劇場公開日 2023年12月9日

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「王国を見た」王国(あるいはその家について) 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0王国を見た

2023年12月26日
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保坂和志の小説にこういう一節がある。作中に登場する映画青年のセリフだ。

"映画って、だいたいしゃべってる人を中心に撮るでしょ。そうすると、そのあいだって、聞いてる方が何してるかわかんないでしょ。
だけど、しゃべってる人の動作なんて、だいたい見なくたってわかってるしーー"

保坂和志『プレーンソング』より

発話者を、ひいては音の鳴る方向をひたすら愚直にカメラで追い続けることにはあまり意味がない。むしろ空間が平板化し、ショットに立体性がなくなる。

しかしかといって映画青年の言うことをそのまま実践し、音のしない方向だけを映し出すことにももちろん意味がない。保坂もまたそんなことを主張させるためにこのセリフを書いたわけではないだろう。映画青年が本当に言いたかったこととは何なのだろうか?

さて、本作ではホン読みをする3人の男女の姿が異なる角度や長さで次々と映し出されていく。

そこに数学的な法則性は見当たらず、素早くカットを切ってみたり、10分以上の長回しで捉えたり、とにかくさまざまな実験的撮影が実践される。

舞台のほとんどは殺風景なレンタルスペースや公民館の空き部屋のような場所だ。しかし撮られたショットにはときおり形容しがたい緊張感が漲っている。というのも、映像と音声の絶えざる離合集散がショットを立体たらしめているからだ。

カメラは発話者を映し出したかと思いきや徐々にその横の傍聴者へとスライドしていったり、あるいは何もないところで立ち止まったりする。映像と音声の距離が伸縮することで、そこにその時空間固有のテクスチャが現れる。

『プレーンソング』の映画青年が本当に言いたかったことはまさにこれなんじゃないかと思う。つまり、カメラの前の時空間が湛える固有のテクスチャを捉えること。

ここでいうテクスチャとは単に辞書的な意味での手触りのことを指すのではない。そこに存在するありとあらゆるもの(会話する人々とか、吹きつける風とか、遠くから聞こえてくる音とか)の総体が織り成す現今的な、つまり今この瞬間にしか生起しえない手触りのことだ。

ロベール・ブレッソン曰く、シネマトグラフの条件とは不意に出来する奇跡を捉えることにあるのだという。まるで釣り人のように、静かな湖畔にじっと竿を垂らし、何かが通りかかったら釣り上げる。何が釣れるかはわからない。重要なのは、その瞬間を逃さないことだ。

しかし本作がブレッソンの諸作品と異なるのは、釣り上げるまでの過程をもテクストとして観客に提示していることだ。本作にはまさに「決定的」といえるようなショットもあれば、はっきり言ってそこまで意味があるとは思えないショットもある。ピンボケのカメラ、ガタガタのパン、セリフを噛む役者。

そのとき私が思い浮かべたのは積み木の玩具だ。積み木の玩具はレーシングカーやぬいぐるみと異なり、あらかじめパーツが最小単位の素材に分解されている。なおかつプラモデルのように明確な完成形も存在しない。

本作もまた積み木の玩具のような作品であるといえる。そこには最小単位の素材だけがある。幾度と同じ箇所を繰り返すホン読みシーンもそうだし、途中で挟まれる橋や砂場や道路(おそらく元の脚本を順当に撮っていくのであればロケ地として使用されていたであろう場所)のショットもそうだ。

そしてそれら素材を組み立て、無数の「映画」へと昇華させていくのは、他ならぬ我々受け手の責務だ。

そういう意味では本作はメタ映画だといえるかもしれない。受け手に出来合いのスペクタクルを提供するのではなく、素材だけを手渡し、能動的に組み立てさせる。

当然、出来上がる映画は受け手の数だけ存在することになる。先ほど私は「ときおりハッとするショットがある」といったことを書いたが、人によっては私がハッとしたショットに何も感じないかもしれないし、逆に私が何も感じなかったショットにハッとしているかもしれない。

ここで脚本上の「王国」のエピソードが輝きを帯びてくる。「王国」とは親しい者たちの間にのみ成立する超言語的空間のことだ。脚本の中の亜希と野土香のように、あるいは野土香と直人と穂乃果のように、我々受け手もまた監督ら作り手と個々別の「王国」を築き上げているといえる。メタとベタの境界が瓦解し、映画は無際限に拡張していく。ちょうどオーソン・ウェルズ『上海から来た女』のミラーハウスのシーンのように。

脚本、撮影、編集にいたるまであらゆる面において立体性のある恐ろしい映画だったと総括しよう。

我々はあの殺風景な部屋の向こう側に、途方もなく巨大な王国を見たのだ。

因果