英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン 2023/24 ロイヤル・オペラ「蝶々夫人」のレビュー・感想・評価
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イエローフェイスを克服できない英国の蝶々夫人
映画館で、ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスによる『蝶々夫人』を観た。
『蝶々夫人』は、昨年度も同じプロダクションで、ニコラ・ルイゾッティの指揮、マリア・アグレスタの蝶々さんで観た。
今回は、リトアニア出身のアスミク・グリゴリアンが蝶々さんだが、ピンカートンは昨年と同じジョシュア・ゲレーロだ。
指揮は、1976年ドイツ生まれで、2015年からミュンヘン交響楽団の首席指揮者をつとめているケヴィン・ジョン・エドゥセイ。きびきびと進めるべきところは進め、盛り上げるべきところは盛り上げる、なかなか手だれの演奏だった。
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【以下、一応ネタバレ注意⚠️】
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結果としては、第二幕終盤の蝶々さんの幼い金髪の息子が登場したあたりから終幕まで落涙滂沱。久々に本作で、大いに感動したので、スコアは高い。
これは、ひとえにタイトルロールのグリゴリアンと指揮のエドゥセイのエモーショナルなドラマ作りによるところが大きいと言えよう。
また、演出面では、昨年は、NBSのサイトの写真にあるように、蝶々さんの息子は人形で表現されていたような記憶もあるが、やはりここは実際の子どもが登場した方が衝撃も、悲しみも大きくなる。
‥‥ということで、演奏自体は極めて優れていたが、昨年も感じた本プロダクションの演出に対する違和感は、やはり拭えなかった。
昨年も言及されていたが、2003年に初演された本プロダクションの演出はモッシュ・ライザーとパトリス・コーリエ。その後、さらに日本人スタッフのアドバイスを受けて、衣装や所作などをより日本人風に手直ししたという。どうやら、その改訂作業が開始され、日本人関係者に声がかかったのは、2022/23シーズンに向けての2021年秋のことだったと、演出家・翻訳家の家田淳氏が内幕を明かしてくれている(*1 )。
*1 公式サイト 2022/12/06 の記事
家田氏によれば、ロイヤル・オペラ・ハウスが打ち出した「演目から人種差別的な要素を撤廃する方針」に沿って、「蝶々夫人」の既存演出をアップデートするプロジェクトを立ち上げるために日本側代表の一人として参加を要請されたという。
確かに、この改訂作業によって、不必要な歌舞伎風の白塗りや差別的な吊り目などについては、修正されたのだろう。
ならば、本プロダクションは、無事「日本人が観ても不快にならない」程度に改善されたと果たして言えるのだろうか。
はっきり否、と言いたい。
確かに、日本人役の蝶々さん、スズキ、それに婚礼の場に押し寄せる大勢のモブについては、衣装面での違和感はほとんどなかった。
(ただし、正直、蝶々さんの衣装は着物そのものではないと断られているものの、時折り襟元が乱れたままでいるのは武家出身の娘なのだから、あり得ないと感じた。本人が気付かなければスズキが直すべきところだ。また、スズキを演じたホンニ・ウーは中国系の歌手かと思われるが、細かい所作などが日本人的ではないところが目立ち気になった。煎茶を淹れる急須を銘々膳に載せて運ぶという可笑しな所作については演出家の指示なのだろうが。)
なかでも、ボンゾ役の頭を剃った僧侶のいでたちは見事で、果たして白一色の僧衣があるかどうかという問題をさておけば、演じたジェレミー・ホワイトその人も本当に日本人の坊さんかと錯覚したほどだ。
戸籍係(書記官)のリー・ヒッケンボトムも大変長身だったが、着物の着こなし含めて見事。明治時代の日本には、小泉八雲のように、着物を愛用していた外国人も実際いたので違和感もない。
だが、冒頭近くで登場する3人の使用人たちの服装がどう見ても可笑しい。3人のうち2人はアジア系で、1人は黒人。欧米の舞台芸術においては、キャスティングにおける人種差別は最もしてはならないこととなっている。だから、長崎のアメリカ人海軍士官の日本人妻の家に黒人がいても当然認めなければならないが、だとしたら無理に着物姿にせずに洋服のままの方が自然なはずだ。今回の寝巻きか何かにしか見えない使用人たちの衣装は、あまりにも変だ。彼らが行列のように体を固くして一列で部屋を出入りするのだから違和感は拭えない。
それと、結婚仲介人(あり体に言って女衒だ)のゴローの衣装、下半身が袴で上半身が和装というのは、やはりあり得ない。
逆なら日本人でもしないことはない。ピンカートンを演じたジョシュア・ゲレーロは、日本びいきなのか、幕間のインタビュー映像で、ズボン姿でシャツの上に日本風の薄い羽織を着て、カンカン帽をかぶるという、ちょっと月亭可朝みたいなラフな服装だった。
それと、明治時代なのに、裃袴姿で登場した資産家ヤマドリ。それこそ、歌舞伎や文楽の襲名披露とか、神社の神事などでは今でも裃袴姿で正装する場合がゼロとは言わないが、お目当ての女性に会いに行く色男が裃を身につけて行くというのは江戸時代でもあり得ないのではないか。
ゴローとヤマドリ、この二役の衣装は明らかに時代考証的にも、その場に相応しいかという観点からも可笑しい。
ここからは憶測になるが、おそらくこのゴローとヤマドリは、演出意図として、あえて確信犯的に可笑しな衣装を着せたのだと思う。
実は、少なくともプッチーニの意図としては、本作において、日本人をあざけるつもりはさらさらなかった。むしろ植民地主義的で女性の意志を尊重しない軽薄なピンカートンを指弾の対象として描いていることは明らかだ。
彼が歌うアメリカ国歌「星条旗よ永遠なれ」の音楽的な空虚さを見よ。
また、一見、思慮深く蝶々さんの身を案じているかに見えるシャープレス領事でさえ、彼女の最愛の子を奪おうとするのだから、結局、日本を蹂躙するアメリカ植民地主義そのものを指弾した作品だとも言い得ると思う。
だから、本作における最大の悪人はピンカートンであり、次いで、シャープレス、ピンカートンの妻ケートということになる(プッチーニは後二者はあくまで善人として描こうとしているが)。
(ちなみに、今回のケートは、黒人歌手のヴェーナ・アカマ=マキア。この配役も、キャスティングに人種差別を持ち込まない原則に沿ったものだが、結構インパクトがあり、ピンカートンは当時としては人種差別の意識が極めて少ない人物だったのか、逆に、異人種好きな性癖の持ち主なのかと想像が膨らむことになった。)
それに対して、蹂躙される側の日本人は、基本的に「悪人」ではないことになるが、その例外が2人いる。
それが女衒のゴローと、金で妾を買おうとするヤマドリだ。
だから、この「悪人」である2人の日本人については、悪意をもって描こうと演出家は考えた。
その「悪意」の表現こそが、ウィリアム・S・ギルバートが台本を書き、アーサー・サリヴァンが作曲して、1885年(明治18年)、空前の大ヒットとなったコミック・オペラ『ザ・ミカド』の伝統的な演出における登場人物の扮装からの引用だった。
ゴローの衣装は、『ミカド』の主人公、ティティプ(秩父説あり)の仕立て屋ココのそれに、ヤマドリの衣装は、ティティプ市の高官プーバーのそれに、そっくりだ。
実は、ギルバート&サリヴァンの『ミカド』とプッチーニの『蝶々夫人』は、喜劇と悲劇のちがいこそあれ、双生児と言っても良いほど共通点が多い。
特に第一幕でピンカートンが障子や襖の開け閉めで自由自在に広さを変えられる部屋に驚く一連のシークエンスあたり、『ミカド』冒頭のティティプの役人たちのコーラスで歌われていることと瓜二つと言って良い。
また、この『ミカド』からの引用と考えた根拠のもう一つとして、プッチーニがヤマドリに付けたライトモティーフがある。イタリアオペラの代表選手のようなプッチーニとドイツ音楽の権化のようなワーグナーとでは水と油のように思えるが、プッチーニのオペラには、ワーグナーが本格的に開発した登場人物や特定の出来事や概念に対して決まったフレーズを伴奏するライトモティーフがかなり多用されている。『蝶々夫人』でも同様なのだが、今回鑑賞して、ヤマドリが登場する際とヤマドリの話題が出るときには、「宮さん宮さん」のメロディがライトモティーフとして使用されていることに気が付いた。一方、「宮さん宮さん」は、『ミカド』を象徴する楽曲としても知られている。タイトルロールのミカドの登場楽として、かなり変形された形の「宮さん宮さん」が行進曲風に合奏され合唱がそれに伴う。あるいは、プッチーニ自身、先行曲である『ミカド』を意識して、このライトモティーフをヤマドリに当てた可能性すら想定できるかも知れない。
つまり、ヤマドリに『ミカド』風の装束を着せることは、理にかなっていることになる。少なくとも、『蝶々夫人』と『ミカド』の両方の音楽に精通したイギリスの聴衆なら、すぐにこの共通点に気が付くはずだ。
日本では、戦後になって上演の機会もあったとは言え、天皇を嘲笑う内容だとのことで事実上上演禁止だった戦前はもとより、現在も舞台に載せられることは極めて少ない。
*2 詳しくは猪瀬直樹氏の名著『ミカドの肖像』を参照されたい。
近年では、欧米においても、『ミカド』の上演自体、イエローフェイスによる日本人差別だとして、問題視されることも多くなってきた。
*3 参考サイト:大炎上した日本風オペラ「ザ・ミカド」はなぜ怒りを買ったのか 本田真穂(俳優、プロデューサー)2015年09月30日 0時39分
以上のように、せっかく日本人スタッフの助言による改訂を施しながら、あえて可笑しなゴローとヤマドリの扮装について、演出家が確信犯的に『ミカド』から引用したものと推測した。
しかし、そう考えたとき、いま一度、「蝶々さんは、やはり日本人によって演じられるべきではないか」という問題が浮上するはずである。
欧米人、なかんずくジョーク好きなイギリス人が愛好してきた『ミカド』の従来の演出(欧米人が白塗りでミカドをはじめ日本人役を演ずる)がイエローフェイスとして批判される。
ならば、『蝶々夫人』も同じではないか、という論理的帰結になるはずである。
確かに、過去には、古く明治期から昭和初期にかけて三浦環が欧米各地で、20世紀後半では、東敦子がウィーン国立歌劇場や米メトロポリタン歌劇場で、林康子がイタリア・スカラ座で蝶々さんを演唱してきた。
ところが、本上演では、スズキ(ホンニ・ウー)、ゴロー(ヤーチュン・ファン)、ヤマドリ(ヨーゼフ・ジョンミン・アン)と脇役ではいずれも東アジア系(おそらく中華系、呉、黄、安姓であろう)の歌手がつとめているが日本人歌手は一人も見当たらない。
これは、欧米におけるクラシック音楽の分野でも、中国勢の台頭が著しく、かつてのような日本人の活躍は少なくなっている、ということを物語っているのかも知れない。(逆に、日本では、曲がりなりにも新国立劇場という常打ちのオペラハウスが出来たので邦人歌手は日本で活躍できている、ということが影響している可能性もある。)
ただ、本作がはらむ、アジア人蔑視という問題の深刻性を鑑みると、やはりここは、日本人として、「蝶々さん役は日本人歌手に」という主張をもっと強く訴えても良いように思う。
また、そのためには、従来の日本における音楽アカデミズムの世界でほとんど無視、黙殺されてきたギルバート&サリヴァンによる一連のサヴォイオペラ、特に『ミカド』について、音楽ファンともども理解を深めていくことが同時に求められるはずだ。カーテンコールでは、ピンカートンを好演したジョシュア・ゲレーロに対して、盛大なブーイングが起こった。もちろん、彼の演唱が悪かったのではなく、蝶々さんに対するピンカートンの酷過ぎる仕打ちに一斉にブーを飛ばしたのである。このユーモアあふれるロンドンの聴衆の正直なリアクションに、ゲレーロも、「オーマイゴッ!」のジェスチャーをして苦笑しながら嬉しそうだった。
(以上、Filmarks 及び note 投稿した映画レビューを一部変更して再投稿した。)
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