小学校 それは小さな社会のレビュー・感想・評価
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凄いドキュメンタリーですね
元小学校教員です。ここにある映像は自分が何十年見てきた光景と非常に近く、そのリアリティは驚きしかないです。また、2021年度の撮影という事でコロナ禍の影響が強く残り、いろいろな教育活動に影を落としていたことも実際に体験した者として大変よくわかります。
映画館でお客さんがお金を払って観る映画ということで、単なる断片的な記録映像ではないのがいいです。ストーリーがある主演級人物として踏み込んで撮影された方が5人います。1年生の女の子と男の子、6年生の男の子、1年生の担任のベテラン女性教員、6年生の担任の坊主頭が印象的な若手の男性教員です。それぞれの人物が他の人物と密接に関わりながら、展開していく物語だけでも見応えがあります。涙を流すシーンがいくつかありますが、演技として泣くのではないガチの涙なので観る方としてもウルっと来ました。
追加です。2学期になって1年生は秋の公園てのどんぐりや落ち葉拾い、6年生は5年生のとき行けなかった日光での宿泊学習。多分他の学年でもコロナが落ち着いて行事が少しずつ復活しているだろうし、本当に良かったですね。なんだかんだ言っても学校行事は子どもを育てると思う。教員の犠牲的な奉仕に支えられているのは言うまでもないが。運動会も全校揃って開催できてよかったですね。羨ましいです。ただ、給食が「個食 黙食」で1年生も例外なしなのはちょっと辛いですね。
「小学生の時を思い出す」
英語版タイトル『日本人の作られ方(THE MAKING OF A JAPANESE)』の方がしっくりきます
ドキュメンタリー映画としての技術的な面はちゃんとしていると感じました。
一方で、描かれていた内容は、教員が子供をコントロールするために強い口調で威圧する姿で、観ているこっちまで緊張し、何度も心臓がギュッとつぶされました。とても辛い映画でした。
ここに出てくる教員は、自分のやっている「子供のために、よかれと思って」やっているその方法を、私のような元小学生に否定されたくはないでしょう。ですが、威嚇することで相手を操るというのは、犬のしつけと変わらない。この映画に登場した教員の皆様には、このままのやり方で本当にいいのか、振り返って考えてくれていることを望みます。
朝一番に学校に来て、自分のクラスの机をぴったり揃えているあの先生が、一番ケアが必要に感じました。これ以上、強い口調で威圧して思う通りの行動をさせるこの方法を連鎖させて欲しくない。
減り続ける教員、増え続ける不登校、増え続ける若者の自死も同時に考えたい。
子供同士で靴箱の靴のおき方をチェックさせ報告させるという悪趣味な方法で、日本人の礼儀正しさが作られているなんて恥以外の何物でもない。
児童個人に貸与されているはずのタブレット端末を、教員が無言で取り上げる行為は窃盗とどう違うのだろうか?
コメントのお返事:
コメントありがとうございます。嬉しいです。
PISAとかOECD の調査とか?の学力的な面は日本は上位ですが、一方で幸福度や社会を変える力があると思える点は低いですね。この辺りも含めて考えたいですね。
考え直してみましたが、子ども同士で靴の揃え方をチェックさせるのは、自分にはやっぱり悪趣味で恥に思います。そういう部分が映像化され、改めて日本の教育の一部分と向き合うきっかけをいただいたのはいい事だと思います。
とくに感動するところはなかったです
とくに面白い映画でもなかった。ドキュメンタリー作品としても、それほど優れているとは思いませんでした。
海外で評価されているようですが、それは日本の学校に対するもの珍しさもあるのではないでしょうか。
ただ、こういう作品を撮るのはかなり大変だっただろうなと推察します。
個人情報やら肖像権やら、いろいろと面倒くさいことをいうこの時代に、よくこういう映画が作れたなと。
一人ひとり保護者の承諾を得なきゃいけないだろうし、撮影にこぎつけるまでにかなり手間がかかったんじゃないかな。
それから、本作では、大都市の小学校の様子をとらえていますが、地方の田舎の学校とでは、同じ小学校でもその有り様はかなりちがうのではないか、などと考えたりもしました(東京と大阪でも、だいぶんちがうのではないか)。
それにしても、昔は、——ぼくが学校にかよっている頃は、——小中高大をとおして見ても、卒業式に泣いたりする男の先生はひとりもいなかったように思います。時代なのかなぁ。
あっ、それから、あの音楽指導の先生はちょっと怖かったです。
成長するということ
小学校の日常を描いた映画
成長する姿
1年生、入学して幼い姿
6年生、最高学年としてはまだまだ幼い姿
1年がたつとこんなにも違うのか
なぜこんなにも成長するのか
子供だから?吸収力がある?
実践をしているからではないのか
子供の頃は学校にいけば好きな事も嫌いなこともある
とにかく毎日が新しい事の連続
新しい学校、新しいクラス、新しい委員会、部活、授業、全て強制的に出来ないことをやらされる
苦手なこともやる
嫌いなこともやる
その上での成功体験、失敗体験
成功させようとする過程
成功したときの自信
失敗したときの悔しさ、情けなさ
ダメな自分と思うことすら成長なのではないか
成長とは心がするもの
肉体は寝て食ってれば勝手にそだつ
心を成長させるためには成功と失敗が必要
子供はそれを日々、毎日行う
だから成長するのではないか
大人だって成長することは出来ると思った
大人になると、自分の好きなこと、やりたいこと、出来ることを仕事として、苦手を選んで失敗することをを逃れようと生きている
無難な日々が続き、同じような毎日になる
そうすると毎日が習慣になる
実践をしなくなる
実践と習慣は違うもの
習慣は心を成長させない
当たり前に出来ることが習慣
目をつぶっても出来ることが習慣
子供の頃は強制的に実践させられ成長させられていた
大人になると強制的ではなく、自分の意思で成長を求めないと成長は出来ない
大人と子供の成長の違いとはこのようなことではないか。
先生も一緒に怒られてあげる
昔と変わっていなかった学校
諸刃の剣 協調性と同調圧力
日本の小学校で行われてるTOKKATSU(特別活動)が海外で注目を集めているという。本作にも出演なされた国学院大学教授の杉田洋教授が現在エジプトで特別活動導入の指導をなされている。
本作の舞台となる塚戸小学校でもこの特別活動を通して成長する子供たち生徒と教師の姿が描かれている。
特別活動とは何のことかと思いきや何のことはない。我々がやはり小学生の時に普通にしていた教室の掃除当番やら、給食当番やら、保険係などなど、クラスの中でそれぞれ役割を決めて自分が任されたことをすることだ。その活動を通してコミュニティ内での自分の役割を認識して自分が役に立てたことに自信を持てるようになり、コミュニティにも役立つというまさに個人と集団に対して相乗効果を生み出す仕組みだ。
集団生活の中でルールを学び協調性を身につけ、そしてその集団の中で自主性を育んでいく。集団とのかかわりを通して自分は何者なのか自己確立を目指す。
この点は欧米などとは違い、向こうは先ずは自主性を芽生えさせる、自己確立を促してからルールを学ばせ協調性を身に着けさせる。主体性、協調性共に重要だがどちらに重点を置くかで子供の成長の仕方も変わってくる。
日本人は協調性を重んじるばかりに集団内での空気を読みすぎて自己主張が苦手だと言われる。逆に欧米で育つと帰国子女なんかが自己主張が強すぎて日本の学校のクラスで浮いてしまうなんてことがよくある。
確かに協調性ばかりを重んじればそれは同調圧力にもなりうる。杉田教授は講演で日本の教育は協調性を学ばせる点で海外からの評価が高いと言われるが、ルールを重んじるあまりルールからはみ出す子供が排除されてしまう危険性もあると指摘する。いわゆるいじめなどにもつながりやすいということだ。だからこそこの教育は諸刃の剣なんだということを肝に銘じてほしいと話された。
確かに海外から評価されている日本の特別活動。しかし常に時代の移り変わりを通してどう子供たちと向き合っていくべきか常に模索し続けなければならないのだという。教育者としてけして現状に甘んじていてはいけないのだという杉田氏の言葉だった。
現場の教師たちにも同じ姿勢が見られた。若い教師が何人か出てくるが、彼らはまだまだ経験が浅く日々自問自答しながら子供たち生徒と向き合っている。自分は厳しすぎやしないか、今のは怒るべきだっただろうか。常に試行錯誤を続け、けして現状に満足せず生徒を通して学んでいこうとする姿勢が見受けられる。
学校は学びの場だ。子供たち生徒だけではなく、大人たち教師にとっても。先生は読んで字のごとく先に生まれたに過ぎない。先生も生徒を通して教師たるものを学んでいく。
集団内での自分の役割を与えて集団に貢献できることを学ばせ自分が役に立てる存在だと自覚させることで子供に自尊心が生まれる。縄跳びが苦手な生徒も、楽器の練習に自信が持てなかった生徒も教師がサポートするなりして目標達成につなげて自信をつけさせる。
そうして自分は社会で役に立つ存在だと自覚させる。自分は社会の中で尊い存在なのだと。そして実際社会にも役立つ人間へと育っていく。
社会で生きていくにはとても大切なことを幼いころから学ばせるTOKKATSUが世界的に注目を浴びるはずである。
いつも行くミニシアターには珍しく子連れの観客が目立った。みな小学生くらいだ。感心したのは鑑賞中誰一人私語もせず行儀よく鑑賞していたことだ。さすがである。
自本の初等教育の今と過去
フィンランドをはじめ、海外で注目を浴びる日本の初等教育の実態がある程度分かる映画かもしれない。しかし、実際には、この映画を見ることで、戦後の日本の教育の現実とを比べることをお勧めする。日本の過去の小学校教育での生活面や行事での指導された状況は、映画で見られる現在とはかなり違ったととらえる人たちも多いことだろう。無言清掃・無言食事、厳格な整列訓練等々、しつけと言いながら、今では想像できないほどの厳しい決まりが多くあった。当然体罰もかなりあった。まるで軍事教練のようだという評価を下す人日本人もいたようだ。昔の欧米の教育だって全く理想的でなかったのと同じように、日本の初等教育だって理想的であったとは言いがたいことが多くあったのだ。今回の映像で見られる教育・しつけは、日本の教育の良い面を残しつつ、欧米教育の民主的で人権を重視する良い面を学んできたことの成果とも言える。今後は、欧米先進国の初等教育が、個人主義の建て前で横暴・我が儘までも認めて無茶をするようになってきたことを押さえられなくなってきた教育を考え直すいいきっかけに、この映画がなるといい。とはいえ、今や、日本の中等・高等教育のあり方が日本では問われている。欧米に遅れに遅れていることで・・・。
まさにドキュメンタリーという感じ。
こういう教育なんだ
学校教育と子どもの成長
生徒も教師も楽しくなさそうだけど大丈夫?~ブラック教育文化
「外国から見た日本の小学校とは」という視点で、私たちが当たり前に思っていた学校の日常から、学校の内情、生徒と教師の喜怒哀楽にまで迫っている本作。
この映画のいくつかのシーンを通して、日本の学校教育が良さと危うさを同時に孕んでいることが見て取れる。
なお、この映画はドキュメンタリーであり、実在する人物が登場するが、教師個人を批判する意図はまったくない。あくまでその教師たちすら巻き込む文化としての日本の学校教育の危うさをここに書いていきたい。
1つ目の危うさは、周りと同じことをやらせすぎる、同調圧力。例えば、靴箱のシーン。廊下をくねくね歩く生徒に「普通に」と注意するシーン。
同調圧力によって、自分はこうしたいという「自分らしさ」(アイデンティティ)が育まれにくくなる。同調圧力のなかで選ぶ自由も多様性もなく、自分らしさは削がれていく。
皮肉にも、映画の中では、先生たちはたびたび「自分らしさ」という言葉を口にして、その大切さを強調していた。その一方、彼らは「普通に(しろ)」という言葉を使って真逆のことを強いており、その矛盾に気づいていない。教師たちの意味する「自分らしさ」とは、生徒が望んだ多様なものではなく、あくまで教師たちが望む限定されたものなのではないか。
2つ目の危うさは言いなりにさせる構造である。
例えば避難訓練のシーン。「遅い!」と言った時の声のトーンと大きさ。卒業式の生徒たちへの言葉。一般の社会で昨今あまり聞かれることのない内容で一般社会でこれらをしたらハラスメントである。しかし、教師たちも苦しそうである。
避難訓練で、逆に生徒が急いで転びそうになったら、今度は「あわてるな!」と怒鳴ることが予測される。つまり、どっちにしても、何をしても、生徒たちは怒鳴られるのでは。心理学では、これをダブルバインド(板挟み)と呼ぶ。
映画内で撮られた言葉かけは、一見生徒たちの注意を引くわけだが、具体的な改善点を教師が指摘しているわけではない(実は指摘できないのでは)。
けっきょくダブルバインドと同じように、生徒たちはどうしていいかは分からないまま教師の顔色をうかがうばかりになる。これは子育てにおける親子関係でも同じことが起こりやすい。
皮肉にも、映画の中では、教師たちはたびたび「自主性を育む」という言葉を口にして、その大切さを強調していた。そのわりに受け身にさせることばかりをしており、その矛盾に気づいていないのである。教師たちの意味する「自主性」とは、生徒が望む自由な行動ではなく、あくまで教師たちが喜ぶ行動を「自主的」にやることに結果的になってしまっている。
それでは、どうすれば良かったのか? 例えば、避難訓練で声かけするとしたら、せめて「急いで」と冷静に言う。卒業式の練習では「ちょっとおかしかったかな? でも、これぐらい元気よく返事をすることをお勧めするよ」と答えることができるであろう。
3つの目の危うさは吊し上げをするスケープゴートである。
音楽会のシーン。私は胸が張り裂けそうな思いになり、映画を見ている時逃げたい気持ちになった。
と同時に、これは俳優たちが演技したフィクションではなく、実在する人物たちが実際にやり取りしたドキュメンタリーだったと我に返ると、やるせなさも感じた。
一般社会の職場で、これをやったら明らかなモラルハラスメントで、一発アウトである。
「練習しないとこうなるぞ」という他の生徒への裏メッセージが忍ばせられたやり取りであった。
しかし教師に悪意はないようである。教師たち自身も自分たちの教育をどうすればいいのか、これでいいのか、葛藤を抱いているシーンが随所にあったのである。
もしも生徒に演奏する能力や2重とびをする能力が足りなくて、練習しても上達しなかったら、どうなっていたのか? 決して美談にはならない。
教師の多くが(というか、あの学校の教師だけでなく、そもそも教育のあり方や子育てをしている親も含む)、「がんばること」と「できること」を分けて考えておらず、がんばればできると思い込んでいる。ここに根本的な問題がある。
走るのが速い人も遅い人もいるのと同じように、人のさまざまな能力には歴然とした遺伝的な差がグラデーションのようにある。
つまり、人によって必要な練習の量は違う。
練習してもできない人もいる(私がそうだった)。練習しなくてもできる人もいる。
何より練習を一律に強要しないことがよいより教育のあり方では、と考えさせられたシーンであった。
練習を全然しなくて、さらに演奏が全然できないなら、その生徒は担当学期から外れてもらえばいいだけの話である。なぜなら、演奏ができなかったとしたら、それは生徒の責任ではなく、選んだ大人の責任だからである。
ここで、再度誤解がないようにしたいのは、これまで取り上げた教師たちの指導方法には改善点が多々あるが、教師個人は批判されるべきとは思わない。
なぜなら、実は生徒たちだけでなく教師たちもまた、この日本の危うい教育文化から抜け出せない学校という職場環境に身を置いているからである。
伝統という名の呪縛に苦しんでいるのは生徒だけではないのである。
ブラックボックスだった学校教育に切り込んだ本作は、非常に示唆に富む内容であった。
教育ホラー映画の感想
某国立大学の教育学部の学生です。
友人から、教育ホラー映画と聞いて,一体どんな内容なのだろうかと疑問に思いましたが,確かにホラー映画だったと 見終わって思いました。
・オーディションで 1 人しか選ばれないということは,選ばれなかった人はダメだと示しているようなものであり,「緊張しないためには?→いっぱい練習して自信を持つことが大切!」という場面があったが,「緊張している人=練習不足」ということを非言語的に暗示していて,頑張って練習しても緊張する子はいるので,子どもたちの自尊心が傷つくと感じた。競争・実力主義を徹底して,その子どもの背景を考えず,学校でその子がどれだけできるかしか見ていないことは残酷だと思う。子どもによって,多様な個性・生活スタイル・家庭環境など様々な事情がある中で,同じ指導・同じ尺度で測って,できないことを責めるのはおかしいと感じる。
・男性の先生がシンバルの女の子を,きつい言葉で刺すように問い詰めている場面は,脅していじめているように感じて,かわいそうすぎて,見ていていたたまれなくなった。みんなの前で見せしめのように,「みんなは何で楽譜がなくてできるの?→練習したから」と言わせる場面は,「先生とリズムを間違えなかったみんな vs リズムを間違えたシンバルの女の子」という構図を作り出しており,みんなに合わせて正しいことをせずに,間違ったことをしたら,周りに迷惑がかかり,締め出されるのだという恐怖感を子どもたちに植え付けてしまう指導だと感じた。このような価値観が学校教育によって,子どもたちに内在化されると,他人のミスを自己責任として責め立てる不寛容な人であふれた社会となり,生きづらさに繋がり,最悪の場合,自死を招きかねないと感じた。また,誰もが個性を持って生まれてきており,みんな違うからこそ,補い合って社会が回っていくのだから,やりたいことをやって,お互いに尊重し合えるのが理想だが,このような指導の下で育った場合,周りの目を気にして自分がやりたいと思ったことに自由に挑戦することが怖くなってしまうのではないかと考えた。主体性を育む教育が必要だと言われているが,主体性とはかけ離れていると感じる。あれもだめ,これもだめ,列を乱さずちゃんとしなさい,問題を起こすなと,自分の個性と意見を出してありのままにふるまうことを否定され,自分らしさを封印して育ってきた子どもたちには,本音と建て前という2面性が育まれるだろうと感じる。自分を守る手段として,「こうやって振舞っておけば怒られない」という方法を習得することはできても,真の心のワクワクや,もっといろんなことを知って,経験して生きていきたいというエネルギーは枯渇していくと考える。学校でも家庭でも,大人に叱られて,否定されてきた子どもは,どこで本当の自分を出せばいいのか?多忙な先生や親の心の余裕のなさは,「子どもを脅して自分の思い通りに管理しようとする」という接し方に繋がり,結果として,子どもたちがどんどん生きづらくなっていくと鳥越千寛思う。そのような環境では,自分が自分でいていい感覚,他者に共感する力,他者を思いやる優しさなど,人間としての豊かな心は育まれず,無気力になってしまうと感じる。
・男性の先生は,演奏を成功させようとしすぎており,「子どもたちが音楽を奏でる過程を楽しむことで,感性を育む」という視点が欠けていると感じた。正直,演奏が下手でも,子どもたちが生き生き演奏する楽しさを学ぶ方が重要なのではないかと考えた。身勝手な「先生は,信じているからね」という言葉は本当に怖いし,「練習に来ない人は心をそろえることを壊しています」「こんな人が代表でいいのですか?」「オーディションに受かったから終わりなのですか?」というような,脅して圧をかける指導方法では,子どもたちは恐怖とプレッシャーで萎縮してしまうと感じた。私は,学校教育は,「躓いた時の立ち直り方」や,「人に頼り頼られ,協力して生きていくこと」を学ぶためにあるのだと考えておいるため,失敗を経験してなんぼだと思う。恐怖で支配するのではなく,頑張って練習する意味を子どもたちに問いかけて考えさせ,合意の上で進める方が,子どもたちの生きる力を育むことに繋がるため大事だと感じる。
・女の子の気持ちを言語化して,安心させるような女性の先生のフォローがあったことがせめてもの救いだと感じた。女性の先生や ,大太鼓の子をはじめとする優しいクラスメイトがいなかったら,女の子は学校自体が怖くなり,不登校になっていた可能性もあると考えた。(先生同士が意図して怖い役割と優しい役割を分担しているのかはわからないが,そこまで追い詰める必要はないと感じた。)
・先生は,人数の多いクラスを 1 人でまとめて管理していくために,「先生からの指示が全部正しい」というように生徒に対して示すが,「それは誰が決めた正しさなのか,正しさなんて 1つじゃないよな~」と顧みる感性を持っていてほしいし,自分の中の常識に当てはまらない子どもがいたとしても,その子どもの考え方や背景に耳を傾け,対話して共に考えるという心の余裕をもてるような労働環境の改善が必要だと思う。自らの信念を疑わす,がむしゃらに頑張っている先生こそ,視野狭窄に陥る危険性があるのかもしれない。先生自身が頑張っているからこそ, 「努力=素晴らしい,みんなも努力するべき」という価値観を,子どもに対して押し付けてしまうのかもしれない。生徒が起こした問題と思われる行動は,問題ではなく,生徒からの SOS かもしれないという視点や,生徒が成長していくきっかけとなるという視点が持てるような,子ども 1 人 1 人と向き合える労働環境の改善が必要不可欠だと考える。
・子どもにとって「学校という世界は全てである」といっても過言ではないほど,学校で先生から教わること,人間関係などは,人格形成に大きな影響を持つと感じる。「学校での常識が,生きる指針となり,社会の常識となっていく」と考えると,やはり教育の持つ鳥越千寛力はとても大きく,教育が変われば社会が変わるのではないかと考える。今のままではやはり何かおかしいと感じるし(たくさん真面目に働く人を育てて,経済を発展させるための教育になっているかも) ,そのおかしさに気づいていない人,自分も含めてだが,気づいていても従っている人が多いのかもしれない。だから何か変えたいと思う。
原題のほうがあっているかも
小学校に入り成長する子どもたちの姿、コロナ禍での大変な時期の小学校での様子、先生たちの葛藤などドキュメンタリーとして楽しむことができた。日本では多くの人が小学校で体験してきた内容で懐かしくも感じるし、子どもの成長物語もよい。
合奏練習シーンや運動会練習のみんな同じレベルできないといけないプレッシャー、それに耐え良くなろうとして努力する姿は、原題の日本人のつくりかた、のほうがあっている気がした。なぜ日本ではタイトルかえたのかな?先日、メキシコ映画の[型破りな教室]をみて、教育について心震える体験をし感動が強かった分、型にはめる教育をみてしまったという印象。映画の子どもたち、先生たちも素晴らしい。ただ、教育方針が日本ならではの、こうでないといけない、というものなので、観たあと、ややモヤっとした。
日本の小学校をとらえた素晴らしい映画
全99件中、21~40件目を表示