オットー・プレミンジャー(Otto Preminger, 1906年12月5日 - 1986年4月23日)はオーストリアのウィーン出身の映画監督・映画プロデューサー。1950年代、60年代のハリウッドで活躍した。
人物・経歴
父は法律家で、その為、最初は法律の道に進み、ウィーン大学の法学生であったが演劇に対する情熱ゆえに17歳でマックス・ラインハルトの劇団に参加。最初は俳優だったが、後に舞台監督となる。しかし、ナチスが台頭したことで、1935年に20世紀FOXに招かれてハリウッドに渡るが上手くいかず、しばらくの間ブロードウェイで仕事をする。
彼はユダヤ人であったが、オーストリア訛りがあったため、皮肉なことに自分があれほど嫌ったナチの人物役を何度も舞台で演じた。後に同郷のビリー・ワイルダー監督の『第十七捕虜収容所』でも冷酷なドイツ人捕虜収容所所長を演じている。
しかし、この舞台での活躍が認められて、1940年代に映画界に戻り、1944年に『ローラ殺人事件』の脚本と製作を担当、しかし、監督のルーベン・マムーリアンの仕事ぶりが気にいらなかったダリル・F・ザナックはマムーリアンを即座に解雇して、プレミンジャーが監督を担当した。この1作でたちまち新進気鋭の映画監督として注目され、プレミンジャーはアカデミー監督賞にノミネートされた。その後『堕ちた天使』や『歩道の終わる所』などのフィルム・ノワールを成功させる。
さらに1950年代に入ると、プロデューサー兼監督として、タブーに挑む大胆な映画を次々と世に送り出す。まず1953年に、ブロードウェイのヒット作の映画化『月蒼くして』は、バージンとか妊娠といった性的な台詞が多すぎるということで、アメリカ映画製作者協会は自主規制をしようとしたが、これに反発したプレミンジャー側は協会を脱退して、映倫マークなしで強行に公開。結果、本作は大ヒットして、時代遅れの映画倫理規定を改正させるきっかけとなった。
以降も、すべて黒人俳優でかためたミュージカル『カルメン』や『ポギーとベス』、マリリン・モンロー主演の西部劇『帰らざる河』、麻薬中毒の恐怖をはじめて題材にしてフランク・シナトラが麻薬中毒者役を体当たりで演じた『黄金の腕』、フランソワーズ・サガン原作で主演したジーン・セバーグのセシール・カットが大流行した『悲しみよこんにちは』、ジェームズ・スチュアート主演でレイプ事件を真っ向から取り上げた法廷劇『或る殺人』などいずれも意欲作ながら様々なジャンルにわたって優れた作品を制作した。
ちなみに1958年6月6日には『悲しみよこんにちは』の宣伝で来日し、同日夜、舞台挨拶を行って、2日間滞在した。
プレミンジャーの功績として、次々とタブーに挑んで閉鎖的な風潮だったハリウッドに風穴をあけた他にも、タイトル・デザインや宣伝ポスターに新進気鋭のデザイナーだったソウル・バスを起用して、バスの斬新なデザイン感覚によって、開巻を映画タイトルに一大革命を起こしたことがある。
1960年の『栄光への脱出』では、赤狩りでハリウッドを追われた脚本家ダルトン・トランボを起用。このように次々と新風を吹き込む彼に対してハリウッドの問題児と見る風潮もあった。1962年にはピュリツァー賞受賞小説の映画化で政治の裏側を描いた『野望の系列』、聖職者の人間的苦悩を描き、再び監督賞にノミネートされた『枢機卿』など力作を発表した。
監督として成功してからも、俳優としても活躍しており、『第十七捕虜収容所』のようなドイツ人将校だけではなく、テレビ版『バットマン』では顔中白塗りでミスター・フリーズ役として出演していた。
1979年を最後に映画製作から離れ、1986年、アルツハイマー型認知症とガンで79歳で没した。
主な監督作品
- ローラ殺人事件 Laura (1944)
- 堕ちた天使 Fallen Angel (1945)
- 永遠のアンバー Forever Amber (1947)
- 哀しみの恋 Daisy Kenyon (1947)
- 第十七捕虜収容所 Stalag 17 (1953)
- 帰らざる河 River of No Return (1954)
- カルメン Carmen Jones (1954)
- 黄金の腕 The Man with the Golden Arm (1955)
- 悲しみよこんにちは Bonjour tristesse (1957) - 日本公開は翌1958年。
- ポギーとベス Porgy and Bess (1959)
- 或る殺人 Anatomy of a Murder (1959)
- 栄光への脱出 Exodus (1960)
- ローズバッド Rosebud (1975)
外部リンク
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