「春画について、日本人が日本の春画を日本語で語る《当たり前の光景への感動》」春の画 SHUNGA きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
春画について、日本人が日本の春画を日本語で語る《当たり前の光景への感動》
ドキュメンタリー作家としての平田潤子の手腕。その実力を感じた。
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感想の第一はこれだ、
覩終わって
タメ息をついたのには理由がある。
日本人が、日本人の作った芸術について、日本語でここまで深く語り合っている、・・その光景への感慨だ。
これ、当たり前だろ?と言われるだろうか?
思えば開国以来、我々の おさらいと云えばそれは西洋の物真似に終始していたのだが、正直そこでどれほどの滑稽と卑屈さを味わわずにおれたかという話だ。
例えが長くなるが、
◆例えば「シューベルトの歌曲」。
オーストリア人がシューベルト歌うとき、その歌詞は歌い手の母語でもあり、日々の暮らしの生活用語だ。
解釈や翻訳を介さずに、シューベルトの話し言葉と感性をそのままに、自分の魂で彼らは歌える。
◆「ベートーヴェンの第九」もそうだ。
同胞シラーの詩と250年前の同国人ベートーヴェンの作品を、ドイツ人たちは頷きながら、同意しながら、作曲者たちと一緒となって歓喜の歌を歌え得る。カタカナの歌詞カードはそこには要らない。
◆「チャイコフスキー」。
ロシアのリズムと民謡のエキスたっぷりのチャイコフスキーを演奏するとき、ロシア人同士ならば演奏者も聴衆も“民族の血の鼓動”と“母の子守歌の懐かしさ”をそこに聴き取り、自らの生ける大地を想い感涙する。金管楽器奏者たちもどんな音で吹けば良いのか、生まれつきに彼らは体得している。
上記、
これらの“舶来品”をば、ペリーの開国以来、もっと古くはザビエルの来島以来、日本人の我々は《如何に上手に摸倣するか》に明け暮れてきた。
猿真似をしながらも、あちらからはその東洋人の努力に対しての賞賛は授受はしながらも、決して我々には到達出来る筈のない何かを思い知らされていた。
しかしこの「春の絵」にはそれが無い。
僕が見たのはこれだ、
日本人が、日本人の作った工芸について、日本語でここまで深く語り合っている。
― その光景そのものへの衝撃と感慨なのだ。
開帳される春画のコレクションに、列席者たち全員が色めき立ち、われ先にと紙片に取り付いて語り出す
これしってる
分かるこの気持ち
見たことある
ほらここ! と、そんな具合に。
そして参加者のひとり「春画ール」さんは、その木版画の仮名のくずし字をそのまま すらすらっと読み上げてみせるのだ
おまへのハやらわかで
いっそ きがとほくなるよ
いくよ いくよ いくよ 〜
摺られている文字も、そこに聞こえてくる音声も、まぎれもない日本語だ。二百年まえの浮世絵師が書いてくれたままの、(ドイツ語解説ではない)、日本語のせりふの説明書きなのだ。
そこに、第一に僕はとても打たれてしまったのだ。自分たちの歴史としての春画。 生活に根ざしていた宝としての春画が、そこに取り沙汰されていたからだ。
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本作、
「春画」のその成り立ちの歴史から、作成の意図、そして絵師、彫師、摺り師たちの矜持、ライバル意識。配色の妙。江戸の購入者たちの審美眼が紹介される。
当時の名だたる芸術家たちが最高の技術とオリジナリティをもって残した作品への、解説陣の語る言葉の的確さ。好事家たちの熱弁。エディターの冷静な分析。
それらほとばしる分析や考察にも、見た者自身の想いが重なってゆくのだろうか、声の震えるコメントがそれに続く。
横尾忠則が母を語るシーンが圧巻。
幅広い春画研究から、横尾が歌麿の「願ひの糸ぐち」(1799)をコラージュしていた事を、本ドキュメンタリーの取材班や製作者たちは突き止めたのだろう。あれはよくインタビューして撮ったと思う。
つまり、
御母堂の、亡き骸の胴巻きの中から、汗に濡れた4枚の春画が出てきたのだと。
そのエピソードには僕は総毛立って、もはや「春画の持つ護符の力」、「生命力への頌歌」、そして「爆発する人間の生と死」への褒め称えしかなかった。
まぎれもなく、横尾の母のエピソードがこのドキュメンタリー映画の最高到達点だったと思う。
翻訳無用で、母と息子が、そして我々と春画が、《肌で密着する瞬間》だ。
平安の最古の春画から〜江戸に至るまでの性行為を「命が授けられる不思議」として、
そしてその「行為そのものへの喜び」として、男も女も、死に際の老人も、またもちろん若人も、攻めでも受けでもなく、また支配被支配の関係でもなく、
ともに人間たちが主人公として生を謳歌する世界がそこにはあった。
「平等感覚」的なものを教えられた気がする。
「平和な時代には平和で幸せな春画が作られていた」という事実にも大変に唸らされるではないか。示唆深い。
平和でないエロチシズムは=平和ではない世情を映しているからだと、論者は喝破していた。
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同年に公開された別作「春画先生」は
導入イントロダクションとして、さわりではあったが十分にその役割りを果たしたし、
本作はそこを受けてより学術的に春画そのものに肉迫した。
恐らく
海外でも横文字の、字幕がつけられてアーカイブされていくだろう。
彫師も摺り師も若くて悧発で、それが頼もしい。版元の五代目は彼らを取りまとめていてまことに頼もしい。
森山未來と吉田羊のアニメも大したものだ。彼らのいい声には聞き惚れてしまった。
鏡に映して自分の陰毛を見る。
嗚呼、確かにこれだこれだ!嬉しくなる。流石だよ!
徹頭徹尾、庶民から高貴な人々までの別け隔てのないお楽しみとして、また
きょうの自分の生き方を方向づける指南書として「春画」を見せてもらった気がする。
介在不要で、翻訳も真似事も要らない世界。
江戸直結で、
自身の欲動を尊びたいと思った。
共感ありがとうございます。
さて、正直に申します。
「蔵六の奇病」は高校の時の友人の一方的な押し売り情報です。もっとも、神田に探しに行って見つけたのは事実です。
他は事実です。