グラハム・ヒル : ウィキペディア(Wikipedia)

ノーマン・グラハム・ヒルNorman Graham Hill, OBE 1929年2月15日 - 1975年11月29日) は、イギリスのレーシングドライバーであり、1962年・1968年のF1チャンピオン。1996年のチャンピオンであるデイモン・ヒルは実子。

Grahamの発音 [gréɪəm] はカタカナ表記にすれば「グレイアム」に近いが、日本では現役活躍時からほぼグラハムと表記されており、本稿でもそれに従う。

人物

2023年現在、F1モナコGP、インディ500、ル・マン24時間レースの「世界3大レース」全てでの優勝経験を持つ唯一のドライバーである。特にモナコGPには滅法強く、当時としては最多勝となる通算5勝をあげ、「ミスター・モナコ」と呼ばれた。1990年代以降の日本では「モナコ・マイスター」と呼び、ヒル父子は親子でF1チャンピオンを獲得した初の例となった。

裕福な階級出身ではなく、本格的にレース活動を始めたのは20代半ばで、当時としてもF1ドライバーのレースキャリア開始時期としては比較的遅い。同時期に活躍したジム・クラークが「内気な天才」とみなされる一方、グラハムは「努力と意思の力」で実績を積み上げてきたドライバーと認識されて親しまれ、社交的なその性格もあって、現役当時にイギリスの愛好家を中心に幅広い人気を得た。

経歴

ロンドンのハムステッドで生まれる。父親は株式仲介人で、それほど裕福ではない中流家庭で育った。

ヘンドン・テクニカルカレッジで工学を3年間学んだ後、スミス社で技師として務め、この間にミッドランドの大学にも通ってさらに専門的に工学を学んだ。この頃にオートバイを買い、趣味として乗り回すようになる。

1950年、21歳の時にイギリス海軍で2年間の兵役に就いた。海軍ではマイノーター級軽巡洋艦スウィフトシュアに乗艦し機関室の技師としての任務に就き、兵役終了時までに兵曹(PO)に昇進した。

兵役後はスミス社に復帰したが、1953年に「ブランズ・ハッチで1周5シリングでF3カーを走らせることができる」という雑誌広告を見つけ、興味本位で1ポンド支払い4周走ったことでレースに魅せられる。スミス社を退職したヒルは、失業手当を受けつつ、レーシングスクールのメカニックとなり、整備を無償で引き受ける代わりにその学校の車両を使ってレースへの出場を始めた。

いくつかのレースに出場する間にコーリン・チャップマンと知り合い、1954年にロータスにメカニックとして加入。ほどなくして、ロータスのドライバーとしてレースに出走するようになり、1958年、29歳の時にチーム・ロータスからF1デビューを果たした。2年間在籍したが、チームもF1参戦を始めたばかりであり戦力も乏しく、この際には芳しい成績を残すことは出来なかった。

BRM時代

1960年にはBRMに移籍。当初は目立った成績を残していなかったが、1962年に開幕戦オランダGPで初優勝。最終的にシーズン4勝を挙げ、ロータスのクラークを破って、一気にドライバーズチャンピオンへと昇りつめた。

その後もリッチー・ギンサーとの名コンビで活躍し、クラークと並び当時のF1界の2大スタードライバーと呼ばれた。1964年は最終戦までチャンピオン争いがもつれたが、ポイントリーダーのヒルはフェラーリのロレンツォ・バンディーニに追突され、チャンピオンをフェラーリのジョン・サーティースに奪われた。フェラーリが故意にぶつけたのではという報道に対し、ヒルは皮肉混じりに「わざとではない、ただ恐ろしく運転が下手だっただけだ」とコメントした。

初優勝の1962年からは1965年まで、毎シーズン2勝以上を挙げる活躍を見せていたが、新加入のジャッキー・スチュワートに迫られる場面が増えていた。1966年はレギュレーションの変更に因む混乱により苦戦を強いられ、6シーズンぶりの未勝利に終わってしまう。ヒルは成功を共にしたBRMを離れ、ライバルチーム、ロータスへの移籍を決意する。

ロータス時代

1967年のロータスは、クラークとヒルの豪華なジョイント・ナンバー・ワン体制となった。当時クラークは税金対策でパリに居住していたので、ロータス・49の開発テストを任されたが、フォード・コスワース・DFVエンジンの初期トラブルやZF製ギアボックスの低信頼性のため7回リタイアし、49では2戦しか完走できず、1度も優勝できずに(他にロータス・33でモナコGP2位入賞)、ヒルはクラークの陰に隠れてしまった。

1968年はクラークがF2参戦中に事故死する事態に、ヒルは自らの活躍でクラークの死に意気消沈していたチームスタッフを奮い立たせた。この年3勝を挙げ、6年ぶりに自身2度目のチャンピオンを獲得した。

しかし、1969年は新加入のヨッヘン・リントに速さで劣り、またしてもチームメイトの陰に隠れる形となる。第3戦モナコGPでは、自身5度目の同GP優勝を記録したが、これは最終的に自身最後の優勝となった。リントが初優勝した第10戦アメリカGPでは、ヒルはエンジン再始動時のアクシデントで脚を骨折する重傷を負ってしまう。

プライベーターでの参戦

前年の負傷がキャリアの転機となり、1970年よりロブ・ウォーカー・レーシング・チームのプライベート・ロータスで走ることになったが、かつての速さをとり戻すことはなかった。これ以後は優勝はおろか、表彰台に昇ることも無かった。やがて、その熱意は自らのチームを立ち上げ、自ら運転する「オーナー・ドライバー」の夢へと向かうことになる。

チーム設立

1973年に、自分のチームであるエンバシー・ヒル (Embassy Hill) を結成。初年度はシャドウ、翌1974年はローラからシャシーを購入して参戦したが、自らのドライビングによる第7戦スウェーデンGP6位入賞以外は結果を残せずに終わった。

1975年の第4戦スペインGPからは、念願の自社製シャシーであるヒル・GH1で参戦を開始した。しかし競争力に欠け、過去5勝を記録したモナコGPで予選落ちを喫した。このレースを最後にF1ドライバーを引退し、監督業に専念した。その後は、新鋭のトニー・ブライズとアラン・ジョーンズの頑張りにより、チームはこの年3ポイントを獲得した。

ヒルはF1では1958年から1975年にかけて176戦でスタートを記録した(予選落ちしたレース等を含めたエントリー記録では179戦を記録)。この最多出走記録は、1989年ブラジルグランプリでリカルド・パトレーゼが177戦目のレーススタートを果たすまで誰にも破られることはなかった。

事故死

1975年シーズン終了後の11月、ヒルチームはフランスのポール・リカール・サーキットで翌シーズン用のヒル・GH2のテストを行った。そのテストからの帰途、11月29日21時30分頃、ヒル自ら操縦していた軽飛行機は、霧のかかったに着陸を試みた際に、飛行場の3海里(5.6km)東に位置するアークリーのゴルフ場に墜落した。

墜落の結果、搭乗していた6名は全員死亡し、同乗していたメインドライバーのトニー・ブライズ、チームマネージャーのレイ・ブリンブル、GH2の設計者であるアンディ・スモールマンらを含むチームのメンバーたちと共に、ヒルは帰らぬ人となった。事故原因について、事故調査局がまとめた事故報告書の結論では、この事故に機体の異常等は認められず、また着陸に向けた航空管制にも不備は確認できず、(断定はできないものの、としつつ)パイロットが霧で視界不良の中で着陸を試み、飛行場までまだ距離があるにもかかわらず尚早に高度を下げていったことに原因があった可能性を示唆している。

ヒルの葬儀はで行われ、遺体はハートフォードシャー州シェンリーの聖ボトルフ墓地に葬られた。

事故の影響

  • 1976年から使用されるはずだったGH2は、1975年に行われた2回のテストで良好なタイムを記録しており、チームは翌年に期待を抱いていたが、この事故で主要なメンバーを失ったことで、チームは消滅した。イギリス人の若手ドライバーとして期待の星だったトニー・ブライズが失われたことはファンを落胆させた。
  • 事故に際して、グラハム・ヒルは自身の飛行免許と所有していた墜落機の登録状況に不備を抱えており、これを理由に遺族であるヒル家は保険金の支払いを拒否された。ヒル家は同乗者遺族への補償金支払いを私財から行うことになり、窮乏生活を強いられることになる。この時、長男デイモンは15歳で、後に彼も父と同様、レーサーを志す事となった。

ドライビングスタイル

スターリング・モスは1963年にヒルを評し、ヒルは車両の機構への造詣も深い「メカニック・ドライバー」であり、今後のドライバーの理想となるべき人物だと述べている。そのドライビングスタイルは正確かつスムースで、無茶な走り方もせず、速い車を与えられればその性能を十全に引き出して走ることができるという、当時としては得難い能力を持っていた。反面、車の限界を超えるような無理な走りはしないため、もしもヒルの車両よりも速い車両があれば、そのドライバーはヒルを破ることが可能だろう(その条件を満たさない限りヒルを上回ることはできない)、とも述べている。

コーナリングは、クリッピングポイントをコーナー奥に取る「レイト・エイペックス」を特徴としていた。当時の常識では、クリッピングポイントを奥に取ればコーナー立ち上がりの加速が遅くなると考えられていたが、ヒルは立ち上がりも素早く、コーナリングスピードが速いという不思議なテクニックを持っていた。これはロータス時代のチームメイトで「アーリー・エイペックス」を特徴としていたジム・クラークとは対照的なドライビングスタイルだった。BRMなどでチームメイトだった若き日のジャッキー・スチュワートも他の大部分のドライバーと比較して奥にクリッピングポイントを取っていたが、ヒルのそれは、同じ車のスチュワートと比較しても、より奥にクリッピングポイントを取っており、さらに、よりアウト側を旋回し、脱出もよりアウト側のラインを使うというものだった。

エピソード

人物
  • 口ひげを蓄えた優雅な風貌や紳士的な物腰は、かつてモータースポーツが貴族の趣味であった時代の「ジェントルマン・ドライバー」を思わせた。デイモンも幼い頃、その姿に憧れたと語っている。
    • 当時のF1ドライバーの中にあって`50年代のハリウッドスター的風貌は、渋い二枚目としてモータースポーツにさして興味のない人達からも人気を博し、ドライバー本人が広告塔としてメディアに取り上げられた最初の例となった。ヒル以降、F1ドライバーもサッカーなどの他のプロスポーツ選手の様にスターとしての知名度が上がってゆくことになる。
    • グランプリドライバー本人が多数出演する映画『グラン・プリ』でも、他のドライバー達がパドックでうろつく姿やマシンに乗りこむカットのみが使われた中、写真写りがよく既にメディアでも取り上げられていたヒルのみ台詞付きで登場する。
  • トレードマークとなった口ひげや襟足の長い髪型は兵役の終わり頃に、「口ひげは全て剃るか、全て伸ばした状態(full beard)にする」ことのみ認めていた海軍への反感から始めたものである。
  • 紳士的な風貌の一方で、ひょうきんな素顔を持つ人だったという。また落ち着いた風貌とは裏腹に、激高して怒鳴り散らす気分屋としても有名だった。
    • 初めてインディアナポリスを訪れた際に、印象に残ったことを質問され「トイレにドアが無いんだね、あれには驚いた。まぁ、みんなが見たいなら個人的にはあれでもいいけどね(笑)」と回答。翌日の夜にはインディアナポリスのすべてのトイレにドアが取り付けられたデイモン・ヒル 大いなるステップ F1速報 テスト情報号 60-65頁 ニューズ出版 1993年2月12日発行。
    • それまで、マシンの整備ミスがあっても「担当のメカニックが叱られるから」という理由でチーム監督のチャップマンには黙っている優しいジム・クラークと仕事をしてきたロータスのメカニックたちは、翌シーズンにヒルがロータスへ移籍してくることを聞き、恐怖を覚えたという。
    • 息子デイモンの話した逸話で、「1950年代の父の日記が出てきて、それには、グリッドに着いた私のロータスから燃料が漏れている。ウチのメカがぐるりとマシンを取り囲んだ。そうしないと、今チャップマンが燃料を継ぎ足しているのがオフィシャルにバレちまうからな! これで完走できることを祈った」と書いてあった。もう時効だよね(笑)と1993年に話している。
  • で優勝して得た賞金で、ヒルは小さなセスナを購入し、その後、(後に墜落することとなる)(機体番号・N6645Y)を購入した。この飛行機はふだんはに駐機され、ヒル自らの操縦で常用されていた。
家族
  • 父親は機械関係とは縁遠く、車を運転したこともないような人物だった。一方、母親は10代からトライアンフの250㏄オートバイに乗っていた。
  • 1955年に元ボート競技選手のベティ・シャブルックと結婚。長女ブリジット、デイモン、次女サマンサの3子をもうける。
ヘルメット
  • 若き日のヒルは8人乗りのボート競技に打ち込んでおり、1949年頃にのジュニアチームに加入し、1952年から1954年にかけてはに選手として所属していた。ヒルが四輪レースで着用したヘルメットのデザインはロンドン・ローイング・クラブの会員用の帽子を模したもので、黒に近い濃紺(ネイビー)地に、オールを表現した8本の白いラインを入れたデザインになっている。このデザインは息子デイモン、孫ジョシュアも引継ぎ、同じデザインのヘルメットを着用している。
モナコ
  • 兵役中の1951年に乗艦スウィフトシュアがモナコに寄港した際、ヒルはモンテカルロのカジノに行ったりはしたが、この当時の彼は同地で自動車レースが行われていること自体を全く知らなかった。
チャップマンとの出会い
  • コーリン・チャップマンと出会ったのは、1954年8月にヒルがブランズハッチでレースに参戦した帰りの出来事だった。ロンドンに帰る金の持ち合わせがなかったヒルはヒッチハイクして帰ることにし、たまたま通りかかって止まったのはチーム・ロータスの車だった。その車に乗っていたのはチャップマンとマイク・コスティンで、どちらもヒルとは面識を持っていなかったが、ヒルがあまりにも親しげに乗り込んできたため、コスティンはチャップマンの友人だろうと思い、チャップマンはコスティンの知り合いなのだろうと考えていたという。この時、ヒルは何食わぬ顔でチャップマンと食事を共にし、チャップマンのメカニックとなることを決意し、ちょうどチームが飛躍しようとしていた時期だったことからチャップマンもヒルを雇うことにし、これがその後も続く関係の端緒となった。
交友関係
  • 労働者階級の出身だが、貴族階級の友人も多かった。1975年11月のポール・リカールでのテストには、そんな友人の一人で、写真家のスノードン伯も撮影のため同行していた。スノードン伯はヒル一行と同じ飛行機で帰路に就く予定だったが、テストの時点で充分な枚数の写真を撮影していたため、同行を辞退し難を逃れた。
その他
  • 1999年、ノーサンプトンシャー州シルバーストンにある英国レーシング・ドライバーズ・クラブ(BRDC)からグラハムのブロンズ像が盗まれる事件が起こった。8年後の2007年末、ボルトン、リトルリバーのビヴァリー・ロードの家でこの像が発見されたとき、当時のBRDC会長は息子デイモンであった。後日、像がBRDCに戻った際、彼はこの件について「BRDCのクラブハウスにこの胸像が戻ってきたことは格別だ」と述べ、「レーシング・ドライバーとしても、チャンピオンとしても、彼(グラハム・ヒル)はとても特別で、感動を与えることができる人物だった。警察が銅像を追跡し、ふさわしい場所にやっと取り戻してくれたことは素晴らしい」と語ったグラハム・ヒルの胸像、クラブに戻る - F1通信・2008年1月25日

レース戦績

F1

エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 ポイント
1958年 ロータス 12 クライマックス FPF 2.0 L4 ARG MON NED 500 BEL NC 0
16 クライマックス FPF 2.2 L4 FRA GBR POR ITA MOR
12 (F2) クライマックス FPF 1.5 L4 GER
1959年 16 クライマックス FPF 2.5 L4 MON 500 NED FRA GBR GER POR ITA USA NC 0
1960年 オーウェン (BRM) P25 BRM P25 2.5 L4 ARG 15位 4
P48 MON 500 NED BEL FRA GBR POR ITA USA
1961年 P48/57 クライマックス FPF 1.5 L4 MON NED BEL FRA GBR GER ITA USA 16位 3
1962年 P57 BRM P56 1.5 V8 NED MON BEL FRA GBR GER ITA USA RSA 1位 42 (52)
1963年 MON BEL NED GBR GER USA MEX RSA 2位 29
P61 FRA ITA
1964年 P261 MON NED BEL FRA GBR GER AUT ITA USA MEX 2位 39 (41)
1965年 RSA 'MON' BEL FRA GBR NED GER ITA 'USA' MEX 2位 40 (47)
1966年 BRM P60 2.0 V8 MON BEL FRA GBR NED GER 5位 17
P83 BRM P75 3.0 H16 ITA USA MEX
1967年 ロータス 43 RSA 7位 15
33 BRM P60 2.1 V8 MON
49 フォード・コスワース DFV 3.0 V8 NED BEL 'FRA' GBR GER CAN ITA 'USA' MEX
1968年 RSA ESP 1位 48
49B MON BEL NED FRA GBR GER ITA CAN USA MEX
1969年 RSA ESP MON NED FRA GBR GER ITA CAN USA MEX 7位 19
1970年 ロブ・ウォーカー (ロータス) 49C RSA ESP MON BEL NED FRA GBR GER AUT 13位 7
72C ITA CAN USA MEX
1971年 MRD (ブラバム) BT33 RSA 21位 2
BT34 ESP MON NED FRA GBR GER AUT ITA CAN USA
1972年 BT33 ARG RSA 15位 4
BT37 ESP MON BEL FRA GBR GER AUT ITA CAN USA
1973年 エンバシー (シャドウ) DN1 ARG BRA RSA ESP BEL MON SWE FRA GBR NED GER AUT ITA CAN USA NC 0
1974年 エンバシー (ローラ) T370 ARG BRA RSA ESP BEL MON SWE NED FRA GBR GER AUT ITA CAN USA 18位 1
1975年 ARG BRA RSA ESP NC 0
エンバシー (ヒル) GH1 MON BEL SWE NED FRA GBR GER AUT ITA USA
  • 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key)

USAC・チャンピオンシップ

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 順位 ポイント
1963年 TRE INDY MIL LAN TRE SPR MIL DUQ ISF TRE SAC PHX - 0
1966年 PHX TRE INDY MIL LAN ATL PIP IRP LAN SPR MIL DUQ PHX TRE SAC PHX - 0
1967年 PHX TRE INDY MIL LAN PIP MOS MOS IRP LAN MTR MTR SPR MIL DUQ ISF TRE SAC HAN PHX RIV - 0
1968年 HAN LVG PHX TRE INDY MIL MOS MOS LAN PIP CDR NAZ IRP IRP LAN LAN MTR MTR SPR MIL DUQ ISF TRE SAC MCH HAN PHX RIV - 0
1969年 PHX HAN INDY MIL LAN PIP CDR NAZ TRE IRP IRP MIL SPR DOV DUQ ISF BRN BRN TRE SAC KEN KEN RIV - 0

インディアナポリス500

class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%" スタート クオールスピード スピードランク フィニッシュ 周回数 ラップリーダー レースステータス シャシー
1966年 24 15 159.243 23 1位 200 10 完走 ローラ・フォード
1967年 81 31 163.317 21 32 23 0 ピストン ロータス・フォード 42/B1
1968年 70 2 171.208 2 19 110 0 クラッシュ T2 ロータス・プラット&ホイットニー 56/3

|

スタート 3
ポール 0
フロントロー 1
勝利 1
トップ5 1
トップ10 1
リタイア 2

|}

タスマンシリーズ

車両 1 2 3 4 5 6 7 8 ランク ポイント
1964年 ブラバム・BT3 LEV PUK WIG TER SAN WAR LAK LON 6位 12
1965年 ブラバム・BT11A PUK LEV WIG TER WAR SAN LON 7位 14
1966年 BRM・P261 PUK LEV WIG TER WAR LAK SAN LON 2位 30 (34)
1967年 ロータス・48 PUK WIG LAK WAR SAN LON NC 0
1968年 ロータス・49T PUK LEV WIG TER SUR WAR SAN LON 4位 17
1969年 PUK LEV WIG TER LAK WAR SAN 5位 16

ル・マン24時間レース

チーム コ・ドライバー 車両 クラス 周回数 総合順位 クラス順位
1958年 GBR チーム・ロータス GBR クリフ・アリソン ロータス・XV クライマックス S2.0 3 DNF DNF
1959年 AUS デレク・ジョリー 119 DNF DNF
1960年 GER ポルシェKG SWE ジョー・ボニエ ポルシェ・718/4 RS 191 DNF DNF
1961年 USA ノース・アメリカン・レーシング・チーム GBR スターリング・モス フェラーリ・250 GT GWB GT3.0 121 DNF DNF
1962年 GBR デイヴィッド・ブラウン・オーガナイゼーション USA リッチー・ギンサー アストンマーティン・DP212 Exp 4.0 78 DNF DNF
1963年 GBR オーウェン・レーシング・オーガナイゼーション USA リッチー・ギンサー ローヴァー・BRM ACO Prize 310 (8位)* (1位)*
1964年 GBR マラネロ・コンセッショネアーズ SWE ジョー・ボニエ フェラーリ・330P P4.0 344 2位 2位
1965年 GBR オーウェン・レーシング・オーガナイゼーション GBR ジャッキー・スチュワート ローヴァー・BRM P2.0 284 10位 2位
1966年 GBR アラン・マン・レーシング AUS ブライアン・ミューア フォード・GT40 Mk.II P7.0 110 DNF DNF
1972年 FRA エキップ・マトラ・シムカ・シェル FRA アンリ・ペスカロロ マトラ・シムカ MS670 S3.0 344 1位 1位

注釈

出典

参考資料

書籍
雑誌 / ムック
  • 『オートスポーツ』(NCID AA11437582

関連項目

  • デイモン・ヒル(長男)
  • ジョシュア・ヒル(孫)
  • F1世界チャンピオンの一覧
  • F1ドライバーの一覧
  • 国際モータースポーツ殿堂

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2023/11/09 08:40 UTC (変更履歴
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