丸山一仁 : ウィキペディア(Wikipedia)

丸山 一仁(まるやま かずひと、1960年10月30日 - )は、愛媛県上浮穴郡久万町88プロ野球12球団全選手百科名鑑 日本スポーツ出版社(現:久万高原町)出身の元プロ野球選手(内野手)。右投左打。

経歴

愛媛県立上浮穴高等学校から近畿大学へ進み、4年春にはベストナインを受賞。1982年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから5位指名を受け入団。大学の1年後輩に西浦敏弘がいた。

プロ1年目の1983年から一軍出場を果たすが、西村徳文が二塁手に定着すると一・二軍の往復が中心になる。1989年は開幕一軍メンバー入りしたが二塁手には堀幸一が台頭、大学の先輩である有藤道世監督から引導を渡されたことで「“地球人”を輩出したい」と燃える丸山一仁氏が語る有藤監督、金田監督、「10.19」などロッテの思い出 週刊ベースボールONLINE パンチ佐藤の漢の背中! 2022年5月7日、この年限りで現役を引退。

引退後もロッテ球団に留まり、球界初の金田正一監督付き専属広報担当(1990年)に就任。その後は二軍打撃・守備走塁コーチ補佐(1991年)、二軍守備打撃コーチ補佐(1992年)、二軍内野守備コーチ(1993年)を務める。

コーチを退任し、1995年の広岡達朗GM・ボビー・バレンタイン監督就任の際は、チーム/フロント広報を担当。以降は、フロント業務(法人営業/連盟担当/浦和球場施設管理担当)を経て、2007年に振興部地域振興課シニアマネジャーに就任。

2014年は、中国・台湾担当として中国江蘇省無錫市にある江蘇ホープスターズで選手育成及びコーチ指導。その他、無錫市内の大学・高校・少年野球指導など野球振興に携わるロッテ丸山氏、中国で球団指導 夢はアジアリーグ 東京新聞、2014年1月22日。

2016年は、球団事業本部営業部チーフとして、年間席シートや広告看板の営業を担当千葉ロッテマリーンズ 事業本部 営業部 チーフ 丸山一仁 さん 千葉幕張ブログコミュニティ マクスタ、2016年10月21日。

2020年、10月の誕生日を前にして7月31日付でロッテ球団を定年退職。退職セレモニーとしてZOZOマリンスタジアムでこの日行われた対東北楽天ゴールデンイーグルス第10回戦の試合前に始球式を行い、37年間在籍したロッテ球団から退いた。

詳細情報

年度別打撃成績

ロッテ611111310041000000011.273.273.364.636
4211000000000000100.000.500.000.500
184739711101155003050071.282.364.385.748
508072122150335131010502133.292.354.486.841
121290100012000030010.111.333.111.444
214737591001070041500100.243.326.270.596
通算:6年1111991692645804652810811803325.266.346.385.730

記録

  • 初出場:1983年10月10日、対南海ホークス25回戦(川崎球場)、9回表に二塁手として出場
  • 初先発出場:1983年10月10日、対南海ホークス26回戦(川崎球場)、8番・二塁手として先発出場、4打数1安打
  • 初打点:1983年10月15日、対阪急ブレーブス25回戦(阪急西宮球場)、3回表に水上善雄の代打として出場、永本裕章から適時二塁打
  • 初本塁打・初勝利打点:1986年9月18日、対近鉄バファローズ23回戦(川崎球場)、2回裏に久保康生から逆転決勝2ラン

背番号

  • 2 (1983年 - 1986年)
  • 39 (1987年 - 1989年)
  • 77 (1991年 - 1993年)

関連項目

  • 愛媛県出身の人物一覧
  • 近畿大学の人物一覧
  • 千葉ロッテマリーンズの選手一覧

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2023/02/02 12:08 UTC (変更履歴
Text is available under Creative Commons Attribution-ShareAlike and/or GNU Free Documentation License.

「丸山一仁」の人物情報へ