ぼくのお日さまのレビュー・感想・評価
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鑑賞動機:たまにはピュアピュアほっこりなお話で、心洗われて見よう10割
単なる要素の一つかなと思っていたらガッツリストーリーに関わってきて、ちょっとたじろぐ。いや思春期の潔癖さもあるのだろうけど、ただタクヤは…いいの? この歯痒さとやるせなさに心が波立った。現在ではない…よねこれ。
一方でスケート場面の光の加減の美しさやカメラも一緒に滑ってるっぽい場面は心穏やかに観ていられた。
タクヤの友達(コウセイ)は本当にいい子だ。
ふわぁ~と
心地良いもどかしさに包まれております
やっぱり、さくらは、荒川がほんのり好きだったのかな
だから、少しイジワルしちゃったのかな
そんな繊細な少年少女の心の機微を笑顔で眺めておりました
映像も演出も脚本も、すべてがキレイな作品
光りの加減、景色、音楽、
タクヤ、さくら、コウセイたち子どもの笑顔、
荒川と五十嵐のやりとり、
すべてが優しくて、ホンワリとした時間の中で流れていく…
それは、ちょっとした心のボタンの掛け違いで続かなかったけれど…
決して後ろ向きな気分になることなく、
雪が溶けて春が訪れるような温かく前向きな気分にさせてくれました
その視線の先に居る者
北海道の少年スポーツの事情はこうなっていたのか。
たぶん物語りの舞台は小樽だろう。
夏場は野球。冬になれば積もった雪でグラウンドが使えないので
同じメンツでアイスホッケー。
でも、これじゃあ用具代が高額で、
よほどの金持ち世帯でないとムリな気がするのだが。
『タクヤ(越山敬達)』は吃音を同級生にからかわれ、
野球もセンターの背番号を貰っていながら、
練習中もぼ~っとしている。
アイスホッケーでもゴールキーパーを押し付けられ、
そこでも動きが鈍く、易々とゴールを次々に許してしまう。
打ち込めるものが無い、なんとも中途半端な日常。
そんな彼が、練習後に向けた視線の先に居たのは。
『さくら(中西希亜良)』は『タクヤ』よりも年長で
フィギュアスケートに熱中。技量もかなりのもの。
謝礼を払いコーチをアサインし指導を受けるが、
的確な指示に不満はないものの、
時としてコーチが自分を見てないのが不満のタネ。
『荒川(池松壮亮)』は嘗ては一流選手だったようだが、
今は現役を引退し、スケートリンクの管理をしながら
『さくら』のコーチも務める。
が、暫く前から、視界に気になる影の存在が。
『タクヤ』が『さくら』の真似をし、
アイスホッケーのシューズでフィギュアスケートに挑み転び続ける。
『荒川』は専用のシューズを貸し与え、時間を見ながら指導、
ある程度サマになったタイミングで
二人にアイスダンスへの挑戦を提案する。
最初の三人の視線は見事に三角関係。
それが二人がアイスダンスの練習を重ねるうちに
ベクトルに変化が生じる。
全てが上手く回り出したと思った矢先、
『荒川』が同性の恋人とじゃれあうのを目撃した『さくら』は
少女らしい潔癖さと視線の意味を曲解し、以降の指導を拒絶する。
三人の関係の線は、ぷっつりと千切れてしまったようにも見えた。
デビュー作の〔僕はイエス様が嫌い(2018年)〕でもそうだったように
『奥山大史』が撮ると寒々しい雪でさえ、
何故かふわりと暖かいものに感じてしまう。
差し込む柔らかい光線の具合も同様で、
凍てついた季節も、何時かはほころびる日が来ることを予感させる。
本作ではラストシーンでとりわけ明快に
それが示唆される。
思わず胸がきゅんとするような
希望に満ちた結末が。
心の雫がワッとあふれだすエンドロール
*
観に行きたい観に行きたいと
ずっと楽しみにしていた作品でした
結果…本当に観てよかった!
個人的に今年のベスト5に入りそうです
そしてそして
パンフレット買って大正解!
登場人物の深い部分を知れます
馴れ初めも知れます
ぼくのお日さま読んで泣けます
*
ぽかぽかとした陽だまりが
いつもスケートリンクを
ふんわりと照らしていました
美しくて繊細な白い世界が広がっています
雪の日の清らかな空気感です
*
スケートの楽しさを
タクヤと一緒に感じるような時間に
なんだかわくわくしました
初めてのことを覚えるって
ぜんぶ新鮮でぜんぶ楽しいなって
子ども時代のわくわくを感じました
何度か笑えるシーンもあって
心がぽわっとあたたかくなりました
ペアでの練習のときの
「タクヤ〜!」のガヤだったり
プロ時代の荒川の写真を真似て
茶化す五十嵐だったり…
3人で課外練習をするシーンは
ずっとずっと心にしまっておきたい
綺麗で大事な宝物になりました
永遠ではない儚い永遠です
タクヤとコウセイのシーンも好きでした
屋上の雪が綿にみえました
ふたりの雰囲気がふわふわしているから
そんなふうにみえたのかもしれません
登場人物の一人ひとりが
とにかく愛おしくてたまらないです
*
サクラが「気持ち悪い」と言い放ったのは
ほんのり淡く荒川を好きだったから
余計そう感じてしまったのかもしれません
マイノリティの捉え方は
子どもとか大人とかは関係ありません
相手の人のことをどう思っているかで
変わってくるものだと思います
目撃してしまった…のあのシーンは
雪がとても重々しく感じられて
まるで泥のようでした…
荒川はコーチにつく生徒がいなくなって
あの街を離れていってしまうけど
五十嵐とは遠距離でもいいから
繋がっていてほしいと願うばかり…
「分からない」という曖昧な言葉を信じたい
しかし、パンフを読むとこの願いは
雪解けのように儚く消えてしまいそうです
荒川も五十嵐も好きな人を好きでいて
ただ普通にふたりの幸せの暮らしを
営んでいただけなのに
その幸せが別の幸せを壊した
どっちもは難しい どっちかはダメ
だったら両方置いていく
そんな荒川の選択が切なくてたまらないです
*
春になってタクヤがサクラに伝えた言葉
「ありがとう」かな…なんだろう…
ふたりのダンスがまたあそこから
始まっていけばいいなと思いました
ハンバードハンバードの
『ぼくのお日さま』を聴いていたら
いろいろな感情がこみ上げてきて
ぽろぽろと涙が頬を転がっていきました
エンドロールも本編
エンドロールこそ本編
*
池松壮亮さんはいい意味で
脱力感のある演技が上手ですね
演技なのかそうじゃないのか
よく分からないところが
神の仕業だと思っています
越山敬遠くんは天狗の台所から
注目している俳優さんです
これからもっと伸びていくのは
間違いないと思っています
インタビューの受け答えが
しっかりしていて素晴らしい
今後も出演作に注目していきたいです
*
映像や演技は素敵だけどラストは嫌い
なんで、吃音の主人公なのに言葉が出るまで待たずに終わらせたの?
二人が再会したところで終わってたら、遅くても主人公が声を出す前に、開口したタイミングで終わってたら全然印象が違った。
明らかに声出てたよね?話そうとしてたのに言葉が出る前に切ったよね?そのタイミングだと『あの後なんて言ったのかな〜』みたいな感想にならないよ。なんで待たないんだよって思うよ。
主人公がコーチに靴を貸してもらうシーンで、やっと「ありがとう」が出たときにはコーチは去ってて。靴をもらうシーンではちゃんと「ありがとう」が伝わって。『あー良かった』って思ったのに。
女の子の扱いも結構ひどい。突然、スケート始めたばっかりの主人公と組まされて。明らかに女の子の力を伸ばすためじゃなくて、主人公の都合優先ってわかるもん。コーチが主人公の恋を応援してあげたかったから??そりゃモヤッとして当然だよ。せめて正当に怒らせてあげてよ。なんでコーチがゲイだったから差別されて拒否られた、みたいになってんの。あの子がコーチにもお母さんにも、私はあんたたちの夢を叶える道具じゃないよって、怒るシーンがあったらマシだったのに。
主人公の行動も理解不能で。なんでホッケーに戻ってんの?フィギュアスケートには興味なくて、ただ女の子に近づきたかっただけ?誰かに憧れて新しいことを始めるって、きっとよくあることで。そのうちにそれ自体が好きになって、大切になるものだと思ってた。そういうふうに見えてたから、なかなかショックだった。
時代がピンとこなかったのはあって、20〜30年前のゲイやフィギュアスケートに対する偏見をもっと描いてくれたら違ったかもしれない。もう昔すぎて覚えてないから。
懐かしくてあたたかい。大人に沢山みてほしいな
初めのシーンから
なんとなく古めかしい、いや、懐かしく感じる画像。。わざと、そうしているんだろうな、と思いながら。
主人公であろう、タクヤくんは
ヒーローでも、なんでもない、ちょっと吃音の小学生。ぼやーとしているところ、あー、クラスに1人はいそうな、普通の男の子。
その彼が
冬になると、アイスホッケーを習うわけなんですが、
そこで、1人の可憐にフィギュアスケートをする
女の子にときめいちゃうんですな。
池松壮亮くん演じるフィギュアスケートの先生は
はた、と男の子の様子に気が付き、
声をかけて、フィギュアスケートを
教え始める。。。
静かなテンポで3人が近づき信頼が生まれ、
ほんとにココロが穏やかにながめられて(鑑賞ですな)おばさんは、いつのまにやら、
じんわり、なみだ。。。
急展開もまた、静かに起こる。。
だって、思春期だもの。
難しいよね。
パンフレット購入して、読み返したら、
人物設定が!!そーか。いろいろ、納得した。
個人的にストン、とおちました。
子役て、すごいな。
今年、わたしの中では「カラオケ行こ!」
と、接戦していますだ。
す‼️❓す‼️❓好きだ‼️❓
途中まで、池松くんが主役だと感じていた。
でも、彼がゲイで、少女に嫌われてから、違うことに気がついた。
吃音の彼と少女が出逢う、ボーイミーツガール、純愛物語なのだ、それに気づいて、あゝ、最高点の映画だと感じた。
池松くんも若葉竜也も、タバコとアイスの共有だけではゲイだとは気づかない、仲の良い兄弟くらいに感じてた、さすがの自然な演技の二人。
でも、少年少女、少女は可憐で、少年は素直で、スケートは血の滲む努力をしたんだろう、池松を含めて、それを感じさせないくらい、演技が上手いレベルじゃなくて、そのものがそこにいるように感じた。
余談だが、アインシュタインやトムクルーズは幼い頃、失語症だそうだ。
障害は個性、パラの特集で、本人や周りが、そう言っていたのを思い出した。
それを思い出させてくれて、なお、感動の純愛物語を見せてくれた、映画も捨てたもんじゃ無い、ありがとうございます😭
軒並み高評価の中、恐縮ですが(^^ゞ
スケートの場面が美しい
タクヤとさくらのスケート場面が美しい。夏は野球、冬はアイスホッケーの生活の中、さくらのスケート姿に魅せられてスケートを始めるタクヤ。コーチへの信頼と憧れの入り混じった気持ちの中、タクヤとペアを組むことになるさくら。彼と暮らす場所を探し、この街にやってきた荒川。三人は小さな閉塞感の中で懸命に暮らしている。
特に大きな出来事はなく、三人は小さなきっかけで繋がり、小さなきっかけですれ違うが、タクヤとさくらの再会で、希望を感じさせて終わる。
カップ麺をすすり合う場面で描く、小さな触れ合いと幸せを感じる作品。
美しさのあとの鑑賞後の胸のざわつき
子どもたちの繊細でピュアな心の描き方、屋内に差し込む「美しすぎる」光。素晴らしかった。
最初は美しすぎると感じるも、そこにまけない演技とスケートと画作りにより、うっとりするとともに、神々しさも感じる。
スタンダードで人物が中央に立つ画はどの作品でも好き。
そして、湖での3人のスケートは近年稀に見る、心に残るシーンだった。
無邪気な子どもたちに触発されて、のびのびとする荒川役の池松壮亮もいいね。
このまま美しく終わってほしいとおもっていたが、そこで終わらないのも映画としてよかった。
ともすれ、池松壮亮に目が行きがちだけども、
「ぼくのお日さま」、それは人に与えられたものではなく、タクヤが自立して自分で掴んでこそ意味がある。波乱の中でのもやもや、ざわつきとともに、終了。
そして、主題歌で心情を描く。これ以上ない終わり方ではないだろうか。
月の光とお日さまの光
吃音症で言葉を上手く伝えられないタクヤ
感情を表に出すことが少ないさくら
かつて一流のプロスケーターだった荒川先生
3人の感情の交わりを描いた群像劇。
吃音症や同性愛をテーマにした映画はこれまでも沢山あっただろうが、この映画ではそれらの「特徴」に過剰なスポットライトを当てることはない。あくまで3人の心のやり取りを描いている点が、作品としての美しさと澱みのなさを作り出しているように感じる。
3人とも言葉数が多い人物では無いが、スケートという言語を通じて互いに必死になって感情をやり取りしているように見えた。それぞれの目線と動き、スケート靴で氷を砕いて滑る音、リンクに残る軌跡、それらから言葉以上のものが伝わってきた。
映像としても非常に綺麗で、劇中のキーになる曲である「月の光」とタイトルの「お日さま」という対になる2つのモチーフを表現する光の使い方が印象的だった。
そして、「ぼくのお日さま」というタイトルから、お日さまとは、タクヤにとってのさくらのことだと思うかもしれない。しかし、果たしてそれだけだろうか。さくらにとってもまた、タクヤや荒川先生がお日さまであったかもしれないし、荒川先生にとってもタクヤとさくらがお日さまであったかもしれない。
3人ともが互いに光を与え合うように、スケート靴を履いて舞う光景が魅力的だった。
だが、お日さまはいつまでも空を照らしてくれる訳では無い。月の光が差す時に3人がどのような選択をするのか。
派手さはないけどジーンときた
光の射す中で・・・‼️
ある雪国を舞台に、吃音の少年タクヤが、スケートを一生懸命に練習するさくらに一目惚れ。さくらのコーチである荒川の計らいで、タクヤとさくらはペアのアイスダンスの練習をすることに。メキメキと上達していく二人だったが、ある日、荒川がゲイであることを知ったさくらは・・・‼️三人のひと冬の出来事を、スケッチ風にほのぼのと綴った好編です‼️光が射し込むアイスリンクや、氷が張った池の上でスケートの練習をする二人のシーンが美しく、さくら役の中西希亜良ちゃんの透明感がホントにスゴい‼️将来が楽しみな女優さんですね‼️冬が終わり、荒川は町を去り、さくらは一人でスケートの練習、タクヤは野球部へ‼️苦いラストかと思いきや、道端で偶然再会したタクヤとさくらの表情には笑顔が‼️ペアの再結成かもですね‼️
恋とは厄介なものだな
シンメトリーで「真正面」からとらえられた、北国の風物と三者三様の切なくピュアな想い。
一見して印象的なのは、
映画のほとんどの構図が、
シンメトリー(左右対称)
を意識して撮られているということだ。
グラウンドに立つ少年。
路傍に立つ郵便ポスト。
双耳峰と沸き立つ白雲。
少年とホッケーゴール。
スケートリンクの少女。
建物も、人物も、風景も、
この映画は常に真正面から、
衒いなく見据えようとする。
それは、曇りなき視点であり、
どこまでもフェアな視点である。
相手のことをまっすぐに見つめる視点である。
その潔さ、清々しさが、奥山大史監督の視座なのだ。
画面の奥のど真ん中にひとり佇むとき、
右にも、左にも、等間隔で何もない空間で、
被写体は、どこまでも孤独でよるべない存在だ。
その一方で、対象をど真ん中からまっすぐ見据えてぶれることのない、監督の真摯な眼差しが、キャラクターをある種の孤独からすくい上げているのもまた確かだ。
本作において、会話する二人は、常に左右に並んで意見を述べ合う。
積み重ねられてきた「二人のシンメトリー」は、終盤の三つのショットに結実する。
ベッドに横たわる、池松壮亮と若葉竜也の会話。
想い出の湖のほとりと車中で並ぶ少年とコーチ。
春の通学途上で、新たに出会い直す少年と少女。
ここにたどり着くために、敢えてシンメトリーを積み重ねてきた、という言い方もできるだろう。
そのへん、ビクトル・エリセの『瞳をとじて』あたりの作劇を少し想起させる。
― ― ― ―
一方で、この物語は「二人のシンメトリー」がなかなかに成就しない物語でもある。
少年と少女とコーチ。
スケートリンクでは、常にこの三者が三様にひきつけ合い、微妙なバランスを保っているからだ。
リンクで向き合う二人を、残る一人が外から眺めている。
最初は少女とコーチが練習するところを、少年が外から見つめている。
それから今度は、少年とコーチが練習するところを、少女が外から見つめている。
さらには、少年と少女が練習するところを、コーチが外から見つめている。
それぞれの胸に去来する想いは、一方通行だ。
少年の慕情。少女の慕情。コーチが二人に託したい想い。
ベクトルはかみ合わず、憧れの視線はいつも誤解とためらいに満ちている。
そんなとき、カメラは必ずといっていいほど、外から見つめる人間を「真横」から捉える。
被写体の横顔を映しながら、その右側に向けられる羨望の眼差しをひたと見つめる。
眼差しの先は遠く、見つめる者の想いは常に伝わらない。
それでも、三人の幸せな時間は、しばらくのあいだだけ共有される。
そのとき、三人の視線はほどよい感じで絡み合い、三人で分かち合う大切な瞬間が積み重ねられる。
この映画は、そうやって、ほんのわずかな時間だけ保たれた「奇跡のような関係性」の「尊さ」と「多幸感」によって、他にない特別な作品となり得ている。
男二人と女一人。
青春の輝きを、最も際立たせる取り合わせだ。
『ぼくのお日さま』は、この黄金パターンのヴァリエイションだと言っていい。
すなわち、映画としての『ぼくのお日さま』は、
ジャン=リュック・ゴダールの『はなればなれに』や、
フランソワ・トリュフォーの『突然炎のごとく』や、
ロベール・アンリコの『冒険者たち』や、
ジョージ・ロイ・ヒルの『明日に向って撃て!』や、
ジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の
精神的な後継作にあたるとも言えるのだ。
上記の映画群にはいずれも、「友情以上、恋愛未満」の関係性で結ばれた三人が、童心に返って「わちゃわちゃ」してみせる、底抜けに幸せなシーンが象徴的に存在する。
『ぼくのお日さま』にとってのそれは、言うまでもなくあの、氷結した湖上での練習風景だ。
あの一連のシーンをフィルムに収められただけでも、この映画が作られた意味はあった。
そのくらいに良いシーンだと思う。
― ― ― ―
それでも。だからこそ。
三人の奇跡のような幸せな時間は、
結局は、かりそめのものにすぎない。
幸せ過ぎる魔法は、やがては解けてしまう。
雪のように。はかなく。容赦なく。
その背景にあるのは、とても哀しい無理解と一方的な断絶であって、映画によればそこを「深掘り」してみせる作品だってありそうなものだ。
でも、この映画は、敢えてそちらに踏み込まない。
この映画は、偏見を持ってしまった者を断罪しない。
起きてしまった哀しい結末を、あえて蒸し返さない。
背負うマイノリティの辛さを、剥き出しで描かない。
下した決断の重さを、無理やり強調しようとしない。
すべてを、冬から春への季節の移り変わりのなかで、
あるがままに描いて、教訓や結論を見出そうとしない。
それでいい。
僕は、この映画に関しては、このオープンエンドで良かったのだと思う。
これ以上でも、これ以下でも、きっと説教臭くなった気がする。
このくらい、語り切らず、これから起きることを観客にゆだねて、そのまま潔く終わるくらいで、ちょうどよかった。僕はそう思う。
― ― ― ―
とにかく、美少年と、美少女と、池松壮亮の存在がまぶしい。
ただ傍観者として観ているだけでも、ほっこりした気持ちになれる、どこまでも美しい映画だった。
決して、器用に撮られた映画ではない。
監督が映画青年のように「ショットの強度」と「視線の交錯劇」にこだわりすぎて、自然なナラティヴを欠いている面は否めないし、屋内ショットは逆光にこだわりすぎて、全体に白くけぶっていて画面の精度が低い印象も免れない。
もう少し少年の様子は、くねくねしていないほうが良かったかもしれないし、
ヒロインについても、多少は演技経験のある女の子だったほうが、あの「気持ち悪い」のシーンなどはもっとうまくいったかもしれない(きわめて重要な楔となるシーンだけに、どうしても現状の仕上がりには物足りなさと唐突さが残ってしまう)。
三人の関係性の進展に関しても、淡い憧れを抱く女の子と突然アイスダンスの「ペア」をやってみろと言われたタクヤの困惑や動揺、興奮や昂揚をろくに描こうとしていないし、いきなり見知らぬフィギュア未経験らしい少年と二人でアイスダンスの練習をやらされる羽目になったさくらの動揺や嫌悪感、怯えといった感情も、ほとんど描かれない。
あれっ? と言いたくなるくらい、二人はスムーズにペアになることを受け入れ、異性に触り触られることを受け入れ、二人で練習することを受け入れていて、その辺は個人的にはどうしても不自然に思えてならなかった。
とはいえ、子役は二人とも「透明感」があって、何より「存在感」があった。
役者自身の朴訥とした素直な人柄が伝わって来て、心からの愛着が持てた。
愛着が持てたからこそ、起きてしまった哀しい展開も、ぐっと吞み込むことができた。
無理なコーチの要求を、すんなり受け入れるような純朴で素直な女の子だからこそ、あそこでは裏切られたと思ったのだろうし、少女特有の潔癖さが、コーチの在り方を赦せなかったのだろう。自分のコーチに対する(本人が自覚しているとはいいがたいある種の)慕情が踏みにじられた気がしたのだろう。
むしろ、そこで彼女に生まれたような残酷な「負の感情」を、大上段に「道徳」によって一刀両断するような映画でなくて、本当に良かったと僕は思う。
同様なことはマイノリティの描き方にも言える。
敢えて題材として自分から取り入れているだけあって、監督は(カメラワークと同じように)真正面から、衒わず、ぶれず、障害や性的指向について扱っている。だが、そこに「かくあるべし」論は持ち込まない。あくまで、自然な当事者感覚の延長で作品に取り込んでいる。そこの見識がしっかりしていて素晴らしい。
特に「吃音」については、構えれば構えるほど言葉の冒頭が出にくくなる感じや、コウセイとの気の置けない何気ない会話だとスムーズに言葉が出ている感じが、実に生々しい。
お父さんが明快に吃音だというのも、だいぶ踏み込んだ表現の導入だと思う(たとえ最近は吃音になるかどうかは遺伝的要素が大きいということに学術的になって来ていたとしても、なかなか公けの場では設定として明確にしづらい部分を、敢えてぶっこんできている感じ……)。
― ― ― ―
その他、雑感を箇条書きにて。
●若葉竜也はホントに良い役者。
●きょうび、北海道では現代でも犬は外飼いなのだろうか(あんなに冬は寒いのに)。都市部だと大型犬でも室内飼いにするのが一般的になってきている感じがあるので、ちょっと気になった。まあ、コーチがガラケー使ってたし、ガンガン煙草吸ってたし、カセットテープ使ってたし、時代設定自体かなり古いのかもしれないけど。
●まあなんにせよ、北国の淡い光線と雪で覆われた風景には、クロード・ドビュッシーの「月の光」がドンピシャで合うんだよね。この取り合わせの妙を見出した時点で、この作品はすでに半分成功を約束されていたと言えるのではないか。
●キャッチボールで「投げ損ねた」ことを「口実」に、湖畔に連れ出してまで本当に伝えたかった言葉(「ごめん!」)をようやく口の端に載せるコーチ。さくらが試験会場へ来なかった本当の理由も、きっとうまく話せてなかったんだろうね。で、タクヤはずっと自分が嫌われたと思ってたという。辛い。
●主人公3人を追い詰める環境と状況を作るために、友だちや大人たちがちょろっと出てきては、揃いも揃ってかなり感じの悪い「毒」を吹き込んで回るという作劇は、ちょっと安易な感じもしないでもない。とくにさくらのお母さんをああいう設定にすると、本人まで親のコピーみたいな人間に育ちつつあるって話になっちゃうわけで……。
●監督はフィギュアを描いた映画がほとんどない(野球のようにダブルが使えず、演技者がスケートが出来ることが前提になるのがネックとなる)から、ぜひ撮ってみたかったといったことをパンフで語っていた。個人的に「少女×フィギュア」だと、倉本聰の初監督作で『時計』という映画があったのを覚えているが、主演の中嶋朋子が上手かったかどうかはもはや思い出せない。そういやこの監督さんは、ガンガンに滑れることは十分判っていても、敢えて小芝風花や本田望結で映画を撮りたいとは思わなそうではあるな(笑)。
ちなみに洋画だと、『冬の恋人たち』という、とても後味の良いペアスケートのラブコメがあって、お薦めです。
●ラストシーン。監督としては、『第三の男』や『ロング・グッドバイ』の有名すぎるエンディングを映画ファンの観客が勝手に想起して、おやそのまますれ違うのか?と脳内でシミュレーションしたあと、「ああそうじゃなかったか」と落ち着くまでの思考過程を最初から期待しているのではないか。
●エンドクレジットの、歌詞をしっかり文字起こしして呈示していくつくりは素晴らしい。
思った以上に「そっち」を念頭に置いて作られた映画だったんだな。
しかも、あのシルヴァスタインの絵本のようなカーブの線が、フィギュアのスケート痕だと気づいていなかったので、最後にシューズの絵が出てきて、なんかちょっと感動した。
●ちなみにパンフは装幀・内容とも素晴らしい作りで感心した。巻末のカンヌ凱旋ロング対談では、池松くんや監督が、いかに子役ふたりと親密で和やかな関係性を築けていたかがよく伝わってきて、胸が熱くなった。
●この映画、結局僕は渋谷でNHKホールの帰りに観たのだが、実は前日夜の時点では、川崎のラゾーナにある109で観るつもりで、レイトショーのチケットを現地で購入していた。ところがラゾーナの3階で時間をつぶしていたら、20時半ごろ、まさかの「全館停電」が勃発、館内の照明が一斉に落ちて、非常灯に! 空調もエスカレーターも止まり、慌てて映画館に行ってみたら、ロビーに観客が吐き出されていて、払い戻しの列を形成している。僕が観ようと思っていたレイトショーも、結局予定の21時35分までには館内電気が復旧せず、払い戻しも当日中は無理とのことで、まずはタダ券だけ一枚もらって帰途についたのだった……。こんな映画みたいなこと、本当にあるんだなあ……。
美しく幸せで残酷な傑作。
吃音をもつ少年のフィギュアスケート選手である美しい少女への純粋で一途な恋を、少女のコーチである青年を絡めて描いた傑作です。
物語前半の多幸感は本当に素晴らしく、美しい雪国の風景の中で楽しそうにしている三人や恋する少女に追い付こうとスケートリンクで必死にでも楽しそうに練習する主人公の男の子を観ていると映画を鑑賞している私自身も幸福感で一杯になりました。
凍結した自然の湖でthe zombies の「going out of my head」をBGMに戯れる三人の描写には幸せ死にするかと思いましたよ。
しかし、物語後半は一転しある出来事のせいで悲しく寂しく残酷なお話しになって行きました。やっぱり女の子の方が成熟が速いのでしょうか?あれは大人の恋心だと感じました。全く成長するって事は…。
ラストシーンの切れ味も最高です、エンドロールのハンバート・ハンバートの主題歌も素晴らしい!吃音を伝えたい事が多過ぎて大き過ぎて言葉が出ない事だと映像と歌詞で表現するなんて美し過ぎますよ。
男の子はフィギュアスケートの靴を両手に抱えて少女と再会しました、コーチの予言した通りこの二人は将来日本一のペアとなる事でしょう、これが私がこの素晴らしい映画から受け取った楽観的過ぎる私のラストシーンです。
雪景色だけど暖かい、その分切なさが際立つ
寒い雪景色なのに暖かさを感じる絵作りに、冬嫌いの自分だけどこんな冬なら好きになれそうなんて思ってたら…なかなかほっこりとは言えない、世知辛いなぁという感じの作品。
暖かさを感じるシーンが多い分、終盤は描写以上により切なさが際立つ作品だった。
「吃音症」
男の子のタクヤは吃音を持っているけど、そこはそれほど重要ではなかった気がする。
音読では人より緊張したり、吃音のせいで引っ込みがちではある感じだけど、吃音じゃなくても、音読苦手だったり大人しい子はいるだろう。
劇中だとそれほどそれが原因で仲間はずれにされているとも思わなかったけど、そういうのはあえて描かなかった感じなのかな?
家庭的にも父親も吃音っぽいので、家庭も一応は居場所がちゃんとある気がする。
「スケート靴」
単純に知識がなかっただけだけど、フィギュアスケートの靴とアイスホッケーの靴って違うんだなぁと。
そりゃそうかとは思ったけど、体重のかけ方とかそういうの意識ないとちゃんと滑れないくらいには違うものなんだなぁー
「氷の湖でのシーン」
このシーンが最高だと思えるシーンはたくさんあった気がするけど、そこでの人たちの表現なんか含め自分はコーチの荒川が気分転換?親睦を深めるため?に連れて行った氷の湖での3人のふれあいが最高だった。
さくらはペアでの競技の練習ホントは嫌だったりするのかなとも思ってたけど、あのシーンみたら(その前の室内の練習の時からすでに)なんだかとても楽しそうで、提案された時こそ煮え切らない感じの表情だったけど、
ペアで、いやあの3人での練習をすごく楽しんでるように思えた。
またコーチの荒川もなんだか暗そうな人の第一印象だったけど、子供たちとの年齢差を感じさせないような、お茶目で遊び心ある人なんだなぁと思えた。
「だれも悪くないと思うけど、離れてしまう」
上記のような最高にほっこりするシーンがある反面で、シーンとしてはほんの些細なとも思えることでそれが崩れてしまう。
ある意味タクヤは振り回されてしまったような気もするけど、タクヤは自分が原因かな…なんて考えたりもしている。
さくらの抱く感情も年齢的にまだ子どもではあることを考えると、間違っているとは言い切れないかなと。すっと受け流せる同年代の人もいるだろうけど、現代においてそれはまだ難しいのかも。
そして一番しんどいのは荒川コーチだろう。決して悪いことをしたわけではないからこそ、こちらとしてもこういう結果はとても悩ましいし悲しい気もする。
「最後タクヤはなんて言ったのかな…」
ラスト久々に再開したタクヤとさくら
タクヤが何か言おうとしているところで、終わってしまうけど、なんて言おうとしたんだろ?普通に「久しぶり」とかかな?
「総括」
タイトルの僕のお日さまだけど、メインの3人にとってそれぞれがそれぞれのお日さまだったなぁと思う。ある種の3角関係みたいな。きっとそれはとても良いバランスの三角だったんだろうな。
またお日さまをタイトルに入れてあるのに劇中で使用されるのは月光なのも意味ありげな気がする。
ポスターや予告から受ける暖かさは十分に感じ取れる作品なのだけど、
終盤の世知辛さはそんな温かさがあったからこそ、感じ肌寒さのようだった。
劇中では春になるのにね。
あの頃のこと
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