「ジャーナリストであり被害者、そしてサバイバー」Black Box Diaries とぽとぽ2(仮)@元アカウント入れるようになるまでさんの映画レビュー(感想・評価)
ジャーナリストであり被害者、そしてサバイバー
日本社会からの大きな反発・吹き荒れる逆風にもめげず、赤裸々に正義を追い求め続ける伊藤詩織さんの勇敢さは本当にすごい。個人の体験から社会全体が見て見ぬふりする「ブラックボックス」へと挑み、またその過程で彼女も自身の体験と向き合う真に勇敢なドキュメンタリー映画であり、まさしく表現の責務と可能性
もしかしたら伊藤詩織さんという海外の目・価値観を持ち合わせた方だからこそ、日本固有の気持ち悪い空気や根強く間違った家父長制・男尊女卑にも口をつぐむことなく、世界目線からおかしいことをおかしいと立ち向かえた部分もあるかもしれない(無論それによって個人にかかる苦しさが何か変わるわけではなく、どれほどの覚悟やエネルギーが必要だったろうか?)。そうやってもたらされた気づき、やっと日の目を見た根深い図式をぼくらはどうすべきだろうか?ただ、伊藤さん本人も言っていたように一つの例というか、日本中、世界中にはそうやって、被害に遭ったのに声を上げられない、どうにか上げられてもかき消される、傷やトラウマと向き合いながら生きている人達がたくさんいるということ。自ら命を絶った人達も…。
被害者は、"被害者"らしく大人しくしていなければいけないのか?シャツのボタンを一番上まで閉めるのでなく、逆に少し開けたような着こなしだったり派手な服装だったら、被害者じゃないのか?「どうせ誘ったんだろ」と性暴力の被害に遭っても当然なのか?声を上げたら目立ちたがり屋とバッシングされていいのか?そんなわけないだろ!!性暴力の96%が起訴にも至らないで被害者が声を上げられない、こんな息苦しく間違い腐った島国でいいのか?そんな負の遺産に満ちた未来を子どもたち、次の世代へと託していくのか?
本と互いに補完し合うような作品のように感じた。つまり、本作だけでは事件の詳細など描かれていない部分、見えない部分もあるのだけど、それでいいと思った。映画・映像作品におけるレイプ・性暴力シーンとは、言葉を選ばずに言えば一種"娯楽"(客寄せパンダ)のようになっている部分もあると感じるから。その点、本作はあくまで事件後の伊藤詩織さん自身(山口氏との関係などではない)にスポットを当てている生々しさがあった。本を読んでいてもエグいなと思った警察などの二次レイプにつながるような言動も、実際の音声で聞くとよりツラかったし憤りを感じた。
捜査官Aも確かに悪い人ではないのだろうけど、日本人のリアルだなと思った。あくまで個人の意見だが、組織に属している以上行動できなくて、また世代のせいもあってかセクハラ発言のように取れる瞬間もあった。それでも、その他大勢のことなかれ主義で官僚主義的な対応から一歩踏み出すようなスタンスは貴重なのかもしれないけど、逆に言えば本心からすると「いや、それくらい全警察官が最低限すべきラインだろ」とも思ってしまった。自分は、(今日同じ上映回を観ていたという)ドアマンのようでありたい。ドアマンのシーンでは、号泣してしまった。実際居合わせたら難しいのかもしれないけど、その場で止めたり、もっと早く名乗り出られたらいいなとも思う。自分と話し(電話し)た後に、当惑や困惑させるのでなく、希望や世の中捨てたものじゃないと思ってもらえる人でありたい。
「ハニートラップ」「アイドル気取り」心無い言葉が飛び交い、風当たり強く批判される中でのこの10年間、どれだけしんどかったろう、大変だったろう。作中の涙にも表れている(奇しくもその多くの場面での雨な天気の多さにも)。男の自分なんかが到底想像できないくらい壮絶な道程だったに違いなのに、あの作品の随所や舞台挨拶などで見せた明るい振る舞いやビッグスマイル!ブランケットをかける代わりに、お疲れ様でした。そして、生きていてくれて、元気な顔を見せてくださって、本当にありがとうと言いたい(←言えるチャンスがあったのになぜ言わなかったのか、自分!バカ)。代わりにと言ったらなんだが、伊藤詩織さん本人に「ブラックボックスを開ける側になる、開けられる人間でありたい」と約束した。
本作が日本公開されない間、ずっと観たいと思っていたのに、いざ公開が近づくと怖かったけど、結果観てよかった。今年ずっと待っていた作品がどうにかやっと日本公開を迎えたけど、大手シネコンなどは買い付けることなく、公開規模の小ささこそ"ブラックボックス"ではないか?
Dedicated to all survivors
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