コラム:佐々木俊尚 ドキュメンタリーの時代 - 第10回
2013年12月5日更新
第10回:キューティー&ボクサー
この夫婦の存在感、まさに圧倒的な迫力。
女性が美しい銀髪を三つ編みにむすび、唇に紅をつけるところから映画は始まる。老女のような幼女のような、成熟しているような夢見るような、つかみどころのない、でもそこがなんだか魅力的な風情の彼女。コーヒー豆を挽き、熱いコーヒーを淹れる。そして、奥の部屋に声をかける。
「ギュウチャン、ユアバースデイでしょ?」
出てきたのは白髪は薄くなり、どこからどうみても「おじいさん」な風体の男性。歯を磨き、朝食の席につき、こう呟く。
「Eighty Years Oldだからね、いよいよ」
ギュウチャンこと篠原有司男さんは、ニューヨーク在住の現代アーティストだ。21歳年下の妻乃り子さんと一緒に暮らすようになって、40年になる。
妻は夫に、誕生日プレゼントのアヒル形スリッパを手渡す。履いて「クォックォッ」とおどける夫。ケーキが用意される。
「この前のローソクどこやった?」
「80歳のローソクないのよ。3歳用なのよ」
二人が住むブルックリンの光景をはさんで、アトリエにシーンは移動する。ギュウチャンが上半身裸になり、黄色いファンキーなゴーグルを装着し、ボクサーグローブをはめている。80歳にはまったく見えない筋骨隆々。まるでボクシングの試合のセコンドみたいに、乃り子さんはギュウチャンの腕をマッサージし、グローブ装着を手伝う。ギュウチャンはグローブを絵の具にひたし、何かをぶつけるようにキャンバスに重低音の鉄拳を繰り出す。
とにかく何だか異様なまでの迫力と、それとは打って変わって二人の生活の淡々としたたたずまいに、ただひたすら画面を見守っているだけで、1時間22分のこの映画はあっという間に終わってしまう。なんなのだ、この夫婦の圧倒的パワーは。老夫婦なのか、幼児がおままごとで夫婦ゴッコをしてるのか、思春期の少年少女なのか。二人は老人にも見えるし、時には子供にも青年にも見える。年齢とかそんなものを超越した「なにか」がそこに存在していて、その「なにか」に観客の側は打ちのめされてしまう。そういう得体のしれない映画だ。
ギュウチャンは1960年頃の日本がまだ熱かった時代、「日本で初めて頭をモヒカン刈りにした男」などと呼ばれ、前衛芸術家として名を馳せた。1932年生まれというのは、世代でいえばヨーコ・オノ(1933年生まれ)や草間彌生(1929年生まれ)とだいたい同じ。伝説的な読売アンデパンダン展に作品を出展し、赤瀬川原平や荒川修作たちとネオダダのグループを作って活躍した。まあ言ってみれば、日本の現代アートの神話上の人物である。
日本ではそうやって著名人になっていたけれど、ギュウチャンは海外飛躍を目指して1969年にニューヨークにわたった。そして3年後、美術を学ぶために渡米してきた当時19歳の乃り子さんと知り合い、たちまち恋に落ち、そのまま美術学校には行かなくなって、二人で暮らし始めてしまう。そしていつしか、40年。
これでギュウチャンがアメリカのアートシーンで成功していたのであれば、「年をとっても凄い日本人アーティストがニューヨークで頑張ってるんだなあ」というありきたりな感想で終わってしまう話だろう。でもこの物語が恐ろしいのは、ギュウチャンは向こうでは決して成功していないということだ。
それなのにギュウチャンはめげずに40年以上も戦い続け、80歳を越えたいまも敗北宣言なんて出さず、キャンバスにパンチを繰り出し続けている。セコンドの妻乃り子さんも、決してタオルをリングに投げ込まない。どうしてそんなに長い間、ひたすら持続しつづけられるのか、私にはとうてい到達できなさそうな精神の強さをそこにかいま見て、またも打ちのめされてしまう。
ギュウチャンは、この長きにわたる挫折と苦しみを、ごく正直に映画の中で語っている。そして、その道程につきあってしまった乃り子さんも。これほどの敗北の連続の果てに、でもなぜ二人はあんなに子供のように純粋な目をして、稚気あふれるかわいらしさで振る舞えるのか。いや、まだ道半ばだからこそ、そんなふうに歩き続けられるってことなんだろうか。
見終わって、あれこれ考えさせられて、そして最後に行き着いた素朴な感想――こんなに勇気づけられるドキュメンタリ映画って、滅多にない。人生、まだまだこれからだ。パンチ繰り出していこうぜ!
■「キューティー&ボクサー」
2013年/アメリカ映画
監督:ザッカリー・ハインザーリング
出演:篠原有司男、篠原乃り子
12月21日より、シネマライズほかにて全国ロードショー
⇒作品情報
筆者紹介
佐々木俊尚(ささき・としなお)。1961年兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科中退。毎日新聞社社会部、月刊アスキー編集部を経て、2003年に独立。以降フリージャーナリストとして活動。2011年、著書「電子書籍の衝撃」で大川出版賞を受賞。近著に「Web3とメタバースは人間を自由にするか」(KADOKAWA)など。
Twitter:@sasakitoshinao