あんのことのレビュー・感想・評価
全463件中、81~100件目を表示
虐待サバイバー当事者として
私は虐待サバイバーです。
この作品を見て感じたのは希望です。
あんは凄い。
心が最後まで死ななかった。
希望を持っては無惨に踏みつけられて
それでも母親を払いのけてもがき続けた。
その気力がその強さが眩しかったです。
幼い頃から支配されてでもあんはおばあちゃん、私の場合は妹が人質として捕らえられているから逃げることもできない。
私は犯罪行為を強要されず、直接お金をむしり取られはしなかったけど、それでも殴られるたびに心は何度も死にかけていった。大人になった現在でも生き残ったことを喜べず生き残ってしまったと絶望にしている。
一度だって誰かに手を差し伸べてもらっていたのならその幸せな記憶ができるだけ温かいうちに私は空を飛んだだろう。
あんが羨ましい。
人には勧められないけど…
映画からサブスク配信早すぎません!?
映画館で見ようと思ってたけど遠すぎて諦めてたらアマプラで配信始まった…
でも、映画館でみなくてよかった!
これを大画面で観てしまったら3日は引きずりそう。
杏ちゃんがいい子すぎるが故に余計辛い。そしてラストは…
自分は新型ウイルスの影響で生活が一変することはなかったので、ニュースなどでウイルスによって生活に影響が出た方の話を聞いてもピンとこなかったのですが、この映画をみてこういうことか…と何となくですが理解が深まりました。
大人も子供も孤独には耐えられないと思いますが、やっぱ大人がちゃんとしなきゃですよね。
この映画を観て、内容を誰と語り合っても結局は他人事なのかなとちょっと寂しくなりました。
運良く虐待もされてないし危ないお薬とも縁のない人生でしたので…
まわりでヘルプを上げてる人や困った人がいたら、正しい方法で助けてあげたいと強く思います。
運命論と言われようが…
この映画は良い環境に生まれ自分の力で自立したと勘違いしている自分含めお花畑の人達に現実を思いっきり叩きつけてくれます…人生は決定論だと思っていたい自分に恵まれていたことをまざまざとこの映画は教えてくれます。様々な感情の交錯でぐちゃぐちゃになります、凄い映画に出会えて良かったです。最期までどうしようもない運命の中で必死で行動し運命を乗り越えようとする1人の健気な女の子に甘ったれた自分に喝を入れて貰えました。キャストの皆さんの熱演、スタッフの皆さんの凄まじい情熱を感じた映画でした。
人生で一番観るべき映画が更新されました、これは孫の代まで見て欲しいリアルが詰まっています、絶対皆さんに見て欲しいです。
観た後放心状態になる映画でした
Amazonプライムで観ました。
この映画は実際の事件で
2020年6月に朝日新聞で報じられた1人の女性の新聞記事を元に作られた映画らしいです。
記事によれば、幼い頃から母親に暴力を振るわれた。小学3年生で不登校になり、11、12歳の頃には売春を強いられた。
14歳のとき、ホテルで暴力団関係者から勧められて覚醒剤を使い、抜け出せなくなった。そして逮捕。
夢であった介護福祉士になることができ、
夜間中学で学ぶはずだったが、コロナ禍で前途を阻まれ、母親に飼い猫を殺され2020年春に自死してしまったそうです。
監督は、コロナ渦の中、二人の友人を亡くした現実に、親しい人が精神的にも肉体的にも追い込まれるような状態に気づくことができなかったことにショックを受け、モデルになった25歳の女性が感じたことを知ることによって少しでも友人二人の気持ちに近づけるかもしれないと思ったそうです。
監督と脚本は、映画『SR サイタマノラッパー』や『ビジランテ』など、現代社会に蔓延る問題にスポットライトを当ててきた入江悠が担当
杏を救済しようとする刑事は、
『はるヲうるひと』や『さがす』に出演する佐藤二朗
ジャーナリストは、『窓辺にて』や『正欲』などで主演を務めた稲垣吾郎が演じる。
主演を務めるのは、『PLAN75』
2024年のTBSドラマ「不適切にもほどがある!」の出演の河合優実
感想↓
とても苦しい。心が痛い。
でも、見て欲しい。・・ひとりでも多くの人に知って欲しい。
旦那は途中でしんどくなって観るのを辞めてしまいました。
重苦しく気分が沈むので、
落ち込める時間のある時にじっくり観るのがおすすめです。
見ず知らずの子どもを愛情深く育てる杏の姿に心打たれました。
一時的ながらも「誰かのために生きる」ことができました。
杏にとって逃れられない現実から
少しでも目を逸らせることが出来た瞬間だったのかもしれません。
子どもを育てることで芽生えた責任感や愛情は、杏に自分の存在意義を再確認させました。
それは今まで、杏が母に認められず、否定され続けてきた杏自身の価値を少しでも感じ取る機会になったと思います。
杏はもともと責任感の強い努力家だった。産まれた環境が違えば生きていてくれたのに辛いです。
この世はクソでした
海外映画やドラマで若者を引き合いに出すと定型文のように酒、セックス、ドラッグが既定路線のていで脳ミソを変換しないとついていけないのに対し、日本映画でやるなら絶対にこうでなくてはと思う。
まあ映画というか実話なのだからしょうがない。
フィクションでここまで描かないとわからない隣の世界が日本にはある、日本人にはあると言うべきか。
邦画に求めてる空気はこういう空気なので個人的には満足。
持論ですが邦画はこうなり洋画はああいうものばかりになるのは現実世界と逆のものを求めやすいからかなと思う。スーパーヒーローが必要な地獄じゃないんですよ、日本て。
それぞれに地獄はあるんですが、遠ざけられるんですよね、知りたくない事実を無意識に避けてる。関わりたくない、誰もが。私もそう。
主演はあの年代でもはや彼女以外誰にできただろうか、河合優実と同じ世代の人達は大変だろうなと思う。
佐藤二朗演じる多々羅とあんの距離感は見る人には異常に見えるかもしれない。演技と空気で映画にパッケージしたから映えて見えるが…そこがどう見えたかで評価はわかれるかもしれない。
彼女1人がこの世の歪の被害者ではないし、
誰か一人がこの歪の加害者でもない。
自分はどう生きてきたのか、どう生きたらいいのか、見て見ぬふりだけ上手くなって、なにも感じなくなってしまったら…そういう人に確かめてもらいたい、この映画がどうだったか。
たられば、しかし結果は、、、
運命って変えれることもあるが、どんなに避けて来ても、結局同じことになることが多いように思う。
例えば厄年に、どんなに厄を避けようと確率論を考えて色々な対策を練っても、何故かピンポイントで厄が降り注いでくる。
杏についても、なぜか勤め先が間違えて手紙を実家に送ったり、シェルターに隠れたりしても母に見つかってしまう。協力者からも引き離されてしまう。色々なことが重なり逃れることができない設定になってしまう。
逆にどんなにピンチになっても紙一重で助かる人もいる。
この映画を観て、作者が無理矢理そうなるように設定していると思うという意見もあるが、杏はどんなにもがいても結局、同じ結果になったんだろうな。
ある映画で出てきた「人生で起きるイベントの全てを楽しまないと勿体ない」という言葉を大切にして行きたい。
苦しい。心が痛い・・それでも、「あんのこと」を知って欲しい
まず、ベースが実話であることを踏まえれば、エンディングの展開に非難は出来ません。
救いがない?いえ、この作品の中では沢山ありました。
あの毒親ですら、彼女は憎むことも排除することも出来ませんでした。押し付けられた幼子も、放っておけず母親のように面倒を見ます。彼女のひととしての(ある意味当然であるべきの)やさしさが、この作品での最大の救いの要素が、結果として彼女を追いつめてしまったのだと思います。
ただ、鑑賞後思うのは
物語の中で、彼女一人を救っても、世の中で実際に苦しみ、救いを求める声には何ひとつ役に立たないということです。
観客に出来ることは知ることと考えることだけです。
河合優実さんの渾身の演技には物語のほころびさえツッコム隙を与えてくれません。
とても苦しい。心が痛い。
でも、見て欲しい。・・ひとりでも多くの人に知って欲しい。
この日本のどこかで必死に生きていた「あんのこと」を。
逃げ場のない絶望
現代の社会の闇を描いた物語
実話だけに胸が痛い。生きていて欲しかったし、あんはこんなに傷つくまでどうして社会は助けられなかったのか?
様々な問題点がそこにある。彼女が警察に連絡すればよいと思うシーンはいっぱいあったし、相談する先もあったはず。でも出来なかった。
虐待の問題だけでなく、社会にはあんと同じく幼くして行き場所を失い、悩み社会から無視されてしまう子達がいる。
今でも苦しみ、社会からは甘いと言われ、結果あんと同じ結末を迎える人たちがいる。
あんもあの刑事との最初に出会った時のシーンでは反抗的だったし、自ら立ち直ろうとするまでにはもっと時間がかかったはずである。
だから、それまで助けを求めていなかったし、それしかないと思っていた。
結末は、それしかないんだなって思ったのかもしれない。
でも、過去を清算したかった。そんな子が歌舞伎町をはじめとする全国の場所にはいっぱいいる。ニュースを検索すれば悲しい物語がいっぱいある。
あんのことは今も起きてる事実であり、この映画が社会の関心を社会の闇に向けるきっかけになってくれたらと思う。
演技は素晴らしい
ダンサーインザダーク以来の最悪な結末の映画でした。
稲垣吾郎と佐藤二郎のカラオケくらいまでが良い映画でした。
(稲垣吾郎さんは本気で歌ってないでしょうけども。)
実話を元にということですが、周りの人に恵まれない、人に頼るやり事を知らない
悲しい物語です。(子供押し付けられたら、すぐ誰かに相談すればよかったのに。)
主演の河合優実さんが実にいい演技をしていました。
今後の活躍に期待です。
人が生きる力でありたい
今年一の胸糞作品
あんが自殺する前にノートを破り捨てた行動について、彼女が「自分の生き様を誰かに伝えたかった」という視点で考えたいと思います。
あんは幼い頃から、親に体を売ることを強制され、家にはおばあちゃんがいるため、彼女が家計を支える責任を一身に背負っていました。どんなに辛くても、家族のためにお金を稼がなければならなかったのです。母親の暴言や暴力に耐えながらも、あんは逃げることができませんでした。おばあちゃんを見捨てることができなかったからです。このような状況に押しつぶされるようにして、彼女は自分の未来や夢を犠牲にしながら生き続けなければならなかったのです。
時が経ち、彼女にとって頼りにしていた大人、つまり多々良が逮捕され、その原因となった記事を書いた桐野も頼ることができなくなりました。あんにとって、彼らは自分の苦しみや孤独に共感してくれる数少ない存在であり、彼らがいなくなったことで、あんの精神的な支えは完全に崩れてしまいました。さらに、コロナ禍という厳しい現実が彼女を追い詰め、仕事も勉学にも集中できなくなり、あんは全てを失ったように感じていたのでしょう。
そんな中、あんはサラから隼人を預かることになります。私はサラが同じ自立支援のためのマンションの住人だったと考えます。サラが持っていた荷物が少なかったことから、一時的な預け先としてあんを選んだ可能性が高いですが、私はサラがあんの自殺の一因であったと感じています。サラがどれだけ厳しい状況に置かれていたとしても、彼女にはその行動があんに与える影響をもっと考慮すべきだったのではないでしょうか。自覚の欠如があんをさらに追い詰めたように思います。
しかし、隼人を預かることであんは、一時的ながらも「誰かのために生きる」ことができました。隼人との時間は、彼女にとって逃れられない現実から少しでも解放される瞬間だったのかもしれません。彼と過ごすことで芽生えた責任感や愛情は、彼女に自分の存在意義を再確認させました。それは今まで、彼女が誰にも認められず、否定され続けてきた彼女自身の価値を少しでも感じ取る機会になったのかもしれません。
そして、あんがノートを破り捨てた行動。この行動は彼女の絶望の中にある強烈な願望を象徴しています。あんは自分の苦しみや葛藤、そして誰かに理解してほしいという強い思いを、最後に誰かに伝えたかったのでしょう。ノートを破るという行動は、単に記録を残すこと以上の意味を持っていたのだと思います。彼女は自分が育てた隼人に対しての愛情とともに、自分自身が生きてきた証、つまり「ここにいた」という存在の証を残そうとしたのです。
ノートには、ハヤトの苦手なことやアレルギーのことが書かれていたかもしれませんが、それ以上に、それは彼女の心の叫びだったのです。あんは「私は誰かのために、何かのために生きてきた」ということを証明したかった。そして、その証を誰かに伝えたいという切実な願いがあったのでしょう。ノートを破る行動は、あんが自らの内面と向き合い、誰にも見えない孤独や絶望の中で自分の存在価値を認めてもらいたいという最後の叫びだったのではないかと思います。
彼女の破られたノートは、ただの紙ではなく、彼女の人生そのものを表していたのかもしれません。これまで誰にも理解されなかった彼女の存在や、愛情、苦しみ、そして葛藤を、どうにかして誰かに伝えたいという深い思いがそこに込められていたのだと感じます。
けなげな杏
質問なのでレビューではありません※ネタバレ含むため未視聴の方はブラウザバック推奨※
一つ疑問が残ってしまったので、皆様のご意見を伺わせていただきたく投稿しました。
紗良(ハヤトのママ)は、偶然的に あん へ子供を押し付けたのでしょうか?
それとも、あん へ目星をつけていたのでしょうか?
狭量な私の想像力と推察、知識から思考着地した事は、
・紗良は、あんが住む訳アリ駆け込み寺的マンションと同じ住人
→何故か:あんに預ける際に、紗良が持っている荷物の量などから、遠方ではないと考えられる。
・訳アリマンションを説明する女性が「個人情報絶対守って。親、友達にも住所教えるの禁止」というハードルの高い注意を促している時点で、セキュリティもそれに伴っていると常識的に考える。
→マンションと関係のない人間であれば、まず管理人ないし警備員が声掛けするはず。
⇛幼子を抱えて切迫している様子の女性に声掛けしないほうが不自然
・紗良がパートナーから以前より喧嘩やDV等で苛まれていて、いざというとき子供だけはなんとか助けたい。
→何かの機会であんを見かける→しばらく観察して生活リズムや動線を掴む→紗良にとってのXデーが来たため、あんの部屋に行き、ハヤトを押し付ける。
と結論付けたいのですが、パートナーとのトラブル?ってなりませんか。
このマンションはそれこそ、そういった類のトラブルから危機回避してきた女性たちのためにある依代といって過言ではないはずです。
また、同じ部屋に複数人住んでしまうと、身バレする可能性が何倍も膨れ上がります。
・別視点で考えてみる。
→紗良のパートナーは、紗良の保護役で元旦那から隠匿の手助けをした存在。
→その縁や信頼があって交際に発展。一緒に住むないし たまに宿泊などをする。
⇛実際、あんも多々羅と桐野立会いで訳アリマンションに入居していることを考えると、居住する本人以外(本人に無害前提)が住所を知り得ていておかしくない。
私的結論:紗良は同マンションの住人。
だとすると、紗良は思慮のない身勝手の極意免許皆伝という人間性になってしまいます...
何故ならば、このマンションが”どういう意味を含んでいるか”知らないはずがないからです。
様々な苦難から逃れるためにやってきた人たち。事情は違えど、このマンションに住んでいるということは”壮絶”であろうことが想像に難くないはずです。
その人に自分の困難を託すなんて、人の迷惑を顧みないどころの話ではありません。
物語のラストは沈痛の余韻を少しでも晴れやかにするため(かどうかは不明ですが)、自死を決意した あん が、最後に絶対これだけは。と残したハヤトとの記憶(記録)が空から舞います。
それは、あん がハヤトの苦手なものやアレルギーなどを書いた一枚のノートです。
あん は恐らく「少しでも私が育てた」という顕示と「このノートが役に立てば」という献身的な感情から、焼きかけたノートの火を消して、破り、残したと思います。
紗良の「これ、ハヤトのアレルギーがある食べ物です」と呟き、ハヤトをあやすその姿は、あんがハヤトと一緒に過ごした時間を彷彿とさせる名シーンです。そしてラストに廊下を二人で歩いていきます。後ろ姿のみを映していて、ここも あん とハヤトが並んで歩いている光景にクロスオーバーさせる妙技です。
だからこそ、紗良を身勝手な人だと位置づけさせたくない思いがあります。
自分の考えてる説の線でいけばエゴなのは承知ですが。
「映画なんだしメタくらい分かれよ」「みんな必死だという説得力を持たせる為」と言ってしまえば終わりなのですが、是非皆様がどう感じ取って考えてらっしゃるのか知りたいと思う次第にございます。想像でも考察でもご意見いただければ幸いです。
長文・駄文失礼しました。長々とお付き合いくださりありがとうございました。
もしも杏が、“いい子”じゃなかったら、同情できた?
心の深くに響く映画を観ると、ついSNSやらレビューサイトで他人の感想を読み耽ってしまう。ふた昔前だったら映画ファンや、それこそ入江悠ファンの集まりに参加して熱く感想を語り合っていただろうけど、コロナを境にそういう集まりからも離れてしまった。だからSNSやらレビューサイトで感想を読み耽った。
河合優実や佐藤二朗の演技に対する評価やファン票を別にして大雑把に分類すると、
①主人公の杏が可哀想でしんどい
②毒親がクソ
③こういう人たちの存在に対する社会の無関心を反省する
みたいな感想が多かったような印象だった。
それらに対し自分はどうか、それ以前に自分がこの作品に対してどう感じたか。
この映画の感想を考えることは、実在した誰かの死をエンタメとして消費していることになるのかどうか?みたいな野暮な自問はまず除外。だから安直に杏の境遇に同情し政治や社会に義憤を募らせているような感想にいちいち偽善だ善人アピールだとイライラしたりもしない。
僕は主人公の杏を通してこの映画を思い出すと、実はけっこう幸せな話として楽しめたような気がする。不本意な生き方に決別する機会があり、自分を縛る家族から脱出し、自分がやりたい仕事に就いて、自分の住む場所を持ち、支えてくれたり理解してくれたり褒めてくれる人もいる。疑似ではあるけど自分の家族を持ち、愛というものも感じることができた。なによりこの杏という主人公は、最後まで“真人間”でいられた。
ただ、その最後だけが、確かに悲しい。『ミスト』という映画のラストのように、せめてもう少し、霧が晴れるまで思いとどまってくれていたならと切ない。でもその最後をもって、彼女の人生は悲惨で不幸だったか?というと、僕にはそう思えない。元ネタになった実在の人物がどんな人だったのかは知らないけれど、少なくともこの映画の主人公である杏は、“いい子”だった。だから刑事も記者も介護施設経営者もその入居老人も、たぶんあの子供も、そしてこの映画の観客も、杏の味方だった。だから霧が晴れるまで待つことができていたら、杏はどちらかといえば本当は“大丈夫な方の人”だったよなと、僕は思った。
じゃあこの映画の中、悲惨で不幸で、大丈夫じゃなかった方の人は誰だったかと考えると、その中心は、杏の母親の人だったんじゃないかなと思う。あの母親の“クズさ”も、作劇用にデフォルメされたものなのかもしれないけど、杏の“いい子さ”と比べてどちらがリアルかと聞かれれば、僕は“クズさ”の方にリアリティを感じる。じゃあ、もし、主人公の杏がこういうクズさを持った人物像だったら?もしこの映画の主人公が、このクズな母親だったら?僕は格差社会や貧困やコロナ禍を描いた作品として、痛みや悼みを感じることはできただろうか?
ただ杏が“いい子”だったから、可哀想だと感情が動いただけではないか?
意地悪く根性曲がっていた母親が、何らかの報いを受けることを望んでいなかったか?
僕らは近年の度重なる災禍の中、善き人であろうと気を遣い続けてきた。
自分が善き人であることを、悪しき人を憎むことで確認しようとしてきた。
この映画の中で、たぶん杏は善き人で、たぶん毒母は悪しき人である。
この映画を見て、杏に救済あれと、毒母に制裁あれと感じたのだとしたら、
結局は善き人という同胞を守り、悪しき人という異端者を排斥しているっていうだけの「人柄差別主義者」が格差社会や分断社会を憂えてるっていうことにならないか?
あの毒母をどうにか救いたいと思えるかどうか。
あの毒母を救えることができたなら、そもそも杏はあんなことにならなかったのではないか。
弱者救済に思いを馳せる時、その弱者が「善き人か悪しき人か」で選別することってアリなのかナシなのか。
そういう想像力が試された作品だったなと思う。
この作品の語り口に、入江悠の主張はあまり感じなかった。
「こういう話があるんだけど、あんたどう思う?」
そういう静かな問いかけが、問われた人の率直な思いを顕にさせる。
全463件中、81~100件目を表示