くことはどこか祈りに似ている。また、歩を重ねることは思考や記憶の反芻にも通ずる。心や感情が動くことで、これまで断片的にしか考えられなかったこと、直視するのを避けていた現実とも、自ずと向き合えるようになっていく。そしてサウス・デヴォンからイングランドとスコットランドの境界近くにあるベリック・アポン・ツイードまで、移りゆくリアルな景色の雄大さ、美しさが、活字を超えた映像作品ならではの情緒となって感動を深めゆく。ロードムービーが生まれにくい英国の地で、またひとつ、痛みと優しさが同居する旅映画が生まれた。
広大な自然と美しい街並みを舞台に描かれる“贖罪”の旅
世界累計発行部数600万部(2024年6月)を誇るイギリスのベストセラー小説『ハロルド・フライの思いもよらない巡礼の旅』を原作に、アカデミー賞俳優ジム・ブロードベント主演で映像化したロードムービー。脚本は、原作者でもあるレイチェル・ジョイス自身が脚本初挑戦。
イギリス・イングランドのデヴォン州サウス・ハムズ郊外に住む、定年退職した老人ハロルド・フライ。妻と共に平穏な暮らしを送っていた彼の元に、かつてビール工場に勤めていた際の同僚の女性・クイーニーから一通の手紙が届く。末期癌によりホスピスに入院中の彼女は、彼の住む場所から800キロ離れたスコットランドとの国境の街ベリック=アポン=ツイードに居た。当たり障りのない内容の手紙を書き、ポストに投函しようと家を出たハロルド。しかし、彼にはクイーニーに対する“ある想い”があり、中々手紙を出せずにいた。ふと立ち寄ったガソリンスタンドの若い女性店員に「私も伯母が癌になった。でも、祈る事で救いたいと思った。大事なのは、信じる心」と背中を押されたハロルドは、手紙ではなく直接会って想いを伝えたいと、彼女の元へ歩いて向かう事を決意する。
イングランドの広大な自然と美しい街並みを舞台に、旅を通じて一人の老人が自分自身と向き合う過程を描いている。始まりこそ美しく希望に満ち溢れていた旅も、次第に険しさを増し、クライマックスではゴールを目前に心が折れそうになってしまう。それは、旅を通して断片的に語られてきた、ハロルドの過去に対する後悔によるもの。一人息子であるデイヴィッドの自殺を食い止める事が出来なかった過去だった。本人が語るように、「今までの人生で何もして来なかった」ハロルドは、子育てにおいても決して良い父親ではなかった様子。幼い頃から息子との間には距離があり、またそれを埋めようとする努力もしてこなかった。思春期を迎え、博識になった息子との会話に着いていけず、失望される。息子はケンブリッジ大学に合格するも、挫折を味わい家に帰ってきてしまった。だが、ハロルドはそんな息子にどう接していいか分からない。やがて、酒とクスリに溺れた彼は、自ら首を吊って命を絶ってしまう。
息子の自殺、妻との衝突を前に、自暴自棄になった彼は、ビール工場で暴れ回る。しかし、そんな彼の姿を見兼ねたクイーニーは、自らが責任を被って解雇され、去ってしまう。だから、この旅はハロルドにとって、亡き息子と死の淵に立つ親友への贖罪なのだ。
先に述べておくと、私はハロルドの行いにあまり感情移入は出来ていない。私自身、未だ何者にもなれずに燻り続けているが、彼のように「何をすべきか・何をしたいか分からずに、ただ生きてきた」人間ではないからだ。私は、この人生において自分が何をしたいのか、何をすべきかを既に見つけているし、その為の行動も起こしてきた。未だに何の成果も上げられず仕舞いだが、少なくとも“やらなかった事”を後悔した事はない。だから、彼のように“何もしなかった”という後悔と、“まさか”という偶然から旅を始める事はないし、彼が旅を続ける中で向き合う事になる“自分自身”には、毎日向き合っている。
幸か不幸か、現代では目的もなく、ただ“死にたくないから生きる”事が可能である。しかし、人間は言語によってしか考えられず、言語によって自らの人生を構築する生き物である。だからこそ、誰しもが本質的には自分の人生に
意味を見出したいはずだし、意志と意識を持って生きる事を望んでいるはずなのだ。ただ、自らの目的を明確に持つ人はごく少数派である。ハロルドもまた、目的も分からず生きてきた中で、息子の死という消えない痛みを抱いてしまったのだろう。そして、そこから抜け出す手助けをしてくれた同僚を犠牲にした後悔を背負っている。その事に対する罪悪感を払拭するかのように、ハロルドは贖罪の旅を始めたのだ。一方的に取り付け、しきりに「約束だ」と口にする姿は、ともすれば単なる独り善がりにも映る。だが、これまで目的を持たずに生きて来た彼は、ようやく自分のすべき事を見つけられたのだ。
そんなハロルドの旅に興味を持ち、同行する事になる青年ウィルフに、ハロルドはかつての息子を重ねる。夜の森に怯える彼を抱きしめるハロルドの姿は、かつて息子にしてやれなかった事を果たすかのようだった。息子と同じく、酒とクスリに溺れ、立ち直りたいと願うウィルフ。最初の数日間こそ上手くやっていくが、次第にハロルドの旅を“巡礼の旅”と称して参加する人々が集まり、一団となった頃には再びクスリに手を付けるようになってしまう。手癖の悪さからハロルドがクイーニーの為に買ったガラス水晶のネックレスを盗もうとし、それが原因で仲違い。翌朝には姿を消してしまう。ハロルドは再び、悩める若者を救う事が出来なかったのだ。
そして、ウィルフから始まった、ハロルドの旅に同行する人々。彼の行いを“巡礼の旅”と称し、メディアもそれに追随して囃し立てる。彼らは皆、何処かお祭り状態で、お揃いのTシャツを作ったりする。最初はなるがまま流れに身を任せていたハロルドだが、そもそもが贖罪の意志によって始めた旅を美談にされる事に次第に疑問を抱く。1日に進む距離は、1人で歩いていた時より遥かに短くなり、ペースダウンしてしまう。そんな旅の一団の姿に同じく疑問を抱いたケイトに促され、ハロルドは道中で出会った野良犬だけを連れ、夜明け前に一団を去る。そして、その後誰一人としてハロルドの後を追いかけて来る者はいない。彼の行いを“巡礼”と持て囃していた彼らは、“手早く他人の美談に乗っかり、自分に酔いたいだけの人々”だったのだ。彼の行いを連日取り上げていたメディアも、すぐに彼の姿を追う事を止め、立ち寄る街の人々も次第に声を掛けなくなっていく。
本作には、明確な“悪”は存在しない。ハロルドを手当てした女性医師や、道中のカフェでお菓子やレモネードをご馳走した人々、彼にエールを送り、食料を渡す人々に至るまで、皆ハロルドの無謀な旅を馬鹿にすることも邪魔をすることもしない。しかし、他人の行いに勝手に意味を見出し、無責任に乗っかる事で、自らも“何か意味のある事をしている”気になるのは、とても醜悪な事のように思えるのだ。ハロルドにとって彼らは、“悪意なき足枷”だったに違いない。
道中で拾った野良犬が、ハロルドの唯一の理解者かのように感じられる。しかし、途中立ち寄った街で、犬は見ず知らずの女性に懐き、彼女と共にバスに乗って去ってしまう。ハロルドは再び一人となって、最後の行程に挑まなければならなくなる。好意的に解釈するならば、この野良犬はハロルドが息子の死に向き合う為の心の準備期間を支える役割があったのだろう。だからこそ、その準備が出来た彼に、もう犬は必要ない。犬は、新たに自分を必要としていそうな孤独な女性の元へと向かい、新しい役割を果たすのかもしれない。
個人的には、ハロルドよりも彼の妻モーリーンの姿の方がリアリティがあり、共感出来た。ハロルドの突然の行動に戸惑い、人々から賞賛される彼を快く思えない姿は、最も人間味に溢れているように思える。街を去る際、自暴自棄になっていたハロルドを励ます言葉を伝えに来たクイーニーの言葉を、「何故、彼だけが同情されるのか?」と伝えないでいるのも理解出来る。息子と向き合う事を避け、最悪の結果を防げなかった彼の無力さ、そして自分自身の無力さに怒りを覚えずにはいられなかったのだろう。ましてや、そんな自分を置き去りにして、恩人を救おうと無謀な旅に出る姿を、到底肯定出来るはずもない。
そんな、「取り残された」モーリーンに寄り添う隣人のレックスの姿も印象的。彼もまた、失った側の人間であり、妻を病で亡くした過去を持つ。そして、無駄な抵抗だとしても死にゆく彼女を励ます事をすれば良かったと後悔を抱えている。これは聞いた話だが、人が最期の瞬間に最も後悔するのは、“やった事”ではなく“やらなかった事”なのだそうだ。だから、レックスはハロルドの行いを肯定し、やらせてあげるべきだとモーリーンを説得する。
やがて、モーリーンは旅の途中のハロルドを訪ね、カフェで帰ってくるよう懇願する。しかし、ハロルドは自らがそうしたように、彼女に動き出すよう促す。取り残されたまま、新しい一歩を踏み出せずにいるモーリーンにとって、旅の中で不要なものを削ぎ落とし、剥き出しの状態となって目的を持って突き進んでいくハロルドは、途端に遠い存在になってしまったのかもしれない。だが、遠い存在となってしまったかのように思えるハロルドも、モーリーンと同じく弱い“人間”なのだ。ゴールを前に、息子の死の記憶が鮮明に甦り、挫けそうになって堪らずモーリーンに電話をする。そんな彼の背中を、「ここで止めたら、あの人は一生後悔する」からと、今度はモーリーンが押す。旅を終え、海辺のベンチに座るハロルドの隣にやってきて、「無意味だった」と吐露する彼を励ます。やり遂げたその行いは、誰かの心に変化を齎したと。
この「簡単に奇跡など起こりはしない」というシビアさを含んだラストが良い。それは、奇跡とは程遠い、しかし1人の人間が意志を持ってやり遂げた行いに対する“結果”。クイーニーの為に選び、ウィルフから「ただのガラス玉だ」と言われたガラス細工のネックレス。病室の窓辺に飾ってきたそれに、太陽の光が乱反射して、話すことさえ困難となったクイーニーに笑顔を齎す。一見無意味なように思える事も、動き出せば何処かで誰かが見ているかもしれないし、誰かの心を変える事もあるかもしれない。だから、とりあえず「動き出せ」。本作は、そういうほんの僅かな希望の物語だったのかもしれない。そこに奇跡はなくとも、行動による結果だけはあるのだから。
タイトルなし
徒歩の旅には願いと贖罪が込められていた。
あらすじをチラッと読んだときは、「手ぶらで、ふらっと歩き出した・・・」
それって、単なる思いつき!?なのかな
と思ったけれど、それは違いました。
交通機関を使わない、
バスも電車もそしてヒッチハイクもしない・・・
それはハロルドが決めた事だった。
イギリス映画らしい手触りの、心に沁みる名作でした。
定年後を妻のモーリーンと2人で暮らすハロルド・フライ。
ある朝、旧友で元同僚のクイーニーから、手紙が届く。
800キロ離れた北部の町で癌のためホスピスに暮らしているとの
知らせだった。
短い手紙を書き、「ポストまで行ってくる」
そう妻に告げて家を出た。
しかしポストに投函できない。
郵便局まで行ってもやはり出せない。
ハロルドは、着のみ着る のまま歩き出していた。
お金は少し持っていました。
しかし携帯も着替えも歯ブラシも何一つ持たない。
「歩く事」それはクイニーへの
「生きていて‼️」
「死なないで‼️」
一歩一歩の苦行に、その願いが込められている。
ハロルドは先々で妻に電話をします。
妻のモーリーンは“置いてけぼりの妻“
寂しさを隠せません」
それともう一つ、ハロルドとモーリーンのひとり息子デヴィッドの
回想シーン。
オックスフォード大学に受かるほど頭の良かったデヴィッド。
なのにドラッグと酒に溺れて行った息子のこと。
もう一つの悔いはクイーニーへの借りを返してないこと。
そして62日以上歩いて、歩いて、ハロルドの心も身体も清められていく。
息子の死から25年。
夫を責め続けていたモーリーン。
ハロルドの不在がモーリーンに気づかせる・・・
ハロルドの存在がどんなに大事だったか。
人生の苦しみを乗り越えてきたハロルドとモーリーンの絆が
より深くなるラスト。
味わい深い良質な映画でした。
(途中で参戦した“四角い顔のワンちゃん“
(気儘な途中退場に、笑ってしまいました)
歩かなければ見えぬ物
妻と穏やかな老後生活を送っていたハロルドのもとに昔の同僚女性から「もはや余命僅か」という手紙が届きます。ハロルドは彼女と嘗てなんらかの曰くがあった事が伺えます。すると、ハロルドは彼女を励ます為に、800キロ先の彼女のホスピスまで歩いて訪れる事を決意するのでした。
彼女に残された時間が決して多くある訳でないのに何故800キロを歩くのかについて具体的な説明がある訳ではありませんが、その意味がこの歳になるとよく分かります。彼はとにかく歩きたかったんだよ。自分自身の老いを意識する様になると、歩く速さでないと丁寧に折り畳めない苦い思い出があるのです。車の速さだと、それらはまた未決棚に押し込まれて誤魔化されてしまうんだよね。
僕も無性に歩きたくなりました。
自分のための旅
ある老人のロングトレイル-なぜ野宿で、装備なしで?
四国88か所のお遍路、約1300キロを歩いた経験からすると、800キロを60日以上かけて、というのはそんなにすごい距離ではないし、かなりのスローペース。しかしまあ、ほとんど運動もしていなかったご老人が、ロクな装備も持たずに野宿を続けながら歩くとすれば大変なのは間違いない。
ホスピスで最期を迎えようとしている昔の同僚をはげますため800キロ歩いて会いに行こうという思いつきは理解できる。ゴールに着いたあとの、もうほとんど意識がない状態の彼女との再会は、イギリス人らしい抑制されたシーンでとても胸をうたれる。主人公ハロルドの思いはたしかに届いたのだ。
そこに至るまでの800キロ、色々な人と出会いながらの長い歩き旅、というだけで十分にハートウォーミングな一篇になっただろうと思うが、この映画にはもう一つ、裏の物語が用意されている。
ハロルドは金がないわけでもないのに装備も整えず野宿をつづけながら歩く。ゴールまで歩くだけでは足りず、自分を罰しようとしているかのようだ。徐々に、彼が実は、平凡な老人というよりは、めったにない辛い体験をした人であり、自責の念を背負い続けていること、本人も妻も表面上は穏やかながら不幸な人生を送ってきたことがわかってくる。
ゴールにたどりつき、妻との関係にも何か良い方向への変化が生まれる予感が示唆されるけれど、それだけですっかり救われるわけではない。その意味では後味は苦い。
予想に反して、結構シリアス
理想的なロードムービー
希望は人を生かすのか?
「彼はやり遂げる」
普通に公共交通機関を使えばいいのに
本人にとっては、徒歩で向かう事が危篤の人の為になるという信念を持っているからしょうがないけど。
行く先で主人公が不幸な目に遭う様は、山野一のどぶさらい劇場を読んでいるようだった。お年寄りが虐められているのは、子どもが虐められているのを見るより辛いです。
原題は贖罪と内容そのままのタイトルでベストセラーとの事。自分は無神論者で神なんか信じている人は、身近に相談できる人がいない可哀想な人としか思っていないので全く主人公に共感できませんでした。
お爺ちゃんの演技が真に迫る神演技で全力で可哀想な人を演じていて、お爺ちゃんを虐める人も無茶苦茶憎たらしくて演出は素晴らしいので、そこは見どころです。
800km歩いてみようかと・・・
イングランド南西のサウス・デヴォンで、定年退職後、妻モーリーンと平穏な日々を過ごしていたハロルド・フライのもとに、北の果てベリック・アポンツイードから手紙が届いた。差出人はかつてビール工場で一緒に働いていた同僚のクイーニーで、ホスピスに入院中の彼女の命はもうすぐ終わりを迎えるとのこと。励ましの返事を書き、近所のポストから手紙を出そうとしたハロルドだったが、ガソリンスタンドで青い髪の少女に言われた事から考えを変え、800キロ離れた場所にいるクイーニーのもとを目指してそのまま歩き始めた。さてどうなる、という話。
サウス・デヴォンからベリック・アポン・ツイードまでどのくらい有るのか、Googleで調べたら、遠いところでも800kmまでは無かったが、750kmくらいは有ったので、まんざら誇大でもないのか、と納得した。
1日30kmくらい歩いたら休みながらでも3週間も有れば着きそうだが、家から車までしか歩かないって言ってたからちょっと無理なのかもしれないし、途中のどんちゃん騒ぎで1日2kmとか言ってた日も有ったから、62日は妥当な所かも。
ハロルドの突拍子もない行動によって妻モーリーンとの冷たい関係が改善されたり、息子を亡くした事のケジメも付けれたようで、凄く良かったと思った。
スロバキアから移民の医師がイギリスではトイレ掃除くらいしか仕事が無いと言ってたのも衝撃だった。能力が有ってもやはり異国では制度も違うだろうし、医師免許とかは簡単に取れないのだろうと。
あと、青い髪のタトゥー少女はすごいビジュアルだった。作品の中であれだけのタトゥーを入れる理由は無さそうだから、本物なのかな?
元に戻って、800kmだが、東京から西に歩くと広島県くらいらしい。
いつか東京まで歩いてみようかと、ちょっとだけ思った。
ありえないけど、素晴らしい。
徒歩のロードムービー
私が通っていた小学校は家から4kmくらいあって、小学生は毎日往復徒歩で通学。
通学路の最後の1/4が大きな川の土手で、カンカン照りの夏場、日差しを遮るものもないところ、干からびたミミズを踏ん付けながら、吹きっさらしで真冬の風をまともに受けながら、雨なんか降ると傘をさす手の感覚がなくなって、それでも学校へ行くにも家に帰るにも歩くしかないので黙々と歩くんだけど、その時に子供ながら悟ったことは、足を前に出し続けさえすれば、いつかは目的地に着く、ということ。
そして、ひとりでなら歩いている時間はそっくり「思考」の時間になる。
ハロルドは自分の中でもやもやしているものをひとりでじっくり考える時間を得た。
「歩く」ことの肉体的苦痛は、息子のこと、クィーニーに自分の罪をかぶらせてしまったこと、その恩返しもできていないことなど絡めて、そのまま自分への「罰」だったのかも
思考が進むにつれ彼は便利な持ち物を全て奥さんに託し、本物の巡礼の修行僧のようになってしまった。
ハロルドがひとりで勝手に出ていって大分自分勝手だとは思ったが、車で追いかければすぐ見つかるのに、なんだかんだ言い訳して追いかけようとしない奥さんの方にも、ひとりになることでたっぷり思考の時間ができた。
ふたりとも、半端にくすぶっていた様々な葛藤を自分の中で十分に熟成、あるいは発酵させて、ある程度の「真理」に行きついたよう。
ハロルドの行動は確かにクイーニーを助けることはできなかったが、死の直前の彼女に生きることへの張りをもたらしたし、道中で出会った若い同性の恋人がいる紳士、移民の元医師の女性、ガソリンスタンドのお姉さんに、クイーニーへのプレゼントのガラス玉の反射のように、人生に些細なきらめきは残してくれたようだ。
小さい「いいこと」がある人生は、ないより100倍も良いと思う。
息子に似ていると思って目をかけていた若者に裏切られ、しょぼい犬にも捨てられ、がっくり気力をなくして、妻に泣き言の電話を掛けてしまう気持ちは分かる。そんな日もある。
年寄りだからと言って何でも達観しているわけではない。
生きている限り、人生の「途上」なのだ。
隣人も含め、出会った人々が親切で良い人が多くてほっとした。
メディアで取り上げられた途端に有名人になり、勝手に一緒に「巡礼」してTシャツなんか作るミーハー集団なんかも現れたが、よくある「持ち上げて落とす」マスコミの餌食にはならなかったようで良かった
ゴールについた彼は、相当臭ったと思う。
クイーニーに会う前にお風呂に入って身だしなみを整えられるくらいのお金やモノは取っておけばよかったのに、と思った。
こういうので泣ける人間で居続けたい
ハロルド・フライの贖罪の旅
手紙を出すのを躊躇して、そのまま800Kmを徒歩🚶で歩こうなんて
思うかな〜!?という疑問が頭に浮かびながら
ハロルド・フライのロードムービーを鑑賞しました。
ハロルド・フライが会いに行く相手クイーニーに
自分が徒歩で会いに行くからそれまで生きていてくれ!と
ホスピスに伝言するわけですが、その動機が彼の旅とともに明かされていきます。
彼は息子との関係性がうまくいかず息子を亡くしていることと、
それが影響して夫婦仲が険悪となり、職場で荒れた彼の身代わりとなって
同僚のクイーニーが免職されるという、この二重苦と言いましょうか、
これらの発端が自分自身にあるという後悔から、贖罪の旅に出たというのが
本筋であろうと思います。
にしても、上映時間がちょっと長いかな〜と感じましたね。
彼の徒歩の旅がイギリス中でニュースになって、同行者が出てくるのは面白かったのですが、
それが彼の旅に与える影響はあまり描かれていない気がしておりましたが、
それでも妻が夫のことに想いを馳せ、実際に会いに来るところは、じんわり心に沁みました。
ハロルド・フライは旅を通して妻をも不幸にしてしまうところだった、と、
どこかのタイミングで気づいたと思うんですよね。
それがゆえのラストの二人で手をつなぐシーンに繋がったのだろうと思いました。
おそらく高齢のハロルド・フライが800Kmを歩ききるバイタリティがあるというのには
驚きをかくせませんし、たぶん自分の方がまだまだ若いので
負けていられないなと思いましたね笑
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