めくらやなぎと眠る女のレビュー・感想・評価
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いくつか感じた違和感
村上春樹はかなり好きな作家で、原作の短編も読んだことがあります。そのため、映画そのものを見てというより、自分の原作の感触と比べるようにして見た感想になってしまったので、かなり個人的な偏りが出てしまいました。以下、内容にも簡単に触れてレビューします。
この原作の一つ、「かえるくん、東京を救う」は村上春樹の中でもかなり気に入っている作品なので、期待半分、不安半分で見始めました。しかし、様々なところに自分の抱いていた原作の感触との違和感を感じることになって、結局最後まであまり楽しむことが出来ませんでした。いくつかその点を挙げたいと思います。
まず大きな違和感を抱いたのは、中心的人物の一人である「片桐」のキャラクター性でした。映画の中での片桐は、中年の眼鏡をかけた小太りの自信のない中年の男性であり、みみずくんとの戦いに巻き込まれるかたちで協力することになるわけですが、かえるくんの協力をうける描写から感じられるキャラクター性に違和感を抱きました。
原作では、東京信用金庫で歌舞伎町のかなり危険な世界を相手に金の取り立て業をしているのですが、片桐はそこで出くわす危険な場面に対して別に怖いとも思わないような人物として描かれています。これは勇気や使命感のようなものにあふれているためでは決してなくて、自分の人生に対して妙に達観したというべきところがあるためです。他者の期待や、簡単な希望や、脅しや、評価といったことが大して意味を持たないような、自らの人生を孤独に自らの力で、タフなありかたで送っている人物であるためです。ここで論理的には飛躍しますが、そのような、目立たないが本当は稀有な人物であったからこそ、このような未曾有のとんでもない暴力が噴出することを抑えるというかえるくんの使命を助けられたのだと、原作を読んでいて感じていました。片桐はヒーロー的な人物ではありません。けれどタフに人生を送っています。だから「あなたのような人でなくてはならない」とかえるくんは言ったのではないでしょうか。このように考えていたため、映画において「一般に日の目を見ない(どこにでもいるような)人物の、奮い起こした勇気が助けになる」のような話として、片桐が配置されていることに違和感がありました。
ものすごく細かい部分ですが、かえるくんがどのようにして片桐が自分を助けたのか語る場面の描写にこうした片桐像の差が現れているように思います。原作では「足踏みの発電機」を片桐が持ち込んでその場を照らすのですが、ここで要だと思っているのは、片桐がみみずくんのような圧倒的な暴力と戦うためにちっぽけな「足踏み」の発電機を持ち込むことです。この圧倒的なものに対して、(どう考えたってすりつぶされて終わるような戦いに)それでもタフに力の限りを込めて文字通り「踏みしめ」ながら自らの存在を保とうとし続けるような生のありかたの、諦念のまじったような哀しさ(?)とどこかユーモラスな感じが、この「足踏み発電機」には込められているのではないでしょうか。それは、あくまでみずからの力で踏みしめなければなりません。こんな絶望的な戦いをやり抜きえる人間だったからこそ、片桐は、圧倒的な暴力に対する文字通り身を賭したかえるくんの戦いの助けになりえたのです。(そこに大げさに言えば人間の営みの尊さがあるのだと、なんとなく感じています。そこまで感じさせるような短編だと思います。)しかし、映画では片桐はまるでかえるくんという(サムライじみた)ヒーローにスポットライトを当てることが役割のような描写に感じられました。これでは「なぜ片桐だったのか」ということに納得がいきません。
このように、自分にとっての軸と思っていた部分に違和感があると、どうもいろいろな部分がすんなり受け取れなくなってしまいます。
例えば、日本の描写の甘さも気になります。片桐の家も日本のワンルームではないし(玄関やキッチン等)、バスも日本のバスではないです(一度東京にでも取材にくればわかることでは?と少々意地悪く思ってしまいます)。また、このような目線で見てしまっているためか、ここに出てくる人間の動作(例えばしぐさ、歩く際の方の揺れ方、顔の傾け方等)がどうも日本人っぽい動きではないように感じてしまいます。しょっぱなのキョウコの動きもどぎまぎするほどリアルですが、雑な言い方をすれば、「海外のドラマにでてくるどうしようもないおばさん」を見ている感じがしました。「欧米圏のリアルさ」に「欧米圏の生活からイメージするリアルな日本」を接ぎ木してる、という印象をうけました。(別に現実の日本を再現しようとしているわけではないと思われるため、本質的な違和感ではないのでしょうが、日本で生きている以上、どうしても気になってしまいます。そして、気になると本筋にもなんとなく入り込みづらいです。)
また、キャラクター性の違いでいえば、シマオさんの媚態にも違和感がありました。映画ではシマオさんは尻軽の若い女の子のような雰囲気で描かれていましたが、原作では、決して節操観念の堅い人ではないとはいえ(村上春樹の他の女性たちと同様に)、どこか無機質というか、この世とは違う所にちょっとだけ接していて妙に現実感がなくある種純粋な部分があるというか、そのような感触がある人物だと思うのです。だから、原作での「中身を渡してしまった」というジョークには、どこか予言めいた凄みがあったわけです。そこには「震災」というよくわからない圧倒的な暴力が、何かよくわからない仕方で、主人公にもどうしようもなく直接関係してしまっているという予言的な響きがあります。おそらく、そのために主人公は急に、(シマオさんに対する)どこかから押し寄せるような圧倒的な暴力の瀬戸際に立たされるのでしょう。しかし映画のシマオさんは少々俗っぽすぎて、このジョークは「ただ考えもない女の迂闊な一言が、主人公の傷をえぐってしまった」という文脈で受け取られてしまいます。(このジョークの「意味深さ」は、それが主人公の本当の痛みを表しているからに過ぎないわけです。)こうなると、主人公の空虚はただ「妻が出ていった」という事実によって日常的なレベルで理解可能なものになってしまい、このシマオさんとのシーンは、「なぜか知らないが震災にショックを受けて妻が出ていき(それは結局、結婚生活において「自分らしくいきる」みたいな意味に照らし合わせた時に、妻の中でうまくいっていなかった部分が、震災という(あくまで)「きっかけ」によって触発されたためか?)、それに(気づかぬうちに)傷ついた主人公が、尻軽の女と寝ようとしてできなくて、その女の不用意なジョークにその喪失感が抉り出されてめちゃくちゃおこっちゃった」、という話にしか感じられません。これでは、意味深なことは言っているけれど、結局は女に捨てられた男の話に終始してしまうじゃないか、と少々誇張して思ってしまいます。もちろん、原作(「UFOが釧路に降りる」)もそういう話として読むことが出来ますが、やはりそこには還元しきれない味わいがあります。その味わいとは、漠然とはしていますが、「よくわからないこの世界にすりつぶされたり、翻弄されざるをえなかったりする「生きる」ということのありかた」が描かれている点だと思います。しかし、この映画はいろいろ意味深な言葉をちりばめているものの、最終的にはゴシップ的なレベルの話に還元しきれてしまう気がして、そうした「感じ」があまり感じられませんでした。少々アンフェアには思いますが、そのために残念でした。
ただ、村上春樹の世界とあっているかは別としても映像自体の雰囲気はかなり好きでしたし、かえるくんの感じは(字幕も、吹き替えも)確かにこの感じだ、という納得感がありました。(その納得感と、村上春樹作品の映像化の可能性をそれでも感じたために、自分の中ではこのような評価になりました。)
ここまで色々と書きましたがこれは個人的な感想です。もし多少なりとも気になったのであれば、原作でも、映画でも、ぜひ触れてみてほしいです。
村上春樹の作品を「翻案」して作成したというこの作品、フランスの風味と独特な雰囲気が感じられる作品に仕上がっています。一見の価値ありです。
村上春樹+フランス+アニメ作品。さて、どんな作品? と
作品紹介を読んでとても気になってしまいました。 ・_・
”すずめの戸締り”鑑賞後に教えて頂いた ” かえるくん ” も
登場するというので、ますます気になり鑑賞です。
というわけで、鑑賞してきた訳なのですが…
村上春樹の原作を少ししか知らないのに、この作品に関して
あれこれと書くのもおこがましいかなぁ…と、そんな気分にも
なって、レビュー書く筆がなかなか進みませんでした。はい。
ですが、そういう立場で鑑賞した者のレビューというのも、
それはそれで有りかな と思いなおしてupします。
鑑賞済みの人だったり、これから鑑賞する人だったり
何らかの参考(タシ?)になれば良いのですが…。 ・_・;
◇
原作となった短編小説が6作品あると、作品紹介文にありました。
それを、フランス人の監督が翻案してこの作品を作ったとの事。
翻案ということは、必ずしも原作通りには作ってませんよ との
事なのでしょう。
で、原作となった6作品は、以下の通りです。
どの作品が何の本に載っているかも調べたので、一応書いておきます。
…まあ、自分のためでもあります ・∇・ すぐ忘れるので…
※ここに書いた本以外にも掲載先はあるかと思います
6つの作品の中で、読んだことある作品は★をつけた3つです。
★「かえるくん、東京を救う」
(「神の子どもたちはみな踊る」新潮文庫)
「バースデイ・ガール」
(「バースデイ・ストーリーズ」中央公論)
★「かいつぶり」
(「カンガルー日和」 講談社文庫)
「ねじまき鳥と火曜日の女たち」
(「パン屋再襲撃」文春文庫)
★「UFOが釧路に降りる」
(「神の子どもたちはみな踊る」新潮文庫)
「めくらやなぎと、眠る女」
(「レキシントンの幽霊」文春文庫)
それぞれの短編を元にしたオムニバス形式のの作品であれば
読んだことの無い3作品が原案の分は理解できなくなるかな と
そんな心配をしていたのですが、杞憂でした。
杞憂というか、なんといいますか。
a「このストーリーはこの小説からだ」と分かる部分があって
b「その作品のその後の話は無かったハズ」と ”? ” な部分があって
c「全く知らない登場人物が登場した」となった部分もあって
aとbとcの各ストーリーが、分からないなりに「繋がる」感覚が
ずっと最後まで続いた感じがします。 なんか不思議な感覚。・-・
■「かえるくん」の原作では、かえるくんと共に闘った(ハズ)
の片桐の「その後」は描かれていません。(…よね? ←弱気)
その部分のストーリーが、監督の「翻案」の部分なのかと思って
いるのですが、ここだけの話、その膨らませた部分のおかげで
「納得感」が膨らんだストーリーになっていると感じました。
■「UFOが釧路に」も同様に、話が膨らんでいるようです。
小村の妻の話。原作では大地震(たぶん「阪神・淡路大震災」)
の後に様子が奇怪しくなり、実家に戻ってしまい離婚を切り出す
女性として登場します。
それがこの作品では、二十歳の頃のレストランで働くエピソード
が描かれます。これが原作には無いと思うのですが、その過去の
お話を追加して描いたことで、お話全体の奥行きも広がったよう
に感じます。
妻の過去の「願いごと」が何だったかは謎のまま終わりましたが、
それも含めてこの物語の世界が広がったような気がします。
※↑ 小村の妻の物語、私の未読の3作品の中に原案があったら
的外れです。その時はゴメンなさいです。
■「かいつぶり」は、どの部分がこの作品の原案に採用されている
のだろうと悩むくらい、ストーリーに関係無さそうに思えましたが
何か重要な部分を見落としていないだろうかと気になって仕方あり
ません。
◇
これは味読の3作品も読んでみないと、この作品の正しい感想は
書けないかも。そんなことを感じています。・_・;
※なので残り3作品の本も購入しました
で、この作品そのものが面白かったかどうか なのですが。独特の
キャラクターデザインとアニメーション演出もあって、飽きずに鑑賞
することができました。村上春樹の世界観のようなものを味わえた気
にはなっています。
観てどうだった? と訊かれれば
観て良かったですよ との回答になります。
◇あれこれ
■フランス風デザインのキャラクター
キャラクターのデザインはフランス風味なのに、お話の舞台が日本
であることに、終始微妙な違和感を感じながら鑑賞しました。・△・
けれど、見慣れた日本風のキャラクターが登場していたらそれも違
和感ありな気がします。
いっそのこと、舞台をフランスに移したらどうなるかな? なんてこ
とも考えてみたりしました。フランスに釧路はありませんが、北の
港町とでもすれば、それなりに辻褄は合うような気もします。
(いやいや、やはりダメかも)
■作品タイトル(原作含めて)
この作品のタイトル、というか原作のタイトルの先頭三文字。
差別用語に当たらないのか と心配したのですが、問題無しという
認識で問題ないのでしょうか。うーん。
それを調べる過程で、このタイトルの作品は「ノルウェイの森」と
深く関連しているらしいと知りました。これも未読です・∇・;;
原案となっている作品の残り3作品とノルウェイとを読んでから
この作品を観たら、また違った感想になるのでしょうか。
村上春樹は奥が深そうです。はい。
◇最後に
作品タイトルは「めくらやなぎと眠る女」な訳ですが゜ボスターに
登場している緑色の方、どうみても「かえる」です。
真の主役はぼくたちさ と、片桐とかえるさんが主張しているような
そんな気がしてきました。
あっ ” かえるくん ” です。 えへ
☆映画の感想は人さまざまかとは思いますが、このように感じた映画ファンもいるということで。
非日常感強めの日常系
村上春樹氏の6本の短編小説を集約し、1本の映像作品に落とし込んだアニメ映画。原作者の作風をうまく現した作品だと思う。
日常系の作品のようにエピソードが次々と発生して消化されていくが、発生する出来事のインパクトが比較的大きいため、日常系とも非日常系とも取れるような微妙なバランスになっている。
元々は別の小説に登場する別の人物を同じ人物として描いているためか、ややキャラクター性に整合性が取れていないように感じる箇所もあった。
【”喪失感とそれでも生きる意味。そしてアンナ・カレーニナ。”かえるくん、みみず、ねじまき鳥も出て来る不思議でシュールなテイスト満載作。斬新な絵柄や比喩に富んだファンタジーな世界感もナカナカな作品】
■ご存じの通り、村上春樹氏の小説には”羊男”を筆頭に、奇妙なキャラクターが屡々登場する。
初期の作品から通底しているのは、倦怠感漂う独特の文章であり、(初期作品では、良く”やれやれ”というフレーズが使われていた。)どこかスノッブな感じでありながら、全体的には希望を漂わせる文章が、〇学生だった私には、魅力的であった。
フライヤーを読むと、今作は氏の小説の掌編幾つかを入れ込んだ作品だそうである。
尚、私は”ハルキスト”ではない事は、ここに敢えて記す。(大体、”ハルキスト”って何て名前だよ!全くもう!)
◆感想
・今作は、全く知らなかった仏蘭西のアニメーション作家だというピエール・フォルデス氏が監督・脚本を務めているが、絵柄はバンド・デシネではない。
人生に疲れた感じのサラリーマンの小村や片瀬の表情から想起したのは、つげ義春氏の漫画である。
・そこに、かえるくんが登場し、東京を大地震から救うために片瀬に協力を仰いだり、氏の諸作品で描かれている”喪失感とそれでも生きる意味”のようなテーマも絡めて物語は進んで行くのである。
私は、吹き替え版で鑑賞したが、かえるくんの声を担当した古館寛治さんのとぼけたような声が絶妙にマッチしている。
・小村も精彩の無い表情で描かれている。
彼の元から出て行った妻キョウコの手紙には”貴方との生活は、空気と一緒に暮らしているみたいでした。”などと、「UFOが釧路に降りる」でも使われた台詞が綴られていたようだしね。
・”アンナ・カレーニナ”が時折語られているのも、当然キョウコのことを暗喩しているのであろうし、スノッブ感が漂っている所も、ナカナカである。
<だが、今作がナカナカ面白いのは、そんな人生に疲れた感じのサラリーマンの小村や片瀬が、徐々に生きる意味を見出していく姿がキチンと描かれている所ではないかな。
特に、会社で上司からパワハラのような扱いを受けていた冴えない中年サラリーマン片瀬(本当にこんなに冴えないサラリーマンがいるのか!と言う位、冴えない。)がかえるくんのお陰で昇進して、パワハラ上司が退職勧告者リストに入っていたり、小村も新しい人生を歩き出そうとするようだしね。
不思議なテイストのアニメーション映画であるが、斬新な絵柄や村上春樹氏の掌編を巧く盛り込んだりしている所も、ナカナカな作品でしたよ。>
タイトルなし(ネタバレ)
2011年、東日本大震災から5日経った頃。
信託銀行に勤める小村(声:磯村勇斗)の妻・キョウコ(声:玄理)は、発災後テレビのニュースを見続けて一睡もせず、置手紙を残して失踪した。
仕事ぶりが冴えない小村は組織長から退職を勧められるが、失踪した妻の捜索のために休暇をとる。
何もやる気がしない小村を見てか、同僚は彼に届け物を頼む。
北海道で暮らす妹へ中身不明の小箱を届けてほしい、と。
一方、小村の同僚・片桐(声:塚本晋也)が多額の融資が焦げ付きそうになっていた。
ひとり暮らしの部屋へ帰宅すると、人間大のかえる(声:古舘寛治)が待っていた。
かえるくんと名乗り、東京に迫る巨大地震を回避するため、地下のミミズと戦う自分を応援してほしい、と奇妙な依頼をしてくる・・・
といった物語で、まぁ、わかりやすい物語があるわけはない。
捉えどころのない物語は、最近みた『墓泥棒と失われた女神』も同じだけれど、好みからいえば、本作の方が好み。
物語は捉えどころがないが、通底する主題は明確で、エロスとタナトス、生と死。
本作では、タナトスの方が勝っており、死の雰囲気、生への不安が、いずれのエピソードにも充満している。
村上春樹の原作小説は未読だが、彼の作品は20数年前にかなり読んだ。
最も村上春樹らしいと感じたのは、中身不明の小箱を届けるエピソード。
小村は、そこで初対面の女性と肉体関係を持つのだが、ぼんやりとした生のなかで、性を介して、生を感じるというは、かつて読んだ彼の小説群によく登場していた。
また、失踪したキョウコが古い友人に語る二十歳のバースデイのエピソードも、彼の小説らしい雰囲気。
彼女が望んだ願い事の中身は観客に明かされることもなく、実際に叶ったかどうかも明かされない。
小箱の中身といい、キョウコの願い事といい、生の本質は明らかにされるべきではないもの、つまり、死衣をまとったものなのかもしれない。
かえるくんと片桐のエピソードも秀逸で、設定としては『すずめの戸締まり』と同趣向である(『すずめ~』の方が後だと思うが)。
ミミズとかえるくんの闘いは、片桐が昏倒している間に行われ、行われたかどうかも不明。
想像は現実を凌駕することもあり、想像が現実を超えることもある。
この映画では、多くのことが明示されない。
しかしながら、生も死も明示的ではないのだ。
付け加えれば、性さえも。
不確かなものには、実感が伴わない。
ときおり、ぬるりと顔を出してくる。
それを、捕まえようと試みるが、やはり、ぬるりと逃げてしまう。
そんなことを考えさせられ、感じさせる秀作でした。
絵は好みじゃないけれど、世界観は自分のイメージと近かったです。
村上春樹の原作が短編集なので、オムニバス的なつくりかと想像していましたが、一本にまとまっていて感心しました。
このフランス人の監督さんは、本当に村上春樹が好きなんだろうなぁ…愛を感じました。
ただ、私には絵が少し微妙に思えました。
これは好みなのでどうしようもないのですが、実際、女性はなんだか皆ゴツゴツしているし、主人公である小村や片桐はお世辞にも魅力的とは言いがたいし、子どもに至っては大人か子どもか分からずちょっと気持ち悪い…。
だからといってアイドルマスターみたいな絵でも困るのですが、もうちょっとなんとかならないのかという気持ちはありました。
子どもに聞くと「それはわかっていてやってるんだよ」ということです。
そりゃそうですよね「頑張ったけどどうまく描けなかった!」なんてことはあり得ないわけで。
ただ、かえるくんだけは飛び抜けてクオリティが高かったので大満足でした。
100%イメージ通りなのはかえるくんだけ!と言えるくらい、細部までよかったし、キャラクターも喋り方も思い描いていた通り。
吹替版で見たのは正解でした。字幕版は監督自ら声をやっていたそうで、そちらも気にはなるけれど、原作も舞台も人物も日本なので日本語で見るのが自然な気がしました。
ひとつひとつのストーリーに一応の結末はあるものの、描かれている以上の意味が読み取りにくく、「これは何かのメタファーなんだろうか…???」と頭をひねるところも村上作品の読後感と近いものがありました。
主人公たちが皆フワフワしている中で、彼らに関わるかえるくんやレストランオーナーがはっきりとしたスタンスなのが小気味よかったです。アクセントが効いてるっていうのかな?
小村の「なんかわからないうちになりゆきで初対面の女の子といい感じになる」ところは村上春樹っぽくて気持ち悪いし(褒め)、片桐の「自分にはなにもない」という卑屈で自虐的な心情の吐露も村上春樹っぽくて気持ち悪かったです(褒め)。
登場人物が皆70年代あたりを生きている人のような、不思議な感覚も村上春樹らしい。
元の短編集が観念的なものですから、そのいくつかを再構築してひとつにまとめても、起承転結のあるテーマの明確な話になりづらいのは当然のこと。
ですので「だから結局なんなんだ!?」という気持ちがわいても無理はありません。
理解できなくても落ち込む必要なし、雰囲気を味わえば楽しんだことになると思います。
(興味深いという意味で)面白い作品ですし、村上春樹ファンならずとも挑戦してみてほしい映画です。
さん、じゃなくて君!
2011年3月11日、東日本大震災から数日後に飲まず食わず喋らなくなった妻キョウコが置き手紙だけ残し家出、残された夫小村と同時期、小村の同僚片桐の前に現れた巨大カエルの話。
ある小箱を届けてくれと頼まれ北海道へ向かう小村と、311から約一週間後に来る東京大地震から人を救おうとする巨大カエルと手を貸す事になった片桐。
冒頭だけはシンプルにストーリーが進み分かりやすかったけど…、話が進むにつれ何か遠回しな見せ方と独特な世界観で何かよくわからない。ストーリーは何となく理解出来たけれど何か分からないしメッセージ性も全く分からなかった。
「すずめの戸締まり」もそうだったけどなぜ地震=ミミズ?!(吹替版にて鑑賞)
何といっても「かえるくん」が強烈。独特の雰囲気が魅力。震災がキーワード。
村上春樹原作、フランス・ルクセンブルク・カナダ・オランダ合作のアニメーション。
日本にはないような独特の絵柄とテンポが魅力的。
「ライブ・アニメーション」と名づけられた実写撮影をアニメ化するという手法で撮られた。
期せずして、先日公開の「化け猫あんずちゃん」も、「ロトスコープ」と言う似た手法で作られていました。
本作の原作は一切未読ですが、何か面白かった。
とくに、かえるくんが謎。
突然現れた巨大なかえるくん。
かえるくんの表現は実写では描写が難しい。
アニメならではの表現で可能になった。
原語では「flog」と言っていて、「Mr.flog」と言うと必ず「flog」と言えと怒るのが可笑しい。
親しみがあるのに、「あの最期」が悪夢で恐ろしい。
追伸:
最初、原語版(英語)を観たのですが、あとからパンフレットを読んで、改めて日本語版を観たくなり、鑑賞しました!
結果、やっぱり、母国語の方が刺さる!
原語版の方は何か届かないような、ふわっとしたような感じで過ぎていったのですが、日本語版で日本人の演技で聞くとしっかりと観れた気がします。
アニメだったことと、あの絵柄だったことが大きいと思います。
特に、やっぱりカエル君のインパクトが強い。
古谷寛治のニュアンスが絶妙。
対する片桐の塚本晋也もリアルな名演。
柄本明のオーナーのキャラクターも素晴らしかった。
日本の小説の英訳を読んだ監督がフランス映画として製作。
日本人役をカナダ人で演じさせ、その実写映像をアニメで日本人として描き、
英語版、フランス語版でアテレコされた後、日本語吹き替え版が作られたという。
さらに日本語吹き替え版の録音には、日本語版演出者(日本人)だけでなく、オリジナル版の監督も同席したという複雑な過程を知るとさらに面白い。(英語とフランス語のカエル君は監督自ら声をあてた!)
☆0.5追加しました。
Merveille
原作は未読で、オムニバス映画の構造だったのかーと上映始まってから知ったくらいには情報を入れてなかったです笑
字幕版の方での鑑賞。
結構面白かったです。
3.11の数日後の日本で暮らしている人々の少しだけはみ出した不思議な日常を描いている作品で、原作の雰囲気そのまま落とし込んでいるんだろうなーというのが未読の身でも伝わってくる作りになっていました。
会社では雑用をたくさん任されている片桐さんが家に帰るとスタンバってるかえるくんと一緒に東京に再び起こる地震を2人で止めようとするやり取りがめっちゃ面白くて、かえるくんのリアクションにビクビク怯えながらもしっかりと話を聞いて検討したりと、2人だけの空間での会話劇は長いこと見れそうなくらい不思議な空間でした。
みみずくんというワードが出てきた瞬間「すずめの戸締まり」と同じテーマだ!と何故だかわかりませんが嬉しくなりました。
すずめはテーマ的に恐怖の対象として扱っていましたが、今作では姿形こそはイメージだけなので、恐怖はかえるくんの語り口のみというのも切り口が違うので、その多様性込みでこのエピソードは楽しかったです。
小村周りのエピソードは女性関係のものが多く、当人は別にそこまで意識しているわけでは無いのに色々と寄ってきたりしたりと、小村大変そうだなーというのが上映中ずっと頭の中にありました。
小村の奥さんのキョウコの無気力な感じからの家出だったりと、勝手な人だなーとムッとしながら観ていたんですが、過去のエピソードとか語られてもこの人相当の変人だなと最初から最後まで思っていました。
そこから同僚の人の荷物を妹に届けてくれと言われて届きたら、妹とその友人が何故かいて…といったエピソードに繋がって、そこからの展開はあらあらまぁまぁなものになっていき、それ以上の感想は出てきませんでしたが、ラストのフワッとした感じといい独自の色全開なのでハマる人はとことんハマるんだろうなと思いました。
アニメーションは日本原作なのにフランス製作なのもあって独特なタッチの絵で作られており、男性キャラとかえるくんのデザインは良い味を出していたんですが、女性キャラが好みの分かれるもの…というかこれを好む人っているのか?ってレベルのデザインで、声優陣の声質とキャラが全く合ってない歪さには胸がモゾモゾしました。
キョウコが20歳ですと言ったシーンで「ほんまに!?」と声が出そうになりましたし、座席からちょっとズレ落ちそうにもなりました。
それくらいインパクトのある顔なので、一度見たら忘れられないのは確かだと思います。
これを機に原作にも触れて見ようと思いましたし、村上春樹さん作品もそういえば読んだ覚えがなかったので、これは良いきっかけになるなとご縁も共にありがたやありがたや。
鑑賞日 7/28
鑑賞時間 20:50〜22:45
座席 B-12
事実は小説よりも希也
とはよく言うが、事実の入替や取替を行うことで、
面白い小説ができてしまう。
と言う実例を見るかのような作品だった。
カエルくんとミミズのファイトを展開したら
所謂エンタメアニメになるところを
アナカレーナにまとめた演出はかなりの好感◎⛰️
良い映画を観れたと思う🎵
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