「いくつか感じた違和感」めくらやなぎと眠る女 ひらぎさんの映画レビュー(感想・評価)
いくつか感じた違和感
村上春樹はかなり好きな作家で、原作の短編も読んだことがあります。そのため、映画そのものを見てというより、自分の原作の感触と比べるようにして見た感想になってしまったので、かなり個人的な偏りが出てしまいました。以下、内容にも簡単に触れてレビューします。
この原作の一つ、「かえるくん、東京を救う」は村上春樹の中でもかなり気に入っている作品なので、期待半分、不安半分で見始めました。しかし、様々なところに自分の抱いていた原作の感触との違和感を感じることになって、結局最後まであまり楽しむことが出来ませんでした。いくつかその点を挙げたいと思います。
まず大きな違和感を抱いたのは、中心的人物の一人である「片桐」のキャラクター性でした。映画の中での片桐は、中年の眼鏡をかけた小太りの自信のない中年の男性であり、みみずくんとの戦いに巻き込まれるかたちで協力することになるわけですが、かえるくんの協力をうける描写から感じられるキャラクター性に違和感を抱きました。
原作では、東京信用金庫で歌舞伎町のかなり危険な世界を相手に金の取り立て業をしているのですが、片桐はそこで出くわす危険な場面に対して別に怖いとも思わないような人物として描かれています。これは勇気や使命感のようなものにあふれているためでは決してなくて、自分の人生に対して妙に達観したというべきところがあるためです。他者の期待や、簡単な希望や、脅しや、評価といったことが大して意味を持たないような、自らの人生を孤独に自らの力で、タフなありかたで送っている人物であるためです。ここで論理的には飛躍しますが、そのような、目立たないが本当は稀有な人物であったからこそ、このような未曾有のとんでもない暴力が噴出することを抑えるというかえるくんの使命を助けられたのだと、原作を読んでいて感じていました。片桐はヒーロー的な人物ではありません。けれどタフに人生を送っています。だから「あなたのような人でなくてはならない」とかえるくんは言ったのではないでしょうか。このように考えていたため、映画において「一般に日の目を見ない(どこにでもいるような)人物の、奮い起こした勇気が助けになる」のような話として、片桐が配置されていることに違和感がありました。
ものすごく細かい部分ですが、かえるくんがどのようにして片桐が自分を助けたのか語る場面の描写にこうした片桐像の差が現れているように思います。原作では「足踏みの発電機」を片桐が持ち込んでその場を照らすのですが、ここで要だと思っているのは、片桐がみみずくんのような圧倒的な暴力と戦うためにちっぽけな「足踏み」の発電機を持ち込むことです。この圧倒的なものに対して、(どう考えたってすりつぶされて終わるような戦いに)それでもタフに力の限りを込めて文字通り「踏みしめ」ながら自らの存在を保とうとし続けるような生のありかたの、諦念のまじったような哀しさ(?)とどこかユーモラスな感じが、この「足踏み発電機」には込められているのではないでしょうか。それは、あくまでみずからの力で踏みしめなければなりません。こんな絶望的な戦いをやり抜きえる人間だったからこそ、片桐は、圧倒的な暴力に対する文字通り身を賭したかえるくんの戦いの助けになりえたのです。(そこに大げさに言えば人間の営みの尊さがあるのだと、なんとなく感じています。そこまで感じさせるような短編だと思います。)しかし、映画では片桐はまるでかえるくんという(サムライじみた)ヒーローにスポットライトを当てることが役割のような描写に感じられました。これでは「なぜ片桐だったのか」ということに納得がいきません。
このように、自分にとっての軸と思っていた部分に違和感があると、どうもいろいろな部分がすんなり受け取れなくなってしまいます。
例えば、日本の描写の甘さも気になります。片桐の家も日本のワンルームではないし(玄関やキッチン等)、バスも日本のバスではないです(一度東京にでも取材にくればわかることでは?と少々意地悪く思ってしまいます)。また、このような目線で見てしまっているためか、ここに出てくる人間の動作(例えばしぐさ、歩く際の方の揺れ方、顔の傾け方等)がどうも日本人っぽい動きではないように感じてしまいます。しょっぱなのキョウコの動きもどぎまぎするほどリアルですが、雑な言い方をすれば、「海外のドラマにでてくるどうしようもないおばさん」を見ている感じがしました。「欧米圏のリアルさ」に「欧米圏の生活からイメージするリアルな日本」を接ぎ木してる、という印象をうけました。(別に現実の日本を再現しようとしているわけではないと思われるため、本質的な違和感ではないのでしょうが、日本で生きている以上、どうしても気になってしまいます。そして、気になると本筋にもなんとなく入り込みづらいです。)
また、キャラクター性の違いでいえば、シマオさんの媚態にも違和感がありました。映画ではシマオさんは尻軽の若い女の子のような雰囲気で描かれていましたが、原作では、決して節操観念の堅い人ではないとはいえ(村上春樹の他の女性たちと同様に)、どこか無機質というか、この世とは違う所にちょっとだけ接していて妙に現実感がなくある種純粋な部分があるというか、そのような感触がある人物だと思うのです。だから、原作での「中身を渡してしまった」というジョークには、どこか予言めいた凄みがあったわけです。そこには「震災」というよくわからない圧倒的な暴力が、何かよくわからない仕方で、主人公にもどうしようもなく直接関係してしまっているという予言的な響きがあります。おそらく、そのために主人公は急に、(シマオさんに対する)どこかから押し寄せるような圧倒的な暴力の瀬戸際に立たされるのでしょう。しかし映画のシマオさんは少々俗っぽすぎて、このジョークは「ただ考えもない女の迂闊な一言が、主人公の傷をえぐってしまった」という文脈で受け取られてしまいます。(このジョークの「意味深さ」は、それが主人公の本当の痛みを表しているからに過ぎないわけです。)こうなると、主人公の空虚はただ「妻が出ていった」という事実によって日常的なレベルで理解可能なものになってしまい、このシマオさんとのシーンは、「なぜか知らないが震災にショックを受けて妻が出ていき(それは結局、結婚生活において「自分らしくいきる」みたいな意味に照らし合わせた時に、妻の中でうまくいっていなかった部分が、震災という(あくまで)「きっかけ」によって触発されたためか?)、それに(気づかぬうちに)傷ついた主人公が、尻軽の女と寝ようとしてできなくて、その女の不用意なジョークにその喪失感が抉り出されてめちゃくちゃおこっちゃった」、という話にしか感じられません。これでは、意味深なことは言っているけれど、結局は女に捨てられた男の話に終始してしまうじゃないか、と少々誇張して思ってしまいます。もちろん、原作(「UFOが釧路に降りる」)もそういう話として読むことが出来ますが、やはりそこには還元しきれない味わいがあります。その味わいとは、漠然とはしていますが、「よくわからないこの世界にすりつぶされたり、翻弄されざるをえなかったりする「生きる」ということのありかた」が描かれている点だと思います。しかし、この映画はいろいろ意味深な言葉をちりばめているものの、最終的にはゴシップ的なレベルの話に還元しきれてしまう気がして、そうした「感じ」があまり感じられませんでした。少々アンフェアには思いますが、そのために残念でした。
ただ、村上春樹の世界とあっているかは別としても映像自体の雰囲気はかなり好きでしたし、かえるくんの感じは(字幕も、吹き替えも)確かにこの感じだ、という納得感がありました。(その納得感と、村上春樹作品の映像化の可能性をそれでも感じたために、自分の中ではこのような評価になりました。)
ここまで色々と書きましたがこれは個人的な感想です。もし多少なりとも気になったのであれば、原作でも、映画でも、ぜひ触れてみてほしいです。