ケーシー・ストーナー : ウィキペディア(Wikipedia)

ケーシー・ジョエル・ストーナーCasey Joel Stoner、1985年10月16日 - )は、オーストラリア・クイーンズランド州出身http://www.caseystoner.com.au/details.php?item=145 のオートバイレーサー。、のロードレース世界選手権MotoGPクラスチャンピオン。シーズンをもってオートバイレーサーとしては引退している。

経歴

初期の活動

初めてのレースは彼が4歳の時に参加したゴールドコーストでのダートトラックレースだった。6歳で最初のオーストラリアタイトルを獲得し、14歳の時、家族は息子にオーストラリア以外でのレースキャリアを積ませるためにヨーロッパへ移住する。

2000年、ストーナーはイギリスとスペインのロードレース選手権に参戦を開始する。

2001年、両選手権でそれぞれ年間ランキング2位を獲得する。スペイン選手権はダニ・ペドロサの師匠に当たるアルベルト・プーチの下で戦っていたが、この時プーチから車番「27」を与えられ、現在も使用し続けている(ちなみにペドロサは「26」、トニ・エリアスは「24」)。また、この年はロードレース世界選手権にスポット参戦し、イギリスGPで17位、オーストラリアGPでは12位でフィニッシュして初ポイントを獲得した。

世界GP参戦

、グランプリライダー兼チームオーナーのルーチョ・チェッキネロ率いるチーム・LCRから、ロードレース世界選手権250ccクラスに参戦する。ミック・ドゥーハンをアドバイザーに迎える。

は同チームから125ccクラスにエントリーする。第10戦ドイツGPではグランプリ初の表彰台(2位)を獲得。そして最終戦バレンシアGPにて初優勝を遂げた。合計4回の表彰台で年間ランキング8位。このレースを9位で終えたチェッキネロは、このグランプリを最後にライダーを引退、チームオーナー業に専念する意志を固めた。

、ストーナーはKTMのファクトリーチームに移籍する。第12戦マレーシアGPで優勝し、参戦2年目のオーストリアファクトリーに125ccクラス初勝利をもたらした。

は250ccクラスに戻り、再びLCRからアプリリアのファクトリーマシンで参戦する。チャンピオンシップをリードしていたペドロサへの最大の脅威となって終盤までタイトルを争うが、第15戦地元オーストラリアGPで転倒し途中棄権。この時点でペドロサのタイトルが確定し、ストーナーは年間5勝・ランキング2位となった。

MotoGP王座獲得

はLCR・ホンダよりRC211Vを駆りMotoGPクラスにデビュー。第3戦トルコGPで最高峰クラス初の表彰台(2位)を獲得。しかし、シーズン中盤以降は転倒の多さが目立ち、ノーポイントレース7戦が響いて最終的なランキングは8位に終わった。

はドゥカティワークス・チームに移籍し、同チームのエース、ロリス・カピロッシのチームメイトとしてMotoGPクラスに継続参戦。移籍後初レースとなった開幕戦カタールGPでは、7度の世界チャンピオン・バレンティーノ・ロッシを下して初優勝を達成、ポイントリーダーとしてシーズンをスタートした。これをきっかけに怒涛の勢いで優勝を重ね、ツインリンクもてぎで開催された第15戦日本GPで6位に入り、遂に年間王者を獲得。2007年はシーズン10勝を挙げ、最低成績が日本GPの6位(棄権ゼロ)と抜群の安定感で文句なしのタイトル獲得となった(ランキング2位のペドロサとの差は125点)。

は開幕戦カタールGPこそ優勝でスタートするが、第2戦スペインGPで11位に沈みあっさりとロッシに逆転を許す。しかしポールポジションは何度も獲得し、その後イギリス→オランダ→ドイツと3連勝でタイトル争いに絡もうとしていた。しかし第11戦アメリカGPではロッシとデッドヒートを演じた歴史的バトルの末コースアウトしてしまい2位でフィニッシュ。さらにはその後古傷の左手首を骨折した上に2戦連続で転倒し、ラグナセカの時点で25ポイントついていた差が最大87ポイントまでついてしまい万事休す。結局は第15戦日本GPにてロッシにシリーズチャンピオンを決められてしまった。ただし予選獲得順位で決まる『BMW Mアワード』については2位ロッシに74ポイントの差を付ける記録で取得している。

シーズンオフに左手首の手術に挑んで無事に成功し、ホンダから移籍したニッキー・ヘイデンをチームメートに迎えて挑んだシーズンは、開幕戦カタールGPを3年連続で制する好スタートで、シーズン序盤まではロッシやホルヘ・ロレンソと首位争いを繰り広げていた。だが、中盤に原因不明の体調不良で調子を大きく崩してしまい、第10戦を14位で終了した直後には第11 - 13戦の3戦を欠場して静養するという決断を行い、チャンピオン争いから退いた(のちに乳糖不耐症が原因と判明するTitle tilt ahead for Stoner after illness battle)。第14戦からレースに戻ると4戦して2勝と2位1回とファンに復活した姿を見せ、年間ランキング4位という成績を残した。

シーズンの開幕戦カタールGPでは、トップを独走しながらも自らのミスで転倒クラッシュを喫してしまうhttp://www.crash.net/motogp/news/158653/1/stoner_apologises_for_qatar_crash.html。第3戦フランスGPでも転倒リタイヤ、前半戦を未勝利のまま終えることとなりチャンピオン争いから脱落した。その後第13戦アラゴンGPを皮切りに3勝を挙げたが、5度のリタイヤが響いて、年間ランキングではこの年3戦負傷欠場したダニ・ペドロサ、4戦負傷欠場のバレンティーノ・ロッシにも競り負けて4位に終わった。

4年間在籍したドゥカティチームを去り、からはレプソル・ホンダチームに移籍しクラス6年目のシーズンを迎えた。RC212Vをシーズン前テストから乗りこなしたストーナーはドゥカティ時代から一転して安定したライディングを見せ、全18戦ただし第17戦は決勝が中止になった為、実質的には17戦 中10勝、決勝リタイアとなったのはロッシの転倒に巻き込まれた第2戦のみで、後は全てのレースで表彰台を獲得した。自身にとっては4年ぶり、ホンダとしては2006年以来となるシリーズチャンピオンを故郷オーストラリアGPで獲得した。

最大排気量が1000ccに変更された、開幕3戦で2勝し、ポイントリーダーとして臨んだ第4戦フランスグランプリのレース前記者会見で、突然同年限りでの現役引退を発表し、周囲を驚かせたC.ストーナー、今季限りの引退を発表 - motogp.com・2012年5月17日。最後の王座獲得が期待されたが、第11戦インディアナポリスGPの転倒で右足を負傷し、3戦を欠場して年間ランキング3位でラストシーズンを終えた。それでも、地元のオーストラリアGPでは2007年から続く連勝を6に伸ばし、依然トップレベルにある速さをみせつけた。

27歳という年齢で引退を決断した理由については、「このスポーツへの情熱を失ってしまった」と引退会見で語っておりMotoGPチャンピオンのケーシー・ストーナー、今季限りでの引退を表明 - Topnews(2012年5月18日)、2009年の病気欠場の際無理解な批判を受けたことや、CRT(量販エンジン車両)ルール導入などの運営への不信感を挙げた27歳は引退適齢期!? マルク・マルケスの骨折に端を発するMotoGP界の新説を追う! - バイクのニュース(2020年7月26日)。ストーナーの後任にはMoto2王者のマルク・マルケスが抜擢され、翌2013年には早速ルーキーチャンピオンに輝くが、レプソル・ホンダでは2013年にストーナーとマルケスを組ませるプランも考えていたいうあれから8年。MotoGP最大の“IF”を残したケーシー・ストーナーの引退 - motorsport.com日本版(2020年5月20日)。もしそれが実現していたら、マルケスを倒すことができたかという質問に対しては、ロレンソやロッシのようなライバルに勝利してきた経験から「マルケスとタイトルを争うことができたはずだ」とストーナーは答えている”若きレジェンド”ストーナー、引退生活に満足「もうレース必要ない」 - motorsport.com日本版(2017年11月9日)。

引退後

二輪からの引退後は四輪レーシングドライバーへ転向。2013年は地元・オーストラリアでV8スーパーカーの下位カテゴリーであるダンロップ・シリーズに出場することになった元MotoGP王者ストーナーが四輪レースに転向 - オートスポーツ・2013年1月27日。将来的にはV8スーパーカーへのステップアップも予定している。現役引退したもののMotoGPへワイルドカードでの復帰の噂が絶えない中、2013年7月にホンダとテストライダー契約を結んだケーシー・ストーナー氏によるMotoGPマシンのサーキットテストについて - ホンダ・2013年7月23日。2013年は日本国内での4回のテストに参加した。

2015年、かねてから出場を希望していた鈴鹿8時間耐久ロードレースに、限定復帰する形で MuSASHi RT ハルクプロのホンダ・CBR1000RRで参戦ケーシー・ストーナーが2015年の鈴鹿8耐に参戦 - 本田技研工業ニュースリリース・2015年3月27日 した。決勝で第2走者としてトップを走行中、ヘアピンへの進入の際にグラベルへとコースアウトし、クラッシュ。マシンが大破し、その場でリタイアとなった【鈴鹿8耐】ケーシー・ストーナー、まさかのクラッシュ - Response.・2015年7月26日。そして、自身もグラベル上に回転しながら叩き付けられ、クラッシュバリアまで飛ばされてしまう。後に自身のTwitter上にて、転倒の際に右の肩甲骨と左足の脛骨を骨折した事を明かしたWell my Suzuka8H ended spectacularly! Stuck Throttle = Broken Scapula + Fractured Tibia and a few more tweaks. Instagram 2015年7月26日。ホンダの解析によりこの転倒はライディングミスではなく、マシンのスロットルに不具合が生じた事が転倒の起因であったと発表されている Honda Racing Corporation。

2016年はドゥカティに復帰し、MotoGPマシンのテストライダー及び同社のブランドアンバサダーに就任ストーナー『マルケスは僕に脅されてる気分だった』 - itatwagp.com・2016年1月6日。同年3月には、テスト中の怪我で欠場するダニロ・ペトルッチの代役としてMotoGPへの復帰が取り沙汰されたが、チーム側が「フィジカル面に問題がある」と判断し復帰話は流れたドゥカティ、ストーナーの起用検討もフィジカル面を理由に断念 - オートスポーツ・2016年3月30日。契約期間は3年で2018年まで同職を務めたが、ストーナーは「自分のフィードバックやデータが活かされていない」と感じており、契約を延長せず2018年をもって終了したストーナー、ドゥカティでの役割に疑問「フィードバック活用されない」 - motorsport.com日本版(2018年9月6日)MotoGP:ドゥカティ、元王者ケーシー・ストーナーとのテストライダー兼アンバサダー契約終了を発表 - autosport web(2018年11月14日)。

記録

2006年4月8日、第2戦カタールGPにてMotoGPクラス参戦2戦目、20歳173日で最高峰クラスにおける自身初のポールポジションを獲得する。最高峰クラスにおけるデビュー2戦目でのポールポジション獲得は、最高峰クラスのデビュー戦でポールポジションを獲得した岡田忠之()、マックス・ビアッジ()、ホルヘ・ロレンソ()に次ぐ最短記録。また20歳173日での最高峰クラスのポールポジション獲得は、のフレディ・スペンサーの19歳196日に次ぐ、史上2番目に若い記録である。

2007年9月23日、日本グランプリで6位を獲得したことで同年のシリーズチャンピオンに決定する。最高峰クラスでの21歳11ヶ月でのタイトル獲得は、のフレディ・スペンサー(21歳8ヶ月)に次ぐ、史上2位の若さでの戴冠となった。

人物

趣味は釣りやハンティング、ゴルフ、サーフィン。祖国・オーストラリアに帰った際はそれらの趣味に時間を費やすのが常だというCasey Stoner come non l’avete mai… letto - motosprint.it・2011年5月24日。ラジコンカーも愛好家で、日本を訪れた際には関連部品を秋葉原の専門店まで出向き入手する様子を自身のSNSで投稿したこともあるRCチャンプ秋葉原店にレプソル・ホンダのケーシー・ストーナー選手ご来店 2013年8月5日 。

自分の子供には「少なくとも釣りとバイクは絶対に教える」と語っている東京中日スポーツ・2011年12月14日付 7面。引退レースとなった2012年のバレンシアGPでは、チェッカーを受ける際チームクルーに「GOING FISHING」のサインボードで迎えられた。

家族

2003年、フィリップアイランドで行なわれたオーストラリアGPで、ストーナーはアデレードから来たアドリアーナ(Adriana Tuchyna)という少女にお腹にサインをするよう頼まれた。二人は2005年、アドリアーナが16歳の時から交際を始め、2007年1月6日にはアデレードで結婚式を挙げた。

アドリアーナ夫人(Adriana Tuchyna Stoner)は、ほぼ全てのグランプリに帯同している。スタート前はグリッドで夫に傘を差し掛け、ストーナーがレースで3位以内に入るとパルクフェルメのフェンスの外で待ち受け、ストーナーのグローブ・ヘルメットを受け取るのが常となっている。その姿はTV中継等で映し出されている。

2012年2月17日午後9時55分に、アドリアーナ夫人は第1子となる女児アレッサンドラ(Alessandra Maria Stoner)をスイスのローザンヌにある病院にて出産した。

ロードレース世界選手権 戦績

  • ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
シーズン クラス バイク 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 順位 ポイント
125cc ホンダ JPN RSA SPA FRA ITA CAT NED GBR17 GER CZE POR VAL PAC AUS12 MAL BRA 29位 4
250cc アプリリア JPNRet RSARet SPA6 FRARet ITA CAT6 NED8 GBR11 GERRet CZE5 PORRet BRA6 PAC17 MAL11 AUS10 VAL13 12位 68
125cc アプリリア JPNRet RSA10 SPA6 FRA4 ITA18 CATRet NEDRet GBR5 GER2 CZE POR BRA2 PAC2 MALRet AUSRet VAL1 8位 125
125cc KTM RSA3 SPA5 FRA8 ITA2 CAT4 NED3 BRA2 GER GBR CZERet PORRet JPNRet QATRet MAL1 AUS3 VALRet 5位 145
250cc アプリリア SPARet POR1 CHN1 FRA4 ITA4 CAT2 NED6 --- GBR3 GER7 CZE3 JPN3 MAL1 QAT1 AUSRet TUR1 VAL3 2位 254
MotoGP ホンダ SPA6 QAT5 TUR2 CHN5 FRA4 ITARet CATRet NED4 GBR4 GERDNS USARet CZE6 MAL8 AUS6 JPNRet PORRet VALRet 8位 119
MotoGP ドゥカティ QAT1 SPA5 TUR1 CHN1 FRA3 ITA4 CAT1 GBR1 NED2 GER5 'USA'1 'CZE'1 'SMR'1 POR3 JPN6 AUS1 MAL1 VAL2 1位 367
MotoGP ドゥカティ QAT1 SPA11 POR6 CHN3 FRA16 ITA2 CAT3 'GBR'1 'NED'1 'GER'1 'USA'2 'CZE'Ret SMRRet IND4 JPN2 AUS1 MAL6 'VAL'1 2位 280
MotoGP ドゥカティ 'QAT'1 JPN4 SPA3 FRA5 ITA1 CAT3 NED3 USA4 GER4 GBR14 CZE IND SMR POR2 AUS1 MAL1 VALDNS 4位 220
MotoGP ドゥカティ 'QAT'Ret SPA5 FRARet ITA4 GBR5 NED3 CAT3 GER3 USA2 CZE3 INDRet SMR5 ARA1 JPN1 MALRet 'AUS'1 PORRet VAL2 4位 225
MotoGP ホンダ 'QAT'1 SPARet POR3 FRA1 CAT1 GBR1 NED2 ITA3 GER3 USA1 CZE1 'IND'1 RSM3 'ARA'1 JPN3 'AUS'1 MALC VAL1 1位 350
MotoGP ホンダ QAT3 SPA1 POR1 FRA3 CAT4 GBR2 NED1 GERRet ITA8 USA1 IND4 CZE RSM ARA JPN5 MAL3 'AUS'1 VAL3 3位 254

関連項目

  • ライダー一覧

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2023/11/21 15:40 UTC (変更履歴
Text is available under Creative Commons Attribution-ShareAlike and/or GNU Free Documentation License.

「ケーシー・ストーナー」の人物情報へ