型破りな教室のレビュー・感想・評価
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知的好奇心こそが、私たちの最も偉大な業績を推進する燃料である。
ニコ!君の選択を私は否定できないよ。
そして君はもう、自由だ!
ほのかな初恋の情を小舟「パロマ号」に乗せて旅立つニコ君。
ああ、いま思い出しても泣けてくる・・・(T_T)
なんだよ~もう~。
いい映画じゃんかよー(ToT)グスッ
オッサンが明るいうちから目を充血させちゃったよ。
個人的に引っかかる上映作がここ1~2ヶ月ほど無く、そして仕事の合間も無く「あぁこのまま今年の映画鑑賞は終わりかな」なんて考えていたところの、本作の鑑賞だった。
ええ、締った締った!これは良作でした。映画COMの評点、RTの評点いずれも高く、事前に抱いた期待感は裏切られなかった!
*****
掲題にリチャード・ブランソンの名言を戴いてみた。
『型破りな教室』は邦題だが、フアレス先生の考える理念や教育の本質からすれば、現代的な教育流れの方が目的ズレの、それこそ型破りだということになるだろう。
その点、原題の"Radical"は、うまい。
気になったので僕の優秀な相方・チャットGPTさんに聞いてみた。
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「radical」には、さまざまな意味がありますが、文脈によって異なります。主な意味は以下の通りです:
1. 基本的な・根本的な
物事の根本や基本に関わるものを指します。
例: "a radical change"(根本的な変化)
2. 急進的な・過激な
社会や政治的な考え方、行動が従来の枠を超えるほど革新的・急進的なことを意味します。
例: "radical politics"(急進的な政治)
3. 素晴らしい・かっこいい(俗語的な意味)
主に英語圏(特にアメリカ)で使われるスラングとして、「とても良い」「すごい」という意味があります。
例: "That skateboarding trick was radical!"(そのスケボーの技、すごい!)
4. (数学・科学)根号・基底
数学では「√」(ルート、根号)や、化学では分子のラジカル(基)を指します。
例: "radical expression"(根号を含む式)
5. 漢字の部首(英語学習時の意味)
日本語の漢字学習では、「部首」を英語で「radical」と表現します。
例: "The radical of this kanji is '木'."(この漢字の部首は「木」です。)
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おお~。まるでこの映画の内容そのもの。
⑤なんてとてもイイ感じではないか。
ジャパニーズ解釈でこじつければ、本作内容を現す部首はニンベンに違いない。
ニッポンの現代教育にもグサグサ刺さるであろう今作。そのメッセージ、その心の一文字はきっと「仁」ではなかろうか。
人口減少に向かい、更に複雑化するイデオロギー社会のなかでの教育。
常日頃より私は「仁力」が鍵になると信じている。
2024みんなに見てもらいたい映画で賞・ベスト1をあげたいのだ。
導くことの素晴らしさ
子供が家で勉強していると親が止めさせようとする世界の話
2011年、当時のメキシコにおける治安の悪さを象徴するかのように、本編のドラマとは関係なくずっと銃声や悲鳴が聞こえている作りで、今年公開の『関心領域』みたいと思ったが、『関心領域』と違うのは、この構造が物語後半の展開に直接関わってくるところ。
先生や生徒の台詞の中に、人生の教訓になりそうな哲学的な内容が多かった印象。
納得できることもあれば、それはどうかなと思うこともあった。
個人的に一番同意した部分は、学校の教師が「生徒に舐められたらダメ」というのに対し、主人公の教師・セルヒアが「僕とは正反対の意見ですね」みたいなことを言う場面。
昔あったCMの台詞で「教師は嫌われるのが仕事」というのがあったが、個人的にこの意見には反対で、まず教師は生徒から好かれて尊敬されることを目指すべきだと思う。
その方が教師の伝えたいメッセージが生徒に浸透しやすいと思うのだが。
やる気のない生徒が、セルヒア先生の型破りなやり方で授業に夢中になっていく場面は、2021年公開のデンマーク映画『アナザーラウンド』の授業シーンと比べると、説得力が弱かったように感じた。
というか、『アナザーラウンド』の授業シーンは、映画史に残る名授業だと個人的には思ってる。
両作共通のメッセージは「教師は生徒が興味を持つような授業をしろ」ということで、そこを否定する教師はいないと思うが、それって実はものすごく難しいことなのでは?
たぶん、そこそこ儲かっているお笑い芸人ぐらいの人を惹きつける能力が必要で、日本全国数万人の教師全員にそれを求めるのは厳しいものがあると思う。
努力すべきだとは思うけど。
本作のような映画でありがちなのは「通常の授業のやり方を全否定して、こっちのやり方が正しい」という見せ方。
子供は多様で、勉強のやり方の合う・合わないは人それぞれだ思う。
「セルヒア先生の型破りな授業」より「定番の授業」の方がやりやすい子供もいると思うので、今までのやり方を全否定するのではなく、こういうやり方もあるよ、ぐらいの描き方の方が良かったように思う。
この映画で不幸だと思ったのは、親が子供の勉強を否定してしまうこと。
子供が家で勉強していたら、日本だったら泣いて喜ぶ親ばかりだと思う。
親が子供を自分の所有物と思っているから、こういうことが起きるのかなと思った。
でも、自分の将来を楽にするために子供を作る親は、日本にも多い印象。
興味ある分野を伸ばすことと、基礎学習を均一化することの境界線はどこにある?
2024.12.24 字幕 アップリンク京都
2023年のメキシコ映画(125分、PG12)
原作はジョシュア・デイヴィスの記事『A Radical Way od Unleashing a Generation of Geniuses(2013年)』
2011年に実際に起こった小学校における革新的な授業を追った社会派ヒューマンドラマ
監督&脚本はクリストファー・ザラ
原題の『Radical』は、「革新的な」「基礎的な」という意味
物語の舞台は、2011年のスペイン北部の国境地帯にあるマタモロス
そこには「罰の学校」と呼ばれるホセ・ウルビナ・ロペス小学校があった
麻薬戦争の紛争地帯で治安は最悪な地域、そこに通う子どもたちは卒業できずに中途退学になるものが多かった
そんな小学校にセルヒオ・フアレス(エウヘニオ・デルベス)が赴任してきた
彼は職員会議をガン無視して授業の準備に取り掛かっていて、それは全ての机椅子を端に寄せて、大きめの机を救命ボートに見立てるというものだった
生徒たちは困惑するものの、セルヒオは構わずに「ボートは6台、君たちは23人だ。どうする?」と問いかけた
そこに校長のチュチョ(ダニエル・ハダット)がやってきて、セルヒオは「彼も助けなければ」という
すると、生徒の一人が「ボートが沈む」と言い出した
そこでセルヒオは、「なぜボートが沈むと思ったのか?」問いかけた
映画は、身近に接しているものや経験則からわかる感覚を学問に落とし込むという方法で、救命ボートの件は「物理学」の範疇になる
ボートがどうやって浮くのかとか、物質の質量や密度の求め方を学んでいく中で、考察から方式を紐解いていく流れになっていた
主要な生徒として、宇宙物理学を習いたいパロマ(ジェニファー・トレホ)、弟妹の世話に明け暮れる哲学好きのルペ(ミア・フェルナンダ・ソリス)、兄チェぺ(Victor Estrada)からアウトローの誘いを受けているニコ(ダニーロ・グアルディオラ)たちが描かれていく
パロマにはモデルの女性がいて、「次世代のスティーブ・ジョブス」と言われるほどの秀才で、そんな彼女も家庭環境から勉学の道を諦めざるを得なかった
映画では、子どもが持つ重要な武器は「可能性」と言い、それを阻むのは「自分自身」だとも言う
家庭に理解を得られない子どもがいて、パロマは父(Gilberto Barraza)が理解を示したが、ルペの方は退学を余儀なくされている
だが、末っ子を背負ってどこかに行こうとする彼女を見ると、そのまま図書館で独学で勉強を始めるのではないかと思わせる
環境が確かに阻害するとは思うものの、その気になればどこでも学べると言う意味を含んでいるのだろう
だが、本作はそれだけでは終わらず、冒頭から登場する「車椅子を押す少年(Kaarlo Isaac)」がクローズアップされている
彼は幾度となく小学校の金網のところで中の様子を伺っているのだが、セルヒオの力が学外には及ばないことを示唆していた
この街には「通いたくても通えない」と言う子どもたちが一定数いて、全ての子どもたちに「機会」を与えられてはいない
小学校が無償なのに通えないのはなぜか
これがマタモロスの隠れた問題になっていて、次の課題になっているのだろうと感じた
いずれにせよ、このような教育法はあることにはあるが実践できる場所は限られていると思う
教育委員長(Enoc Leañno)がいう「基礎的なものが欠けている」と言うことも一理あり、基礎学習の理解度を測る上でのテストには意味があると思う
だが、その教育方法をどの時点まで続けるべきかには諸説あり、大学入試まで行う必要があるのかはわからない
勉強に対して「課せられた労働」と思う子どももいれば、「探究心を満たす知的活動」と捉える子どももいるわけで、そのあたりの線引きは難しいのだと思う
セルヒオの学習方法は「勉強を好きになる」と言うファーストステップだと思うので、彼の言うとおり「パソコンがあれば子どもは勝手に学び出す」と思うので、きっかけを与える授業としては有効なのかな、と感じた
クリスマスには重かったかな
10数年前のメキシコの話ではあるが、100年以上前の日本もこんなもんか?学校行くより勉強より仕事、家事手伝い、親兄弟の面倒。学べる時は学びたくなく、学べない時は学びたい。
型破りというか、詰め込み型ではなく自分で考えて学ぶ指導方。自分で考えるって後になってからも忘れないし、壁にぶつかった時も柔軟な気がします。
しかし、ニコに課した問題は子供には、あの環境下では正しい方を選択するのは難しいだろう。
フラグ立っていたけど、何とかなるかなって思ったけど、現実はこうなるよなぁ。
「誰が最初に間違える?」
事実は強い!感動してしまった
メキシコのリアルと世界共通の子供たちの無限の可能性
そう、子供たちの無限の可能性(ポテンシャル)は世界共通だ
そして、その可能性を大人の都合で型にはめて、数字で評価して
個々の個性や可能性に蓋をしようとすることも世界共通だ
数字で判断するのは社会や先生のエゴであり職務怠慢だが
個人個人と正面から向き合うことは先生にとってはとてつもない
エネルギーであることは間違いない
武田鉄矢さんの金八先生に当時中学生だった私は感動したものだ
それでも、「こんな先生はいない」とも思っていた 現実味は感じなかった
確かに日本では幻だったかもしれないが、映画の中の生徒も先生もひたすら
人間らしいリアルさにあふれている
それが、メキシコという国のリアルさも相まって、静かに闘うメキシコの先生の
子供たちへの愛情と、個々の生徒の抱える「現実」から打ちのめされるリアルに
見ている我々は感情を揺さぶられる
ただ、全員の生徒を救う事は出来ないこともリアルだが映画の中では
救われない生徒にも、「救い」が描かれていて涙が溢れながらも心が救われた
「誰がボスかを判らせてただ従わせればいい」
「あなたにその本はまだ必要ないでしょ」
「テスト対策の勉強だけ効率よくすればいいんだ」
私達の周りにあふれる、子供たちを「殺す」言葉にあふれる中
「君たちには無限のポテンシャルがある」
「宇宙飛行士にだって、哲学者にだって、彼女の夢を支える無二の男にだってなれる」
死んだ目の子供たちの目に光が輝く言葉がそれらをはじき返す力になっていく
彼女の名前が刻まれた小舟を、校長先生と一緒に海原に押し出すシーンが好きだ
生まれたばかりの末っ子の面倒を見るために試験を受けに行けない子供の目には
ちゃんと光が残っていることを描いているシーンが好きだ
ずっと、学校の外から、不思議そうに校庭の生徒の様子を見つめている子供が
最後に門の前に立って中をのぞいているシーンが好きだ
そして私が一番好きなのは、校長先生だったりする
いい映画だった
ゴミ山さえもが美しい。
「教育とは、生徒が自発的に成長することを促す営みである。」という信念で、型破りな授業をして、最低と見放された子供達の潜在力を開花させた実話に基づく物語。結果ではなく、知ることの喜びに目覚めた子供達の人としての素晴らしい成長の過程が何より美しく、そうなると、貧困の象徴であるゴミ山さえもが、空の青さとの対比で白く輝いて見えてしまうところが、なんとも不思議でした。(以下ネタバレありです。)
例えば、ゴミ山での金属収集で生計をたてている病弱な父の身体を労りながら、仕事を手伝うパロマは、授業を受けて、以前は思いもしなかった宇宙工学者への夢をもちはじめます。また、兄の手伝いをしながら、いずれはギャング団の一員になる道を辿っているニコは、自分が神秘的な法則に支配されている宇宙の一部であることを実感し、ギャング団に入ることをためらうようになります。さらに、自分で考えることの楽しさを知った子沢山の母子家庭の長女ルペは、大学の図書館に通って哲学の本を読みあさるようになります。この三人を軸に物語は進むのですが、三人だけでなく、学ぶことの楽しさに目覚めたこどもたちの目は、犯罪や麻薬と隣り合わせとは信じられないくらい、みんな明るく輝いていたのが、とても印象的でした。
メキシコの人質ビジネスや、麻薬犯罪を題材にした映画は数知れず、第1次トランプ政権による「壁建設」に至っては、メキシコ人がアメリカ人に比して劣っているかのような印象操作が行われているような感さえありましたが、本当にそうなのでしょうか?「1から100までの数の和」をわずか数秒で解いたパロマの計算方法は、レンガ職人の子として生まれながら「歴史上最高の数学者」と言われたガウスが小学生時代に発見した方法と全く同じでした。つまり犯罪と麻薬に汚染されているのは確かに事実かもしれませんが、それは長い歴史の違いがあってのことであって、ホモサピエンスとしての潜在的な能力は多分アメリカ人や我々と何ら変わるところはなく、天才の潜在的な発生確率は、同じなのではと思います。
また貧困のためその才能を社会で生かすすべを持たないという状態は、果たして本当に悪なのでしょうか?知る喜びだけではダメなのでしょうか?ルペが授業で「中絶の是非」の論議をするにあたりミルの「最大多数の最大幸福」(ベンサムのそれより倫理的な側面を重視しているそうです。)を引用し、「彼ならこの貧窮をみて中絶賛成と言うと思いますが、世話をしている可愛い弟たちがもし生まれなかったら・・と考えると、私は簡単に賛成とはいえません。」といった考えを述べます。そしてその考えは彼女の最後の選択に繋がっているように思うのです。その選択をしたときの表情が、たまらなく美しく見えました。
学びの力と人の可能性、そして社会の壁
『型破りな教室』は、子どもたちが持つ無限の可能性を描きながらも、社会の壁がもたらす現実の厳しさを強烈に突きつける映画でした。
観終わった後、頭の中で矛盾した感情が渦を巻き、すぐには言葉にできない余韻が残ります。
希望と絶望、喜びと悲しみと怒り、これらが同時に押し寄せ、深い問いを投げかけてくる映画です。
主人公の教師が実践する教育スタイルは「問いを起点に学びを引き出す」というものでした。生徒の知的好奇心や内なる意欲を刺激し、彼ら自身に思考し、学ぶ方法を見つけさせるスタイルです。
ティーチングではなく、コーチング。既存のカリキュラムを無視し、教科書に頼らない型破りな方法による子供たちの劇的変化は、既存の教育システムを明確に否定しています。
そのアプローチによって、子どもたちは学びの喜びを知り、好奇心が目覚め、才能が花開いきます。そして自分の未来に無限の可能性を感じるようになります。
しかし、それを許さない現実が立ちはだかります。貧困や教育の価値を知らない親たち、麻薬取引など治安の悪い地域環境。その中で、学ぶ力や秘めた可能性ではどうにもならない「社会の壁」が、子どもたちの未来を奪おうとします。
映画の最後に引用されるアインシュタインの言葉――「私の学びを妨げる唯一のものは、私が受けた学校教育である」――は、まさにこの映画のテーマを象徴しています。
教育システムが可能性発揮を邪魔せずに、引き出しサポートするものになるにはどうすべきか。この問いは、映画の舞台であるメキシコだけではなく、私たち自身の社会にも当てはまるものです。
『型破りな教室』は、学びの力の無限の可能性を信じる一方で、それを阻む社会の現実を赤裸々に描き出した作品です。その矛盾が、私たちに「では、どうするのか」と問いかけてきます。そして、観終わった後も頭の中で問いが残り続ける。そんな映画でした。
倫理と論理
メキシコ北東部にあるマタモロスの小学校に型破りな教師がやって来て、子供たちの成績を全国最低レベルのからトップレベルに導いた話。
出産の為に辞めた教師に代わり、元中学校教師のフアレスがやって来て、生徒たちに教科書とは関係ない問いかけをして巻き起こっていく。
日本とはお国柄の違いや環境の違いはあるし、そういう国の最底辺だから通じた様なところもあるだろうし、流石にそれだけでいきなりトップレベルまではないだろうにという都合の良さというか極端さを感じるつくり。
パロマの凄さもイマイチ伝わって来ないし…というか現在20代中頃ということですよね。小学生としての天才レベルだったのか、現状どうなんでしょうね…。
かなり面白かったけれどなんだか色々と物足りなさも感じた。
最高の教師は子どもの心に火をつける
予告を目にした時から鑑賞予定リストに入れていた本作。教育現場での感動のドラマを期待して、公開2日目に鑑賞して来ました。
ストーリーは、アメリカとの国境付近にあり、貧困と犯罪に苦しむメキシコのマタモロスで、教育底辺校と言われる小学校に赴任してきた教師・フアレスが、やる気のない同僚と設備の整わない学校という逆境にもめげず、型破りな授業で子どもたちの探究心をかき立て、全国トップクラスの成績に押し上げていくというもの。
貧困家庭、ヤングケアラー、治安の乱れなど、混沌とした社会情勢の中で満足のいく教育どころか、まともな生活さえままならない子どもたち。本来なら、そんな子どもたちを家庭や学校や地域や国が全力で支えるべきなのですが、家庭にそんな力はなく、教師たちも完全に意欲を失い、地方行政にも何ひとつ期待できません。かろうじて国は危機意識をもち、学力検査による競争原理を持ち込み、教師のモチベーションを報酬で上げようとします。しかし、教育を数値化された結果でしか見ようとしないのは、いかにも現場を知らない役人の考えそうな短絡的発想で完全な悪手です。これがかえって現場の教師を腐敗させていきます。
そんな中、担任のフアレスが行う授業が、子どもたちに学ぶ楽しさに気づかせます。つまらない暗記や点数から解放され、知的好奇心を満たそうとする子どもたちのいきいきと輝く目がとても印象的です。一見遠回りのようで、実はここにこそ教育の本質があるように思います。本作は2011年にメキシコであった実話がベースのようですが、それから10年余、彼の教育理念がどこまで広がったのか気になります。
では、日本はどうかと考えると、決して他人事ではないように思います。疲弊して心身の健康を損なう教師、欠員補充がなく担任不在の学級、保護者の訴えに怯える学校、事なかれ主義が蔓延る職員室…こんな沈みかけの泥舟に乗りたい若者がいないのは当然で、日本の教育も今や崖っぷちにあるように思います。しかし、日本にだって、この泥舟の穴を塞ぎながら必死で漕ぎ続けている、フアレスのような教師がいるはずです。ファレスの思いが校長を揺り動かしたように、教師の熱い思いが子どもだけでなく、同僚や保護者にまで広がり、この国の教育が少しでも改善されるといいと思います。
劇中、パロマの父がフアレスに対して、「無責任な夢を見させないでほしい」と口にします。夢を諦めて悲しむ我が子を見たくないのでしょう。その思いも十分に理解します。しかし、夢を与えない教育こそ、よほど無責任ではないでしょうか。教育は、夢の実現を保証するものではなく、夢を与え、それに向かってがんばる子どもたちに寄り添うものだと思います。
教育に関する有名な言葉にこのようなものがあります。
「平凡な教師は言って聞かせる。 よい教師は説明する。優秀な教師はやってみせる。 しかし最高の教師は子どもの心に火をつける。」
フアレスは間違いなく最高の教師です。
キャストは、エウヘニオ・デルベス、ダニエル・ハダッド、ジャニファー・トレホ、ミア・フェルナンダ・ソリス、ダニーロ・グアルディオラら。
子供達から「学ぶ」機会を奪ってはいけない
生きるていくだけでも精一杯な地域での学校教育について
日本の熱血教師が活躍する学校ドラマは数多観てきたつもりだが、国が違うと自分の経験で予測できる展開とはかなり違い、全く先が読めなかったところが面白かった。
まさに「事実は小説より奇なり」。
小学生ですでに人生を諦めている子達にまず興味を持たせ、学ぶことの楽しさを教えることが大切なのは誰でも理解しているとは思うが、実際には本人だけでなく親や家族、学校の協力がないと潰されるだけで、相当強い意志や根回し、周囲の協力がないと難しい。
特に貧困と腐敗が蔓延しているマタモロスのような地域では志を持った教師が孤立することは目に見えており、本作の場合は唯一の救いは校長が味方になったことくらいで(日本のドラマだと反対派に教頭がいて、校長は温かく見守るだけだけど)、物語はどういう結末に向かって行くのかと言うより「こうなってくれ」とか「こうならないでくれ」とか祈りながら観ていた。
生徒にはあきらめないように根気と工夫で指導するが、教師も挫折しながらもう一度奮い立たち上がって行く姿が心を打たれる。
そしてテストの成績が出てると子供達は本当に学びたかったんだという事がわかり、文字情報だけなのに涙を誘う。
「型破りな教室」ってなんか「GTO」や「ドラゴン桜」みたいなのを連想させることが目的のタイトルだとしたら、配給会社はそんな小細工をせず、もっと内容に自信を持ってオリジナルのタイトル「Radical」のままでいいと思った。
いまだにPCが来てないってほんとに国や行政自体が腐ってる。
哲学者になりたかった子はなんとかしてあげたかった。
子供達の演技が本当に上手かった。
ゴミと死体が身近なメキシコ。
スラムのダメ学校に居る天才と、自主性を優先するルール無視の先生がそれを開花させる所が実話らしいです。
メキシコのギャングの話は掘れば思わず目をそむける写真がぽんぽん出てきます。朝起きると街に死体が転がってるのは日常だそうです。そういう状況が日常なら慣れるもんなんでしょうか?
なんか寧ろちゃんと学校行って勉強したいと思うかもしれない。ただ貧しい現実がそれを許さないんだろうなぁ。映画のなかでもそんな現実に引き裂かれる子供達が切ない。
メキシコも日本も、今の教育は基本優秀な兵隊を作るためのプログラムです。指示に従う事、規律、均一化が絶対で個性を伸ばす事は二の次ですわ。しかしあまりに自由にし過ぎても常識平均値は下がりまくるわけでアメリカで日本は芸者富士山、中国の一部とか思ってる人が普通に居るらしい。
まあ、興味無ければしょうがないが常識のレベルをある程度で一定にする事も重要だとも思う。
そうなった時、教師の子供を見極め興味を持たせる手腕目重要になるなぁ。
こんな先生に会いたかった
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