「わたしたちは誰だったのでしょうか。」わたくしどもは。 栗太郎さんの映画レビュー(感想・評価)
わたしたちは誰だったのでしょうか。
「わたくしどもは。」のタイトル。丸で終わるので、なにか決意みたいなものを感じたがそうではなかった。むしろ、英題の「who were we?」の迷いこそ、この映画の世界。
"私(たち)は何者なの?"
まさにその問いを探して迷い彷徨う。さらに、
"そこはどこなの?"
がその迷いを深めていく。そこをただ、小松菜奈ってミステリアスでキレイだわって雰囲気映画で片づけてしまったら、この映画を味わい切れていない。一言でいえば、「人が成仏する」姿を描いている。人は死んで、四十九日が過ぎたら成仏できる。だけどこの世に未練を残してできない人もいる。その境目ってなんだろう?すんなり成仏できた人、出来損ねそうになったけどできた人、現世に未練を残し執着してしまった人、、、。死んだ後の49日の間に、言ってみれば閻魔様のお裁きの前だか後だか、三途の川を渡ってからだかどうだか、とにかく何かあるのだろう。未練を残さずすんなり極楽へ向かえる人と、執着があって行けずに迷う人と。映画はその49日の世界だ。迷いが吹っ切れたキイは晴れやかに階段を昇って行ったし、執着を残す男は夜を彷徨い続ける。わずかでも仏教的な観念が知識や体験にあれば、この世界はすうっと体にしみ込んでくるだろう。
僕はこの映画を、ご当地佐渡で観た。金山のごく近くにあるガシマシネマという小さな映画館だった。
たまたま、佐渡へ旅に行っている最中の上映で、オール佐渡ロケとあればぜひご当地で、という気持ちだった。それは些細な動機ではあったけど、鑑賞時の気分には素晴らしい効果があった。なにせ、いま、目の前のスクリーンの中にある幽玄な世界は、自分が今ここにいる現実とつながっている、という奇妙なシンクロ感に包まれるのだ。もしかしたら、自分も今この「49日」の中なのではないかという浮遊感さえした。
そしてその時、思った。人が死んで、阿弥陀様のおわす極楽浄土(もしかしたら地獄かもしれないけど)へ行く。その成仏する過程を、現世→49日→浄土とした場合、この佐渡は、本土(現世)→佐渡(49日)→西の海の彼方(浄土)の位置づけと言っていいのではないかと。つまり、佐渡は浄土へのトランジットの島なのだ。死の世界に比される場所と言えば紀州(根の国)や下北(恐山)やほかにもあるが、紀州では陰湿だし、恐山では怖い婆さんが出てきそうで怖い。なにより、地獄にしか行けないような気がしてならない。その点この佐渡ならば明るさがある。冬の厳しさはあるだろが、たぶん撮影時は今と同じ初夏だったろうし、その季節の佐渡はどこか極楽に近い気がする(大野亀のトビシマカンゾウの群生を見たせいかも)。だから僕は、空が広く西に海がひらかれた佐渡でこそ、この映画の舞台としてふさわしい、と思った。