「シャブ漬けのマリア」あんのこと かなり悪いオヤジさんの映画レビュー(感想・評価)
シャブ漬けのマリア
毒親にタカられ12歳でウリをやらされたあげく、ヤクザの客にシャブヅケにさせられた“杏”には、実在のモデルがちゃーんといるらしい。入江監督曰く、既に亡くなっているため反論すらできない故人を弔うためにも、丹念なリサーチを行い、ウソがないよう事実に則したリアルな演出を心掛けたという。
ゴミ屋敷のようなアパートで「杏ちゃんお帰り」としか言わないばあちゃん、そして自らもウリをしていて杏のことをなぜか「ママ」と呼ぶ毒親(河井青葉)と暮らしている主人公の杏(河合優実)。ラブホテルでプレーの直前、シャブの過剰摂取で客が意識不明になったことから警察の取り調べを受けるはめになった杏は、そこで一風変わった刑事多々羅(佐藤二朗)と知り合う。
この多々羅、杏がしゃぶ抜きのために必要なプロセスを、ドが過ぎるほど熱心に教え込もうとするのである。ヨガ教室、カウンセリング・ミーティング、特例アパート、夜間学校から仕事のお世話まで、一刑事の範疇をゆうに越えた援助によって杏を更正の道へひたすら導こうとするのである。それを傍らから見守っていた雑誌記者桐野竜樹(稲垣吾郎)は、そんな多々羅の行動を時折醒めた眼で見つめるだった.......
最低最悪の生活から逃げ出すことに成功し、杏の生活が順回転しだした途端、神はまたしてもコロナ禍という試練をこの杏にあたえたもうのである。同じアパートに住むシングルマザーから突如として押し付けられた幼児の面倒を慣れない手つきで見る杏の姿が“聖母”に見えた、と誰かが書いていらっしゃったが、ウリをしていた元娼婦、そして毒親から呼ばれていた“ママ”という称号からして、入江監督はこの“杏”を“マグダラのマリア”として演出しようとしたのではあるまいか。
そのマリアならぬ杏を救った多々羅はおそらくキリストで、そのキリストを裏切った竜樹はユダをモチーフにしていたのではないだろうか。多々羅が警察に逮捕されるまでは、一応聖書の記述にそった展開になっていたのだが、オープニングとリンクしたラストはあまりにも救いが無さすぎる。おそらく事実はそうだったのかもしれないが、マグダラのマリアこと杏に(ウソでもいいから)もちっと救いを与えてもよかったのではないか。あのブニュエルだったらどんな終わり方にしただろう、見終わった瞬間そんな考えがふと浮かんだ作品だった。