三浦光雄 : ウィキペディア(Wikipedia)

三浦 光雄(みうら みつお、1902年10月25日 - 1956年10月24日三浦光雄、『講談社 日本人名大辞典』、講談社、コトバンク、2010年3月1日閲覧。)は、日本の撮影技師である。日本映画撮影者倶楽部(現在の日本映画撮影監督協会)が1956年(昭和31年)に制定した「三浦賞」に名を残すシリーズ・日本の撮影監督 2、東京国立近代美術館フィルムセンター、2010年3月1日閲覧。。初期名三浦 光男(読み同)三浦光男・三浦光雄、日本映画データベース、2010年3月1日閲覧。。

人物・来歴

1902年(明治35年)10月25日、宮城県に生まれる。

旧制・私立商工中学校(通称東京商工中学校、現在の日本大学第三高等学校)を卒業し、1920年(大正9年)、開業とともに日活向島撮影所に入社した。1923年(大正12年)、撮影技師に昇進、記録に残る最初の技師作品は、1925年(大正14年)5月31日公開、五所平之助監督の『空は晴れたり』で、当時は「三浦光男」名義であった。

1931年(昭和6年)9月、鈴木傳明、岡田時彦らとともに松竹キネマを退社、不二映画社の設立に参加、鈴木重吉監督の『栄冠涙あり』の撮影を務めるとともに「三浦光雄」と改名した栄冠涙あり、日本映画データベース、2010年3月1日閲覧。。1933年(昭和8年)、日活太秦撮影所に移籍、おなじ蒲田出身の牛原虚彦監督の『未来花 前後篇』の撮影を務める。1934年(昭和9年)、日活太秦の現代劇部の移転に伴い、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に異動、鈴木重吉監督の『潮』を手がけるが、間もなく鈴木とともに日活を退社、新興キネマと提携する入江たか子の入江ぷろだくしょんで3作の撮影に参加する。

1937年(昭和12年)、入江ぷろだくしょんがP.C.L.映画製作所と提携製作した成瀬巳喜男監督の『女人哀愁』を手がけたのを機にP.C.L.に移籍、1937年(昭和12年)9月10日の合併による東宝映画の設立以降も、東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)に所属した。

1947年(昭和22年)、五所平之助監督の『今ひとたびの』が多くの賞を受けるなか、第2回毎日映画コンクールで三浦自身も撮影賞を受賞した。1954年(昭和29年)には、第4回ブルーリボン賞撮影賞を『煙突の見える場所』(監督五所平之助、1953年)、『雁』(監督豊田四郎、1953年)で受賞した。

1956年(昭和31年)10月24日、死去した。満53歳没。

同年、第11回毎日映画コンクールならびに第7回ブルーリボン賞で、同年発表の『白夫人の妖恋』、『猫と庄造と二人のをんな』(いずれも監督豊田四郎)を対象に撮影賞を没後受賞した。同年、第7回芸術選奨を没後受賞した。

同年、新人の撮影技師を対象とした「三浦賞」を日本映画撮影者倶楽部が制定、同倶楽部の後身・日本映画撮影監督協会がこれを現在も引き継いでいる。

おもなフィルモグラフィ

  • 『空は晴れたり』 : 監督五所平之助、1925年
  • 『新女性鑑』 : 監督五所平之助、1929年
  • 『親父とその子』 : 監督五所平之助、1929年
  • 『栄冠涙あり』 : 監督鈴木重吉、1931年
  • 『未来花 前後篇』 : 監督牛原虚彦、1933年
  • 『貞操問答 高原の巻』 : 監督鈴木重吉、1935年
  • 『貞操問答 都会の巻』 : 監督鈴木重吉、1935年
  • 『女人哀愁』 : 監督成瀬巳喜男、1937年
  • 『良人の貞操 前篇 春来れば』 : 監督山本嘉次郎、1937年
  • 『良人の貞操 後篇 秋ふたたび』 : 監督山本嘉次郎、1937年
  • 『藤十郎の恋』 : 監督山本嘉次郎、1938年
  • 『ハワイ・マレー沖海戦』 : 監督山本嘉次郎、1942年 - 三村明・鈴木博と共同
  • 『今ひとたびの』 : 監督五所平之助、1947年
  • 『煙突の見える場所』 : 監督五所平之助、1953年
  • 『雁』 : 監督豊田四郎、1953年
  • 『母の初恋』 : 監督久松静児、1954年
  • 『夫婦善哉』 : 監督豊田四郎、1955年
  • 『白夫人の妖恋』 : 監督豊田四郎、1956年
  • 『猫と庄造と二人のをんな』 : 監督豊田四郎、1956年

関連事項

  • 三浦賞

外部リンク

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