「80年代ホリデー・スラッシャーへのあふれる愛! 爆笑必至のデコラティヴな殺人技見本市。」サンクスギビング じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
80年代ホリデー・スラッシャーへのあふれる愛! 爆笑必至のデコラティヴな殺人技見本市。
ぶはははは!! くっだらねー!!
でも笑った笑った。くっそ最高だぜ。
映画ってのは、やっぱこうじゃなくっちゃね。
もうそろそろ終映しそうってことで足を運んだら、僕以外は最後列左端に白髪の老人がいるだけ。映画館のど真ん中でプライベートシアターみたいに堪能してきました。
ぶっちゃけ僕は80年代スラッシャーに耽溺して育った世代だ。
70年代ホラーをTVで観て育ち、「13金」のCMにさんざんビビらされ、大学時代は年間200本ペースでホラービデオを見まくっていた。
だから、身体に馬鹿なスラッシャーの文法とテイストが染みついている。
『サンクスギビング』は、嬉しくなるくらい80年代のスラッシャー・ムーヴィーの手法や構造をきちんとなぞっていて、実に観ていて心地良い。
懐かしい。かゆいところに手が届く。
何より「怖がらせる」ことが「笑わせる」ことに直結している恐怖と笑いの親和性の高さが、サム・ライミやピーター・ジャクソンみたいで観ていてしっくりくる。
ああ、そうだよな。俺、こういう映画が好きだったんだよな。
さすがは『ホステル』のイーライ・ロス。天才オタク監督の本領発揮である。
オープニングのジョーク(犯人は七面鳥)からして、気が利いている。
英語に耳を澄ましていたら、若い連中の台詞の半分がファッキンで出来てる。
おう! いいぞ、いいぞ!
で、最初にどんなびっくらかしをかましてくるのかと思ったら、
なんとスラッシャーじゃなくて、まさかのゾンビ映画のパロディを用意して来た。
あら、なんてうまい外し方。
まず、「誰もいないスーパーマーケットで優雅に遊ぶ主人公たち」ってのが、ロメロの『ゾンビ』の籠城シーンの思い切ったパロディだ。
そこに襲いかかる、知性ゼロのモブの大群。
背景にある「大量消費社会」への風刺と警告。
まさにロメロの『ゾンビ』の黙示録的世界だ。
スーパーの中に少数の人間がいて、外から脅威が迫るという意味では、『ミスト』をも彷彿させる。このあと起きる惨劇は、基本的にはお笑い要素満載で、ピーター・ジャクソンの初期作のような戯作味があるのだが、実はブラック・フライデーに家電量販店に客が殺到して暴動になるのは、アメリカではむしろ「日常茶飯事」である。
試みに、ネットで「ブラック・フライデー」×「暴動」で検索をかけてみればいい。
店舗を十重二十重に取り囲む千人規模の買い物客。
めりめりと破壊されるシャッター。ぶち破られる巨大ガラス。
踏みつぶされて血まみれになっている人々。
すべて、実話である。
近年のアメリカでは、本当にこんな感じで客がなだれ込んでは、しょっちゅう死傷沙汰になっている。これはアメリカのれっきとした暗部である。
だから、この映画のアヴァンは、笑える内容ではあるが笑えない。
ちゃんと、生々しい社会風刺として機能しているのだ。
これに加えて、「店に入れる特権階級」を「店には入れない大衆」がやっかみ、憎しみ、安易に暴動を起こすという、格差社会のもたらす歪んだ嫉妬と憎悪という要素が加わる。
さらには「アメフト選手とチアリーダー」というカースト最上位を、露骨に主役グループのメンバーに加えることで、学校内カーストのピラミッド構造にも意識が向けられている。
アヴァンで呈示されているのは、実はアメリカの縮図である。
アメリカの「病み」と「闇」の核心といってもいい。
格差と差別が生む閉塞感と憎悪の連鎖が、さながら箱庭のように描かれている。
欲得ずくでモラルのかけらもない図々しいウェイトレス。
SNSの配信とバズりを何よりも優先するカスい高校生。
どさくさ紛れで掠奪を繰り返して恥じるところのない客。
これが、今のアメリカだ。
この映画で「罰せられている」のは、病んだアメリカなのだ。
ちゃんと、くだらなさの背後に、
批評精神と鋭い知性が隠し味のようにひそんでいる。
― ― ―
ホリデー・スラッシャーの金字塔といえば、なんといっても『ハロウィン』(78)だろうが、個人的には『血のバレンタイン』(81)や『サンタが殺しにやってくる』(80)も楽しかった。
前者は犯人がわかってから見直すと、作中で怯えているふりをしてる殺人鬼の猿芝居とか、犠牲者を言葉巧みに誤誘導する様子に腹を抱えて笑えるし、後者は「良い子ノート、悪い子ノート」という発想が実に秀逸だった。終盤はなんか『美女と野獣』みたいで泣けるし。
ちなみにイーライ・ロスは『暗闇にベルが鳴る』(74)(クリスマスを舞台にしたホリデーもののサスペンス・スリラーで、スラッシャー映画の源流のひとつ)の大ファンらしい。
なぜいろいろなホリデー・スラッシャーがあるのに、彼の生まれ育ったマサチューセッツでは一番重要視されているサンクスギヴィング・デイを題材にとるホラーがないんだというのが、イーライ・ロスと親友の脚本家ジェフ・レンデルの昔からの不満で、タランティーノとロドリゲスの『グラインドハウス』(07)で「フェイク予告編」製作の依頼があったときは、迷いなく「サンクスギヴィング」を題材に選んだという。
周りからは「アレの本編、マジでつくらないの?」と煽られ続けて16年。ようやく中身を埋めるネタとプロットが醸成されて、形にすることができたとのこと。
サンクスギヴィング・デイ(感謝祭)というのは、アメリカの祝日のなかでも、日本人にとっては最も縁遠い存在かもしれない。
僕は妻の友人の家で、一度だけ七面鳥の丸焼きを旦那さんが切り分けるのを体験したことがあるが、ニワトリと比べると明らかにまずくて「二度といらない」と思った記憶がある(笑)。お祭りの由緒が日本人とまったく関係がないうえに、あれだけ七面鳥の味がニワトリの単なる劣化版だと、日本で流行る理由があまり見当たらない……。
その翌日やってくる「ブラック・フライデー」も、日本の商業界は定着させようとしてはいるが、あまり大衆には滲透していないのではないか?
むかし会社の同僚とブラック・フライデーの話をしてて、赤字と黒字って英語でも同じ語源でin the red、in the blackっていうんだよなって話になって、僕が「じゃあブラック・フライデーも、いわゆる〈黒山のひとだかり〉から来てるんじゃないの?」って言ったら、同僚に「欧米人の頭は必ずしも黒くないですよ」と言われてギャフンとなったことがあった。
閑話休題。
とまあ、日本人には正直あまりなじみのない休日だが、「お祭り」というハレの場があって、そこに殺人鬼という究極のケが闖入するという対比さえあれば、ホリデー・スラッシャーは成立する。都合のいい「仮面をつける口実となるキャラクター」が祝祭に存在して、殺人鬼の正体が隠蔽できれば、なお完璧だ。
こうして、巡礼者ジョン・カーヴァーが、新たなるマスクド・アンチヒーローとして登場することになる。
本作はスラッシャー・ホラーとしては、本当に標準的なつくりで、何も足さない何も引かないの古典的仕様に終始している。せっかくの天才イーライ・ロスのホラージャンル再臨なのに、それでは物足りないという人も、もちろんいるかもしれない。
でも『サンクスギビング』はまさに、「80年代スラッシャーのリヴァイヴァル」をもくろんだ「復古」的な作品なのであり、これはこれで「あのころのスラッシャーってマジこんなんだったよ」という大らかな懐古ノリで、存分に楽しむべきものだと思う。
大枠のつくりを敢えて変えていない代わりに、どのへんがリファインされているかというと、それはとにかく「殺し技」がトリッキーに進化していること。それに尽きる。
思えば、スラッシャーの歴史というのは、殺戮の「アイディア」の歴史でもある。
最初は鋭いナイフの一突きで、血がドバドバ流れるだけで、映画は成立した。
しかしジャンルが成熟してくると、観客は皆それだけだと満足できなくなってくる。
製作者も、よりエグい殺し方、より印象的な殺し方、よりインパクトのある殺し方を開発しようと必死で知恵を絞り、なんとかジャンルに爪痕を残そうとする。
こうして、だんだんとスラッシャー・ホラーの殺し技は、デコラティヴでマニエリスティックな、「複雑な手順と技巧を駆使した奇想天外な大技」へと発展していった。
おそらくその究極の発展形が『ファイナル・ディスティネーション』シリーズであり、あるいは『ソウ』シリーズではないか。イーライ・ロスの『ホステル』もまた、その「芸術的殺人」を追求する、飽和し爛熟した傾向の「極北」に位置する映画といえる。
たとえば、一人目の犠牲者。
帰宅するくらいの時間に、独りでダイナーにいたら、いきなり押し入って来る殺人鬼。
いったん顔をじゃぶじゃぶ水につけてから、冷凍庫に押し付け、貼り付けて固定する。
逃げるためには、貼り付いている皮膚をむしり取らないといけない。
実によく考えられた拷問だ。
なんとなくデジャブを感じると思ったら、アルジェントの『サスペリアPART2』。
あれだと、黄昏時に侵入した殺人鬼は、「お湯」に女の顔をじゃぶじゃぶつけてから、押し付けて殺していた。今回の殺人技は、その寒冷系の応用編だ。
それから、終盤に出てくる、死体を一室に集めて擬似的な感謝祭パーティの様子を再現しようとする『タブロー・ヴィヴァン(活人画)』のネタは、僕にミケーレ・ソアビの『アクエリアス』を想起させる(殺した役者たちを舞台上に並べていく)。
犯人の部屋の壁の写真群は、おそらく『セブン』のジョン・ドゥーに影響を受けているだろう。
他にも本作には、さまざまな旧作のネタが、たくみに換骨奪胎されて導入されているはずだ。
それと、直接の影響関係があるわけではないが、「華麗で手の込んだ殺し技」を発展させたのは、なにもスラッシャー・ホラー業界だけではない。日本では全く別のジャンル作品が、同様に「殺し技」のアイディアを新作ごとに進化させたすえに、途方もないケレンにまで発展させている。
そう、いわずと知れた「必殺」シリーズである。
鍼の一刺しから始まったこのシリーズは、アバラクラッシャー、「やめてとめてやめてとめて」、体内花火、魚籠による頭蓋骨粉砕など、さまざまな珍必殺技を編み出したあげく、ついに「三味線屋の勇次」という究極の芸術品を生み出すにいたった。
『サンクスギビング』のわくわくするような殺し技の数々を観ていると、僕なんかは、つい「必殺」の殺し技を想起してしまう。
たとえば、本作の白眉ともいえるチアリーダー殺し。
あれ、『必殺仕事人V激闘編』の第3話「大難関!大奥女ボス殺し」の弓恵子思い出させるんだよね。
その直前のアメフト選手殺しは、『翔べ! 必殺うらごろし』の和田アキ子みたいだし。
洋の東西をはさんで時代劇とホラー映画が、手の込んだデコラティヴな「殺しの美学」を、競い合うようにひたすら磨き続けていた、80年代という不思議な狂騒の時代(笑)。
イーライ・ロスが見せてくれるのは、そんな時代精神の継承である。
なお犯人に関しては、「典型的な意外な犯人」であるがゆえに、かえって気づいてしまう観客もそれなりにいるかもしれない。
ただここでは、犯人が当てやすいかどうかは正直あまり重要ではない。
ちゃんと犯行動機とされるシーンに犯人が映りこんでいて、その瞬間の表情を見せていること。この手の究極の「手の込んだ悪ふざけ」を考え得るだけの、知性と茶目っ気のあるキャラクターであること。これだけ複雑な計画を、うまく「演出」して各人を誘導できる立ち位置にちゃんといること。
このへんがきちんとクリアされているあたりに、イーライ・ロスの才能の一端を見る思いがする。
ただ、とにかくこの枠組みでどうしてもやりたかったのは、あの「七面鳥の丸焼き」のアイディアだったんだろうね(笑)。あれはやはり秀逸だった。
一方で、マイナス面でいちばん気になったのは、彼氏二人の適当な扱い。あまりに中途半端な出し方してるけど……もしかして続編への何らかの布石だったりするのか?
この枠組みでやれることはだいたいやり尽くしてしまった感も否めないが、やるというなら、ぜひ期待したい。