モーリス・スミス : ウィキペディア(Wikipedia)

モーリス・スミスMaurice Smith、1961年12月13日 - )は、アメリカ合衆国の男性キックボクサー、総合格闘家。ワシントン州シアトル出身。ジ・アライアンス所属。第2代UFC世界ヘビー級王者。元WKAキックボクシング世界ヘビー級王者。元ISKAムエタイ世界ヘビー級王者。UFC殿堂入り。

概要

1992年にピーター・アーツに敗れるまで、8年間キックボクシング界で無敗を誇り、ヘビー級の頂点に立ち続けた。また、総合格闘技界においても、UFCで世界ヘビー級王座を獲得するなどの活躍を見せ、UFCに貢献した選手に授与される「UFC殿堂入り(UFCホール・オブ・フェイム)」の称号も獲得している。現在はモーリス・スミス キックボクシングセンターというジムを経営している。

来歴

元々フットボールの選手を夢見ていた少年だったが、13歳の時にブルース・リーの映画「ドラゴン怒りの鉄拳」を観て格闘技に目覚め、テコンドーに入門する。テコンドー以外にも松濤館空手や詠春拳の経験もあった。

18歳の時、当時ようやく軌道に乗り出したアメリカのフルコンタクト空手の試合をテレビで見たことから、それまでの伝統的な武道を止めてキックボクサーとしてのキャリアを開始した。

プロデビューは21歳でデビュー戦で世界戦のリングに上がり、トニー・モレリが保持していたWKC(世界空手評議会)世界クルーザー級タイトルに挑戦したが、判定で敗れた平成4年5月5日発行 格闘技通信5月号増刊 3.26格闘技オリンピック速報号22ページ。 翌年の1983年、ハワイでトニー・モレリの持つWKC世界クルーザー級王座に再度挑戦、KO勝利で初の世界王座を獲得する。Honolulu Star-Bulletin 1983年2月17日 51ページ Weekend Highlights John C. Walter、Malina Iida共編 Better than the Best: Black Athletes Speak, 1920-2007 225ページ

初来日は1983年5月21日、後楽園ホールにて全日本マーシャルアーツ連盟の興行で、ドン・星野・ウィルソンの持つ、WKA世界クルーザー級王座に挑戦し、11Rまでもつれこんだが、判定負けを喫した。この試合後、オランダの興行に参加。ムエタイスタイルに強く惹かれ、オランダ目白ジム目白ジムで修行したオランダ人のヤン・プラスがオランダへ帰国後、1978年に設立したジム。のヤン・プラスの元でムエタイを学ぶ。1983年8月にトラビス・エベレットを破り、念願のWKAキックボクシング世界ヘビー級王座を奪取平成4年5月5日発行 格闘技通信5月号増刊 3.26格闘技オリンピック速報号22ページ。やがてISKAムエタイ世界ヘビー級王座を獲得した。

1989年11月29日、第2次UWFの東京ドーム大会「U-COSMOS」に参戦し、異種格闘技ルールで鈴木みのるに右ストレートでKO勝ちした。勝利直後にリング上でヘビー級の体格にもかかわらず後方宙返りを見せた。

1990年、WKAスーパーヘビー級王者のケビン・ローズイヤーと後楽園ホールで対戦。1Rにムエタイ並みのしなやかな右ハイキックをローズイヤーの左顎に決め、KO勝ちを収めた。

1990年9月、日本武道館でイギリスのフロイト・ブラウンと自身初のムエタイルールで試合をするが、予想外の苦戦を強いられる。判定で辛勝したもののブラウンの執拗なロー攻撃で、試合後ひとりで満足に歩けない状態になった。

高田延彦が「対戦したい」と発言したことを受けて、全日本キックボクシング連盟が高田に事前に何の交渉もしないままスミスとのカードを発表。試合当日、高田が来なかったことで、リング上でテンカウントを鳴らし、高田の試合放棄という形でスミスの勝利と主催者が宣言した。

1992年4月9日、フランスにてピーター・アーツに判定で破れ、8年間無敗の記録に終止符が打たれた。

1993年4月30日、第1回K-1グランプリに参戦。ピーター・アーツと並ぶ優勝候補として期待され【1993年4月の格闘技】第1回K-1GP優勝はブランコ・シカティック、38歳強さの秘密は?との問いに答えるゴング格闘技 2020年4月8日、1回戦は負傷により欠場したスタン・ザ・マンの代役正道会館の後川聡之に判定勝ちしたが、準決勝では当時日本では無名だったアーネスト・ホーストの左ハイキックで失神KO負けを喫した。

その後パンクラス参戦、第2次UWF時代に因縁の生まれた鈴木みのる船木誠勝らの挑戦を受け、総合格闘技をメインに活動することになるが、まだ総合格闘技へ順応しておらず、30代を越え全盛期より力も落ちていたことと、バス・ルッテンやケン・シャムロックなどトップどころとの対戦が主だったせいで、パンクラスでの戦績はあまり芳しくはなかった。

対戦をきっかけにシャムロックがアメリカで主宰する道場「ライオンズ・デン」で総合格闘技を学ぶようになると、そこでフランク・シャムロックと出会い、フランクがスミスにグランドテクニックを、スミスはフランクに打撃テクニックを互いに教えあう仲になる。

1996年1月24日にリングス初参戦。高阪剛に敗退するが、高阪の技術に惚れ込んだスミスはアメリカに高阪を招いてフランク・シャムロックと3人で総合格闘技チーム「Alliance」を結成。弱点であったグランドテクニックを徹底的に習得した。その成果が発揮されたのは、マーカス・コナンの保持するヘビー級王座に挑戦した同年10月のExtreme Fighting 3で、スミスは柔術家のコナンからスイープでトップポジションを取るなどグランドテクニックの向上を見せ、3Rに右ハイキックでTKO勝ちを収め王座獲得に成功した。

1997年1月22日、リングスで前田日明と対戦し、ネックロックで一本負け(ただし旧リングスルールによる)。

1997年2月1日、フランスパリでジェロム・レ・バンナの持つISKAムエタイ世界スーパーヘビー級王座に挑戦するも判定負け、ISKA2階級制覇を逃す。

同年3月28日にはExtreme Fighting 4において村上一成を相手に初防衛に成功するものの、同大会を最後にエクストリーム・ファイティング・チャンピオンシップが消滅。

同年7月17日にはUFCに初参戦し、UFC世界ヘビー級王者のマーク・コールマンに挑戦する。コールマンのマウントポジションからのパウンドとヘッドバットの猛攻をしのいでスタンドに戻すと打撃で反撃し、判定勝ちを収め王座獲得に成功した。10月17日にはタンク・アボットを下し初防衛に成功するも、12月21日のUFC Japanでランディ・クートゥアに判定負けで王座陥落。しかし、世界レベルのレスラーであるクートゥアを相手に総合格闘技への適応能力を見せた。

1998年にはK-1に復帰。戦績は芳しくなかったものの、名前に傷がつくことを恐れるよりも強豪との試合を選んだ姿勢は高く評価される。以後、K-1には2003年まで断続的に参戦。2001年には北米地区予選トーナメントで優勝。

また、同時進行して継続して総合格闘技も続行。UFC、リングス、WEFで活躍。レナート・ババル、ブランコ・シカティック、ヘンゾ・グレイシー、ペドロ・ヒーゾなどのビッグネームと対戦した。

2007年5月19日、IFLでマルコ・ファスと対戦し、TKO勝ち。

2008年6月8日、戦極初参戦となった戦極 〜第三陣〜で吉田秀彦と対戦し、袈裟固めで一本負け。

2017年にUFC殿堂入り。この年に1度来日してトークイベントを行ったが、以降の消息は不明。

戦績

総合格闘技

キックボクシング

ミックス(空手&キック)ルール

異種格闘技戦

獲得タイトル

  • キックボクシング
    • WKCフルコンタクト空手クルーザー級王座(1983年)
    • WKAキックボクシング世界ヘビー級王座(1983年)
    • WKA世界ムエタイヘビー級王者(1993年)
    • ISKAムエタイ世界ヘビー級王座(1996年)
    • K-1 WORLD GP 2001 北中南米地区予選トーナメント 優勝(2001年)
  • 総合格闘技
    • 第2代Extreme Fightingヘビー級王座(1996年)
    • 第2代UFC世界ヘビー級王座(1997年)

表彰

  • UFC殿堂入り(2017年)

関連項目

  • 男子キックボクサー一覧
  • 男子総合格闘家一覧
  • UFC王者一覧
  • UFC選手一覧
  • K-1王者一覧
  • K-1選手一覧
  • SRC選手一覧

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2023/08/22 21:16 UTC (変更履歴
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