異人たちのレビュー・感想・評価
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オリジナルは未見
私は男性で女性が大好きです。ゲイの監督が、原作に無いゲイ描写をテーマにして作り変えたけど事前にその事を知らなかったので、男同士の絡みのシーンはあまり見ていて楽しくはなかったです。エゴイストは予告編で男同士の絡みのシーンがあったので回避できました。評判は良い映画ですが、見るのは躊躇してしまいます。女の子の方がつるつるして小さくて可愛いじゃん?
ゲイ御用達のペットショップボーイズとか楽曲リラックスとか( 他にもあったかな?)流れていてどこを取ってもゲイの為の映画でしたね。
幼くして両親を亡くした主人公の脚本家の唯一の相談相手が両親の幽霊で、仕事の合間に何度も何度も両親と共に住んでいた廃家に電車で向かう時の何とも言えない表情が切ない。幽霊でもいいから会って話しをしたい人っているよね。
そして若い彼氏から、その両親に会いに行く事を咎められるんだけど両親を取るか、彼氏を取るかの選択を迫られるんだけど選べないでしょう?そんな事言われても。
何だかんだあって、ある日突然両親に会う事が出来なくなって彼氏を選ぶ人生を歩む事になる訳だけど、何となく彼氏の住んでいる部屋に行くと...、そこには彼氏の死体があって...、実は彼氏は既に死んでいて主人公が愛した人はまたしても幽霊だったという救いようの無い悲惨な話しなんだけど、ここで主人公はそれでも彼氏を愛し続けると言って終わる。ここで流れる曲がいい曲で歌詞も良かった筈なんだけど忘れちまったよ。( フランキーゴーズトゥハリウッドのパワーオブラブでした。モアイさんありがとうございます。)
このラストシーンで分かった事は、この作品でゲイをテーマにしたのは大正解だという事だ。男女の恋愛だったらここまで切ないシーンにはならなかった筈です。ゲイは身を助く。この言葉で締めさせて頂きます。ご清聴ありがとうございました。
パーソナルな思いが込められるも、夏が失われ…
山田太一原作×大林宣彦監督の1988年作『異人たちとの夏』。
山田太一にとって自分を重ねた特別の作品であり、大林監督の名作の一つ。
情緒と郷愁。ちょっぴりのホラー。心鷲掴みにされるほど感じる日本の夏。
キャストの名演も含め、絶品。大林監督の作品の中でも特に好きな一本。
気鋭アンドリュー・ヘイのメガホンで、英リメイク。
基本設定は概ね踏襲。
マンションで暮らすシナリオライター。幼い頃に両親を事故で亡くし、孤独の身。
ある時途中下車した下町で…ではなく、幼い頃住んでいた家へ。そこで死んだ筈の両親と再会し…。
オリジナルでもそうだが、両親は大人になった自分をそのまま迎え入れてくれる。久し振りに実家に帰ったかのように。
こういうタイムスリップものでは不思議な設定だが、それが堪らなく魅力でもある。
失われた時が失われていなかったら…?
長かった空白の時間を埋めるかのように、幾度も幾度も通う。
大人になっても子供にとっては親。親にとっては子供。
短い共に過ごした思い出、孤独だった悲しみ、今の悩み、再会出来た幸せ…。
語り、思いを打ち明けるも、その日々は永遠ではなかった…。
日本から英ロンドンに舞台変更になっても、この儚さは日英共通。いや、万国に通じるだろう。
しかし作品はオリジナル忠実ではない。その他の設定がかなり大胆脚色されている。
まず大きな違いは、主人公アダムの同性愛設定。
オリジナルでは、風間杜夫演じる主人公が同じマンションに住む名取裕子演じる女性と惹かれ合うが、本作ではバリーという男性に。
バリーからのアプローチを当初は躊躇していたが、やがて受け入れる。
両親との再会、バリーとの愛。孤独だった日々から一転、愛する人たちとの蜜月に満ち足りた幸せを感じていたが…。
オリジナルの名取裕子の強烈インパクトほどではないにせよ、バリーにもある秘密が…。
一応は設定を踏襲しているが…、そもそも何故に同性愛設定…?
バリーと愛を育むが、母親は動揺。父親は幼い頃から薄々感づいていた。
同性愛の主人公が両親に打ち明け…な同性愛題材のドラマみたいで、ここだけちょっと趣旨が変わっているような…?
監督アンドリュー・ヘイが自身を投影。
監督も同性愛者。まだ同性愛が寛容ではなかった1980年代。その時代に成長した同性愛男性。悩みや両親との関係…。
原作者の山田太一も主人公に自分を重ねた。
自身と自身の過去に向き合う。趣旨は違うが、共通するものはある。
それは原作者にも響いた。山田太一は新たな視点に納得し、本作の公開のメドが付いてから亡くなったという。
昨今の日本のTVドラマ界のようなオリジナルへのリスペクト皆無の悪質な改変だったら問題だが、そういった思いが込められ、原作者も納得したなら問題ナシ。
アンドリュー・ヘイのパーソナルな思いを込めた演出。
アンドリュー・スコット、ポール・メスカル、ジェイミー・ベル、クレア・フォイの複雑繊細な演技。
映像も美しい。
だけど個人的に残念な点が。
やはりオリジナルのお盆という日本の夏の雰囲気は特別だった。それが作品を格別なものにしていたと断言してもいい。
本作でも監督が幼少時に住んでいた家を使用したり、おそらくイギリス人が見ればノスタルジーかきむしられる場所や描写もあるのだろう。イギリス舞台でこんな事言うのは野暮だと分かっているが、それでもやはり、
作品を思うだけでこみ上げてくる。堪らないほどの郷愁。下町の雰囲気。両親との思い出。何処からかひぐらしの鳴き声も聞こえる。儚さと共に、夏も終わり…。
この日本特有の味や旨味が損なわれていたのが残念だった。
本作も秀作レベルで悪くなかったが、どーかしてもいいくらい心惹かれるオリジナルには及ばなかった。
主人公のセクシャリティ故に際立つ誰もが抱える孤独
大林宣彦監督が好きで映画「異人たちとの夏」好きだったんです。でも、物語の意味はわかってなかった。この作品の奥底に大林宣彦監督の頃からあったテーマにやっと気付けたのは、この主人公がゲイとなってリメイクされた「異人たち」でした。
主人公がゲイになった事をポリコレ改変に辟易してる人は腹を立てるかも知れないけど、俺はこの作品ではテーマを伝えるための効果的な脚色演出と思えます。
何故なら主人公とその出会った男は互いに好意を持った男性同性愛者同士であるのに、自称するセクシャリティが「ゲイ」と「クィア」で違うからです。男同士で好意があって同じ属性でも違う個性の他人なのだと、それは主人公を間違いなく愛してる両親でさえも受け入れられず時に傷付け合ってしまう他人なのだと思い知らされるからです。
どんなに愛していても好き合ってもどうせ傷付けあってしまう他人だと言う事を、主人公が男性同性愛者であるが故に男と女は違うからなんて言い訳も出来ずに思い知らされました。
そして映画を最後まで観て思ったのはどうせ人はみんな独りだし孤独は付いて回るけど、なら自分の孤独や寂しさに過去のトラウマを乗り越えたり生き残った自分を他人と繋がりにどう生かし生きていくのかが、誰かと迎えるハッピーエンドじゃなくても自分が誰かを愛する事が出来るハッピーコンティニューなんじゃないかと思える終わり方でした。
エンディング曲の和訳つけて欲しかったな〜
The power of love あの曲がこの映画で主人公が何を経てどこへ向かったかわかる気がする
誰かを愛する気持ちには
天から授かった不思議な力が宿っていて
この魂の犯した罪をきれいに洗い流してくれる
それは何かを強く求める気持ちが燃え上がったもの
その激しい炎で
余計なものを拭い去り,人間を清めてくれる
だから他のものに惑わされず
「愛すること」を目印に
人生を歩んでいけばいい
フードを被った悪者から守り
吸血鬼も近づけないようにする
追い詰められてしまった時も
心配しなくていい
すぐにそこに駆けつけて
何があっても味方になるから
妬みの気持ちを持ってしまうと,結局傷つくことになる
だからそんなものに囚われず
光の輝き,咲き誇る花,真珠や美しい少女のように
見るだけで人を幸せにしてくれる,そういう人間になればいい
誰かを愛するその気持ちが
まるでエネルギーのように
今も身体へ流れ込んでくる
誰かを愛する気持ちには
天から授かった不思議な力が宿っていて
この魂の犯した罪をきれいに洗い流してくれる
それは何かを強く求める気持ちが燃え上がったもの
その激しい炎で
余計なものを拭い去り,人間を清めてくれる
だから他のものに惑わされず
「愛すること」を目印に
人生を歩んでいけばいい
これから2人で胸を張れる人間になろう
固く抱き合った恋人達は
誰にも手出しできない神聖なもの
誰かを愛すると
傷つくこともあるけれど,同時に喜びももたらしてくれる
その気持ちは純粋なもの
この世で大切なのはこれだけだ
本当に大切に思ってる
だから他のものに惑わされず
「愛すること」を目印に
人生を歩んでいけばいい
思ったよりもずっとよかったですが、ラストがちょっと…
山田太一の小説が原作。かつて日本で映画化もされた作品の再映画化です。
山田太一は戦後の平凡な日本人の心情、有り様をあまりにも正確に捉え、描写する、稀代の作家であったため、山田太一作品を本当に理解し、楽しめるのは、山田太一と同じ昭和・平成を生きた日本人だけだと思っています。もちろん山田太一作品には普遍的なものも確かに存在し、時代が変わっても変わらぬ人の有り様をその作品に見つけることはできると思うのですが、それでもやはり日本人でなければ分からないと思うのです。
とまぁ少し排他的な考え方かもしれませんが、これはもう日本人の特権だと思っていますので、今回イギリスで再映画化と聞いた時から期待はしていませんでした。(たとえ日本での再映画化であっても彼の域に達している作家はいないと思うので、やはり期待できないのですが)
とはいえ、U-NEXTの未使用分ポイント期限が迫っているし、やっぱり気になってはいましたので、それならもう見に行こうというセコイ理由から劇場へ足を運んだのです。
結果、元々期待していなかったせいもあり、思いのほかよかったです。
同性愛者として人を愛する事に対する恐れ、SEXが死のリスクを伴うという恐怖、時代は変わり同性愛者への世間の風当たりも変わったし、それを理解しようとはするが、過去のトラウマからどうしても抜けられないという切実さ。
そしてそんな自身の性的指向によりイジメにあい、自室で泣く息子に気づいていながら見て見ぬフリをしてしまった父親の告白。
私自身は異性愛者ですがこれらは何とも胸に迫るものがあります。
そしてこの映画で印象深いのは、家族揃ってクリスマスツリーの飾り付けをするシーンです。ここで主人公の母親がテレビ?から流れてくるペットショップボーイズの[オールウェイズオンマイマインド]に合わせて唄いだし、それがそのまま息子へのメッセージになっているという演出。個人的にはこういうの大好きです。映画のために書き下ろされた曲ではなく既存の曲を使うっていうのがいいんですよね。
自分の様に何も創作できない人間は既存の創作物を引用する事ぐらいしか表現方法がありませんが、そういう表現をプロも用いるというのが嬉しいのかもしれません。
山田太一作品では他に「岸辺のアルバム」で自分の家族の内情がボロボロである事を知った国広富之が、半狂乱気味に「とてもがまんができなかったよ」と[函館の女]を唄いながら帰ってくるシーンも印象的でした。
これらは本来の歌詞の意味からは少しズレたシチュエーションで唄われるのですが、それでもちゃんとマッチしているのがいいのです。
もう一つの印象的なシーンは、両親と三人でレストランへ食事に行くシーン。これは大林宣彦版にもある鉄板シーンですが、やっぱりいいんです。
何かを成し遂げただとか、成功したとかでなく、ただ無事に大人になって生きているってだけで、親は子供のことを何より誇りに思ってくれるという限りない愛情。本当に世の親達は全員そうであって欲しい!
子供を持つことは愚か、誰かと家庭を築く可能性もほぼついえた私の様な子供を持つ、私の親もきっとまた、ただ生きているだけの私でも誇りに思ってくれている!と、そう思いたい!!(確認する勇気はありませんが)
と、舞台がイギリスになった時点で既に、日本人観客にとっては大林版をこえることはないと思っていた映画ですが、思いのほか見入ってしまう場面がありました。
ただ、だからこそラストはいただけません。元の作品では主人公は異人たちとの交流を経て生きるということに向き合う決意をします。ところが今回の映画のラストから自分が受けた印象は、生きるという事に背を向けた主人公が異人と旅立つというものでした。
このラストは制作者の一番リアリティのある心情なのかも知れませんが、これではレストランで両親が『ただ生きているだけで誇らしい』と言ってくれた言葉がまるっきり無意味になるじゃないですか!?そりゃ時に親の言葉って人生の枷になりますけど、これ程子供に都合のいい、ありがたい言葉がありますか?そういう人からもらった言葉を無碍にする人はそりゃ孤独になりますって!そのことに同性愛者・異性愛者なんて関係ありませんよ!
「恥じて生きるより熱く死ね!」ってのは[男たちの挽歌]のキャチコピーですが、孤独に寂しく生きるぐらいならようやく見つけた愛を抱きしめて不寛容な世間から離れる方が幸せ!っていうのも映画のオチとしてありだと思います。ただね、曲がりなりにも山田太一作品でそれやって欲しくないんですよ。
確かに山田太一作品にも悲劇的な結末はあります。目の前に横たわる問題に対して無力感だけが残る物語もあります。ほんの少し身をよじって人生にあらがうが、結局元に戻ってしまう人々の物語があります。ですがそれでも続いていく人生を、この社会の中で生きていく凡庸な私たちの姿を描き続けたのが山田太一だと思うのです。
是非「想い出づくり。」を見てください。「早春スケッチブック」を見てください。「ふぞろいの林檎たち」を見てください。「丘の上の向日葵」を見てください。「ありふれた奇跡」を見てください。
何者でもない私達の、そのなんてことのない人生に、ほんの少しひたしみを感じさせてくれるハズです。
この映画を観て前向きな気持ちになれた人がいるならそれで大いに結構なのです。むしろ自分がこの映画のラストをあまりにネガティブに捉え過ぎているだけかもしれません。自分はあくまでも山田太一の小説が原作だからこの作品に興味を持ちました。なので作品を観賞する姿勢がどうしても山田太一作品としてどうか?になってしまいます。そういう観点から観るとどうしてもこの映画のラストは残念に見えてしまうのです。
救済
此方側とあちら側を行き来するファンタジー。
親と子供の思いは、どの国に行っても同じ。
どちらかが居なくなっても。
作り手、お国柄の亡くなった方への
向き合い方と、現在の孤独感と恋愛を幅広く捉えた異世界がテーマ。
話せなかった両親と話せるのは
素晴らしいし有難い事。戻れる家があるだけで
幸せである。不思議な世界に引き込まれたけど。
心のパズルを埋める異人達との救済でした。
孤独を癒す存在
山田太一原作の「異人たちとの夏」を原作にした本作。原作は読了。その前提での評価。
異人たちとの夏とは別物といってもよいくらい、この映画はこの映画、原作は原作。本作は同性愛であることの苦悩、孤独にフォーカスされていて原作とは訴えたいことが違うと思った。映画のあらすじをほとんど読まずに観に行ったので、あれ?こんな話やったっけ?っと最初は混乱した😅ただ、異人たちとの夏を元にした全くの別物と考えれば、そんなに悪い作品ではないのかなと思う。
両親たちに会うことで、アダムは自分の気持ちを少しでも整理できたのかな。そのために両親は現れたのかもしれない。どこからが現実でどこからが妄想なのかわからないが…。ハリーも幽霊かもしれないが、アダムにとってもハリーにとっても一緒にいることで安心できるならあのラストでもよいのかなと思う。いつまでも幸せが続いてくれればなあと祈るような気持ちで観てしまった。でも、アダムは現実世界では孤独であることは変わりないんやよね。切ない。
原作を知っているかいないかでだいぶ評価がわかれそうな映画かなと思った。上映中寝てる人がいて、いびきが聞こえていた💦なんとなく寝ちゃうのは気持ちわかるかもしれない(上映中にいびきはかかんといて〜!笑)
オリジナルとは全く異なる解釈
大林監督の「異人達との夏」と、どうしても比べてしまい、期待もしてましたが、全く異なる世界とテーマになって居て、切り離して観る必要があります。
都会の寂れたマンション、ゲイの中年男性…例え様の無い孤独の中で、クリスマスに故郷に帰り幼い頃に死に別れた両親と出会い、主人公の心が解れていくという展開は、日本の蒸し暑い夏と旧盆、下町というモチーフの持つ意味とは、かけ離れたニュアンスでの設定となり、両親にカミングアウトして、心の重石を取り除く事がテーマとなる。
ミステリアスな邂逅から始まる展開や、心温まる癒しの様なものが無く、伏線も無い上、主人公が魅力的では無いので物語に入り込めず、全体が暗い作品となっている。
3人のオバケと1人の男の話
皆さんがおっしゃるほど、心を揺さぶられることはなかった。
親もただの1人の人間で、自分がそうなように100点満点なはずはなく、ましてや若い頃の親なんて更に未熟で。
でもそんな親でも、目の前にすると子供に戻って甘えたくなるもんなんだな。
これはSF?
それにしても、なにもハリーまで死ななくてもいいのにねぇ。
つくづく愛に縁がないアダムを気の毒に思いつつ歩いて帰った。
しこりを大きくしないで。
大林版は観てません。
アンドリュー・スコットとポール・メスカルの年齢差はちょうど20歳らしい。10くらいかと思ってた…
アダムと父母の交流を観ながら、何に触発されたのかわからない涙が止まらなかった。強く感情を揺さぶる描写でもないのに、涙が顎まで滴るのはなぜだろうと思って見ていた。
多分、アダムの孤独が自分に重なるからなんだと思う。親が早逝してもないし、クィアでもない。でも、人と関わって感じた孤独に耐えられず、そこから誰かと交流しようとしないわたしがアダムに重なった。
それと、親と人間として“ちゃんと”関われなかった後悔も、あるのだと思う。父はもう死んだし、母は生きているが、どれだけ言葉を選んでも、心を砕いても、正直にぶつかっても、“わたしの望む反応”が返ってこない(返せない)とわかっているから、これ以上向き合いたくない。
けど、数多の物語が描く、親との“ちゃんとした”関わりに遭遇するたびに、自分にはなしえなかった後悔を感じる。物語に生きる誰かの母が、わたしの母にも少しは宿っていないだろうかと。
母も父も、彼らなりの愛のようなものをくれたし、必死で働いた金でわたしたちを育てたことを理解している。でも…
本当は自分の親に掛けてもらいたかった言葉や振る舞いを、わたしは虚構から間接的に摂取して、なんとか完全に自暴自棄にならないようにしてるのだろうな。
親以外にも、恋人や友達やきょうだいや街ゆく人に、してほしかったことを、虚構から得て、なんとか生きてる。そんな気がした。
自分が誰かに生きる糧のようなものをあげられたかもわからない。自分だけが欲しがってる気もする。
忘れてしまうのでオチを雑にメモしておくと、
ハリー(ポール・メスカル)は、アダムの部屋を訪ねたあと直ぐに飲みすぎたか薬のオーバードーズかで死んでいた。前へ進むための動機が欲しくて作り出した父と母との邂逅を経て、拒絶してしまったハリーに会いに行くと、もう死んでた。
その後がわからんけど、ハリーの親兄弟に連絡してあげたりするのかな?そして、アダムは人と関わろうとし始めるのかな。胸にはまったしこりを大きくしないように。
とはいえね、めちゃ感動しといてなんやけど、突然自宅に訪ねてくる知らん人を部屋に招き入れないのは、身を守るためには極々一般的やと思うねん。あれでハリーを招き入れるのは無理やって!絶対無理!私なら居留守一択よ。名前すら教えません!!
中堅俳優4人の競演
急に亡くした肉親、逝った方も遺された方も、伝えきれなかった気持ち、後悔している行動、もう一度会えたなら…
12歳の時に自動車事故で両親を突然喪った主人公は、既に当時の親の年代になっている。しかし家庭を持たず、ロンドンの高層マンション27階の部屋で一人、シナリオライターをしている孤独な生活。ある夜マンションの警報が鳴り、誤報と思いながらも建物の外に出ると、6階の部屋にだけ人がいるのに気づく。
部屋に戻った後、その6階の青年が、日本のウイスキーを飲もうと押しかけてくるが警戒し、丁重に断る。
彼との会話から昔を思い出し、懐かしい写真を見返しているうち、両親と暮らした家に行ってみることにし、電車で郊外に向かう。家は昔のままの姿だったのを確認し、帰ろうとするとすると、昔の姿の両親が現れる。そんな筈はないと戸惑いつつも、今はライターをしているという息子を歓待してくれる。久しぶりの再会に温かい気持ちになり、母親には「2人のうちどちらかは家にいるからまたおいで」と言われる。電車でロンドンへ戻ると、6階の青年に再び出会う。前回とは違う印象の青年に気持ちを許し、受け入れる。
何度か電車で両親宅を訪ねるうち、青年に会ったことで、ゲイであることを両親に打ち明ける。当時、同性愛はエイズ=不治の病と結びつけられていたため、母親は息子の告白に、頭ごなしな否定や拒否はしなかったが心配はされた。父親とは、自分が女々しかったため昔からいじめられていた話をする。父親はいじめに気づいていたが、息子を救おうとはしなかった。それは、自分自身がいじめる側に近かったためで、主人公もそれを分かっていた。そして「あの時、部屋に入っていかなくてごめんな。」と息子に謝罪する。
そして、二度目の別れがやってくる。
子育て中の親は年齢的にも完璧な人間ではないし、間違えもする。
ロンドンから田舎への電車での移動が、この世とあの世の移動手段になっている。幽霊ビルのような都会のマンションといい、現実と向き合っているのかわからないような生き方の中年の主人公。それでも、自分と自分の過去に目を背けず前を向くことを、不思議な人たちとの交流の中で学ぶのだった。
泣けた。
どう捉えるかは観る人の人生次第
シャーロックに出演していたアンドリュー・スコットさんが出演とのことで観てみました。
予告では恋人も出来て両親とも会えてハッピーエンドかと思っていましたが、実際は両方とも失う(物理的に、恋人も恐らく刑務所に行くだろうし)結末で悲しいと思いましたが、両親とは分かり合って本当の家族になれて別れ、また恋人とも支え合っている様子だったので、気持ちの面ではハッピーエンドだったのかなぁと思いました。
私は親とは仲が良くなく子供の頃にされたことや、して貰えなかったことを未だに根に持って生きてしまっているので、アダムのように子供の頃の話を腹を割って話し謝り合っていたのは少し羨ましくもありました。
また、私がもしLGBTQだったらまた映画の見え方も変わってくるんだろうなーとも思ったり。
この映画は賛否両論あり、昔の邦画バージョンを観た人にとっては不満があるようですか、私は原作も知らずに観たので特に違和感は覚えませんでした。
強いて言えば、両親と会えていたことや恋人にも両親の姿が見えたこと、時々ジャンプする意識、ただ単に薬でなのかあまりの孤独感からの妄想なのかが気になりました。
初めは脚本家だから書いている作品の中の妄想の話かと思いましたが、あまり脚本家としての描写も出てこないので関係なさそうでしたし...。
最後に恋人の部屋に遺体があった理由やいきさつなども気になったままエンドロールだったのが心残りでした。
追記:他の方のレビューを見ると、どうやら最後の遺体はハリーのだったみたいですが、何故か私はハリーが浮気した相手orハリーの不仲な両親と勘違いしてました。みなさんは何でハリーだと分かったんですかね?
私の読解力が低いだけ?実際にハリーの顔って映りました??
アンドリュー・ヘイ監督の世界観ですかね
うーん、ちょっと難解であったか。(特に最後)
しかし、原作主人公の浅草の両親。英国だとあんな感じで表現されるのか。興味深かったです。
また、同性愛に関する偏見、一世代前は、国を問わず同じだったのだなと感じました。
アンドリュー・ヘイ監督の山田太一に対するリスペクトが感じられ、同時に彼の世界観を楽しめました。
ファミリー・スペシャルよりすき焼きだなぁ‼️
やはりどうしても大林宣彦監督作品と比べてしまう‼️この「異人たち」自体はいい映画だと思うんですけれども‼️「異人たちとの夏」には我々日本人の琴線というか、郷愁に触れるモノがあったと思う‼️ここでは深く触れませんが、果たしてこの「異人たち」を観てイギリスの方は同じような想いを抱くのだろうか⁉️ひと夏の不思議な体験、忘れられない出逢いを描いた映画として優れた映画です‼️主人公や両親、恋人に至るまで役者陣もオリジナルには遠く及ばない‼️そしていくら多様性の世の中とはいえ、主人公をゲイに設定する必要があったのか⁉️ゲイの性描写も含め、主人公たちの愛の情念があまり感じられない‼️そしてこの作品には残酷さというか、非情さを感じる‼️両親もいなくなり、いずれ恋人もいなくなる‼️オリジナルにおける永島敏行さんのような役回りが欲しい‼️ある批評で、孤独と誰かを必要とする気持ちが、この作品のテーマのように言われていましたが、結局、主人公は一人ぼっちになることを示唆した結末だったのでチョット切ないですよね‼️両親もいなくなり、恋人もいなくなったけど、かけがえのない親友ができた、というオリジナルの結末の方が好きです‼️ところで、イギリスにユーレイという概念はあるのでしょうか⁉️やっぱり、ゴースト⁉️
「異人たち」と「異人たちとの夏」
山田太一原作が、イギリスを舞台にしてどんな作品になってるのか、楽しみにしていましたが、期待外れでした😢
亡くなった両親と再会するという設定だけが同じで、あとは別モノでした💦日本版では、浅草の寄席で父親に出会う場面、すき焼きを食べながら両親が消えていくシーンが印象的で、鶴太郎さんのお父さんがいい味出してましたよね~😊
イギリス版では、両親がゲイである息子に当惑したり、自分たちは即死だったのかと問い詰めたりして、興ざめでした😔鶴太郎さんなら、そんな野暮な質問しないでしょう💦
両親に会うたびに主人公がやつれていく、という牡丹灯籠のような展開も期待してたのですが... 😩
Moist
原作が日本であることと同性愛を扱った作品ということ以外はそこまで情報を入れずに鑑賞。木曜日の夕方からの上映って人少なくていいな〜ってなってました。
序盤からホラー的に詰めてる隣人が誘惑してるシーンがあったので、ゲイ=異人たちと捉えて、そういう話なんだなと頭をスイッチしようと思ったら、父と母と主人公の年齢が変わらなさすぎて、ん?ってなって情報量過多で初っ端から混乱させられましたが、その後の展開も正直ハマらずで相性があんまし良くないなーと思ってしまいました。
自分は異性が好きなので、やはりこういう作品は一歩引いて見てしまいがちで、性行為のシーンなんかも息が詰まってしまいましたし、エロティック全開で役者陣凄いなぁが先行してしまいました。
登場人物との関係性もなんだか希薄に感じてしまい、両親が亡くなってるのは早々に気づきましたが、彼氏まで亡くなっていて、最後は彼の元に添い遂げるというあまり好きでは無い余韻の残し方でした。最後の星空の演出もはよ終われ!と思ってしまったくらいです笑
妄想と現実が行ったり来たりするのに加えて、薬も服用してるもんですから、それが頭の中で生まれたイマジナリーなのか、禁断症状から来るものなのかというのもややこしさに拍車をかけていたなと思いました。
妄想での両親との会話は興味深くて、ゲイであることを打ち明けたら、父親は「君をいじめていたかもしれない」というセリフはなるほどなぁと頷いてしまいました。
現代では街中でもオープンになってきたんですが、どうしてそれを見るとまだウッとなる自分がいるので、父親のセリフは正直だなぁと共感してしまいました。
背景込みの映像はとても美しかったです。作品のテーマの繊細さと同居していてそのシーンは特に見入ってしまいました。
登場人物を映すショットもかなり印象的なものになっており、自然光を当ててその人物に視点をグッと持って行ったり、逆に暗闇で悲哀な感じを強めたりと映像へのこだわりがヒシヒシと感じられました。
自分は両親もまだまだ元気ですし、恋人もいたりいなかったり(要約するといなかったり)で、身近で大切な人を亡くしたというのが無いからあまり刺さらなかったのかなぁと思いました。
こういう作品は歳を重ねて面白くなっていくんだろうと勝手に思っていましたが、今の生き方だと多分分からず終いで歳をとっていくんだろうなぁ笑
鑑賞日 4/25
鑑賞時間 18:50〜20:50
座席 K-5
大林宣彦作品はノスタルジーでも本作は喪失感と孤独感の人間愛作品
ベースとなる設定は大林作品と同じで、両親を幼くして亡くした主人公アダム。現在はタワーマンションに一人暮らしをしている。幼少期を過ごした郊外の家に訪れたところ亡くなった両親と再会します。そしてタワーマンションには自分以外の住人ハリーがいることを知ります。ここから微妙に設定が異なっています。孤独に生きてきたアダム。それは同性愛者であることが原因で他人とのコミュニケーションをうまくとれないことがベースにあります。同性愛であることは両親に告知する事、それにより虐めにあっていたことも言えないままだった後悔も彼にはありました。両親との再会により告知する機会を得たのでした。この展開から明らかに大林作品との方向性の違いが明確になります。大林作品は両親は幽霊や亡霊ではないのかそれとも主人公の想い出が回想されているかというファンタジーでした。しかし本作は幽霊、亡霊という意味合いはありません。過去の想い出回想ではなくできなかった思いを伝えており、それにより反応する両親の姿を描いています。これはアダムの妄想、心のイメージではないかと考えられます。ハリーとの関係についても衝撃的な結末を向えます。ラストは小さな光となっていきます。希望の光ではなくせつないラストです。鑑賞者に考えさせるような深い物がありました。
何処までが
幻想か現実かわからない展開が続きますね。親が自分と同じくらいの年齢であったり、でかいタワーマンションに恋人と二人きりだったり、通常の状況で無い違和感のある世界でストーリーが展開されます。ゲイの世界が苦手だと少し長いかもしれないですね。
彼と共に向かう先にあるものは、きっと心温かい春の日差しなのだと思います
2024.4.25 字幕 MOVIX京都
2023年のイギリス映画(105分、R15+)
原作は山田太一の小説『異人たちとの夏』
舞台をロンドンに変えて、主人公の性的属性を変更した脚色がなされている作品
幼少期に両親を亡くした青年と同じマンションに住む孤独な青年との邂逅を描くヒューマンドラマ
監督&脚本はアンドリュー・ヘイ
原題は『All of Us Strangers』で、直訳すると「私たちは皆、見知らぬ人たち」という意味
物語の舞台はイギリスのロンドン
タワーマンションに住む脚本家のアダム(アンドリュー・スコット、幼少期:Carter John Grout)は、12歳の時に両親を交通事故で亡くしていた
今はタワーマンションの高層階にて一人暮らしをしていて、煮詰まった脚本に手を焼いていた
ある日、マンションの火災報知器が鳴り響き、外に出たアダムは、階上から自分を見る視線に気づく
その後、誤作動がわかって部屋に戻ったアダムの元に、その視線の男・ハリー(ポール・メルカル)がやってきた
ほろ酔いのハリーは日本のウィスキーを片手に「一杯飲らないか」というものの、見知らぬ人を部屋に入れるのに抵抗を感じ、その場はやんわりと断ることになった
アダムは、時折夢の中で両親との日々を夢見ていて、ある日何気なしに育った家へと向かってしまう
そこには12年前のそのままの姿の父(ジェイミー・ベル)と母(クレア・フォイ)がいて、優しく彼を包み込んでくれた
懐かしい話で心を躍らせながら童心に帰っていくアダムは、偶然再会したハリーとも交流をはじめ、ただならぬ関係へと進展していく
そして、ある時、アダムはハリーを家族の元へ連れて行こうと考えるのである
映画は、山田太一の原作小説を原案として、舞台を日本の夏からロンドンへと変えている
また、主人公の性的志向なども変わっていて、より監督の私小説的な立ち位置になっていた
主人公がある日を境に、亡くなったはずの両親と出会い、その背景で関係を持つ人物が現れるという設定を準えているものの、全く別の作品と考えても良いのではないだろうか
物語は、両親が視えるようになってからハリーとの親交が深まっていくのだが、ハリーもまた両親が視え、両親もハリーが視えているという流れを汲む
察しの良い人にはわかるハリーの顛末であるが、どの時点で事が起こったのかは示されない
一番最初の拒絶の後なのか、実はその時すでにという感じだったのかはわからない
だが、拒絶が引き金となっているとしたら、これほど心を抉る展開もないと思うので、夢見心地だった日々があったと思いたくもなる
それでも、実はアダムも「そっちの人」という可能性もあるので、あの日の火事は本当にあって、それによって取り残された二人の残留思念があの場所に残った、というふうにも見えなくはない
このあたりは、ご想像にお任せしますという作風になっているので、それぞれが思い描くものが最適解に近いのではないだろうか
いずれにせよ、前作および日本語版を観ずに鑑賞したが、却って先入観がなくてよかったかもしれない
LGBTQ+のシーンは結構激しく、ゲイとクィアの関係などが会話に出てくるので、このあたりの最低限の知識は必要だと思う
個人的には火事が本当に起こっていて、その残留思念が見せたものだと思っているが、あの日ハリーを見つけたことで、アダムが救われる物語にもなっているし、ハリー自身をも見つけるきっかけになっているのはよかったのだと思う
母は「ハリーのこともよろしくね」と言っていたが、それは「一緒に天国に導いてあげてね」という意味だと思うので、この解釈の方がしっくりくるのかな、と感じた
わたしにはちょっと難しいかも
原作も読まず、日本版映画も見ず、特に予習なしで観に行きました。
それがあんまり良くなかったのかも。
何故ビルに人が全然いないのか、所々なんでだろ~っと思いながらストーリーが進んでいき置いていかれました。
どっかで説明があったのかも知れないけど、序盤でちょっと集中切れちゃって分からず。
家族と過ごす時間や別れの瞬間は涙が出たけど、なぜ亡くなった両親が実家にいるのか、なぜ別れなければならないのか、説明があるのかなーっと思ったけどそう言うのはなくさよならの瞬間へ。
恋人も異人だったというのは知らなかったから驚いたし、これは原作読んでなくてよかったかも。
でも全体的によく分からなかったから、観賞後、本屋に駆け込んで原作本買いました。
イギリスにお盆の概念がないのかもしれないけど、大筋は一緒でかなり雰囲気変えてるんだなと思いました。
それはそれで全然ありなんだけど、私の頭では説明が少なくて映画全体を楽しむにはちょっと難しかった。
今度は日本版を観てみたいな。
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