ぼくが生きてる、ふたつの世界のレビュー・感想・評価
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コーダとして生まれた主人公の苦悩とそこにある普遍的な愛の物語
本作品は、作家・エッセイストの五十嵐大による自伝的エッセイ「ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと」を実写化した映画です。吉沢亮さんが主演を務め、中学から青年までの主人公を繊細かつ力強く演じています。吉沢さんの子役の見上げる仕草が、吉沢亮さんそのものだったので、演出が細かくて素晴らしいなぁと思いました。
この映画で描かれているのは、コーダ(耳のきこえない、またはきこえにくい親を持つ聴者の子ども)というマイノリティな生い立ちの主人公五十嵐が、苦悩しながらも成長していく姿です。その環境は少し特殊なものであったかもしれませんが、その本筋に流れるものは、とても普遍的で誰にでも共感できる家族の愛の物語です。
私の号泣ポイントは
息子五十嵐が、「今までごめん」と母に言った時に、「え?なにが?」みたいにとぼけたシーン
おい、世の中の息子ども
母の愛❤️舐めんなよ!!
障害があろうがなかろうが、あなたを産むって決めた時から、こっちは腹括ってんのよ。あなたの思春期のかわいらしい反抗なんて、ほんのジャブにもならんのよ。
また、
電車で母と息子が仲良く手話ではしゃいでいる場面からの
母が息子に「手話で話してくれてありがとう」みたいなシーン。
そうそう!!そういう何気なく普通に成長した息子とはしゃげる瞬間って、母の夢よね。たまらんね。
子どもが「申し訳ない」と思っているほど、親はなんとも思ってないとか、子どもが幸せだと感じたパフェのことを母は覚えてなかったりするのとか、「あるあるだなぁ〜」って、深く共感しました。
こちらのレビューは、絶賛母目線で書かせていただいておりますが、もっと遡れば、生まれた家が何故か自分には窮屈で19歳で家をでた自分の姿にも重なり子ども目線でも涙できちゃう本作品、もうほんとにやばいです…😭
子を持つ親御様方、思春期のお子さんたちも、おばあちゃんおじいちゃんも、どうぞ厚めのハンカチをご用意してご鑑賞下さい。
それぞれ違った悩みがある、それはどの家族も同じ
ろう者の両親を持つコーダの主人公、大の人生の描写は赤ん坊の頃から始まる。
原作者の五十嵐大氏は1983年、宮城県生まれ。両親から愛される素直な子供だった大が、年頃になり「普通でない」両親を嫌悪するに至る過程が丁寧に描かれる。
市場の鮮魚屋で初めて母の「通訳」をして店の人に褒められて以来、誰が強制したわけでもないが自然と、両親と健聴者の通訳が彼の役目になっていったのだろう。相手から褒められ、両親の助けにもなることで幼い大は単純に嬉しかったかもしれないが、その役目が固定化され当然のものとなったまま思春期を迎えると、だんだん両親が疎ましくなった。
一見「普通でない」家庭の、世間的にはマイナーな苦悩の物語のように見える。確かに、大が家庭の内外で苦悩する理由は、コーダ独特のものだ。
だが、彼が母親に対して抱く嫌悪感は、誤解を恐れず言えば、どこか私自身の思春期の感情にもかすかに重なる部分があった。コーダ独特の悩みの中に、誰もが通過する反抗期に共通する感情も透けて見える。だから、全く違う境遇なのにどこか不思議な共感を覚えた。
彼の両親が一貫しておだやかな愛情を我が子に注いでいることは、節々のさりげない描写から伝わってくる。大が自分のフラストレーションを母親にぶつけることができたのも、本人は意識せずとも、母親の愛情への信頼が根底にあったからだろうという気がした。
彼らの物語を見て、ろう者を両親に持つ人は「普通の人」より特殊で大変だな、とか、ましてやかわいそうだなどという気持ちにはならなかった。
海沿いの道で、父親の陽介が母の明子に伝えた言葉の通りなのだ。
「まあでも、どんな家も、それぞれ悩みがあると思うよ。多分ね」
それぞれの家庭で、家族の悩みは千差万別。そういう意味では、「普通の」家庭の定義などないし、裏返せば五十嵐家もそのバリエーションの中のひとつの形に過ぎない(彼らの苦労を軽視する意味合いでは決してない)。家族の在り方そのものよりも、彼らと接する周囲の人々がそのような理解で受け止めないことが、大の苦悩を大きくする原因だった。
一方、大は上京して両親以外のろう者と出会い、同じ手話でも地方によって表現の違いがあることや、進んで通訳をすることが時にろう者の自立した行動の妨げになるという視点を知った。この考え方は、両親を故郷に置いて来たという大の罪悪感を和らげたに違いない。
コーダという立場を疎ましく思って逃げるように家を出た大だったが、上京したことで結果的にろう者の世界の広さを知り、両親との関わりを素直に見つめ直すことができた。
静かで切なく、そして最後に清々しい気持ちになれるひとりの青年の成長譚だ。
ラストに長い回想シーンを持ってきてほぼそのまま終わる(電車の中でPCを打つタイトルカットはあったけど)というのはちょっと意外だった。一般的に、終盤の回想というのはクライマックスを盛り上げるための足掛かり的な使われ方をすることが多いので、あのあと進行中の時間軸に戻ってひと山あるのだろうと、漠然と思っていた。
駅のホームで、人前で手話を使ったことに母から礼を言われて初めて、大は自分の言動が母をどれだけ追い詰めていたか気づき、罪悪感と後悔に苛まれ、自分を恥じて泣く。彼の気持ちが変化する節目の場面だ。
上京後、祖母に取り次いでもらった電話で大声で母に話しかけた場面や、父の入院で帰省した時に「俺、帰ってこようか?」と言う場面は、時系列的にはこのシーンの後の出来事になるが、20歳の大の涙を知らずに見るのと知って見るのとでは彼の気持ちの解釈が全く変わってくる気がする。
原作では時系列通り中盤に描かれているこのエピソードをラストに持ってきたのは、単にもっともエモーショナルな場面だからか、あるいは他の意図があるのだろうか。個人的には、時系列で感情を順番に積み重ねてもよかったかな、と思った。
あと、手持ちカメラの揺れが多用され過ぎてノイズに感じる時がちょっとあった。この手法、言うほどリアリティに貢献するかなあ、と思うことがある。
吉沢亮が大の中学生時代から演じていたのは驚いたが、あの年頃の難しい感じを絶妙に演じていて嫌な違和感はなかったし、成長していく様子も自然でよかった。
ろう者の役は全て実際のろう者が演じたとのこと。「コーダ あいのうた」に影響を受けてそうしたと呉美保監督が語っているが、当事者性からくる説得力はもちろん、みなさんの個性が物語によく合っていて魅力的だった。大の両親の雰囲気もよいし、河合祐三子の演じるパチンコ屋で出会ったお姉さんが自由で、大の世界を広げるキーパーソンとしても効いていてかなり好感を持った。
「私たちのできることを奪わないで」
ろう者の当事者を多数起用した上で、手話演出の専門家とコーダ監修をつけた上で、ろう者のリアリティにこだわって制作されている本作。そのリアリティがあるからこそ、ろう者と聴者の狭間を生きるコーダのリアルが深く映像に刻まれている。耳が聞こえない時にどういう生活になるのか、その生活の実態がさりげなくちりばめられているのが良い。キッチンで鍋が吹いていることに気づかなかったり、赤ん坊の泣き声が聞こえなかったり。それらが大事件に発展することはないのだが、細かい苦労の積み重ねを日々、強いられることがよくわかる。その中で、ろう者の両親に育てられた聴者の主人公が、他者とは違う家庭で育ったことに葛藤する。アメリカ映画『コーダ あいのうた』では家族を離れるところまでが描かれるが、本作はその後も描かれる。上京してから初めてコーダという概念を知り、家族を見つめなおし、自身の進むべき道を考えるようになる。
二つの世界の狭間で生きるコーダの苦しみは何なのか、『コーダ あいのうた』と比較してもより深く迫っていたのではないか。なまじろう者の世界を知っているが故に、助けようと思って「私たちのできることを奪わないで」と諭されるシーンなど、重要なシチュエーションだと思う。
徹底したリアルな映像世界は、さすが呉美保監督。今年を代表する邦画だと思う。
普遍的な家族の愛の物語
耳のきこえない両親のもとで育った息子の話、という本作の設定を最初に知ったとき、2021年米製作の傑作リメイク「コーダ あいのうた」(オリジナルは2014年の仏映画「エール!」)の主人公を男性に変更してアレンジした日本版リメイクかと早とちりしたが、正しくは作家・五十嵐大による自伝的エッセイを原作にしたオリジナル映画。とはいえ、「コーダ」(CODAはChildren of Deaf Adults=“耳の聴こえない大人に育てられた子”の意味)が主人公の家族役に実際に聴覚障害のある俳優たちを起用し高評価された流れを受けて、この「ぼくが生きてる、ふたつの世界」の企画が実現したのは呉美保監督も明かしている通り。また、「コーダ」の主人公が夢の実現のため家族と離れて一人立ちするところで終わっていたので、主人公・大(吉沢亮)が単身上京してからの物語が後半で大きなウェイトを占める「ぼくが生きてる、ふたつの世界」は、本質的な部分で「コーダ」と連続性があるようにも感じられる。
両親に反発するように家を出た大は、紆余曲折を経て編集プロダクションに就職し、やがてライターとして文章を書くように。事件・事故などの出来事の断片的な情報を集めて一本の記事にする行為は、出来事の推移と当事者らの関連性を俯瞰し、客観的にとらえ直すということ。東京でのさまざまな出会いと経験に加え、物事を客観的にとらえる力を培った大が、家族との関係を見つめ直すことができたのも自然な流れだっただろう。
思春期の大に反抗的な態度や非難の言葉をぶつけられても、悲しみをぐっとこらえて天真爛漫な笑みを絶やさず息子に愛情を注ぎ続ける母・明子に、観客の多くは理想の母親像を見るはず。演じた忍足亜希子は文句なしに素晴らしく(本年公開作が対象の映画賞で助演女優賞の受賞にも期待がかかる)、ろう者の親と健常者の子の話に限定させず普遍的な家族の愛の物語に昇華させた脚本・港岳彦の貢献も大きい。安易に“泣ける映画”という言葉を使いたくないが、この「ふたつの世界」には本当に泣かされた。
あるがままと達観が情緒を振り払う日本版『コーダ』の魅力
フランス映画をハリウッドがリメイクしてアカデミー賞に輝いた『コーダ あいのうた』('21年)があったように、日本にも2万人以上いると言われるろうの両親のもとに生まれた子供にフォーカスした本作。そして、『コーダ~』がそうだったように、ここに登場する親たちの自然体と、音のない世界とある世界の狭間で揺れる子供の葛藤が観る側にも伝わって、何があろうと決して深刻ぶらず、あるがままを受け入れて生きる強さに心が震えてしまう。情緒に傾き過ぎない演出と演技にも助けられた。
ろう者の登場人物はすべてろう者に演じさせたことも成功の要因だろう。特に、『コーダ~』でもそうだったが破天荒でいて物事を達観視し、息子を心から信じている父親のキャラクターが魅力的だ。でも、与えられた境遇に疑問を持ち、やがて受け入れていく息子を演じる吉沢亮の計算し尽くされた変容の演技に感心する。
人は誰でも過去を振り返って気づかなかったことに感謝して、そこからまた前を向き、新たな一歩を歩み出す。取りこぼしが多い人にも希望を与えてくれる映画だ。
人は誰しもいくつかの世界を行き来して生きているのではないか
きこえない母と、きこえる息子が織りなす親子の物語であり、“きこえる世界”と“きこえない世界”を行き来する、ひとりのコーダ(きこえない、またはきこえにくい親を持つ聴者の子供)の心の葛藤と成長を描いて、普遍的な家族の愛の物語へ昇華させています。
人は誰しもいくつかの世界を行き来して生きているのではないでしょうか。本作は“きこえる世界”と“きこえない世界”を描いていますが、無意識の差別を引き起こす、国や民族、出自や身分、言語や肌の色が違う世界、さらには他の社会的マイノリティの世界と置き換えて見ることもできます。
そして、自身の親しい人を思い出し、その人への後悔や懐かしい記憶が重なると、自分の物語として心に響いてくる作品です。
あなたの人生が、うまくいく事を願っています
耳の聞こえない両親の元に生まれた五十嵐大を吉沢亮さんが好演。パチンコ屋の店員として働く姿はイケメンホスト ✨
父・陽介を今井彰人さんが、母・明子を忍足亜希子さんが演じる。息子を思う母親の眼差し、夫婦で交わされる言葉が温かい。
祖父をでんでんさんが、祖母を烏丸せつこさんが演じる。お二人の妙にリアリティを感じさせるコミカルで自然体な演技が見事 ✨
ホームで母親の背を見送りながら思わず嗚咽する大の姿に、色々な感情が湧き起こり涙が止まらなくなった。
愛に溢れた素敵な作品。
-大は大丈夫だから
映画館での鑑賞
私の知らない世界
聴覚に障害がある方を描いた内容であることのみの事前確認で鑑賞。
ストーリー的には、両親に聴覚障害があり、その間に生まれた1人息子の誕生から自立までを描いたもの。
自分の人生では関わったことのない内容であったため、こういう大変さがあるんだなと、1つ1つの出来事を見ていた。
全体として雰囲気は重めで、辛いことやうまくいかないことが続いていくような内容。
物語を楽しむというよりは、ドキュメンタリーを視聴するといったような感覚。
主に子供想いの母と思春期の息子に焦点があてて描かれている。常に息子のことを1番に考える母と、まわりからの冷たい視線を感じて不満が積もる息子。息子が社会人になったあたりを境に、徐々に母の愛を実感し、また両親から教えてもらった手話を活かして社会とのつながりを持つようになる。
ハラハラドキドキや考察をするのが楽しいタイプの映画ではないが、聴覚障害の世界とそこに住む家族の愛情をみることができた。
障がいは可哀想ではない
こちらが良かれと思ってしたことが
相手にとっては同情されていると思わせてしまったり
傷つけることもある。
それは相手が障がいがあるなし関係なく起こりうること。
少年役の子たちが吉沢亮さんの面影があって、
キャスティングすごいなー
障害者家族における親子関係の脆さと修復のドラマを通じて伝えたかったこと
1 耳の聞こえない両親を持つ子が穏やかな心境に達するまでの軌跡を通じて、社会生活や人間関係のあり方を描く。
2 田舎で耳の聞こえない両親及び健常者だけど伝法な祖父母と暮らす主人公。彼は、ある日友だちから母の喋り方が普通ではないことを指摘された。彼は恥ずかしいという感情から母
や手話を避け、意思疎通も控えるようになる。そして、一方的な被害者意識を持つてしまい、あてもなく家を出て上京する。そして・・・。
3 主人公は、上京前日に母と出掛け人前でも自然と手話で会話し笑い会う。そこで彼はようやく気付く。普通に接することが大事だと。
4 本作では、一つの障害者家族の実話を通して、障害者を特別視することのない意識と気付きのみならず、健常者と同じように当たり前に生活できる社会の姿が大事であることが示された。そのための課題として、障害の状態に応じ聾唖教育など適時適切な教育の付与や職務経験や集まりの場など社会から孤立しない取り組みが必要であることも示された。劇中において、主人公の母親が親の無理解から適切な教育を受けられず、置かれてきた境遇は余りにも悲しく、東京で知り合った手話サークルのメンバーは生き生きしていた姿から明らかであった。
5 監督は、重めのテーマを含んだ個別ドラマを説教臭くなることなく、巧みな編集でサラリとまとめあげた。主人公の吉沢は好演。
観に行って良かった!
退屈かも、と思っていたがそんなことはなく、あっという間の105分でした。感動的だけど深刻過ぎず、ところどころクスッと笑えるのも良かった。
考えなく使われる「可哀想」と言う言葉の残酷さを感じました。ろう者は可哀想な人ではないし、コーダも可哀想な子どもじゃないのに。周囲に悪意はなくても、言葉は子どもの心に影響を与えてしまう。
吉沢亮さんは成長していく主人公を見事に演じていたし、今井彰人さんのゆったり構えたお父さんも好きでした。
両親とも耳が聞こえないという青年。 自宅では手話、外では口と耳で会...
両親とも耳が聞こえないという青年。
自宅では手話、外では口と耳で会話。
周囲から特別扱いされることもあり、違和感も抱きつつ、大人になってゆく様子。
母は一途に息子思い、決して𠮟らず応援してばかり。
大人になって、ある時ふっと親の有難さに気づく息子、
静かに丁寧に描かれていました。
時代や地域の特徴も、一目でわかる隙の無さ、
(ゲーム機やブラウン管、語尾けさいん、仕送りに油麩や海藻)
感心しました。
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忍足亜希子さん(母親役)、だいぶん前に演劇の舞台で観させていただいたことがありました。
"嵐になるまで待って" 2002年、サンシャイン劇場、だったかな…。
その際も、舞台上での手話には圧倒されましたが
変わらないお姿、しみじみ感じます。
耳聞こえない者同士の子供なんてとんでもねえって、じいちゃんとばあちゃんは大反対したの。そんでも明子は産んだの。あんたを。
最後の最後、僕は、母の後ろ姿を見つめながらの大とまさに同じ感情で心がいっぱいになった。障碍を持った両親のもとで生まれ、育てられた大が、どこかひねくれてしまうのも分かる。親ガチャにハズレてしまったようなものだもの。だけど、いつか親の、特に母の深い深い愛情に気づくときがある。見返りを求めない無償の愛に。そしてその時は突然なのだ。幼い頃からいままでのいくつもの母の姿が脳裏に鮮やかによみがえり、それまでの自分の感情や行いがどれほど親を傷つけていたか、そしてそれでも親が自分を愛してくれていたか、ほんと、すべて一瞬で理解し、悟る。だから大は、ああなってしまう。そりゃああなるさ。吉沢亮が、そのほとばしる感情を見事に体現してくれたおかげで、こっちも感情がシンクロできた。
それにもまして、母親役の忍足亜希子の演技が素晴らしかった。聾者であることに甘えず世の中に寄りかかろうとせず、自分のできる生き方を胸張って、恥じることなく、そして朗らかに過ごす人生に、大きな拍手を送りたい。
それから、「仕事っていうのは、実力より高めがくるから。でもね、それはチャンスだから逃げちゃダメ」ってタモリの名言を、俺っていいこと言うだろ?的に得意げに話すユースケ・サンタマリアが憎めない。そのくせあとで、、、いやそれはまあいいか。
コーダの人生
よかった。産まれてから大人になるまでの聴覚障害者を両親に持つ健常者の青年の話。ラストら辺は感動の涙でしたね。コレは未成年の男女や思春期真っ只中の子供たちに是非みせてやりたいもんだわ。なんか…世界的に見て日本人の家庭によくありそぅな気がする平和すぎるから。
本筋とあまり関係ない感想になってしまった
吉沢亮の、あの反抗期の息子、まさにアレ。
だるそうなところなんか、まったくそのもの。
私はいわゆる健常者ですが、息子たちの反抗期は重箱の隅をつつくように親の至らないところ、不足をみつけて、そこを全力で突っ込んで理不尽だろうとなんだろうと親を責め、拒否してふてくされ、口を利かなくなる。母は、蛇蝎のごとくというか憎しみの対象みたい。次男が特に酷かった。
スーツを作りに行くところ、自分たちのことかと思いました。
反抗期の次男が大学に合格して、入学式用にスーツを買ってやる、と私の仕事が休みの日に二人で出かけて、店の人に聞きながらあれがいいとか、これがいいとか、次男、他人様の手前があるのかいつになく機嫌が良く普通に口をきくので、私はうれしくて天にも昇る気持ち。それから近くのファミレスでランチして、何でも食べていいと言ったらほんとに遠慮なく、ランチのパスタコースにポテトフライとコーンスープ追加、デザートにパフェ食べて、私の残したパスタまでペロッと食べてしまいました。かーちゃんのお小遣いでお会計したけど、100万回散財してもいいと思いました。
その間、別人みたいにあれこれとよく喋ること。学校のこと、友達のこと、これからどうしたいのかとか、ファミレスをでて家に帰るまでそれが続きました。(長々と自分語りで恐縮です。)
なので、この母の気持ちが我がことのようにわかります。
息子の気持ちはよくわかりませんが、あまり深く知らなくて良いのかも。
出ているところで推測するくらい。親といえども他人に心の奥底まで知られたくないでしょう。
エンディングの曲の歌詞、親の心はあんなものです。
親がそう言うと、子どもにしたら押し付けがましいのでしょうけど。
大は、アメリカ映画のCODAみたいに特に何かに才能があるわけでもない、普通の子どもだが、それ故、特殊な環境の普通のコドモのことを知ることができるよう。
周囲から特別視されるのも嫌だろうし、複雑な感情を抱きがちで反抗期となったらそれが爆発、母のよいところすらウザくなってしまうのだろう。
両親は、障害者が故に教育を受けられなかったようだし、小さくておかあさん大好きな頃までは良いが、それ以降はなんで自分だけ、と思う気持ちは当然だと思う。
迷える大を、温かく見守る両親と祖父母、彼は家族には恵まれている。
就活にことごとく失敗しても腐らない、どこでもやっていけそうな自己肯定感の高さは、愛されて育っているが故でしょう。
両親は、障害が故に息子に負担をかけていることに「罪悪感」を持っていないか、顕にしない。でも、感謝はする。そして、障害者ができることを先回りしてしてしまうことは良くないのだとわかった。
周囲の者はどうするのが良いのか良くないのかわからないので、当事者からどんどん発信してほしい。この映画は、貴重な発信源の一つだと思う。
CODAの話だが、男の子と母親の話だと思いました。
駅で去っていく母はきっと、昔より確実に年を取っているんでしょう。
背中が何かを語ってましたか。
良い映画でした。
見ようかどうしようか散々迷ったけど、観てよかったです。
母は強し
■あらすじ
東北の港町、耳の聞こえない両親のもと育てられた五十嵐大。
幼いころから、母親の通訳をし、手話も我流で少しずつ覚える。
しかし、成長するとともに、周りから特別視されることに違和感、戸惑い、
苛立ちを感じる。そして反抗期を迎え、母親の明るさすら、
うっとおしいと感じるようになる。
二十歳のときに逃げるように上京、一人暮らしを始めるが・・・
■レビュー
母親の強さ、愛情の深さに、感動。
思春期の反抗的な息子の態度であれ、すべてを受け止める。
そして息子を信じ、寄り添う。
20万円もする補聴器を買ったのも「大ちゃんの声が聴ける」って。。。
いや、聞こえてないじゃん!と笑いたくなった。
父親も息子の上京に背中を押すところに感動。
母親とのなれそめ、駆け落ちエピソードを話す姿は、
男同士ならではか。
ばくち打ちの祖父、そして毎日お経を唱える祖母にとっては、
孫の大が唯一の話し相手だったのかもしれない。。。
ラストの母親との電車のシーン、そして電車を降りたホームで母親から
「手話で話してくれてありがとう」という言葉に大が泣き崩れたシーンは
ぐっときた。
主人公の大を演じた吉沢亮さんも素晴らしかったが、
母親役の忍足亜希子さんの素敵な笑顔、前向きな姿勢に感動。
現実
私の両親は健常者だ。
だから、この主人公や原作者の気持ちを本当に理解することはできない。
私には想像だにできない多様な困難や苦悩があったことだろう。
でも、だからと言って、それをだらだらと垂れ流されてシンパシーを感じるほど、
私は善良ではない。
現実を離れてフィクションの世界を堪能したいのに、
ダメ息子を想起させられるシーンを延々と見せつけられる。
ウンザリだよ。
健常者だって多かれ少なかれ苦悩し乗り越えようともがいている。
そんなものは見せていただかなくても十分認識している。
障害者の子供だから許されると甘い気持ちなら止めてもらいたい。
一方で、障害の有無に関わらず、親の気持ちは痛いほど分かる。
そんなちっぽけなことでも嬉しいんだよね、と目頭が熱くなった。
とにかく前半で暗澹たる気持ちになってしまった。
ラスト近くでほんの少し盛り返したが、遅きに失した。
咽び泣くところでした。
まず驚いたのは、
子役の子が吉沢亮さんの子ども時代か
と思わせる顔のシンクロ率のおかげで
五十嵐大と言うキャラクターの人生を
隣でちゃんと観てたような気になれました。
そのおかげでラスト前の
コーダとして生まれた事で逆に
耳が聞こえる両親から生まれた子より
たくさんはは親と喋ってたんだなと思わせる所で
危うく映画館で咽び泣くところでした。
ろうの両親の子供として生まれた映画に
「コーダ あいのうた」や「エール!」があって
耳が聞こえない両親の対比で歌手になる夢と言う設定を
用いたと思うのだけど、
耳が聞こえると聞こえない人生だけでもう対比は充分に
成り立っているから、
大ちゃんはこんな両親の子に生まれたくなかったと言うけど、人生においては両親やろうの方と接してる時の方が穏やかで生き生きしてるように思えました。
中学時代から30代までを演じた吉沢亮さんは素晴らしいし、出て来ただけで華があるな!と思ったけど、
あの子役の子が吉沢さんの子ども時代を演じた事が
この作品の解像度をスゴくあげてくれたように思いました。
多くの人に觀てほしい映画
手話を勉強しているので、観に行った映画でした。
しかし!
聞こえる人、聞こえない人とか関係なく、
お母さんの深い愛情がすごくよく分かるし、
大ちゃんのうっとうしい気持ちも分かってしまって、涙があふれました。
吉沢亮さんの演技素晴らしかったです。
お父さん、お母さん、おじいちゃんおばあちゃん、本当の家族にみえました。
生活感丸出しって感じがとても好きでした。
帰ってきてからずっと、ろうの方々とコーダについて考えています。
実際のろうの皆さんはエネルギーにあふれていて、陽気な方が多いので
可哀想、ってとらえるのは違うって思いました。
多くの人に觀てもらいたい映画です。
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