BAUS 映画から船出した映画館のレビュー・感想・評価
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目を凝らし耳を澄ませるもよし、ただただ身を委ねるもよし
冒頭、煙草をふかす館長の背中越しに広がる風景に、「PARKS」を思い出した。どちらも、井の頭公園が繰り返し登場する。本作は、映画館と映画館を営んだ人々を描いているようで、実は、映画館のある「街」の映画なのだと感じた。
「まあ、いいや」が口癖の鷹揚な社長に拾われ、映画という窓を持つ大きな家=映画館に招き入れられた本田兄弟。「ここでは何をしてもいい、やりたいことをやっていい」と受け入れられ、映画(館)に魅せられていく。彼らとともに、私たちも、ゆったりと物語に身を委ねたくなる。けれども、本作のつくりは少々愛想がない。画面は薄暗く、セリフもところどころ聴き取りにくい。目を凝らし、耳を澄ませれば、その分きっと発見があるのだろう。一方で、そんなに欲張らず、その時ならではの引っかかりを味わうのも悪くない、とも感じた。映画という窓から、その日の自分だからこそ眺めることのできる風景が、きっとあるのだから。
活弁全盛からトーキーへ、戦争を挟んで80年代、2000年代と、時は流れる。とはいえ、描かれる情景は、その時々の「今」だ。映画館に集まる人々、映画を届けるスタッフたちの躍動(画面をタテ三分割にした、上映直前までのシーンが秀逸!)や温かさは、留め置くのが難しい。だからこそ、かけがえがない。幸福な光に溢れているからこそ、不穏な影の存在を無視できない。少しずつ、街の趣きは変化し、人々も歳を重ねていく。
そして、閉館。よき時代の象徴が時代の波に押されて失われる…といったセンチメンタルな甘い郷愁を、鋭いギターが力強く切り裂く。圧巻の幕切れだった。
染谷将太、峯田和伸、夏帆ら本田一家はもちろん、軸となる鈴木慶一、写真と声が大半にもかかわらず深い印象を残す橋本愛をはじめ、どの役者さんも、映画と映画館への愛情がにじませ、素敵な表情を見せている。個人的には、初代社長の吉岡睦男、映写の黒田大輔が特に印象的だった(いずれも敬称略)。折々に、繰り返し観たい作品だ。
映画館それそのものが記憶であり物語である
どの映画館にも歴史がある。それを築いた人々の情熱と、そこに集った多くの観客の熱気と息遣いがある。本作は吉祥寺という街の文化を彩ったバウスシアターが一体どこからやってきて、いかに大海で帆を広げ、そして終焉を迎えたのかを劇映画、しかも一族のクロニクルという形で綴った極めて興味深い叙事詩である。とはいえ、この劇場にまつわる一部始終を縦型に描くのではなく、支配人の胸中にプカリと浮かんでは消える記憶の泡沫をじっくり味わうかのような、幻想的で、アヴァンギャルドで、パンキッシュな語り口を貫いているのが特徴的だ。時に、語るべき要素を割愛したかのような構成に不完全燃焼感を抱く人もいるかもしれないが、ある意味でこれは依然として「思い出したい記憶と、そうではない記憶」が渦巻く劇場主の胸中を誠実に投影したものとも言いうる。そのストーリーの重力に逆らって手にした、決してありきたりではない疾走感と躍動感に心掴まれた。
お客さんを選ぶタイプかも
まず物語要素のアンバランスさに戸惑った。映画館を擬人化して例えるならこんな感じ。ちょっと知っていた故・バウス君を偲ぶ会があると聞いて見に行ったら、冒頭から祖父イノカン氏についての思い出が延々と続き、会の半ばを過ぎる頃に父MEG氏の話に移ってからもそれなりのボリュームのエピソードが語られる。ようやくバウス君の番かと思ったら、最期の日に仲間たちが集まってにぎやかに見送ったよ、と報告があってお開き、解散。体感の時間配分では、イノカン6割、MEG3割、バウス1割だろうか。
タイトルに「BAUS」を冠しているものの、実はバウスシアターが主題ではない。吉祥寺初の映画館・井の頭会館で働き始め後に社長となる本田實男(さねお)氏を中心に、ムサシノ映画劇場、バウスシアターと形を変えた箱を通じて約90年にわたり当地の映画文化を支えた“家族の物語”に重きが置かれている。
インディペンデントの精神を具現化した作品とも言える。商業映画のようなウェルメイドと大衆受けを狙わず、低予算を逆手に取った画作りで引っかかりを生む。井の頭会館の建物前面がハリボテであることを敢えて見せたり、おでん屋台のシーンで周囲を真っ暗にして舞台劇のように演出したりしているのもそうした意図だろう。予算が限られているので、シーンによってはセットや背景をリアルに作り込む代わりに、チープさや作り物っぽさが“味”になるよう工夫するのもインディーズならでは。
バウスシアターに足繁く通ったようなシネフィルなら、さまざまな要素に愉しみを見出せるのだろう。町の小さな劇場が地元の人々と歴史を生きる、映画に夢と未来を見た少年が大人になり回想する、といった要素が「ニュー・シネマ・パラダイス」に類似するが、あちらのようなわかりやすい感動作を期待すると当てが外れる。一見さんお断りというほど敷居が高いわけではないものの、とっちらかった感じさえ大らかに愛せるのでなければ、心から楽しむのは難しそうだ。
私自身、バウスシアターを数回訪れちょっと知っていた程度なので、バウスの誕生や最盛期や閉館の事情などをもっと描いてほしかったなと物足りない思いも。名称の由来は気になっていたので、ヨットの船首のバウ(bow)と船尾のスターン(stern)を合わせた「バウスターン(bow stern)」をもじってバウス・タウン(Baus Town)」になり、そこからバウスシアターが生まれたとの説明があったのはよかった。
映画館の歴史は映画館好きには刺さる
日本における映画の歴史にも触れつつ
BAUSシアターの歴史を描いた作品。
染谷将太と鈴木慶一が主役だが、
染谷演じるサネオは創業者から社長を託され
街のためにもと映画館を盛り上げてきた。
鈴木慶一演じる息子が、その幕を閉じる役割を担い
昔語りから入るのが何ともタイタニック的で
私には刺さった。
ただ、前半はやはり地味というか、
戦後までは苦労が多く、映画自体も無声からトーキーへと
変遷を遂げ、生き残るには大変だったのがうかがえる。
街の映画館としての役割を終え閉める際の
鈴木慶一のギターソロは素晴らしかった。
だから鈴木慶一を配役したのかと納得した。
俳優陣も実に素晴らしい演技をしており、
特に夏帆と光石研の存在感はハンパない。
ちょっとしか出ていない橋本愛も良かったし、
最近いたるところで見かける吉岡睦雄も笑えた。
私も我が街の映画館である『宮崎キネマ館』さんが
大好きで、これからも足げく通い応援していこうと思う。
吉祥寺映画の変遷を吉祥寺で観る。
ついていくのが大変!
チグハグさを感じた理由を考える
観ているうちに、ちょっとしたチグハグさに由来した違和感が積み重なっていったのだが、終わってから、「あぁ、これは“吉祥寺バウスシアター”という固有名詞について描いた映画だったからだ」と気づく。
正直言って、地方の人間の自分にとっては、吉祥寺の位置もよくわからない。井の頭公園という名前は知っているが、その公園と吉祥寺という土地の関係もわからない。そして、吉祥寺バウスシアターの文化史的な位置付けも、何で閉館したのかも知らない。
それを知っている人たちにとっては、すんなり入ってくるのかもしれないけれど、特に物語のラスト付近の「閉館あいさつ」辺りからエンドロールにかけては、自分は内輪ノリに全く置いてけぼりにされた気分になってしまった。
それを言語化すると「染谷将太演じる主人公サネオの半生を借りて、映画の変遷や、社会及び政治との関わりなどを描きながら、普遍的な“映画”そのものを映画で描こうとしている作品」だと思いながら観ていたら、「実は、描こうとしていたのは、“吉祥寺バウスシアター”という劇場のことでしたー」というネタバレを喰らったというか、ハシゴを外されたという感じ。
一生懸命観ていても、サネオのセリフや峯田演じるハジメのセリフが今ひとつ響いてこなかったのも、こちらが読み取ろうとしているものと、作り手が描こうとしているものにズレがあったからと考え、一応納得した。
もちろん好きなところもたくさんあった。
漂う煙を追いかけるファーストシーンのカメラワークとか、その場にいない橋本愛と会話する鈴木慶一の佇まいとか。それから、吉岡睦雄の甲高い声の「まいっか」にはその度笑わせられたし、奥野瑛太や黒田大輔や光石研のセリフには「そういう所にちょっと主張をぶち込んでくるんですね、ふむふむ…」と思いながら納得できた。また、所々で突然登場する演劇的な演出もどちらかというと好き。大友良英の音楽もよかった。そしてやっぱり夏帆はいい女優だなと改めて思った。
それにしても、鈴木慶一、最近いろんな作品に出てますねぇ。
時間がスイスイ
映画館の子供って羨ましいね
時代の終焉を浴びつつ次の世代に思いを馳せる
今はなき吉祥寺のバウスシアターの経営者の話というなかなかマニアックな題材をなんとか実現させて公開していることがそもそもこの企画の意義にはあってるのかもしれない。いろんな意味で自由で無茶で。
映画終盤のいくつかのマイクパフォーマンスのセリフでうんうん頷いたりしながら、偶然同じ日に鈴木慶一を別の作品でも観たりしながらよっぽどこっちのほうが存在感もあり、また感動的ではあった。
どんな予算か知らないけれど、まず衣装をあれだけのエキストラに着せてるだけで素晴らしい。気合いが違う。そして再現できないんだからしょうがないだろ、という原っぱに看板立てるホドロフスキーの『リアリティのダンス』的な割り切りもスタイルとしてありでした。ひとつひとつやな熱がある。
いかんせん当人のことをそれほど知らないのでそこまで興味深くは入れないところはあるけれど、ラストの井の頭公園の葬送と曲と演奏とスチール写真は反則技で、そこだけで時代を飛び越えるエネルギーをもらったような気になった。
上京して、まだ雑誌「ぴあ」があった時代に地方出身者にはスクリーンで観れなかった『ブルースブラザーズ』と『ストップメイキングセンス』を見れた記憶がある。懐かしかった。
映画館がいつまでも元気でいられますように、。
私が映画館に通うようになったのは10年位前からなので2014年に閉館となったBAUSシアターはその存在すら知らない。又一時期シネコン運営会社にいて全国に新しいシネコンを開発し開業させており街の映画館を衰退させる側にいたのでないかと思い、今は申し訳ないと感じている。
映画はまさに日本の映画と映画館の歴史を辿るように戦前の弁士が語る無声映画から戦中の規制のさなかやむ無く上映する国民を鼓舞するプロパガンダフィルム等を写し、主演の染谷将太も峯田和伸も夏帆もとよた真帆も光石研も皆んないい感じで映画に溶け込んでいた。そして戦後、映画館も隆盛を極め従業員とも仲良くやってきたのに夏帆が突然の逝去。それでもこれから映画と映画館についての物語が進むと思ったら、、。いきなり現代に飛ぶ。鈴木慶一はあの息子だなと、わかったが、何やら前衛的な映画に変わる。そしてBAUSの終わりの日が来る。
作りたかった映画なんでしょうけど、。BAUSを知らない人には、なんかちょっとピンときませんでしたね。
日本全国のミニシアターが時代の流れに負けず良い作品を見せ続けていただけるように期待いたします。
文化の発信地
2014年に閉館した吉祥寺バウスシアターの前身であるMEGをつくった本田實男と家族の物語。
1928年兄と共に青森から上京した本田兄弟が、吉祥寺の劇場「井之頭会館」社長に声をかけられ働きはじめて巻き起こっていくストーリー。
バウスシアターは数回しか行ったことないけれど、今では有名な爆音上映の発祥の地ということで、期待していたのだけれど…。
上京前の様子こそ映画への思いをみせていたけれど、その後はただの映画館の従業員、若しくは、経営者という感じだし、単なる映画館経営者の家族の話しですかね…。
映画や映画館への思いが語られない訳ではないけれど、そこに対する熱量みたいなものをみせる感じでもないし、終盤はなんだかファンタジーだし、しかもタイトルであるバウスシアターはほぼ描かれていないし。
決してつまらなくはないけれど、何が言いたいのか良くわからない雰囲気映画という印象だった。
劇場を支えてきた家族の物語
新宿の武蔵野館と吉祥寺のバウスシアターでインディペンデント系の映画を観ることを学んできた私にとって、2014年のバウスシアター閉館はとても大きな出来事だった。そんなバウスシアターを運営してきた本田家の家族愛と劇場の歴史を描いた作品。
作品は三幕構成で、第一幕が戦前から戦中の井の頭会館時代で、ハジメとサネオの兄弟がメイン。第二幕は戦後期のMEG時代で、サネオと妻のハマ、そしてこども時代のタクオが描かれる。そして第三幕で大人のタクオがバウスシアターの閉館を迎える迄が描かれる。
井の頭会館時代から映画のみならず、音楽や芸能も上演し、サブカルチャーを支える場であり、常に自由を追い求める人々の拠り所であった。その跡地が現在はROUND 1かと思うと若干の寂しさを感じてしまう。
MEG開館の際のスピーチでサネオが述べた「食べ物は体を作り、勉強は頭を作り、映画は心を作る」ということばが胸に響く。
プロットとして面白いかというとバウスシアターに何ら思い入れのない人にとってはそんなに面白くはないかも知れないが、思い入れのある人間にとってはこの上なくエモい作品だ。
余談だが、橋本愛(と染谷将太)の井の頭公園といえば、2017年の『PARKS パークス』が思い出される。
バウスシアターの元客的にもこれはない
物心ついたころから吉祥寺の映画館でいろんな作品を見て、バウスシアターにも10代~30代の終わりまで頻繁に足を運びました。マニア的に通ったというよりも、この映画に出てくる多くの人たちにとってと同じように、近所にある身近な映画館でした。LAST BAUSも行きました。だから、そこそこ楽しみにしていたんですが。
吉祥寺の映画館やバウスに思い出がない人はもちろん、ある人にもこの映画はお薦めできません。思い入れ補正入るかなと思ったけど、それも全然。
バウスシアターにつながる井の頭会館や武蔵野映画劇場を描くのはいいです。でもそこからタイトルにもなっているバウスシアターへのつながりがほとんど描かれません。
戦前から戦後70年近くになるまで、世代交代もはさみつつ、それらの映画館があの地でそこに住む人たちと共にどうあり続けたのか。バウスシアターという場がなぜあんなに独自の存在感を放つ劇場になったのか。時代で変わる、映画という娯楽のあり方とともに描くこともできたんじゃないのか。
あるいは映画を人の人生の傍らを通り抜けていくものと位置付けるなら、劇場の人たちや家族の物語をもっと丁寧に描く選択もあったと思います。
でもどっちもない。時代や文化も、人も、どっちも描き方が中途半端だと感じてしまいました。
「映画は明日だ」とか「映画と煙はいずれも光とともにある」とかいう(いずれもうろ覚えだけど)それっぽいせりふが繰り返し出てくるけれど、それもいまいち生かせていなくて。とっちらかった芯のない映画を見た思いです。
よかったのは俳優さんたち。
光石さんはもっと生かせたのではと思うけれど、染谷さんも、峯田さんも、夏帆さんもきっちりお仕事されていました。黒田大輔さんはいつも地味だけど唯一無二の存在感出されます。
Bausを知らない人にもこれでいいの?
多くの人に愛されながら2014年に惜しまれつつ閉館した吉祥寺の映画館・バウスシアターの物語です。この劇場ではジャンルを超えた様々な試みが展開され、今や全国に広がった「爆音上映」もこの劇場から始まりました。僕は行った事がありませんでしたが、当館の本を以前に読んだことがあったので興味を持っての鑑賞となりました。ところがです。
制作者は今は亡きバウスシアターに強い思い入れがあったからこそこのタイトルでこの作品を撮ったに違いありませんが、描かれるのはバウスの先代・先々代の戦前・戦後の映画館のお話でした。バウスに通っていた人は「へぇ、こんな過去があったのかぁ」と感じる事も出来るでしょうが、知らない人や地方の人にはなぜあの劇場があんなに愛されたのか全く伝わりません。本当にこれでいいの?
また、予算の無さが映像にも表れていてそこは仕方ないのですが、それを逆手に取った開き直りにまで昇華出来なかったのが残念でした。
関係者以外立ち入り禁止なら最初からそう言ってくれよ。
青山真治が途中まで脚本を書いたようだ。作品の時系列としては一応、時間は「明日に」向かって流れているが、現在の人物と過去の人物が入り混じり、つまりは生者と死者が対話するような場面がある。このあたりが青山真治らしいのだろう。
ただ、ストーリーとしては本田家の内輪の話がほとんどである。特に、夏帆が演じているハマ(サネオの妻、拓夫の母)が出てくる戦時中、戦後すぐのあたりはNHKの朝ドラっぽくって面白くない。多分、演出が凡庸なのだろう。いい役者はたくさん出ているのだが。例えば光石研。屋台の親父を演じているのだが、中盤、突然、染谷将太と二人で屋台で話し込むシーンがある。この時、背景はすべて暗転し屋台だけがスポットを浴びる。でもそこまでに光石が活躍する場面がほとんどないので何のことだか観客にはわからない。
MEGがオープンして劇場が2軒になった。この時の忙しさを画面分割で表現しているがこれも突拍子もなく現れるので効果が薄い。
つまり全て演出が上滑りなのである。
映画の後半は現在の拓夫氏と早逝された娘さんとの、生者と死者の対話が現れる。BAUSの名前の由来もここで説明される。でもちょっと待て。この映画を作ろうとしたそもそもの狙いは、一つの映画館がその土地の文化に果たした役割を振り返ろうとしたのではないか?文化というとちょっと大げさかもしれない。そこに集まる人々の心に与えた影響というべきかもしれない。
この映画では、驚くなかれ、その肝心な部分がほぼ、欠落しているのである。少なくともBAUSシアターが、音楽のイベントにも貸し出されるようになった経緯、ロックバンドのメンバーが吉祥寺には他で演奏できる場所がないからと借りにきたエピソード(拓夫氏の著書やインタビューに出てくる)は映画でも絶対に取り上げなくてはいけなかったのではないか?それともそんなことは内輪では当然だからわざわざ取り上げることはないということなのか?
それって映画づくりの基本から外れている。つまり観客をカヤの外に置いてないか?
うーん、賞味期限切れだったのでは?
BAUSシアター知らない者からすると、閉館して時間が経ったのに強引に映画にしちゃった?という印象。染谷将太と夏帆が良かっただけに、息子の回想シーンが残念。息子の娘がまだ小さい回想シーンも息子は祖父みたいな印象だし、あそこも違和感。
存在しなくなったものへのレクイエム
描かれている年代になんか既視感があるなと記憶をたどってみたら、最近、再放送しているNHKの朝ドラ『カムカムエヴリバディ』と年代がほぼ重なっているのに気づきました。年号が大正から昭和に切り替わるあたりから始まって、8-90年間ぐらい。当然、登場人物の代替りがあり、第一世代は戦争の影響を大きく受けた世代ということになります。これって、つまり、昭和恐慌やら戦争やら戦後の高度成長期やらをくぐり抜けてきた井の頭会館-MEG -バウスシアターの三代の映画館の物語って、朝ドラみたいなフォーマットにはなじむと思うけど、2時間前後の映画に落とし込めるのかな、と思ってたら、まずは朝ドラ風エピソードの断片の連打で畳みかけてきました。で途中で変調、時空を歪ませて幻想的な断片を見せたりして大団円となります。それぞれの断片は漫画的だったり、美しかったり、儚げであったりするけど、どれも登場人物ひとりひとりがとても愛おしく思えてきます。人は死に際して自分の一生を夢にみるというけど、三代続いた映画館が閉館にあたってみた夢はこんな愛おしい断片の積み重なりだったのかもしれないと感じました。この作品は結局のところ、説明的な散文ではなく詩みたいなものなんでしょうね。それも叙事詩ではなく抒情詩。今はもう存在しないものへの鎮魂歌。そのあたりのところをどうみるかによって意見がわかれる作品かもしれません。
いちばん気に入ってる断片をひとつ。新劇場立ち上げの日、サネオは登壇してスピーチをするのですが、そんな夫の晴れ舞台を前に客席のハマは幼い息子の隣でうつらうつら……ハマの性格やら、夫や子供との関係性やら、何か達成できたときの安堵感やら、その他諸々、シーン一発で表現していて見事だと思いました。夏帆さんの寝顔と、サザエさんの実写版を撮ったら、こうなるのかなと思わせる昭和レトロな髪型に星半分オマケです。
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