ぼくが生きてる、ふたつの世界のレビュー・感想・評価
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コーダとして生まれた主人公の苦悩とそこにある普遍的な愛の物語
本作品は、作家・エッセイストの五十嵐大による自伝的エッセイ「ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと」を実写化した映画です。吉沢亮さんが主演を務め、中学から青年までの主人公を繊細かつ力強く演じています。吉沢さんの子役の見上げる仕草が、吉沢亮さんそのものだったので、演出が細かくて素晴らしいなぁと思いました。
この映画で描かれているのは、コーダ(耳のきこえない、またはきこえにくい親を持つ聴者の子ども)というマイノリティな生い立ちの主人公五十嵐が、苦悩しながらも成長していく姿です。その環境は少し特殊なものであったかもしれませんが、その本筋に流れるものは、とても普遍的で誰にでも共感できる家族の愛の物語です。
私の号泣ポイントは
息子五十嵐が、「今までごめん」と母に言った時に、「え?なにが?」みたいにとぼけたシーン
おい、世の中の息子ども
母の愛❤️舐めんなよ!!
障害があろうがなかろうが、あなたを産むって決めた時から、こっちは腹括ってんのよ。あなたの思春期のかわいらしい反抗なんて、ほんのジャブにもならんのよ。
また、
電車で母と息子が仲良く手話ではしゃいでいる場面からの
母が息子に「手話で話してくれてありがとう」みたいなシーン。
そうそう!!そういう何気なく普通に成長した息子とはしゃげる瞬間って、母の夢よね。たまらんね。
子どもが「申し訳ない」と思っているほど、親はなんとも思ってないとか、子どもが幸せだと感じたパフェのことを母は覚えてなかったりするのとか、「あるあるだなぁ〜」って、深く共感しました。
こちらのレビューは、絶賛母目線で書かせていただいておりますが、もっと遡れば、生まれた家が何故か自分には窮屈で19歳で家をでた自分の姿にも重なり子ども目線でも涙できちゃう本作品、もうほんとにやばいです…😭
子を持つ親御様方、思春期のお子さんたちも、おばあちゃんおじいちゃんも、どうぞ厚めのハンカチをご用意してご鑑賞下さい。
それぞれ違った悩みがある、それはどの家族も同じ
ろう者の両親を持つコーダの主人公、大の人生の描写は赤ん坊の頃から始まる。
原作者の五十嵐大氏は1983年、宮城県生まれ。両親から愛される素直な子供だった大が、年頃になり「普通でない」両親を嫌悪するに至る過程が丁寧に描かれる。
市場の鮮魚屋で初めて母の「通訳」をして店の人に褒められて以来、誰が強制したわけでもないが自然と、両親と健聴者の通訳が彼の役目になっていったのだろう。相手から褒められ、両親の助けにもなることで幼い大は単純に嬉しかったかもしれないが、その役目が固定化され当然のものとなったまま思春期を迎えると、だんだん両親が疎ましくなった。
一見「普通でない」家庭の、世間的にはマイナーな苦悩の物語のように見える。確かに、大が家庭の内外で苦悩する理由は、コーダ独特のものだ。
だが、彼が母親に対して抱く嫌悪感は、誤解を恐れず言えば、どこか私自身の思春期の感情にもかすかに重なる部分があった。コーダ独特の悩みの中に、誰もが通過する反抗期に共通する感情も透けて見える。だから、全く違う境遇なのにどこか不思議な共感を覚えた。
彼の両親が一貫しておだやかな愛情を我が子に注いでいることは、節々のさりげない描写から伝わってくる。大が自分のフラストレーションを母親にぶつけることができたのも、本人は意識せずとも、母親の愛情への信頼が根底にあったからだろうという気がした。
彼らの物語を見て、ろう者を両親に持つ人は「普通の人」より特殊で大変だな、とか、ましてやかわいそうだなどという気持ちにはならなかった。
海沿いの道で、父親の陽介が母の明子に伝えた言葉の通りなのだ。
「まあでも、どんな家も、それぞれ悩みがあると思うよ。多分ね」
それぞれの家庭で、家族の悩みは千差万別。そういう意味では、「普通の」家庭の定義などないし、裏返せば五十嵐家もそのバリエーションの中のひとつの形に過ぎない(彼らの苦労を軽視する意味合いでは決してない)。家族の在り方そのものよりも、彼らと接する周囲の人々がそのような理解で受け止めないことが、大の苦悩を大きくする原因だった。
一方、大は上京して両親以外のろう者と出会い、同じ手話でも地方によって表現の違いがあることや、進んで通訳をすることが時にろう者の自立した行動の妨げになるという視点を知った。この考え方は、両親を故郷に置いて来たという大の罪悪感を和らげたに違いない。
コーダという立場を疎ましく思って逃げるように家を出た大だったが、上京したことで結果的にろう者の世界の広さを知り、両親との関わりを素直に見つめ直すことができた。
静かで切なく、そして最後に清々しい気持ちになれるひとりの青年の成長譚だ。
ラストに長い回想シーンを持ってきてほぼそのまま終わる(電車の中でPCを打つタイトルカットはあったけど)というのはちょっと意外だった。一般的に、終盤の回想というのはクライマックスを盛り上げるための足掛かり的な使われ方をすることが多いので、あのあと進行中の時間軸に戻ってひと山あるのだろうと、漠然と思っていた。
駅のホームで、人前で手話を使ったことに母から礼を言われて初めて、大は自分の言動が母をどれだけ追い詰めていたか気づき、罪悪感と後悔に苛まれ、自分を恥じて泣く。彼の気持ちが変化する節目の場面だ。
上京後、祖母に取り次いでもらった電話で大声で母に話しかけた場面や、父の入院で帰省した時に「俺、帰ってこようか?」と言う場面は、時系列的にはこのシーンの後の出来事になるが、20歳の大の涙を知らずに見るのと知って見るのとでは彼の気持ちの解釈が全く変わってくる気がする。
原作では時系列通り中盤に描かれているこのエピソードをラストに持ってきたのは、単にもっともエモーショナルな場面だからか、あるいは他の意図があるのだろうか。個人的には、時系列で感情を順番に積み重ねてもよかったかな、と思った。
あと、手持ちカメラの揺れが多用され過ぎてノイズに感じる時がちょっとあった。この手法、言うほどリアリティに貢献するかなあ、と思うことがある。
吉沢亮が大の中学生時代から演じていたのは驚いたが、あの年頃の難しい感じを絶妙に演じていて嫌な違和感はなかったし、成長していく様子も自然でよかった。
ろう者の役は全て実際のろう者が演じたとのこと。「コーダ あいのうた」に影響を受けてそうしたと呉美保監督が語っているが、当事者性からくる説得力はもちろん、みなさんの個性が物語によく合っていて魅力的だった。大の両親の雰囲気もよいし、河合祐三子の演じるパチンコ屋で出会ったお姉さんが自由で、大の世界を広げるキーパーソンとしても効いていてかなり好感を持った。
あなたの人生が、うまくいく事を願っています
耳の聞こえない両親の元に生まれた五十嵐大を吉沢亮さんが好演。パチンコ屋の店員として働く姿はイケメンホスト ✨
父・陽介を今井彰人さんが、母・明子を忍足亜希子さんが演じる。息子を思う母親の眼差し、夫婦で交わされる言葉が温かい。
祖父をでんでんさんが、祖母を烏丸せつこさんが演じる。お二人の妙にリアリティを感じさせるコミカルで自然体な演技が見事 ✨
ホームで母親の背を見送りながら思わず嗚咽する大の姿に、色々な感情が湧き起こり涙が止まらなくなった。
愛に溢れた素敵な作品。
-大は大丈夫だから
映画館での鑑賞
本筋とあまり関係ない感想になってしまった
吉沢亮の、あの反抗期の息子、まさにアレ。
だるそうなところなんか、まったくそのもの。
私はいわゆる健常者ですが、息子たちの反抗期は重箱の隅をつつくように親の至らないところ、不足をみつけて、そこを全力で突っ込んで理不尽だろうとなんだろうと親を責め、拒否してふてくされ、口を利かなくなる。母は、蛇蝎のごとくというか憎しみの対象みたい。次男が特に酷かった。
スーツを作りに行くところ、自分たちのことかと思いました。
反抗期の次男が大学に合格して、入学式用にスーツを買ってやる、と私の仕事が休みの日に二人で出かけて、店の人に聞きながらあれがいいとか、これがいいとか、次男、他人様の手前があるのかいつになく機嫌が良く普通に口をきくので、私はうれしくて天にも昇る気持ち。それから近くのファミレスでランチして、何でも食べていいと言ったらほんとに遠慮なく、ランチのパスタコースにポテトフライとコーンスープ追加、デザートにパフェ食べて、私の残したパスタまでペロッと食べてしまいました。かーちゃんのお小遣いでお会計したけど、100万回散財してもいいと思いました。
その間、別人みたいにあれこれとよく喋ること。学校のこと、友達のこと、これからどうしたいのかとか、ファミレスをでて家に帰るまでそれが続きました。(長々と自分語りで恐縮です。)
なので、この母の気持ちが我がことのようにわかります。
息子の気持ちはよくわかりませんが、あまり深く知らなくて良いのかも。
出ているところで推測するくらい。親といえども他人に心の奥底まで知られたくないでしょう。
エンディングの曲の歌詞、親の心はあんなものです。
親がそう言うと、子どもにしたら押し付けがましいのでしょうけど。
大は、アメリカ映画のCODAみたいに特に何かに才能があるわけでもない、普通の子どもだが、それ故、特殊な環境の普通のコドモのことを知ることができるよう。
周囲から特別視されるのも嫌だろうし、複雑な感情を抱きがちで反抗期となったらそれが爆発、母のよいところすらウザくなってしまうのだろう。
両親は、障害者が故に教育を受けられなかったようだし、小さくておかあさん大好きな頃までは良いが、それ以降はなんで自分だけ、と思う気持ちは当然だと思う。
迷える大を、温かく見守る両親と祖父母、彼は家族には恵まれている。
就活にことごとく失敗しても腐らない、どこでもやっていけそうな自己肯定感の高さは、愛されて育っているが故でしょう。
両親は、障害が故に息子に負担をかけていることに「罪悪感」を持っていないか、顕にしない。でも、感謝はする。そして、障害者ができることを先回りしてしてしまうことは良くないのだとわかった。
周囲の者はどうするのが良いのか良くないのかわからないので、当事者からどんどん発信してほしい。この映画は、貴重な発信源の一つだと思う。
CODAの話だが、男の子と母親の話だと思いました。
駅で去っていく母はきっと、昔より確実に年を取っているんでしょう。
背中が何かを語ってましたか。
良い映画でした。
見ようかどうしようか散々迷ったけど、観てよかったです。
う〜ん
原作は知らずどういったことで作られたかなど予備知識は入れずにまっさらな状態で見ました。
予告で見かけてなんとなく気になっていましたし、さらにはこちらのサイトでやけに評価が高かったので見てみました。
見る前はなんとなく親子の感動の物語なのかなと思っていたのですが全く違いました。
正直、疲れている時には見ない方がいい映画です。だいぶ体力を使います。
聴覚障害の両親、ヤクザの祖父、宗教信仰の祖母といったなかなか複雑な家庭で育つ吉沢亮の生まれてから大人になるまでの人生を追っていく物語です。たいていこの感じのストーリーは大人になって成功するとか昔の苦労が報われるとかそういう感じがありがちですが、今作はそういったものではなく幼少期から普通の家庭とは違った苦悩を抱えて、さらには大人になってもなかなかうまいこといかないそんなリアルな感じが描かれています。
正直見ていてずっとしんどいです。
前半なんか特にしんどいですね。
時代背景的にも昭和後期から平成にかけてのような感じが見えて、その頃はまだまだいろんな障害に対する理解や認知、配慮なども全然今とは異なるものだったと思うのでそんな時代に両親が障害者である子として生まれ学生時代を過ごすことの葛藤のようなものがすごく描かれています。
その作品を通して見ていてしんどい感じが現実に近いというか夢物語的なフィクションとは違っていてそのあたりのリアルな部分を監督は見せたかったのかななんて勝手に思いました。
また、親に対してのありがたみなんかをある程度大人になってから身に染みるのはこれはやっぱり誰もが感じるものだと思います。
今作は各演者さんの演技も安定の演技力でした。
特に初めて見ましたがお母さん役の女優さんが本当に聴覚障害の方のような口調などがすごい演じ切っていて素晴らしい演技力でした。
あと、幼少期の吉沢亮さん役の子役がめっちゃ吉沢亮の子供時代って感じの役者さんでびっくりでしたね。
ユースケさんは後になんらかのキーパーソンになるのかと思いきや全然そんなんじゃなかったのはなんだか残念でした。
物語の終わりとしてはなんだか中途半端な感じに終わります。
そのあたりもあえてのこの何もない終わり方で感動のハッピーエンドではないやり方が何らかの監督の意図があるのかなと思います。
正直、自分としては良い映画だったかどうかよくわかりません。
コーダの役を吉沢君が演じるのか見たかった
母親ゃ父親役の俳優さんは定評の有る役者さんで、おじいちゃんがヤクザと言う設定は面白いと思いました。小さい時はいじめられ親の存在を疎ましく思っても駆落ちしてまで結ばれて生まれた事を知り色々な世界に逃げだした主人公は成長して行く事を吉沢君はオーラを消して好青年を演じてたと思います。
「受け入れる」こと
聴覚障がいを持つ両親のもとに生まれた息子と、その家族の成長物語。
100席会場の9割が埋まっていて、関心の高さが見てとれた。
何気ない日常シーンが続くが、逆に現実的。
・「お前の母ちゃん、喋り方おかしくね?」
・訪問販売員が何を言ってるか分からない
・帰宅時には照明を付け消しして帰宅を教える
ろう者の方々が「言葉にはしないけどツラい一面」や、工夫して生活している描写がリアル。
母は明るく息子に接するが、しだいに息子は反抗期とあいまって「なんで俺がいちいち通訳しなきゃなんねぇんだよ」と溝ができ始める。青年の気持ちも分かる。
それでも母は挫けず前向きに社会に役立とうと、補聴器を手にしたり、パートに応募したりと奮闘する姿勢はすがすがしい。
青年はやがて手話サークルに入り、ろう関係仲間が増えて生きる自信を取り戻す。
――そう、恥ずべきことではないよ。
「生まれてきたくなかったは、さすがに辛いね……。」息子から投げられた言葉を母が旦那にこぼすシーン。
駅構内にて息子が母の背を見送り涙するシーンからのエンディング。
母はいつもあなたの味方だよと言われた気がして涙が頬を伝った。
主人公母役の忍足さんは表情豊かでほっこりさせられる。思い返せばかつて教育TV(現Eテレ)手話コーナーで講師をされていて、その頃から笑顔が素敵な方だと思っていた。
余談だが、私の母は耳が聞こえるが手話を学習して通訳をしていた。「表情と口の開き方が大事」と繰り返し言っていた。なるほどそのとおりだと映像から感じられた。
面白く感動ある作品でした!
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
今作は題材的にもう少し淡々とした映画だと予想していたのですが、意外に面白く感動ある作品でした。
私が好きだった場面の1つに、映画の中盤以降で、主人公・五十嵐大(吉沢亮さん)が上京後のパチンコ店で働いている時に、客のろうあの女性(役名・役者名不明です、スミマセン‥)が私達と変わらない欲ある人物として描かれていた所があります。
例えば、ろうあの女性の仲間が五十嵐大と共にレストランに集まっている時も、五十嵐大が良かれと思って店員との注文の仲介をすると、私達の役割を奪わないでという趣旨の否定的な発言を五十嵐大は女性の中の1人から受けます。
この場面も、ろうあの人達も私達と変わらない振る舞いをしている、もっと言えばそれぞれ尊厳ある存在なのだと、示されているように思われました。
そしてこの、ろうあの人達は(可哀そうな存在なのではなく)他の人達と変わらず尊厳ある存在なのだという基調は、映画の初めから終わりまで貫かれていたように感じました。
主人公・五十嵐大の母・五十嵐明子(忍足亜希子さん)は、夫の五十嵐陽介(今井彰人さん)と共にろうあ者ですが、外から見ると大変な日常に見えても、決して本人たちはろうあのハンディに逃げ込むことなく、私達以上に自らをそして特に息子の五十嵐大を、尊厳ある存在として示し続けていたと思われました。
映画を通して静かな感銘を受けるのは、その私達にも通じる普遍的な人間の尊厳が示され続けているところにあると思われました。
個人的に特に感動的だった場面は、映画の終盤で主人公・五十嵐大が自宅に帰って来た時に、ちらりと家の玄関の郵便ポストが映る場面です。
映画の初めの方で、幼少の頃の主人公・五十嵐大が、折り紙の裏に書いた拙い手書きの手紙を家のポストに出しに行き、郵便屋さんが来たと母・五十嵐明子に伝えます。
母・明子はそれで息子・大の手紙をポストに取りに行き、それに呼応して、自分も折り紙の裏に手紙を書いて家のポストに出しに行き、郵便屋さんが来たと息子・大に伝えます。
この幼少期の頃の母と息子とのポストを介した手紙のやり取りには、何気ない日常の中に、子供の未来が本当に希望に満ち溢れて広がっている事を、信じてやまない母の姿があったと思われます。
しかしながら現実のそこからの息子の大の未来は、高校の受験に失敗し、役者の道も諦め、バイトの日々の中でようやく行き着いた小さな出版事務所も代表者や先輩社員が夜逃げする世界で、フリーのライターで辛うじて食つなぐ厳しさある場所でした。
それでもそうなった現在でも、息子の誕生で息子の未来に希望を溢れさせた時と変わらず母は確実に今もそこに存在していました。
もちろん、生まれながらにして存在を否定されている人達がいる事は知っています。
しかしながらそれ以外の多くの人々にとって、この映画が描き出す誕生からあふれ出す未来への希望と、そこから萎んだ日常の現実になったとしても、この映画で描かれた変わらぬ母と子の関係性は、ろうあ者、健常者に関わらず普遍的な一つの姿を現わしているように思われました。
映画の終盤の駅のホームで、母・明子の背中を見ながら、過去の自らの母への悪態などとその時の母の表情を思い出し、主人公・五十嵐大は慟哭します。
この場面で描かれていたのは、母が示し続けた自らの人間の尊厳が、ようやく息子である自身にも伝わった瞬間だと思われました。
そして映画を通して描かれた人としての尊厳は、ろうあ者に関係なく、私達観客の心の普遍的な深い所を突き刺し感動させていたと思われます。
今作は、例えばなぜ五十嵐大が役者を志したのか、なぜ出版社に行こうとしたのか、など、前後が結びつく形では描かれず、事実を塊で提示し続けて行く作風で、しかしそれぞれの事実の塊は同様の作風の他作品と比べた時にそこまでの驚きはないとは感じたので、今回の点数に僭越ながらなりました。
しかしながらそれを差し引いても、感動の深さから言うと、特に母と息子を通した普遍的な尊厳ある人間表現によって、今作が他の人の評価も高いのは当たり前だよなと、一方で強く思わされました。
耳が聴こえない両親を持った少年の誕生時点から、成長に伴って感じ始める悩みや苦しみを時に生々しく描いた人間ドラマです。次第に両親への理解と感謝の心を持つに至る姿に胸が熱くなります。
日本版コーダのお話と予告を観て知りました。
フランス版「コーダ」では、新しい世界に飛び込む
少女の姿が描かれましたが、こちらはどんな作品なのか。
気になった作品は鑑賞です。
「エール!」や「コーダ あいのうた」で外国のコーダのお話は
観てきましたが、日本のコーダのお話はどう描かれるのか。
さあ鑑賞。
冒頭、港で船体の塗装をする男の場面からスタート。
休憩時間のチャイムがなっても作業を続けている。
その男に近づき、別の男が背中をたたいて合図。
気付いて振り向いた男、いそいそと帰っていく。
帰宅した男の家には、何名かの大人たち。
部屋の中には、ふとんに寝かされた赤ちゃん。
周りにいるのは、この赤子の両親や親戚たちらしい。
祖父。祖母。
父と母。この二人は耳が聴こえない。
叔父と叔母。
この赤ちゃんが、どうやら主人公。
ろう者を両親に持つ子供の話なのは知っていたが
生まれた直後からコーダを描いた作品とは予想外 ・_・;
幼稚園
家に来た友達から「お前の母さん変わってる」と言われて
何となく「そうなのかも」と気付きだす。
⇒遊びに来たトモダチに悪気は無いと思うのだが…。
この年頃の子供の無邪気な発言は、刺さります。
小学校
近所の家の育てている鉢植えの花を壊した犯人にされかけて
母が通りがかっても事情が上手く説明できずに逃げ出してし
まったことも。
⇒近所のおばちゃんの決めつけはヒドイと思う…。
言いくるめて犯人をでっちあげようとしていたのだろうか。
中学校
三者面談にお祖母さんに来てほしかったのに「どうしても」と
母親がきてしまい、結果ほとんど会話に参加できていなかった。
⇒先生との会話の中から、自分の現状について色々と察する事を
期待していたのかもしれない と推測。
◇
帰宅した際にランプを点滅させ「帰った事」を知らせる場面が
印象的。(エールやコーダにもあったような気も)
小さな頃は数回チカチカと点灯させていたのが、中学生の頃には
おざなりに1回だけ押してすぐ部屋に引っ込んでしまうのも印象的。
次第にそういった「耳の聴こえない親」への配慮が面倒くさく
なっていく様子が伺える場面。
そして主人公は成人し、親元を離れる。
最初の頃は役者を目指していたようだが、次第に挫折。というか
家を出たかったのだろうかと推測。
結局は東京に出て、パチンコ店の店員。
耳の聴こえない客の欲しい景品を手話で通訳したのをきっかけに
聾者の集まりに顔を出し始めたり、物書きの仕事に興味が涌いたり。
訪問した幾つめかの出版社で、自分を飾るのに嫌気がさして自分を
さらけ出して面接を受けたら結果採用されたり。
※この出版社のユースケ・サンタマリア演じる編集者のうさん臭い事。♡
◇
8年ほどが経過。父が倒れて帰郷。(実家は宮城県石巻市)
父は命を取りとめ、何度の涙を流す母。
祖父は既に亡くなっていて仏壇の中。
祖母も体の調子が芳しくない。
「こっちに戻ろうか」
そう切り出す主人公だが、大丈夫とやんわり返す母。
外出からの帰り、電車を降り先を歩く母の姿を見て、
自然と涙が溢れてくるのを堪えきれない主人公。
この涙の姿はとても印象的。
ある程度大人にならないと、親の気持ちはわからない。そういう
ものかもしれませんが、 ” あぁ分かる ” と納得できる場面でした。
日本のひとつのコーダの物語。
観て良かったです。
◇あれこれ
■日本のコーダ
人口が2万数千人とか言ってました。…ふむ
多いのか少ないのか、何とも言えない数字です。
” やれることを取り上げないで ”
コーダ仲間の(というか、ろう者の)集まりに参加した際に
料理の注文などを引き受けようとした大に、親しくなった一人
がかけた言葉が印象的でした。
■手話にも方言?
「ウソ」を手話で表現したら、宮城生まれ?と言われた大。
宮城と東京では、手話の表現が違っていると分かる場面。
見ていて思わず「うそーん」と突っ込みました。
日本統一では無かったとは知りませんでした。@-@
■母さんゴメン
” こんな家に生まれたく無かった ”
” 母さんは何も協力してくれなかった ”
作中でさんざん母をののしった大。うーん。
気持ちは分からないではないけれど…
※何故かグレープの「無縁坂」の歌詞が頭に浮かびました。
■父さんゴメン
父ちゃんは死んだのだろうと思っていました…。
予告編を何回か観たのですが、その中に居なかった気がして
小さいころに亡くなって母子家庭なのかと。
最後まで健在でした。誤解してすいません。
■爺ちゃんはしょーがないかも
生前、あれほど嫌っていた祖母のお経。
自分が死んだ後、延々と仏壇の中で聞かされる事になるとは。
まあ、酒飲みの博打打ちのようでしたから自業自得か。
とはいえ少しだけ気の毒な爺さんでした。@_@
◇最後に
「ふたつの世界」のタイトルの意味するところを、少しだけ
考察してみました。
シンプルに 耳の聞こえる者 と 聴こえない者
身内に ろう者がいる者 と いない者
ろう者に 関わる者 と 無関心な者
手話を知らない自分ですが、無関心にはなりたくないなと
思います。身振り手振りであれ、困っている人がいたら何か
の助けになれれば良いのですが。
☆映画の感想は人さまざまかとは思いますが、このように感じた映画ファンもいるということで。
「ありがとう」はいつもこっちの方なのに
わたしの中で色々な感情が出てきて難しい映画だと感じた。
知らない世界すぎてわたしの中に持ち合わせている言葉ではこの映画で感じたことが表現できなくてもどかしい。
見てよかったと思える映画だった。
前半はろう者の子育てや生活って大変だな、思春期の子どもはそりゃ反抗するよな、嫌だよな、なんてことを悶々と感じていたが後半は母の愛を感じた。
手話も地域によって違うことを初めて知った。
母が補聴器を買って大の声が聴こえるって非常に喜んでいたことが印象的だった。
言葉が理解できるからじゃなく「声(大の音)」が聴こえるだけで嬉しいんだな。
大が持つ悩みは自分がなにをしたいかとかいまだにわたしも悩んでるしそれを親に相談することもないしコーダということ以外は他の人と何ら変わりのないものだと感じた。
でもコーダだからこそ手話もある程度できるし人の表情とか空気の感じ方とか、より繊細に感じられてそれが自分の強みになるんじゃないかなと思った。
手話を職にしたらいいじゃない、と思ったけどそれは彼のやりたいことではないんだろうなぁ。
母とスーツを買いに行くところは微笑ましくてワクワクした。
最後母が大に「ありがとう」と伝えたところで涙が出た。
ありがとうなんて言うのはいつもこっちの方。
いつもいつも心配してくれてちゃんと叱ってくれる。きつい言葉を言ってもいつも通り優しく笑ってくれる。
そして、バトンは渡されたを見た時も思ったけど母ってどうしてあんなに強いんだろう。強いって言葉はきっと適さないんだろうけど。偉大だなぁ。
エンディングの曲も歌詞を見ているとまたどんどん泣けてきてどうしようかと思った。
日頃の自分の行動、言葉選び、色々正さなきゃな。
あとこれからも母(家族)との時間は大事に大事にしていきたい。
ろう者の方も多くいらっしゃったけど、どのような感想を持たれたのか気になる。
吉沢亮さんは顔だけじゃなく良い役者さんだな。
とても印象的で涙するも、詰め込みすぎ感もあった
この作品は大きく分けて3つの構成に分かれている。
1つ目は主人公の男性の幼少期〜思春期の話で、幼少期には全く気にならなかった「両親が唖者」事実が、成長の過程で主人公にとって諸悪の根源のように感じ両親と対立していくいわば「反抗期」の様相を子と親それぞれの視点から描いている。ここで印象的だったのはやはり反抗期の描写で、「自分も反抗期あったよなぁ」と振り返りながらみていた。
2つ目は青年期の話で、ここでは反抗期から落ち着き両親との関係も落ち着いてきた主人公が東京で一人暮らしをする中で、健常者として社会に関わる自分と、手話を話せる身として唖者の社会に関わる自分の2つの世界が、これまた主人公の視点と周りの視点の両面から描かれている。ここで印象的だったのは、唖者の友人たちと飲み会を開き、言葉の話せる主人公が親切心として注文を取り仕切っていた時に、唖者の友人の一人が「自分たちでも紙や指で注文できるから、自分たちで注文する機会を取り上げないで」と主人公に指摘していた箇所だ。もし自分が主人公と同じ立場でも主人公と同じようにしただろうが、それは相手からしたら余計なお節介で憐れまれているようにも感じ、自分でできることは自分でしたいよなと気づきがあった。
最後は、しばらく東京に出ていた主人公が久しぶりに実家の両親のもとに戻り、そこで主人公は初めて、自分が手話や親を避けていた時に親がどう感じていたのかを知るのである。ここで印象的だったのはもちろん、電車の中で主人公がお母さんと手話で楽しく笑いながら会話をした後にお母さんが発する「電車の中で周りに人がいるのに手話で話してくれてありがとう」という言葉である。この言葉で主人公は、今まで自分が手話を使うことや唖者の親と話すことに恥や嫌悪を感じて避けてきたこと、そしてそれによって親が悲しい思いや寂しい思いをしてきたことを回想し、そんな自分が恥ずかしいと同時に親への申し訳無さや感謝でいっぱいになり、駅のホームで親の背中を眺めながら涙するのである。このシーンでは映画館の中で涙を流し鼻をすする声が響いていた。
さてこのようにそれぞれのシーンに印象に残る場面があったものの、いやだからこそ、色んな要素を詰め込んでしまい一つ一つが薄くまってしまったように感じたり、「このシーンなんのためにあるの?」と思ってしまうような演出もいくつかあった。例えば主人公が就活で面接している場面や出版社で働いているときの出来事、社長の逃亡や面倒なクライアントなどのシーンは、この作品が伝えたい大枠に対して必要なシーンだったのだろうか。
改めて、色々気付かされる映画
2年ほど前に観た「Coda」同様、耳の聞こえない両親に育てられた子供の話。本人の自伝?の映画化のようです。時代的には、昭和から平成初期にかけてか?
変に感動させようとせず、たんたんと生きる姿が描かれる。生まれてすぐの状態からエピソードが始まるので、どれだけ大変かがしっかり描かれているので、理解しやすい。
途中、補聴器を付けた母が、声が聞こえるが意味が分からない事が語られ、改めて気付かされた。そうか、初めて聞く言葉は音でしかないんだ。自分の想像力の及ばない事態があるんだと知らされる。
半ばで語られる母親の過去もかなり驚かされる。けど、過去の日本はそれほど無理解だったんだろうな。
色々気付かされる、観るべき映画。
#ぼくが生きてるふたつの世界
母の愛、大の涙に、ありがとう
終盤、母が、人前で大が手話で会話してくれたことが嬉しくて感謝の言葉を現したことで、母が大に手話で話しかけながら育ててくれたことを思い出し号泣するシーンは、例えが適切ではないかも知れないが、アルフレードがキスシーンを繋ぎ合わせて作ったフィルム映像に涙が溢れ、それを観て感激するトトの表情で号泣してしまう、評価者の映画体験と似た感じを得てしまった。エンドロールの日本語ではない音楽の歌詞が、物語のシーンを想起させる最後まで、嗚咽が止まらない。
一方で、ろう者サークル代表の女性とのパチンコ屋での会話や同級生同士のやりとり、父のカラッとした表現など、清々しい気分にもさせてくれる。
そりゃ母ちゃん美人だから
無償の母の愛、ラストに持ってくる所。
それまでのエピソードが前フリという(笑)
手話にも方言っぽいものがあるとは興味深い。
細かい所に抜けがあるところがちとマイナスか。
(植木鉢の犯人、編集長の失踪後の会社とか)
彼女とかできると面白かったかも。
で主人公はどうなる?までやってほしかった。
父ちゃんもいい味出ていた、出番少なめだけど(笑)
む、難しい・・・
................................................................................
両親がろう者の亮。父の勧めで、一人東京に出る。
東京に出てから、やりたいことを探すつもりだった。
パチンコ店員・役者・編集者とそれなりに頑張るが、
特に向いてるわけでもなく、なかなか定まらない。
手話ができたので、手話サークルに参加したりしてた。
久々に宮城に帰省したら、祖母が弱ってた。
自宅に戻ろうかと母に提案するが、別にいいと言われる。
で東京に戻る時に急に色々思い出す。
子供時代は、両親がろう者と知られるのが嫌だった。
他人に両親を見られる機会が極力ないようにしてた。
でも今はいつの間にかそういう感覚はなくなってて、
人の多い電車内で母と手話で会話して爆笑したりしてた。
それを母が喜んでくれたのが心に響いて涙が出た。
で、突然終了。
................................................................................
亮が経験したことだけ描写され、特にオチもなく急に終わる。
こういうパターンの映画は時々あって、難しいと感じる。
一体何を伝えたかったのだろう?、分からなくなる。
繊細で感受性が人一倍強いつもりで生きてるけど、
実はなんにも分かってないのかも?そう思わせられる瞬間。
おれが感じたのは、両親がろう者だったからといって、
(子供時代はそれが劣等感だったかもしれないが)
そのことが亮の人生に負の要素を与えたとは思えない。
これと言って夢もやる気もない青春時代を過ごし、
学校を出た後もそのまま行き当たりばったりな生活が続く。
こんなのよくあるパターンで、特に共感できるわけでもない。
まあおれ自身も20代は迷える子羊やったので、
似たような歯がゆい思いをすることは多々あった。
頑張れるタイプなのに、何に頑張ればいいかが分からない。
そんな状況と、両親がろう者なことに相関はないと思うし、
よくある平凡な青年の話にしか感じんかった。
その先に夢を見つけられれば人生が変わる、ただそれだけ。
だからむしろ、その先のことの方が興味あったな。
あとお母さん役の忍足亜希子さんって、本当のろう者らしい。
笑顔のかわいい人で、御年54歳。嘘でしょ?って思ったな。
30代くらいの頃も演じてたが、そういう年齢にしか見えない。
逆に亮自身が演じる中学時代は、さすがに無理があったw
改めて調べたら、亮ももう30歳なんやな、時が経つのは早い。
話せるのに、小言ばかりな自分に反省
音が無いラストシーン
吉沢亮さんの泣き声が脳裏に届く感じがした
映画館か静まる中、必死に嗚咽をハンカチで押さえまくった
父親、凄いカッコ良い
パチンコからの帰り道の息子とのやりとり良かった
母親、優しくて大好き
人前で息子が仲良くしてくれるのって、本当に嬉しい
反抗期の頃って、親の顔なんか見たくもないわけで、でも顔見て手話しないと伝わらないから、逃げることが出来ない 余計にイライラが増してしまうんだろうな
手話での雑談とかたくさんあって、楽しかった
見て良かった(^_^)
楽しみながら、人生を振り返ったり、日々の生活を見直したりできる映画が少なくなった中、これはそれらが出来る1本だった。
映画見ながら、『パーフェクト・デイズ』の、役所広司が日の光を浴びながらジワッときてる姿を思い起こした。
どう見ても高校生にしか見えない中学生の吉沢亮には無理があったが、思春期の様子そのものがよく出ていたので問題なし。
感心したのは、吉沢亮が小さい頃はああいう子だったろうなあと思わせる位、あの子役が似てたこと。
『コーダあいのうた』は主人公が高校生からだけど、これは五十嵐君の生まれる時からが描かれているので秀逸。
それに、周囲が反対しても、母親が生む決心をしたという親戚(?)のおばさんの言葉が終盤にあり、あらたな思いで母親(と)のことを回想する終わり方が素晴らしかった。
(自分にとっての)今年1番の映画になるだろう。
宮城県の小さな港町、ろうの夫婦・陽介(今井彰人)と明子(忍足亜希子...
宮城県の小さな港町、ろうの夫婦・陽介(今井彰人)と明子(忍足亜希子)の間に男児が生まれる。
大と名付けられた男児は健聴だった。
3人は、明子の両親(でんでん、烏丸せつこ扮演)と同居し、大は育っていったが、周囲からは他と異なったと見られ、からかわれたり、あらぬ疑いをかけられたりと、ときには嫌な思いもした・・・
といった物語で、ろうの両親を持つ健聴者の物語は、『エール!』や『コーダ あいのうた』などでも描かれた。
これらの映画と異なるのは出生から描くという点で、この前半、短いエピソードの積み重ねながら、丁寧に描いていきます。
丁寧に描くにあたっての演出で、もっとも重要なのは、音の使い方。
冒頭、大の両親の世界から描かれるので、無音のシーンがつづき、そして第三者的に音のある世界へと切り替わります。
そのほかにも、ささやかな虫の声、降り出す雨の音など繊細な演出です。
(鑑賞した日本語字幕版では、それらの音についても字幕で表現されていました)
物語上の工夫(か実際の話なのかはわからないが)としては、明子の父・「ゾロ目のヤス」の異名をとった(本人の言による)という祖父の存在。
がさつで無遠慮、耳の聞こえない娘を愛しているが、ちょっと見下している。
この人物設定がよく、映画を芳醇なものにしています。
志望高校に不合格になった大少年(吉沢亮)は、少々ドロップアウト気味。
高校卒業後は何するでもなく地元でアルバイトし、夜行バスで東京に出て俳優のオーディションを受けるもことごとく落ちる。
東京では「耳の聞こえない両親に育てられた可哀そうな子」のレッテルは貼られないが、その代わり、何者にもなれない・・・
そんな中、結果、アルバイト先のパチンコ店で知り合った、ろうの中年女性の誘いで、手話サークルに入り、これまでみてきた「ふたつの世界」がそれほど大差がないことを知る・・・
聴こえる/聴こえないのふたつの世界はそれほど変わらない。
それは久方ぶりに会った母からも感じる。
幼い頃から、無条件に彼を愛してくれていた。
最終的には、そんなやさしさに包まれた映画でした。
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